古典落語 続    興津 要 編 目 次  堀の内  二十四孝  真田《さなだ》小僧  しめこみ  おせつ徳三郎  しの字ぎらい  五人まわし  疝気《せんき》の虫  大工|調《しら》べ  ろくろ首  町内の若い衆  万金丹  蛙茶番  宮戸川  文ちがい  王子のきつね  汲み立て  火事むすこ  ひとつ穴  妾馬  品川心中  引越しの夢  紙入れ  そばの殿さま  富 久 ≪上方篇≫  住吉《すみよし》駕籠  どうらん幸助  貝野村  百年目  千両みかん  たちぎれ  池田の猪買い  三十石  お玉牛  ざこ八   解 説   落語鑑賞のために   落語家、名人・奇人伝 堀の内  世の中にはずいぶんそそっかしいかたがございますが、そそっかしいくらいのかたに悪人はないようで…… 「おう、おっかあ、いま帰った」 「あら、お帰り」 「おっかあ、どうもたいへんなことができちまった」 「どうしたのさ?」 「どうしたって……まあ、なんでもいいから、早く薬を呼んできてくれ。どうも医者でも飲まなきゃあなおらねえ」 「なにいってるのさ。薬を呼んで医者を飲むなんて人があるもんかねえ。どっかぐあいでもわるいのかい?」 「わるいどころのさわぎじゃねえや。いま熊公んとこではなしをして、表へでたとたんに片っぽうの足が長くなっちまったんだ」 「あら、いやだよ、みせてごらん……まあ、なんだねえ、履物《はきもの》が片ちんばじゃあないか。草履《ぞうり》と下駄《げた》と片足ずつはいてるんじゃあないか」 「えっ、草履と下駄と? ……ああ、なるほど、道理で片足長くなったとおもった。どうすりゃあなおる?」 「きまってるじゃないか。ぬげばいいのさ」 「うん、そうか……あれっ、ぬいでもなおらねえぜ」 「どっちをぬいだのさ?」 「草履だ」 「それじゃあおなじだよ。しょうがないねえ。おまえさんてえ人は、どうしてそうそそっかしいんだろうね?」 「うん、熊公もそういってた。『おめえみてえなそそっかしいやつはいねえ。いまのうちに信心でもしてなおさなくっちゃあいけねえ。それも暗いうちから起きて、弁当持ちででかけていって、いっしょうけんめいに信心しろ』とこういうんだ。だから、これから信心をはじめるから覚悟しろ」 「なにいってるんだよ。おまえさんが信心するのに覚悟もなにもいるもんかね。けれど、おまえさんのそこつが信心でなおれば、こんな結構なことはないよ。で、何様を信心するんだい?」 「堀の内の観音さまを信心するんだ」 「堀の内の観音さま?」 「いや、その……水天宮さま……なーに、金毘羅《こんぴら》さま……不動さま……」 「なにいってるんだよ。堀の内ならお祖師《そし》さまじゃあないか」 「ああ、お祖師さま、お祖師さま、あわてるな」 「どっちがあわててるんだよ」 「さあ、そうときまったら、あしたの朝が早えんだ。ふとんをしいてくれ。もう寝るから……」 「寝るったって、まだ日が暮れてないよ」 「暮れてなくてもかまうもんか。戸をしめて、あかりをつけろ」 「戸をしめたって、まだ日があたってるよ」 「日があたってたら、いい月夜だとだましねえな」 「だれを?」 「おれを……」 「なにをばかなことをいってるんだねえ」  翌朝は、亭主のそこつをなおそうという一心で、女房は暗いうちから起きて食事のしたくをすると、弁当をつめてしょっていけるように、ふろしきにつつんで枕もとにおきましたが、亭主はなかなか起きません。 「ちょいと、おまえさん、起きなさいよ。起きなさい。ちょいと目をおさましよ」 「あっあー ……ああおどろいた……これはどうもたいそうお早く、どちらのおかみさんで?」 「なにいってるんだよ。あたしだよ」 「え?」 「あたし」 「あたしって、どなた?」 「おまえさんの女房、おかみさん」 「ああ、おまえか。どうもどこかでみたような女だとおもった」 「あきれたよ。自分の女房をわすれちまう人があるもんかね。早くいっておいでよ」 「どこへ?」 「あれっ、もうわすれちまったのかい? 堀の内のお祖師さまへおまいりにいくんだろ?」 「あっ、そうだ。じゃあ、ちょっといってくらあ」 「ちょいと、ちょいと、なんだってはだかでとびだすんだよ? 着物を着ておいでよ」 「ああ、そうか。どうもからだがかるいとおもった」 「いやだねえ。着物を着て、顔を洗いなさいよ」 「ああそうか……おいおい、顔を洗えったって水がねえじゃあねえか」 「水がないわけはないが……あれっ、たんすのひきだしあけたって水があるもんかね。台所へいってお洗いよ」 「どうも水がねえからおかしいとおもった」 「あらっ、おまえさん、ざるにいれたって、水はたまんないじゃないか。あら、いやだよ。どうしておなべで顔を洗うんだい? きたないじゃあないか。顔洗ったら、顔をおふきよ。あれっ、なんだってふきんで顔をふくんだよ。それはぞうきん……手ぬぐいはこっちに……なんだって猫をつかまえて顔をこすってるんだよ。猫で顔なんかふけば、ひっかかれるじゃあないか」 「ああ猫か。おれも手ぬぐいがギャーギャー鳴くからおかしいとおもった」 「なにいってるんだねえ。さあ早くいっておいでよ。それから、お弁当つめてあるんだから、よく首っ玉へゆわえつけて……首っ玉へゆわえつけなきゃあ、おまえさんはどっかへおいてきちまうんだから……途中で、わからなければ道を聞くんだよ」 「……それでは、ちょいとうかがいます」 「あたしに聞いたってしょうがないじゃないか。まだでかけもしないうちから……」 「ああそうか。じゃあいってくらあ……ちょいとうかがいます」 「なんだっておとなりで聞くんだよ? 途中でわかんなくなってから聞くんだよ」 「うるせえなあ。どうしてああうるせえんだろ……ああ、この辺で聞いてみようかな。ねえ、そこに立ってる人、ちょいとうかがいますけど……もし、ねえ、あなた、ちょいとうかがい……あっ、いけねえ、電信柱だ。どうも背がいやに高え人だとおもった。そうだ、むこうからくる人に聞こう。そこへくる人、ねえ、あなた、ちょいとうかがいます」 「なんです?」 「なんだっけ?」 「え?」 「いえ……そのう、あたし、これからどこへいくんでしょう?」 「知りませんよ。そんなこと」 「そんな意地のわるいことをいわないで教えてくださいな……あっ、堀の内のお祖師さまへいくんだ」 「堀の内のお祖師さま? ここは浅草の観音さまですよ」 「いつ観音さまに化けました?」 「化けやしません。もとから観音さまです」 「きょう一日だけお祖師さまにしてください」 「そんなむりなことをいったってしかたがありません。あなた、どちらからおいでなすったんです?」 「神田から……」 「それじゃあたいへんだ。方角をまちがえたんだ。反対方向にきちまったんですね」 「ああそうですか……ああおどろいた。この調子じゃあどこへいくかわからねえ……どこをあるいてるんだか自分でもわからねえのは情けねえな……あれっ、おれの町内によく似てるぜ。おや、あすこにいる女は、うちのかかあにそっくりだ。ふしぎだなあ」 「ちょいと、おはなさん、おまえさんとこのご亭主が、お題目となえながらこっちへくるよ」 「そんなはずはないよ。うちの人は、けさ早く堀の内のお祖師さまへ……あら、いやだ。まだあんなところをぐずぐずしてるよ……ちょいと、ちょいと、おまえさん、もう堀の内へいってきたのかい?」 「これからいくんだ」 「なにしてるんだよ」 「なにしてるって……ああおどろいた。よく似てるはずだ。うちのかかあだもの……さあ、早くいかなくっちゃあいけねえ……妙法蓮華経《みようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》……もしもし、ちょいとうかがいますが……」 「なんです?」 「あたしはこれからどこへいきますか?」 「ばかなことをいっちゃあいけねえ。おまえさんのいく先がわかるもんか」 「かんがえてみてください」 「かんがえたってわかるもんか……しかし、いまお題目をとなえていたところをみると、ひょっとしたら堀の内のお祖師さまへおまいりするのでは?」 「それみろ、それほど知っているのにずうずうしい」 「なにいってるんだ。堀の内へいくんなら、ここは四谷だから、これからまっすぐにいって鍋屋横丁を左にまがるとすぐだから……」 「ああそうか……やいやい、ものを教えてだまっていくやつがあるか。礼ぐらいいっていけ」 「おまえさんがいうんだ」 「遠慮するない」 「だれが遠慮するもんか」 「妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……あれっ、何横丁だっけ? もうわすれちまった……もしもし、ちょいとうかがいますが……」 「え? あれっ、おまえさん、いまあたしに聞いたばかりじゃないか」 「ああそうか。どうもみたような人だとおもった。何横丁でしたっけね?」 「鍋屋横丁」 「そうか、しっかりおぼえていけ」 「おまえさんがおぼえていくんだ」 「ああそうだ……妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……さあ、これからどういったらいいのかな? あのたばこ屋で聞いてみようか。しかし、あわてちゃあいけないな。あわてて聞くと、すぐにわすれちまうから、ぐっとおちついて聞こう……ええ、ごめんください」 「いらっしゃい。なにをさしあげます?」 「ええ、ぐっとおちつきますから……ちょいと、あがらせていただきます」 「え? そうですか? ……おい、おまえ、ちょいとざぶとん持っといで……おまえ、この人、知ってるかい? なに? みたことがない? おれもそうなんだ。いったいどこの人だろう? ……どうぞ、まあ、ざぶとんをおあてください」 「ええ、ありがとうございます。一度おうかがいしようとおもってたんですが……」 「はあ……で、どんなご用で?」 「ご用てえほどのことはないんですが……あそこにおいでになるかたは、あなたのおかみさんですか?」 「ええ、そうですが……」 「なかなかきれいなおかたで……いっしょになってから何年ぐらいになります?」 「ええ、五年になりますが……」 「ああ、五年ねえ、いいところだ……で、仲人《なこうど》があっていっしょになったんですか?」 「あなた、いったいなにしにいらしったんです?」 「なにしにいらしった? ああそうだ。ちょいと道を聞きに……」 「ふざけちゃあいけないよ。ばかばかしい。おいおい、おまえ、いいんだよ。お茶なんぞいれなくって……え? ようかん切っちゃった? いらないよ、そんなもの……こちらは道を聞きにきたんだから……どうもあきれた人だ……どちらへおいでになるんです?」 「有名な堀の内の観音さま」 「え?」 「いえ、その……天神さま」 「あなた、堀の内なら、お祖師さまでしょ?」 「そう、お祖師さま」 「お祖師さまならここですよ」 「ここ?」 「ええ」 「すると、あなたがお祖師さまですか?」 「じょうだんいっちゃあいけません。あたしがお祖師さまのわけがないでしょう。なんです、あたしを拝《おが》んだりして……お祖師さまは、そこをまがったつきあたりです」 「どうもすいません……ああおどろいた。ここがお祖師さまだっていうから拝んじまったんだ。どうもお祖師さまがたばこなんか売ってるわけはねえとおもった。ああ、なるほど、たくさんの人が拝んでらあ……なにしろ、まあ手を洗っていこう。手を洗ったのはいいけど、あんまりいい手ぬぐいはねえな。みんなぬれてやがる。ああ、ここにぶらさがってるのがかわいてていいや」 「もしもし、人の袂《たもと》で手をふいちゃあこまるな」 「ああ、そうか、袂か。どうもすいません……どうかお祖師さま、あっしのそそっかしいのをなおしていただきとうぞんじます。さあ、おさい銭をあげよう……あっ、しまった。財布ごとほうりこんじまった。こりゃあおどろいた。すいません、お祖師さま、まとめておさい銭払いましたから、そのつもりで……いてえ、いてえな、だれだ、あたまをなぐるのは? なんだ、いてえとおもったら、なぐったんじゃあねえや。背中の弁当があたまへぶつかったんだ。さあ、弁当をだして、めしにするか……おや、こりゃあ変なふろしきだな? ひもがついてるぜ……あっ、なんだい、こりゃあ腰巻きだ。変なものに弁当をつつんだもんだな。おや、いけねえ、腰巻きのなかから枕がでてきた。かかあの腰巻きをしょってあるいてたんじゃあ、道もまちがえるはずだ。お祖師さまの罰があたったんだな、きっと……ちくしょうめ、人のことをそそっかしいなんていいやがって、てめえのほうがよっぽどそそっかしいじゃあねえか。うちへ帰ってどうするかみやがれ。もうめちゃめちゃにしちゃうから……やいっ、なんだって、おれに腰巻きで枕なんかつつんでお祖師さまへだしゃあがった!」 「うふっ、うふふふ」 「やいっ、おれがこんなに怒ってるのになにがおかしいんだ? こんちきしょうめ! なにを笑ってるんだ?」 「笑わずにはいられないやね。おまえさんのうちはとなりだよ」 「ああ、おとなりかい……どうもおれはあわてもんだな……まことにあいすみません。どうぞごかんべんを……」 「なんだね、おとなりでいばって、うちへ帰ってあやまる人があるもんかね」 「あっ、ここはうちか……やい、なんで腰巻きで枕つつんでお祖師さまへだした?」 「あらっ、おまえさんだったの? 腰巻き持ってっちゃったのは……あたし、二枚しかないのにさ、一枚たらいのなかへつけて、あたらしいのをだしといたら持ってっちまって……腰のまわりがスースーして風邪ひいちゃったじゃないか。早くかえしておくれ」 「お祖師さまにおいてきたい」 「あらっ、しょうがないねえ……おまえさん、おなかすいたろう?」 「おれ、ほこりだらけだから、先に湯へいってくらあ」 「そうかい。じゃあ、金坊をつれてっておくれ」 「金坊はどこにいる?」 「そこに寝てるよ」 「子どものくせに寝ているやつがいるか。なまいきなやつだ。湯へいくんだ。おい、金坊!」 「うわっ! やだよう! おとっちゃんとお湯へいくくらいなら、死んだほうがいいよ」 「この野郎、たいへんなことをいいやがる。やい、どうして死んだほうがいい?」 「この前、さかさにいれたんだもの」 「なまいきなことをいうな。さかさにはいったほうが鼻の穴がきれいになっていいんだ。きょうはまっすぐにいれてやるから、さあ、おんぶしろ。ほら、どっこいしょのしょっと……大きな尻だな」 「おまえさん、あたしだよ」 「あっ、いけねえ、おめえか。かかあなんぞおぶっていくやつがあるもんか……さあ、金坊、しっかりおぶさるんだ。どっこいしょっと……こんどはまちがいねえな。あははは」 「わあっ」 「どうした? 気をつけろ! あたまをぶつけたんだろ? いたかったろう?」 「ぶつかったのは、おとっちゃんだよ」 「そうか、道理でばかにいてえとおもった。いくら親子でも、子どものぶつかったいたさが親に感じるわけはねえとおもった……さあさあ、着いた、着いた。おとっちゃんがはだかになったら、おまえをはだかにしてやるから……なにかぐずぐずいうんじゃあないよ」 「もしもし、あなた、着物をぬいじゃあいけねえ。はだかになっちゃあこまるよ」 「なんだと? おめえんとこは、着物を着たまま湯にいれるのか?」 「なにいってるんだい、うちは床屋だよ」 「えっ、床屋? ああなるほど……」 「じょうだんじゃあねえなあ。あんただろ、このあいだもうちへきてはだかになったのは? こまった人だな、湯屋はとなりだよ」 「どうもすいません。金坊、なんとかいわなくっちゃあだめじゃあねえか」 「いったけど、おとっちゃん、ぐずぐずいうなって、夢中ではだかになっちゃうんだもの……」 「さあさあ、こんどこそまちがいなく湯屋だ。こんどこそ大丈夫だよ。さあさあ、はだかになるんだ。そっちをむけ……たいそういい着物を着ていやがるな。どうしたんだよ? 泣くんじゃあないよ」 「もしもし、なんだってうちの子をはだかにしちゃうんだ? いまあがって着物を着せたばかりじゃあないか。子どもをまちがえちゃあこまるな」 「ああそうか。どうもすいません。よその子をはだかにしちまった。うちの子にしちゃあ、あんまりきれいすぎるとおもった……やあ、金坊、自分でぬいだのか、えらいなあ。さあ、早く湯へはいらねえか。なんだって立ってるんだ。おとっちゃんといっしょにはいれ」 「おとっちゃん、まだ着物着てるよ」 「あっ、そうか。着物を着ちゃあはいれねえや……さあさあ、はいろう、はいろう……いいか、よくあったまって……肩までよくつかるんだ。それ、肩まで……」 「もしもし、あたしの肩をどうしておさえるんです?」 「あっ、すいません。子どもとまちがえまして……さあ、でろ、でろ、おとっちゃんが洗ってやるから……さあ、顔を洗うんだ」 「もしもし、人の顔を洗っちゃあいけないよ」 「おや、こりゃあどうもすいません。子どもにしちゃあ、あんまりひげだらけだとおもった。まちげえてよその人の顔を洗っちまった……さあ、そっちをむけ、洗ってやるから……ああ、いいからだだな。おとっちゃんに似て骨組みががっしりしてるな……あれっ、なんだ? ひょっとこのいれずみなんかしやがって……字も彫ってあるな、なに? 御意見御無用! やい、この野郎、知らねえ間にこんなものを彫りやあがって……やいっ、この親不孝め!」 「いててて……なんだって、人の尻なんかつねるんだ?」 「あれっ、どうもすいません。ついまちがえちまって……どうもおかしいとおもったよ。うちの金坊がいれずみなんかするわけがねえもの……おいおい、金坊、だめだよ、おまえは……あんまりちょこちょこするからまちがえちゃうんだ。おとっつあんのそばにいなけりゃあいけないよ。さあ、洗ってやろう。そっちをむけ……おやおや、どこまで巾《はば》があるんだ。大きな背なかになりゃあがったな。どこまで巾があるんだ。手がとどかねえ」 「あっ、おとっちゃん、それは湯屋の羽目板《はめいた》だよ」 二十四孝 「こっちへあがんな、こっちへあがんな」 「へえ」 「へえじゃねえ、人のうちへきたら、立ってねえで坐《すわ》るもんだ」 「へえ、坐りました。なにか食わせますか?」 「なにも食わせやしねえ。そのかわり、叱言《こごと》を食わせてやらあ。おれがいまさらあらためていうまでもねえが、この長屋は三十六軒あって、子どものたくさんいるうちもあるが、みんなしずかだけれども、おまえのうちというものは、三日にあげず喧嘩《けんか》するな」 「いいえ、三日にあげずなんてことはありません」 「そんなにはやらねえか?」 「いいえ、毎日やってます」 「なおわりいや。なんだって毎日喧嘩するんだ?」 「わけを聞かれるとこまるんですがね」 「じゃあ、きょうはどうしたんだ?」 「ええ、仕事が早くかたづいたんで帰ってきますと、金公んところから生きのいい鰺《あじ》を十ばかりもらいました」 「うん」 「湯から帰ったら、こいつを塩焼きにして一杯《いつぺえ》やるからたのむぜといいのこしてでかけました」 「それで?」 「帰ってきてみると、十ばかりあった鰺が影もかたちもありません」 「どうしたい?」 「あんまりふしぎだから、かかあに聞いたら、『知らないねえ』ってんでしょ。ばばあに聞いたら、『おや、知らないよ』てんで……むこうの屋根をひょいとみると、となりの泥棒猫が、大あぐらをひっかいて、もそもそ食ってやがる」 「猫があぐらをかくかい?」 「ええ、なにしろあの猫てえものはずうずうしいからねえ。あぐらかいて、豆しぼりの手ぬぐいを肩へのっけて……」 「うそをつけ」 「あっしも、しゃくにさわったから、『とんでもねえ猫だ。てめえが魚を食っちまったんだから、こんどはてめえを食っちまうぞ』とどなって、大きな口をあいてとびかかろうとしたんだが、どうも屋根まではとびあがれねえ」 「そりゃあそうだろう」 「しかたがねえから、台所から出刃庖丁を持ちだして、これを逆手ににぎると、『やあやあ、卑怯《ひきよう》なり泥棒猫、これへおりて尋常《じんじよう》に勝負、勝負!』と声高らかに呼びかけた」 「そんなことをいって、猫に通じるのか?」 「ニャンにもいわねえ」 「つまらねえしゃれをいうな」 「あっしもくやしいから、出刃庖丁を物干《ものほ》しざおのさきへ結《いわ》いつけて屋根じゅうひっかきまわすと、さすがの泥棒猫もびっくりしたとみえて、てめえのうちへ横っとびにとびこんじまった。こうなったらもう飼い主が相手だとおもいましたから、となりのうちの前でどなってやった。『全体《ぜんてえ》ここのうちがよくねえ。高慢なつらあして猫なんぞ飼やあがったって、ろくなものを食わせねえから、猫が近所じゅう泥棒してあるくんだ。お昼のおかずなんざあ、猫がかせいでくるんだろう。こんな手くせのわりい猫がとなり近所にいた日にゃあ、長屋じゅう枕を高くしてめしを食うことができねえ』って」 「おかしなたんかを切ったな。枕を高くして寝ることができねえってえのはあるが、めしを食うことができねえなんて聞いたこともねえや……で、どうした?」 「すると、うちのかかあがとびだしてきやがって、あっしをとめてね、『おとなりには、ふだんからいろいろご厄介になってるのに、猫が魚をとったぐらいのことで、そんなことをいうもんじゃあないよ。たかが猫のしたことじゃあないか。猫のしたことだよ』てんで、むやみと猫の肩を持ちやがる……こうなると、あっしだっておもしろくありませんからね。こんどはかかあにいってやった。『このあまめ、てめえだって人間に籍《せき》があるってえのに、なにも猫の肩持つこたああるめえ。そうやって肩持つところをみると、てめえ、となりの猫とあやしいな』ってんで……」 「猫とあやしいってやつがあるか」 「かかあもそういってました。『じょうだんいっちゃあいけない。あたしゃあこうみえても人間だよ。猫とあやしいなんてばかもやすみやすみおいい』ってやがるから、『なにいってやんでえ、人間だって、畜生だって、この道ばかりは格別だ』」 「そんなわからねえいい草があるもんか……それから?」 「かかあとばばあにいってやったんで……『全体《ぜんてえ》てめえたちがまぬけだから、こういうさわぎが持ちあがったんだ。猫があれだけの鰺をまさか一ぺんに持っていったはずはあるめえ。それを人間が二ひきもいやあがって……』」 「おいおい、らんぼうだな、いうことが……人間が二ひきだなんて……」 「いいんですよ、あんなやつらは二ひきで……で、あんまりしゃくにさわったから、ポカリと撫《な》でました」 「ポカリと撫でた? ははあ、なぐったな?」 「まあ早くいえば……」 「おそくいったっておんなじだ。それからどうした?」 「ふしぎなもんですね。去年までは、ポカリとなぐると、そのはずみで二《ふた》まわりまわってひっくりけえったんですが、ことしはあっけなかったねえ。ポカリとやると、ドタリとひっけえっちまった。ポカドタってえやつだ。ああ弱くなっちまったんじゃあ、来年はもう引退ですかねえ」 「なにいってるんだ。角力《すもう》じゃああるめえし……じゃあ、おかみさんも泣きわめいたろう?」 「ええ、泣きましたねえ。わーわーわーわーってんで……しかしねえ、うちのかかあってえものは、つらあまずいが、泣き声がいいんでしてね、あっしゃあ、あの泣き声で飼っとくんでさあ」 「それじゃあカナリヤだよ、まるで……それから?」 「すると、その泣き声にびっくりしゃあがって、うちから、ばばあがでてきやがってね、『おや、おまえは、また、かみさんをぶったんだね。なんだってそうかみさんばかりぶつんだ。そんなにぶちたけりゃああたしをおぶち』と、こういいますからね、おあつらえならってんで、げんこをかためてふりあげて……」 「おいおい、お待ちよ。おまえは、おっかさんをぶったのか?」 「じょうだんいっちゃあいけねえ。あんなうすぎたねえばばあがおっかさんだなんて……」 「へーえ、おっかさんじゃなかったのかい? じゃあ伯母さんかなんかかい?」 「いいえ、そうじゃねえんで……」 「なんなんだい?」 「さあ、なんですかねえ? なんだか知らねえけど、うちに古くからいるんですがね、ことによったら、うちの主《ぬし》じゃねえかとおもうんですが……」 「ほんとうに心あたりはねえのか?」 「ええ……ただ、死んだおやじのかみさんだったそうですがね……」 「ばかっ! やっぱりおっかさんじゃねえか」 「へーえ、そういう見当《けんとう》にあたりますか?」 「なんだ、その見当てえのは? 火事の火もとをさがしてるんじゃねえや……で、おっかさんをなぐったのか?」 「いいえ、なぐろうとおもったんですがね、待てしばしとかんがえた」 「えらいな。やっぱりおっかさんはなぐれめえ」 「そうじゃあねえんで……せっかくこうやって皺《しわ》くちゃになってちぢんでるものを、うかつにひっぱたいてね、この皺が伸びて巾が広くなって、もしもうちん中へおさまらなくなっちゃあいけませんからね……」 「なにいってるんだ。こてあててるんじゃねえや」 「だから、せっかくふりあげたげんこをふところにしまった。これすなわち、貯蓄げんこ(銀行)……」 「つまらねえしゃれだなあ……でも、ぶたねえてえのは感心だ」 「ええ、あらためて蹴とばした」 「なんだ、蹴とばした!? うーん、いやはや、どうも……じつに言語道断《ごんごどうだん》だ」 「へーえ、ずいぶん大きいんですねえ」 「なにが?」 「五合のひょうたんだって」 「ひょうたんのはなしをしてるんじゃあねえや」 「じゃあ徳利かい? (セリフ調で)こりゃあ、とっくりと、思案せざあなるめえ」 「なにを気どってやがる。どうもあきれけえったやつだ。おめえのようなやつに店《たな》あ貸しとくわけにいかねえから、店ああけろ」 「店ああけろって?」 「ああ、お入用《いりよう》の節は、いつなんどきでも、すみやかにあけわたしますという、店請《たなうけ》証文がはいっている。さしあたって入用なことはねえが、おめえのような親不孝なやつに店を貸しとくわけにいかねえから、店ああけろ」 「店ああけろっていうと、家をあけわたしゃあいいのかい?」 「そうだ。店ああけろ」 「じゃあ、あけてやらい……なんでえ、こっちが下手《したて》にでりゃあいい気になっておどかしやがって……そのかわり、あけるからにゃあ、こっちだってそれだけの了見があるぞ」 「なんだと、了見があるだと? ふーん、おもしれえや。若《わけ》えうちから、てめえみてえならんぼうなやつをあつかいつけてるんだ。柔道《やわら》の一と手や二手《ふたて》、心得てらあ。了見通りやってみろ」 「おや、柔道《やわら》の心得があるのかい? ……そいつあいけねえや。じゃああやまらあ」 「なんだ、だらしのねえやつだ。急におとなしくなりゃあがって……あやまるなら、ちゃんとあやまれ」 「じゃあ、すいません」 「なにを?」 「ごめんよ。ねえ、ごめんねえ」 「なんだ? 子どもの喧嘩じゃねえや。ばかばかしい。なんだ、ごめんねえとは……ちゃんとあやまれ」 「へえ……大家さん、堪忍《かに》してちょうだいな」 「ばかにするとなぐるぞ。両手をついてあやまるんだ」 「なんだって?」 「いままでは、重々《じゆうじゆう》心得ちがいをしておりました。これからは、了見をいれかえて親孝行にはげみますから、どうぞお店《たな》へおいてくださいまし」 「ええ、その通りでござい」 「なんだ、おれのいったんで間にあわせるやつがあるか。ちゃんとやってみろ」 「やるよ。やりゃあいいんだろ? じゃあ、前へ両手をつくんだったな?」 「ちゃんと手をつくんだ」 「こういうかっこうをした蛙《かえる》がでると雨がふる」 「よけいなことをいってねえで早くやれ」 「ええ、なんといったかね……そうそう、いままではってんだ。どうです、うめえもんでしょ?」 「まだなんにもいってねえじゃあねえか。そのさきをやれ」 「えーと、重々……重々……重々……ジュー……」 「なんだ、焼火ばしを水ん中へ突っこんだんじゃねえぞ。ジューだってやがら……重々心得ちがいをしておりましたってんだ」 「重々心得ちがいをしておりました。こんにちのところは、どうもごちそうさま……」 「なにいってるんだ。満足に口もきけやあしねえ。こまったもんだ。おめえのおとっつあんてえものは、食べる道はしこんだが、人間の道というものを教えねえから、おめえのようなべらぼうができあがっちまったんだ。むかしから、親不孝するようなやつにろくなやつはいねえ。いまのうちにせいぜい親孝行しておけ。孝は百行の基《もと》という……」 「へーえ、そうですかねえ」 「無二膏や万能膏のききめより、親孝行はなににつけても……」 「してみると、親孝行は、あかぎれやしもやけにもききますか?」 「なにをばかなことをいってるんだ……孝行のしたい時分に親はなしというぞ」 「そうですかねえ」 「さればとて、墓石《いし》にふとんも着せられず」 「ふーん、なるほど」 「わかったか?」 「わかりません」 「わからねえで感心するやつがあるか。子と生まれて親を大事《だいじ》にするのが人の道だ。むかしはな、親孝行でごほうびをもらった者がたくさんいたな」 「へーえ、親孝行なんてもうかるもんなんですねえ」 「なにをいってる。もうかるってえやつがあるか。なんでもいいから、親を大事にしろ」 「へえ、じゃあこれからうちへ帰って、さっそく親孝行にとりかかります」 「そうしろ、そうしろ」 「うちに古いつづらがあるから、あんなかへ古い綿でもしいて、そん中へばばあをいれてどっかへあずけましょうか?」 「ばかっ、そんなことで大事にしたことになるもんか」 「じゃあ、どんなことをすりゃあいいんで?」 「どんなことといって……そうさなあ……唐《もろこし》の二十四孝を知ってるか?」 「じまんじゃねえが知りません」 「そうか、じゃあ、この中で、おまえにわかりやすいのをはなしてやろう……王祥《おうしよう》という人があった」 「ああ、寺の?」 「和尚じゃねえ。王祥という名前の人だ。この人は継母につかえて大の孝行、寒中のことだ。おっかさんが鯉《こい》が食べたいとおっしゃったが、貧乏暮らしで鯉を買えない。そこで、釣り竿を持って池へ釣りにいったのだが、厚い氷がはっているので釣ることができない。しかたがないから、はだかになって氷の上へ腹ばいになって寝たんだ」 「へーえ、アザラシみてえな野郎ですね。つまり、氷の上へ寝るのが趣味なんだ」 「ばかっ、そんな趣味があるもんか。からだのあたたかみで氷をとかそうてんだ」 「つめてえねえ、そりゃあ……で、どうしました?」 「氷がとけてな、そこから鯉がとびだしたので、これをおっかさんへさしあげて孝行をした」 「うふっ、笑わしちゃあいけねえ。そんなばかなはなしがあるもんか」 「どうして?」 「だって、そうじゃあありませんか。うまく鯉がとびだすだけの穴があいたなんて……からだのあたたかみで氷がとけたんなら、てめえのからだごとすっぽりと池のなかへおっこちるのがあたりめえだ。もしも泳ぎを知らなかろうもんなら、あえなくそこで往生《おうしよう》(王祥)する」 「なにをくだらねえしゃれをいってるんだ。おまえのような不孝者ならば、あるいは一命をおとしたかも知れないが、王祥は大の親孝行だ。その孝行の威徳《いとく》を、天の感ずるところでおちっこない」 「へーえ、そうですかねえ。てえしたもんだ。ほかにありますかい?」 「孟宗《もうそう》という人があって、このかたが大の親孝行だ。寒中にな、おっかさんがたけのこが食べたいとおっしゃった」 「おっしゃりゃあがったねえ。唐国《もろこし》のばばあてえものは、どうしてそう食い意地がはってんだい? 鯉が食いてえ、たけのこが食いてえなんて……そんなばばあは、とてもめんどうみきれねえからしめ殺せ」 「らんぼうなことをいうなよ」 「どうしました?」 「なにしろ寒中で雪がふってる時分にたけのこというんだから、こりゃあ無理なはなしだ。しかし、どうかさしあげたいものだと、鍬《くわ》をかついで竹やぶへいって、あちこちとさがしてみたが、どうしてもたけのこがない」 「そりゃあそうでしょう」 「孟宗は、これでは母に孝をつくすことができないてんで、天をあおいで、はらはらと落涙におよんだ」 「へーえ、まぬけな野郎だねえ。たけのこがねえんだから、やぶをにらみそうなもんじゃあありませんか。天をあおぐなんて、まるっきり見当ちげえだ。ははあ、見当ちげえのことを、やぶにらみってえのは、これが元祖ですか?」 「くだらねえおしゃべりするなよ。すこしだまっておいで……ああ、たけのこがなくては、一人《いちにん》の母に孝をつくすことができない。ざんねんなことであると、さめざめと泣いていると、足もとの雪がこんもり高くなった。鍬ではらいのけると、手ごろのたけのこが、地面からぬーっとでた」 「へーえ、いい仕掛けになってますねえ」 「いい仕掛けってやつがあるか」 「だってばかばかしいや。いくら親孝行だって、天をにらんで涙をこぼしただけでたけのこがぴょこぴょこでてくるんなら、八百屋は買出しになんかいかねえよ。みんな竹やぶへいって、わーわー、わーわー、泣くねえ」 「さ、そのでないはずのものがでるというのが、孝行の威徳によって天の感ずるところだ」 「なんだい、都合がわるくなると、感ずるんだからなあ、ずるいや……じゃあ、とにかく感ずるところとしときましょう。で、それを食わしたらよろこんだでしょう?」 「ああ、たいそうな喜びかただ」 「そうでしょうねえ。あんまりうめえから、もっとおかわりをくれといったら、もうそう《孟宗》はねえって……」 「くだらないしゃれだな」 「しかし、こいつあおもしれえねえ……まだほかにありますか?」 「呉猛《ごもう》という人がいたが、このかたに一人《いちにん》のおっかさんがあった」 「なんですかい、唐国は、ばばあばっかりしかいねえんですかい?」 「そんなこともないが……で、この呉猛の家がいたって貧乏だ」 「ふーん、ばばあと貧乏でつながってるんですね」 「夏になっても蚊帳《かや》をつることができない」 「なにいってやんでえ」 「どうした?」 「どうしたもこうしたもあるもんか。さっきから貧乏だ、貧乏だって、いやに力をいれて人の顔をみやがって……それもいいや、夏になって蚊帳がつれねえたあなんでえ……なにも唐国へいかねえったって、日本にだってつれねえうちはあらあ」 「どこのうちだ?」 「おれんとこだい」 「つまらねえことでいばるない……毎晩蚊にさされて、どうしても眠ることができない。なんとかしておっかさんだけでもゆっくり眠らせてあげたいと、近所の酒屋へいって|※[#「さんずい+胥」]酒《したみ》という安い酒をもらってきて、はだかになってこれをからだへ吹きつけ、『どうか母をささずに、わたしをさして腹を肥やしてくれ。打ちもたたきもしない』と、いってうつぶせになって寝た」 「蚊がでましたろうね、団体でバスかなんか乗りつけて……」 「ところが、その晩にかぎって一匹もでない」 「だっておかしいじゃあありませんか。蚊は酒が好きだっていいますぜ」 「さあ、そこだ」 「どこです?」 「なにをさがしてるんだ……でるべきはずの蚊がでないというのが、つまり孝行の威徳によって……」 「おーっと、天の感ずるところだ」 「そうだ」 「へへへ、孝行の威徳によってときたからね、もうこのあとは感ずるなとおもったから、さきに感ずっちまった。あははは、感ずりそこなってがっかりしてらあ」 「なにをいってるんだ」 「けれども呉猛てえやつは、りこうじゃあありませんね。あっしならそんなことはしませんや」 「どうする?」 「二階の壁へ酒を吹きます」 「うん」 「蚊がよろこんで、みんな二階へあがってしまうでしょ?」 「うん」 「あがりきったところで、そーっと梯子をとる」 「ばかなことをいうな」 「まだほかにありますかい? その感ずるやつが……」 「なんだい? その感ずるやつてえのは……このほかに郭巨《かつきよ》という人がいた」 「ああ、脚がむくむやつだ」 「なんだい?」 「脚気《かつけ》だって……」 「脚気じゃあない、郭巨……この人にも一人のおっかさんがあった」 「またばばあですかい」 「女房に子どもがいた」 「その他おおぜいってやつだ」 「いたって貧乏だ」 「よくもあきねえで、ばばあと貧乏がついてまわるもんだ」 「郭巨夫婦が食うものも食わないで、『おっかさん、これをおあがんなさい』というようにしているが、おふくろは孫をかわいがって、自分が食べないで孫にやってしまう。わが子のあるために母へ十分に孝行をつくすことができない。子のかけがえはあるが、親のかけがえはない。夫婦相談の上、かわいそうだが、子どもを生き埋めにしようということになった」 「ひでえことをするもんですねえ……それで?」 「山へつれてって子どもを埋めようというんだが、さすがに親子の情にひかれて、一鍬いれては涙をうかべ、二鍬目には落涙なし」 「三鍬いれては、くしゃみをし……」 「よけいなことをいうな……折りから鍬のさきへガチッとあたったものがある」 「ああ、水道の鉄管にぶつかったんだ。水が吹きだしましたかい?」 「なにをいってるんだ。掘ってみると釜がでた」 「釜めし屋の焼けあとですか?」 「そうじゃあない。金《きん》の釜がでたんだ」 「へーえ、ぜいたくな釜だ。そんな釜でめしをたいたらうめえでしょうね?」 「いや、その釜じゃあない。金《きん》のかたまりを一釜、二釜という」 「へーえ、そうですかい」 「掘りだしてみると、天、郭巨にあたうるものなり、他の者これをむさぼることなかれと書いてあった。すぐにこれをお上《かみ》へとどけると、おまえにさずかったものだというので、これが自分のものになり、たちまち大金持ちになったという」 「しかし、あてずっぽうに掘ってよく掘りあてましたねえ」 「そこが天の感ずるところだ」 「しまった。感ずろうとおもってるうちに、さきに感ずかれちゃった。こすいや、大家《おおや》さん」 「こすいってやつがあるか……まあ、おまえもこれからはあんまり酒を飲まないで親孝行をしなよ」 「ええ、親孝行をやります。やってりゃあいくらかもうかりますか?」 「なんだい、もうかるてえやつがあるか……しかし、さっきもいったように、むかしは青ざし五貫文という、ごほうびの金をお上からくだすったものだ」 「いまはどうなんです?」 「いまはそういうことはないが、おまえが親孝行をするようになれば、わたしから小づかいぐらいはやろうじゃないか」 「ああそうですか。そいつはどうもすいません。じゃあ、さっそく親孝行にとりかかりますから……ありがとうござんした……えへへへ、親孝行すれば小づけえをくれるってやがら、ありがてえことになってきやがったな……おう、おっかあ、いま帰った」 「どこへいってたんだい?」 「大家のところよ……それより、きょうから親孝行にとりかかるから、びっくりするなよ」 「なんだい? 親孝行にとりかかるてえのは……」 「うちの母上はどうした? 母上は?」 「ハハウエって、なんだい?」 「ばばあだよ」 「そんならそういえばいいじゃあないか。ハハウエだなんて符牒《ふちよう》をつかったりして……その隅にいるじゃないか」 「なるほど、こんな隅っこにおっこってやがら……痩せっこけちまって、ろくに肉なんかついちゃあいねえや。ガラだね、まるで……これじゃあ目方で売ってもいくらにもなりゃあしねえ……おい、母上、母上……あれっ、いねむりしてやがらあ……うすぼんやりしてちゃあいけねえ。きょうからおめえに親孝行するから、そのつもりでおめえも覚悟しなくっちゃあいけねえぜ……どうだ、鯉を食わねえか? どうだ、食いてえだろう?」 「まあ、めずらしいね。せんべいのかけらひとつでも食えといったことがないのに、鯉を食えだなんて……せっかくだけど、川魚は泥くさくって、むかしからきらいだよ」 「じゃあ、たけのこはどうだ?」 「もう総いれ歯になっちまって、十年このかたまるで食わないよ」 「しょうがねえなあ。どっちか食いねえ。たのむから……」 「たのまれてもいやだよ」 「おねげえだ。後生だ。いろいろこっちにも都合があるんだから……」 「いやだよ」 「だってがまんすりゃあ食えるだろう? なあ、たんと食わなくったっていいから食ってくれよ」 「いやだよ」 「いやでもあろうが……」 「くどいよ。きらいなものはだめだってんだ」 「勝手にしゃあがれ、たぬきばばあめ! せっかく、人が食わせようとおもやあ、嫌《きれ》えだの、歯がわりいのって……こんちくしょうめ、食わねえったって食わさずにゃあおかねえぞ……口を割って無理におしこんで、かかとで蹴こんでやるから、そうおもえ」 「なにいってるんだよ。そんならんぼうなことをして親孝行になるもんかね」 「なにいってやんでえ。よってたかって人の親孝行のじゃまをしゃあがって……おいおい辰、辰公じゃあねえか?」 「おう、うちにいたのか?」 「どこへいくんだ?」 「これから一ぺえやりにいこうってんだ」 「どうしたんだ、いま時分?」 「なーに、いま、おやじと喧嘩《けんか》してとびだしてきたんだ」 「どうして?」 「なーに、ちょいと寒気がするから、仕事を早目に切りあげてうちへ帰ったんだが、疲れやすめに一ぺえやろうとしたら、『てめえみてえな卵のからが尻へくっついてるやつが、明るいうちから酒なんぞくらってなまいきだ』とこういいやがる。むやみに人を子どもあつけえにしてしゃくにさわるから、『なにいってやんでえ、このもうろくじじいめ、勝手にしやがれ』ってんで、いまうちをとびだしてきたんだ」 「この野郎、親不孝なやつだ。こらっ、てめえは親不孝だぞ!」 「うふっ、笑わしちゃあいけねえや。てめえこそ評判の親不孝じゃあねえか」 「おれは親不孝の三役を張りつづけてきたが、てめえは新入幕だ」 「角力《すもう》だな、まるで……」 「なんでもいいから、そこへ坐れ」 「なんだい?」 「どうもおめえのような者はないな。言語ひょうたんのやつだ」 「なんだ?」 「なんでもいいから、すぐに店《たな》をあけろ。おめえのような親不孝なやつを長屋においとくわけにいかねえから、店をあけろ、店をあけろ!」 「店をあけろってどうするんだ?」 「おめえの住んでるうちをあけるんだ」 「大きにお世話だ。あれはおれのうちだ」 「おめえのうちでもかまわねえ。あけろ、あけろ!」 「そんなわからねえやつがあるもんか」 「よく聞けよ。むかしから……孝は……孝はひょっとこの基だ」 「なんだい?」 「無二膏や、バンソーコーやあんまコー、親孝行はどこへつけても……」 「なんだい、薬屋の広告か?」 「そうじゃあねえや……こうこうの漬《つ》かる時分に茄子《なす》はなし」 「え?」 「さればとて、かぼちゃは生《なま》で食われねえ」 「なんのことだ? さっぱりわからねえや」 「そうだろう。おれにだってまるっきりわからねえ……そうだ、二十四孝だ……もろこし……もろこしだ。もろこしに二十四孝てえのがあった。この中で……この中で……ほうぼうってえ人がいた」 「ほうぼう?」 「ひとつところに住んでいてもほうぼうとはこれいかに?」 「なにいってるんだ」 「この人に一人のおっかさんがいて、うちがたいへんに貧乏だ……これで、もろこしでは、貧乏とばばあがみんなつながってるんだ。で、ある雪のふる寒中に、このおっかさんが鯉が食べたいとおっしゃった。なにしろ親孝行な人だ。さっそく鍬を持って竹やぶへいった」 「え? おかしいじゃあねえか。鯉が食いてえってのに、どうして竹やぶにいくんだ?」 「いいじゃあねえか。当人がいきてえってものを、なにもおめえがぐずぐずいうこたああるめえ……あちらこちらと掘ってみたが、どうしても鯉がでてこねえ」 「あたりめえだ」 「これじゃあとても親孝行ができねえ。どうしたらよかろうと、天をにらんで、からからと笑い、ざんねんだとさめざめと泣いた」 「なんだい?」 「足の下の雪がこんもり高くなったから、鍬ではらいのけてみると、手ごろな鯉がとびだした」 「うそをつけ」 「この鯉をおっかさんにさしあげて孝行をしたってんだ。どうだ、おどろいたか?」 「だっておめえ、おかしいじゃあねえか。竹やぶを掘って鯉がでたなんて……」 「さあ、そこだ。でねえところをでるのが天の感ずるところだ。これすなわちてんかんだ」 「なんだかちっともわからねえなあ」 「わからなくってもいいから、とにかく親孝行をしろ」 「こりゃあおどろいたなあ。おめえに親孝行の意見をされるとはおもわなかったぜ……そうか、じゃあ飲みにいこうとおもったが、うちへ帰っておやじと仲なおりでもするか」 「そうしろ、そうしろ。親孝行をすれば、おれからおめえに小づけえを……」 「くれるか?」 「やりてえけれども銭がねえから、いくらかおれにくれ」 「なにいってやんでえ」 「あははは、おどろいて帰っちまやあがった……なあ、おい、ばあさん、おめえ鯉を食わねえか?」 「またはじめた。いやだよ」 「しょうがねえな。これじゃあ親孝行ができやあしねえ。どうしたら? ……ああ、いいことがある。おい、おっかあ、子どもをつれてこい」 「どうするんだい? うちに子どもなんかいやあしないよ」 「じゃあ、となりの子を借りてこい」 「となりの子をどうするのさ?」 「生き埋めにするんだ」 「なんだって? おまえさん、気でもちがったのかい? いいかげんにおしよ」 「ばばあも、おめえも、おれが銭もうけをしようとするとじゃまばかりしゃあがって、どうしてそうさからうんだ……あっ、そうだ。まだあった。親孝行が……おい、おっかあ、酒を二合ばかり買ってきてくれ。親孝行にとりかかるんだから……なんでもいいから買ってこいよ……ばあさん、もう寝なよ」 「まだ眠くないよ」 「眠くなくってもいいから寝なよ。こっちは都合があるんだから……ああ、買ってきたか? よしよし。こっちへよこせ。おれがこれから酒をからだへ吹いて、ばあさんが蚊に食われねえようにしてやるから……ふーっ……ああいい匂《にお》いだ。この匂いじゃあたまらねえ……けれども、このからだへ吹いておくやつが、だんだん気がぬけちまうとつまらねえ。おなじことなら、腹へ吹きこむほうがもちがいいだろう。ああ、うめえ、うめえ。なるほど親孝行ってえものはやってみるとわるくねえもんだなあ。こんなことならもっと早く親孝行にとりかかりゃあよかった。これなら、おらあ仕事をやすんで毎日親孝行をやってらあ……ああ、腹のへってるところへ吹きこんだら、よけいにきいちまった。どうもありがてえ……あーあ、すっかりいい気持ちになった」 「おまえさん、どうしたんだねえ? はだかで……」 「さあ、おれは親孝行をしてるんだ。これくれえ酒を飲んでおけば、蚊がおれんところへあつまってくるから、母上がゆっくり寝られる。ああ、ありがてえ、親孝行でござい……」  やっこさん、そこへぶったおれて、グーグーすっかり寝てしまいました。  夜がからりとあけると…… 「おいおい、起きな、起きなよ」 「あっ、あっ、あー、ばあさん、なんだい?」 「なんだいじゃあねえ。お日さまがこんなに高くあがってるよ」 「あーあ、いい心持ちだ。すっかり寝こんじまって……しかし、親孝行ってえものはてえしたもんだなあ。おれが酒飲んで、すっぱだかで寝ていたのに、蚊が一匹も食ってねえ。うーん、これがすなわち天の感ずるところだ」 「なにいってるんだよ。あたしが一晩中《よつぴて》あおいでいたんだ」 真田《さなだ》小僧 「小児《しように》は白き糸のごとし」と申しますが、子どもを育てるぐらいむずかしいものはございません。  よいことというものは、教えてもなかなかおぼえてくれませんが、わるいまねというものは、どこでどうおぼえるのか、まことにしようのないもんで……ちょいとしたことにも、国技館の近所の子どもは角力《すもう》のまねをしてあそびますし、劇場の近所の子どもは芝居ごっこをやってあそびます。また、刑務所の近くの子どもは懲役ごっこをしてあそんだりいたします。 「なぜおまえは、そう着物をよごしてくるんだい? おととい洗ったばかりじゃあないか。すこしは洗濯するおっかさんの身にもなってごらんよ。また懲役ごっこをしていたんだろう?」 「あたいはしたくないんだけれども、みんながなかまにはいれっていうんだもの……はいらないといじめられるから、それでするんだよ」 「うそをおつきな。おまえががき大将になってやってるんじゃないか。となりの金ちゃんをごらん。おなじ懲役ごっこをしたって、着物なんかよごさないじゃあないか」 「そりゃあよごさないわけがあるんだよ」 「どんなわけがあるのさ?」 「金ちゃんは終身刑になってるもんだから、独房でじっと坐《すわ》ってればいいんだけれど、あたいは三十日ぐらいのはした懲役で、おまけに外役《がいえき》にまわされてるから、もっこをかついだりなんかして着物をよごすんだよ」 「それじゃあ、おまえもあしたから終身刑にしておもらい」  親がそんなことをたのんじゃあいけませんけれど…… 「やいやい、なぜそういたずらをするんだ? いたずらをしちゃあいけないよ。なんだってそう火鉢をいじくるんだ?」 「おとっつあん、火鉢に火がなくなっちまうから、それで炭をついでやろうとおもって……」 「なぜそんなまねをするんだ? 炭なんぞつがなくてもいい」 「だっておとっつあん、お茶を飲もうとおもうとお湯がぬるいよ」 「ぬるくってもいいよ」 「たばこの火がなくなってしまうといけないよ」 「火がなくなれば、マッチがあるからいい。いたずらをしちゃあいけないよ」 「ねえ、おとっつあん、おとっつあんは、ほんとうにいいおとっつあんだね」 「なにをいやがるんだ。なにがいいおとっつあんだ」 「あたい、ふだんからおとっつあんのことを広告してやってるよ。うちのおとっつあんは、ほんとうにいいおとっつあんだ、すばらしいおとっつあん、豪勢なおとっつあん、たいそうなおとっつあん、すてきなおとっつあん、りこうな……」 「なにをいってやがるんだ。さあさあ、表へいってあそんできな」 「ああ」 「あそんできなよ」 「じゃあ、おとっつあん、表へいってあそんでくるよ」 「いってきな、いってきな」 「えへへ……ねえ、おとっつあん」 「なんだ?」 「おとっつあんは、ほんとうにいいおとっつあんだね」 「そんなことはいいから、早くあそびにいきなよ」 「そりゃああそびにいくけれども……なにかわすれものはないかい?」 「わすれもの? なんだ、そりゃあ?」 「だから、あそびにいくんだから……ええ、おわすれものはございませんか?」 「なんだ、電車の車掌みてえなことをいってやがる。わすれものなんかないよ。だから、早くあそびにいきな」 「すこしもらいたいな」 「なにを?」 「ちえっ、いやんなっちまうな。子どもが親にむかってすこしもらいたいといえば、たいがい相場はきまってるじゃないか。首をくれとはいわないよ……お銭《あし》をおくれよ」 「この野郎、銭《ぜに》がほしくってまごまごしてやがったんだな、変な世辞《せじ》をいいやがって……だめだ」 「すこしでいいからおくれよ」 「そう銭をつかうと、ろくなものにならないよ」 「ろくなものにならなくっても、おとっつあんぐらいにはなれらあ」 「おれぐれえになりゃあ一人前だ」 「おとっつあんよりわるけりゃあ乞食だ」 「なぐるぞ」 「ごめんよ。怒らないでおくれよ。いいおとっつあんだからおくれよ」 「親をおだてる気でいやがる。だめだよ。やらないよ」 「そんなこといわないで、すこしは、あたいの身にもなっておくれよ」 「だめだ」 「どうしてもだめかい? どうしても……やさしくいってるうちにだしたほうが身のためだぜ」 「あれっ、この野郎、親を脅迫《きようはく》しやがる……いけないったらやらないよ」 「どうしてもくれないのかい?」 「やらねえといったらどうする?」 「おとっつあんがくれなけりゃあいいよ、くれる人からもらうから……」 「だれがくれる?」 「おっかさんにもらう」 「ばかめ! おれからおふくろへとめてしまう。『これからあいつに銭をやっちゃあいけねえ』といえば、おっかさんだってくれるもんか」 「ああ、なるほど、そうだね。おとっつあんからおっかさんのほうをとめればくれないね」 「そうよ」 「ふふん……甘《あめ》えもんだ」 「いやなやつだな。子どものくせに肩なんぞで笑いやあがって……なんだ、その甘えもんだてえのは?」 「あたいがおっかさんにお銭をおくれっていうと、『おとっつあんからとめられてるからいけないよ』って、きっとくれないよ。そのとき、あたいが、『じゃあいいよ。こないだ、おとっつあんがいないときに、よそのおじさんがきたことを、あたいがおとっつあんにしゃべってやるから……』っていうと、おっかさんが青くなって、『お待ちよ。お銭はいくらでもあげるから、そんなことはしゃべっちゃいけないよ』というだけの、あたいが秘密をにぎってるんだ」 「いやなやつだな、こいつは……秘密をにぎってるってなあ、なんかあるのか?」 「なんかあるのかなんて……知らぬは亭主ばかりなり……」 「この野郎、変に気を持たせやがって……なんだ?」 「こないだ、おとっつあんのいないときなんだぜ」 「うん」 「よそのおじさんがきてね……よそう」 「よさねえで、そんなことは、はなしちまえ」 「うっかりこんなことのはなしはできないよ」 「なぜ?」 「なぜったって、あたいがこんなことのはなしをすれば、おとっつあんは怒っちゃうもの」 「おれが怒る?」 「ああ、色の黒いおとっつあんがまっ赤になって怒る。あとで白くなるよ」 「たどんじゃねえや。はなしをしてしまえ。なんだ?」 「おとっつあん、聞きたいのかい?」 「聞きたいよ」 「おとっつあんは、寄席《よせ》へいったことがあるかい?」 「講釈や噺《はなし》が好きだから、ちょくちょくいくじゃあねえか」 「おとっつあん、寄席というものは、木戸銭を払ってから聞くものかい? それとも、聞いてから木戸銭を払うものかい?」 「変な催促をするなよ。だから、てめえがはなしをしてしまえばやるというんだ」 「いやだよ。木戸銭|後《あと》払いなんてえのがどこにあるい? なにもあたいがはなしをしたいから、お銭をおくれってんじゃあないんだよ。おとっつあんのほうでおはなしを聞きたいてえから、じゃあ、先におくれといってるんじゃあないか。つまりねえ、ものの理屈《りくつ》というものは……」 「わかったよ。先にやるよ。生意気《なまいき》なことばかりいやあがって……さあ、やるからはなしちまえ」 「あれっ、ほうりだしたね。おとっつあん、お銭はお宝といって大事なもんだから、投げたりしちゃあいけないよ……なーんだ、いばってほうったって一銭じゃねえか……これっぽっちじゃあだめだよ」 「いいんだよ」 「けちだなあどうも……まあ、すくないけれどもがまんしてはなしてやろう」 「あれっ、はなしてやろうだってやがら……早くはなせ」 「あのね、こないだ、おとっつあんのいないときに、よそのおじさんがきたよ。ステッキついて、色めがねかけて……『こんちわ』ってはいってきたら、おっかさんが、『あら、よくきてくれたねえ。いま、ちょうど都合がいいよ。うちの人が留守だからさ。早くこっちへおあがりよ』ってね、その男の手を持ってうちへあげたよ」 「ふーん、そのステッキついて、色めがねかけたやつを、手を持ってうちへあげたのか? ふーん、それからどうした?」 「おとっつあん、はなしを聞くんなら、しっかりして聞いておくれよ。うんと力をいれて……」 「力ははいってるよ」 「力がはいったら二銭おくれよ」 「いま一銭やったじゃねえか」 「あれはいままでの分、これからが二銭の値打ちがあるんだ。おとっつあん、あとを聞かないとためにならないよ」 「いやなやつだな、ためにならないだってやがら……さあさあ、二銭やるからはなしてしまえ」 「うん、くれりゃあはなすさ……それから、あたいがうちにいたら、おっかさんが、『金坊や、表へいっておあそび』というから、『いやだよ』といってやった。そうしたら、『これをやるからあそんでおいで』といってお銭をくれたから、表へでてしまった」 「ばかっ、まぬけだなあ、そういうときには、ダニみたいにこびりついているもんだ」 「だけれどもね、おとっつあん、なんだか気になるから、こんどはどぶ板を音のしないようにそっと帰ってきたら、あけっぱなしの障子がぴったりしまっていたよ」 「ぴったりしまってた? どうした?」 「あたいが、障子へ穴をあけて、中をのぞいてみたらねえ……」 「うんうん、なにをしてた?」 「おとっつあん、しっかり聞いておくれよ、うんと力をいれて……」 「力ははいってるよ」 「力がはいったら三銭おくれよ」 「あれっ、いま二銭やったじゃねえか」 「あの二銭はいままでの分、のぞいたところから三銭になるんだ……あーあ、惜しい切れ場だ」 「切れ場だってやがら……」 「お銭くれなけりゃあ、あたいあそびにいっちゃうから……」 「まあまあ待ちなよ……さあさあ、三銭やるからはなしちまえ」 「へへへ、ありがとう」 「で、どうしたんだよ?」 「あたいがのぞいてみたらね、その男が、おっかさんの肩なんぞに手をやったりなんかしてるんだよ」 「うーん」 「そのうちに、その男が、こっちをひょいとみたから、あたいもそいつの顔をみてやった」 「だれだ?」 「それがつまらねえはなし、横丁のあんまさんが、おっかさんの肩をもみにきてたんだ。どうもありがとうございます」 「この野郎! 逃げだしゃあがって……あきれたやつがあるもんだ。ちくしょうめ、とうとう一ぱい食わせやがって、ばかにしてやがる。ステッキついてなんていうからややこしくなるんだ。あんまなら杖じゃねえか。それに、たしかに黒い色めがねをかけてらあ……手を持ってうちへあげたの、肩に手をかけたのなんて、あんまならあたりめえじゃあねえか。あきれたやつがあるもんだ」 「あら、おまえさん、なにをひとりごといってるんだい?」 「帰ってくるなら、だまって帰ってくるやつがあるか。なんとかいって帰れ」 「なにをひとりごといってたんだい?」 「銭を持ってかれちまった」 「だからあたしがいわないことじゃあないよ。またうちをあけたんだろう?」 「そうじゃあねえ。うちのあいつに持ってかれちまったんだ」 「どうしてさ?」 「なんだかどうもばかばかしくってはなしもできねえや。おれの留守中に、おめえのところへ男がきて、手を持ってうちへあげたの、肩に手をかけたのっていうから、おれだって聞きたくなるじゃあねえか。あいつがうめえんだ。一銭やったら、二銭くれ、三銭くれって、だんだんとふやしやがる。しまいに、あんまさんだよって逃げちまった」 「ははははは、あきれたね。子どもにそんなはなしを聞かされて、お銭をとられるなんて、おまえさんもまぬけだね」 「やい、銭を持ってかれたあげくに、てめえにまぬけまでいわれちゃあ、おれの立つ瀬がねえや。あきれたやつがあるもんだ。親をだまして銭をとるような、あんなものはろくなものにゃあならねえぜ。親の首に繩をかけるぐれえがおちだ。いまのうちにおんだしちまえ」 「じょうだんいっちゃあいけないよ。だまされるのはこっちがわるいのさ。ご近所にも子どもはずいぶんいるけど、うちのあれがいちばん知恵巧者だとよろこんでるくらいだあね」 「ばかっ、なにが知恵巧者なんだ。よしんば知恵があっても、あいつのは悪知恵というんだ。いいほうになりゃあ結構だが、あんなわるい知恵がなんになる? 子どものうちはわるかったが、おとなになってから生まれかわったような者になったというのはめったにありゃあしねえ。おれは講釈が好きで、いろんなはなしを聞いているが、のちにえらくなるという人は、子どものころからちがったものだ。こういうはなしがあるぜ。天正《てんしよう》の何年だったか、年はわすれたが、武田勝頼が天目山《てんもくざん》で討ち死するとき、信州上田にいる真田|安房《あわの》守昌幸《かみまさゆき》という人のところへ、武田方から加勢をたのみにいくと、昌幸は心得て、手勢《てぜい》をひきいてやってくる途中、敵の松田尾張守、大導寺《だいどうじ》駿河守《するがのかみ》の軍勢がとりまいてしまった。それというのも真田にこられてはこまるからだ。こちらは旅の戦《いく》さ、兵糧《ひようろう》は尽きてくるし、しかたがないから、あすはいさぎよく討ってでようと覚悟をきめた。と、昌幸のせがれに与三郎というのがある。当年十四歳、のちに左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》といって、大坂方の軍師になるえらい人だ。子どものうちからちがっている。栴檀《せんだん》は二葉《ふたば》より、実のなる木は花より知れるという。父昌幸の前へでて、『あいや父上、これしきのことにおどろくことなかれ。ねがわくば拙者《せつしや》に永楽通宝の旗じるしをおゆるしくださいまするならば、この囲《かこ》みをといてひきあげましょう』といったが、真田は海野小太郎《うんのこたろう》の末孫で、二つ雁金《かりがね》が家の定紋《じようもん》だ。永楽通宝というのは、敵の松田の旗じるしだ。現在自分のせがれが敵の旗じるしを所望するのは、なにか計略があってのこととおもうからゆるしてやると、与三郎は、自分の手勢《てぜい》をひきいて、急に大導寺の陣所に夜討ちをかけた。『それ、夜討ちでござる。おのおの起き候え』『心得たり』とはね起きて、旗じるしをみると、永楽通宝の紋がついていたから、すわこそ松田が裏切りをしたと、味方同士が同士討ちをはじめた。こっちはもとよりはかりごと、このすきに信州の上田へおちのびようという計略だ。そのときの永楽通宝の旗じるしが六本あって勝ちをえたというので、それからのちというものは、真田は六連銭という紋どころにあらためたという。そのくらいにえらい真田という人でも、のちには薩摩《さつま》へおちたという。また、講釈師などにいわせると、大坂落城の折りに切腹して果てたというが、まあ薩摩へおちたというのがどうもほんとうらしい。そのときに十四歳だ。うちのあいつは十二じゃねえか。二つちがいでそんな知恵がでるかい?」 「まあ、真田って人はえらいんだねえ。うちのあの子も真田ぐらいになればいいがね」 「とんでもねえ、条虫《さなだ》になんかになるもんか。十二|指腸《しちよう》(虫)にだってなりゃあしねえや。おいおいみてみろ、あの野郎、戸袋のかげからのぞいていやがる……やい野郎、こっちへへえれ」 「おとっつあん、さっきはごめんよ」 「ごめんじゃあねえや。親をだまして銭を持っていきゃあがって、こっちへへえれ」 「おとっつあん、ぶつだろう?」 「ぶたねえからへえんな」 「おとっつあんごめんよ」 「さあ、いま持っていった銭をだしちまえ」 「え?」 「いまのお銭をだしちまえというんだ」 「あのお銭はつかっちまったよ」 「うそつけ。そんなに一時《いつとき》につかえるもんか」 「つかえるもんかって、つかっちまったんだもの」 「菓子を買っても食いきれめえ」 「そんなものにつかったんじゃあないんだ」 「なんにつかってきた?」 「講釈を聞いてきたんだ」 「この野郎、おれが講釈が好きだから、講釈といやあかんべんするかとおもって……その手は食わねえ。講釈を聞いてきたんなら、なにかおぼえてきたか?」 「そりゃあよくおぼえてきたよ」 「講釈はなんだ?」 「真田三代記だ」 「真田三代記? どこのところを聞いてきた?」 「なんでもねえ、おとっつあん、天正の何年だか年はわすれたがね、武田勝頼が天目山で討ち死をするときなんさ。信州上田にいる真田安房守昌幸という人のところへ武田方から加勢をたのみにいくと、真田がひきうけてやってくる途中、松田尾張守、大導寺駿河守の軍が食いとめてしまったのは、真田にこられるとこまるからだよ。こっちはもとより旅の戦《いく》さ、兵糧は尽きてくるし、しかたがないから、あすはいさぎよく討ってでようと主従覚悟をきめていると、昌幸のせがれに与三郎というのがある。当年十四歳、のちに左衛門佐幸村となって、大坂方の軍師になるかただが、栴檀は二葉より、実のなる木は花から知れるという、子どものうちからおどろかないよ。おとっつあんの昌幸の前にでて、『父上、これしきのことにおどろくなかれ。ねがわくば、てまえに永楽通宝の旗じるしをおゆるしくださるならば、この囲みをといてひきあげましょう』といったが、真田は海野小太郎の末孫で、二つ雁金が家の定紋だってねえ、おとっつあん」 「そうよ」 「現在自分のせがれが、敵の旗じるしを所望するのは、なにか計略があってのこととおもうから、ゆるしてやると、与三郎は、急に自分の手勢をひきいて大導寺の陣所へ夜討ちをしかけた。『それ、夜討ちでござる。おのおの起き候え』『心得たり』とはね起きて、旗じるしをみると、永楽通宝の紋がついてるから、『さてこそ松田が裏切りした』と、味方同士が同士討ちをはじめた。そのすきに上田へたちのくという、ここんとこを聞いてきたよ」 「この野郎、ものおぼえのいい野郎だ。一ぺんでおぼえやがった。おれなんか、五、六ぺん聞いてやっとあれだけおぼえたんだ」 「それでね、そのときに、永楽通宝の旗が六本あって勝をえたからといって、それから六連銭という定紋にあらためたんだってね?」 「そうよ」 「二つ雁金ってどんな紋?」 「雁がふたっつくっついてるんだ」 「永楽通宝ってのは?」 「穴のあいた大きなお銭だ」 「へーえ……うちには紋がないのかい?」 「そりゃああるさ」 「どんな紋?」 「かたばみだ」 「どんなかたち?」 「どんなかたちって……つまり、お尻《けつ》が三つくっついたようなんだ」 「きたねえ紋だなあ。じゃあ、うちの先祖は汚穢《おわい》屋かい?」 「つまんねえことをいうない」 「六連銭て、どんなもんだい?」 「銭が六つならぶのよ」 「どんなふうに?」 「片側のほうへ三つならんで、また片側のほうへ三つならぶんだ」 「そんな、手でやっていたってわからないから、よくわかるようにはなしておくれよ」 「うるせえやつだなあ。なんでも聞きはじめるとしつっこいんだから……おい、おっかあ、その火鉢のひきだしに、穴のあいた五銭玉がへえっているからこっちへだしてくれ……おうよし。さて、これで教えてやる。永楽通宝てえものは、もっと大きな穴あき銭だ。五銭玉でもおんなじ理屈だ。こういう銭が片側へ一《ひいー》、二《ふうー》、三《みつ》つとこうならぶだろう」 「うん」 「また片側へ、一《ひいー》、二《ふうー》、三《みつ》つとこうならぶんだ。それを六連銭というんだよ」 「ああそうかい。おとっつあん、あたいもちょいとやってみようか?」 「ああ、やってみな、やってみな」 「じゃあ、おとっつあん、こうやるのかい? 最初が一《ひいー》、二《ふうー》、三《みいー》、一《ひいー》、二《ふうー》、三《みいー》、とこうかい、おとっつあん?」 「あれっ、そうならべちゃあ梅鉢《うめばち》で、加賀さまの紋になっちまう」 「えへへ、どうもありがとう」 「あっ、この野郎、また銭持って逃げだしやあがって……また講釈を聞くのか?」 「なーに、こんどは焼きいもを買うんだい」 「あっ、うちの真田もさつまへおちた」 しめこみ  どろぼうにも空巣《あきす》ねらいというのがございます。人のうちの留守をねらうというやつで…… 「こんちわ、お留守ですか? ええ、あけっぱなしになってますが……物騒《ぶつそう》ですよ。ごめんください……あっ、火がおこって、お湯がチンチンわいてる。遠くへいったんじゃあないよ。いまのうちに仕事をしなくっちゃあ……」  どろぼうのやつ、たんすのひきだしからふろしきをだすと、中のものをそこへつつんじまって、こいつをしょいだそうとすると、表に足音がします。こいつはいけないとおもって、裏から逃げようとすると、裏はゆきどまりで、逃げられません。しかたがないから、あわてて台所へいって、揚《あ》げ板をはずして、ぬかみそ桶のとなりへかくれてしまいました。 「うーん、こいつあまずかったな。もう一足ってところだったのに……あの足音からすると、帰ってきやがったのは、ここのうちの亭主だな……また、どうでもいいけど、ここのうちのぬかみそはいやにくせえな。きっとおかみさんがぶしょうでかきまわさねえんだな。どうもしょうがねえや」 「なんだい、日の暮れにうちをあけっぱなしでしょうがねえなあ……おいっ、はばかりか? ……そうじゃあねえな。まったくしょうがねえ女だ。長屋歩きばかりしてやがって……しかし、なんだかおかしいなあ。戸じまりもしねえで、いったいどこへいったんだな……不用心じゃあねえか。なんのためにかかあがいるんだ。うちの留守でもしたり、せんたくもしてくれたり、帰ってきたときに、ぬるい茶の一ぺえももらおうとおもうからじゃあねえか。あれっ、火がおこって湯がわいてやがらあ。遠くへいったんじゃあねえな……あーあ、わりいかかあを持つと百年の不作というがまったくだ……おやおや、たいへんにちらかってやがるな……あれっ、大きなつつみがあがり端《はな》にほうりだしてあるじゃあねえか。あずかりものをしゃがったのかな? こんな大きなつつみをあずかりゃあがって、あけっぱなしにしとくなんてしょうがねえなあ……ふーん、そうか、おもての伊勢屋の小僧がきやがって、芝居の立ち見をしようとおもって、とてもしょいきれねえから、すこしのあいだあずかってくれろとあのつつみをあずかりやがったんだな……そうなりゃあ、まして、人さまのものをあずかって、戸じまりをしねえてえのは、物騒じゃあねえか……あれっ、このつつみは、おれのうちのふろしきだ。ふろしきの隅のしるしに見おぼえがあらあ……こりゃあおかしいこともあるもんだな……いったいなにがへえってるんだろう? ひとつあけてみようかな……ふーん、みたようなものばっかりだぜ。なんだい、おれの羽織に似てるな……なんだい、こりゃあ、おれの着物からかかあの着物、うちの目星しいものがみんなつつんであるじゃあねえか……すると、このつつみをこせえたのはかかあのやつかな? ……なんだってこんな大きな荷物をこさえたんだろう? 火事があったのかしら? たんすのひきだしがあけっぱなしだ。どういうわけで? ……あっ、やりゃあがったな。どうもこのあいだからようすがおかしいとおもってたら、うちのかかあのやつ、間男《まおとこ》(密通)してやがったんだ。どうもこのごろ、いやにおしろいつけたり、紅《べに》をさしたりして色っぽいとおもってたんだが……そういやあ、このあいだ、丁場《ちようば》(仕事場)で、松公の野郎がおかしなことをいってたよ。『おい、気をつけねえよ。おたげえに出商売でうちにいねえんだから……』といったが、妙なことをいうなとおもって、別段気にもとめなかったが、持つべきものは友だちだ。それとなく教えてくれたんだな……うーん、おれがもうすこしおそかったら、男とこのつつみを持ってずらかるところだったんだ。ちくしょうめ! いまに帰ってきやがったら、どうするかみてやがれ!」 「あーあ、いいお湯だった……あら、お帰んなさい。早かったねえ。おまえさんもいまのうちにお湯へいってきたらどう? ……いまね、となりの男湯をのぞいたらすいてたから……ねえ、ひとっ風呂はいってきたらいいじゃあない? ……ねえ、ちょいと、どうなの? ……こわい顔しているね、どうしたんだよ? あたしの帰りがおそいんで怒ってるのかい? いえね、このところ二、三日、お湯へいきそこなっちまったから、きょうもまたはいりそこなっちゃあいけないとおもって、おまえさんがまだ帰る気づかいはないとおもっていったんだけど、女のお湯はおそくなるもので、おむかいのおかみさんがきていて、なんにもいわないのにお湯を汲んでくれたから、あたしもお湯を汲んでかえすと、背なかを流してくれるのさ。だから、あたしもむこうの背なかを流したりして、早くもあがれず女のおつきあいでおそくなったが……おまえさん、たいへんに早かったねえ。いま時分お湯へいってわるかったねえ……それにしても、たいそう早かったが、丁場でどうかしたのかい? 時候がわるいから気をつけなければいけないが、お腹《なか》でもいたいのかい? それとも喧嘩でもしたのかい? まっ青な顔をしてだまっていてはわからないよ……ねえ、棟梁と喧嘩でもしてふくれっ面をしてるのかい? お腹がいたいならお医者さまにみておもらいな、寒気《さむけ》でもするのかい?」 「うるせえやい。なにをつべこべぬかしゃあがるんだ!」 「まあ、たいへんな権幕《けんまく》だこと……わかった。おまえさん、喧嘩してきたんだね。いえ、喧嘩にちがいない。よそで喧嘩してきて、うちへ帰ってくるなりあたりちらしたってしょうがないじゃあないか」 「うるせえ。だまってろい、べらぼうめ!」 「どうしたのさ? なにをそんなに怒ってるのさ?」 「なんでもいいや。離縁するからでていけ!」 「あらっ、ちょいと、女房を離縁するようなさわぎがおこったのかい?」 「なんでもいいからでていきねえ。でていけ!」 「ああ、そんなにいうんならでていくけども、『なんででてきた?』って、うちで聞かれたら、あたしゃなんといったらいいのさ? 『なんだか知らないけれど、亭主がどうしてもでていけというからでてきました』なんて、まさか十三や十四の子じゃああるまいし、そんなことがいえるもんかね……それともなにかい、あたしのお湯の帰りがおそいからでていけってえのかい? へーえ、それじゃあ、世間のかみさんはみんなでていかなくっちゃあなんないねえ……いったい、どういうわけなのさ?」 「どうしても聞きてえか?」 「ああ、聞きたいねえ」 「聞きたけりゃあ聞かしてやらあ。こちとらあ職人だ。口下手《くちべた》だから口きくのはめんどうくせえや。てめえの胸と相談してでていけ。ぐずぐずいうこたあねえ。早《はえ》えはなしがあのふろしきづつみだ。あれと相談してでていけってんだ」 「あらっ、ちょいと、あのふろしきづつみは、だれがこさえたの?」 「なにを! だれがこさえた? とぼけやがって……てめえがこせえねえで、だれがこせえるんだ? いいか、おらあ、てめえに傷つけるのがかわいそうだから、だまってでていけってんだ……そんなにいうんならいってやらあ、てめえは間男《まおとこ》してやがるんじゃあねえか。おれの帰りがもうすこしおそかったら、その荷物をしょって、男と手に手をとって逃げるつもりだったんだろう? ……どうもこのあいだからあやしい、あやしいとおもってたんだ。きょうというきょうはなあ、もう堪忍《かんにん》ぶくろの緒《お》が切れた。でていきゃあがれ!」 「ちょいと、おまえさん、どうかしたね……お稲荷さんの鳥居かなんかに小便ひっかけやしないかい? ……ふん、間男だって? おまえさん、いくら夫婦の仲だって、いっていいこととわるいことがあるんだよ。ほかのこととはちがうよ。女はね、どろぼうといわれるよりも間男をしたといわれるほうが恥なんだからね。なんだってそんなことをいうのさ、人をばかにして……ああ、わかった。おまえさん、女ができたんだね。これだけの金がなくっては、女を自由にすることができないとかなんかで、なんとかお金の都合をしたいとおもってる矢さきに、うちへ帰ってくると、あたしがいないもんだから、それさいわいに、たんすから金目《かねめ》のものをあれだけ撰《よ》りだしてまあ……それを持ちだそうとしたところをあたしにみつけられたもんだから、間男呼ばわりをして、あたしに傷をつけるんだよ。そうさ、それにきまってらあ」 「あれっ、このあま! 荷物をおれのせいにしやがって……盗人《ぬすつと》たけだけしいとはうぬのこった。このおたふくめ!」 「なんだって? おたふく? ふん、おまえさん、あたしといっしょになったときのことをわすれたのかい?」 「なんだ?」 「あたしゃ、伊勢屋さんにいたんだよ」 「そうよ、てめえは、伊勢屋のおさんどんだ」 「おさんどん? なにいってるんだい。じょうだんいっちゃあいけない。あたしゃあねえ、あすこへ修業にいってたんだよ。おっかさんのいうにゃあ、『おまえ、お嫁にいくったって、なんにもできないじゃあいけないから、伊勢屋さんへいって、ご飯の炊《た》きかたでもおぼえておいで』てんで、お手つだいにいってたんじゃあないか。あたしゃ、お給金もらってご奉公してたんじゃあないよ。そこへおまえさんが仕事にきて、あたしの袖をひっぱったんだろ? そのあげく、『みんなが、おめえとおれとあやしいってからな、あやしいといわれた以上は、ほんとにあやしくなろうじゃあねえか』そういやがって、ちくしょう……『けれども、うちの両親は堅いから、おまえさん、うちの両親にちゃんとはなしをしておくれでないか?』といったら、おまえさんなんといったい? 大きな出刃庖丁《でばぼうちよう》をだして、『そんなことは待っちゃあいられねえ。さあ、うんといわねえか。いやならばこれで殺しちまうから……うんか出刃《でば》か、うん出刃か?』って、そういやあがったくせに……しかたがないからおとっつあんにはなしたら、『うん、八公か、あいつはことによるとなんかやりかねねえな。しかし、まあ、あいつは人間はらんぼうだが、腕はいいんだから、おめえを大事にするってんなら、いっしょになってやったらいいじゃあねえか』って、こういうからさ、あたしゃ、おとっつあんにまかした。そしたら、おまえさん、おとっつあんによばれたろ? で、あたしとおとっつあんの前で、『おみっつあんといっしょになりゃあ、あっしゃあなんでもします。朝だって早く起きて、ご飯も炊きます。せんたくもします。おみっつあんみたいにいい女はありません。もう生きた弁天さまみたいだ』って、いいやがったじゃあないか。ええ、そうだろう? その弁天さまがなんでおたふくなんだい?」 「うるせえ。こんちくしょうめ!」 「おやっ、ぶったね。ぶつんなら、いくらでもぶちゃあがれ!」 「ああ、ぶってやるとも、こんちくしょうめ! こんちくしょうめ!」 「さあさあ、殺しゃあがれ! あたしゃ、おまえさんに殺されりゃあ本望だ。さあ殺せ!」 「なにしゃがる!」  亭主は、いきなりそばにあった鉄瓶《てつびん》をほうりましたが、おかみさんがうまく身をかわしたから、鉄瓶は台所の柱にぶつかってひっくりかえったんで、縁《えん》の下にいたどろぼうがおどろいてとびだしました。 「あぶない! おかみさんお逃げなさい! お逃げなさい! まあ親方、なんですよ。ねえ、おかみさん、親方……」 「虎さん、どいとくれ。虎さん、どいとくれよ……おまえねえ、仲へはいったって……おやっ、おまえさん、虎さんじゃあねえな……ついぞみかけねえ人だが、いったい、どこの人だい?」 「え? あたくしですか? ……ええ……そのう……あたくしは、ずっと、そのう……えへへ……つまり……そのう……こんばんは」 「なんだい?」 「いえ、そのう、お門《かど》を通りますと、お宅《たく》で夫婦喧嘩をなすっていらっしゃるんで、おもわず仲裁にはいったようなしだいで……まあ、お腹も立ちましょうが、こんばんのところは、あたしにおまかせくだすって……」 「ありがとうござんす。おこころざしはありがてえんだが、どうか手をひいておくんなせえ。もう今夜という今夜はかんべんできねえんだから……」 「親方、そんなことをいわないで、あたしにまかせてくださいな」 「おまえさん、まかせろ、まかせろというけどね、この喧嘩のおこりを知ってるのかい?」 「へえへえ……この喧嘩のおこりは、あの大きなふろしきづつみでござんしょう?」 「おや、おまえさん、よくご存知だね」 「ええ、そりゃあもう……で、つまり、早いはなしが、あのつつみをだれがこしらえたかがわかればよろしいんでござんしょう?」 「うん、まあ、そんなもんだ」 「では、おはなしいたしましょう………ええ、あのつつみてえものは、えへへへ、親方がこさえたてえわけのもんじゃあございません……また、おかみさんがこさえたてえものでもございません」 「おかしいじゃあねえか。おれがこせえねえで、かかあがこせえねえで、あんなつつみができるかい?」 「それができるんでござんす……つまり、おふたりともお留守になってるところへ、つまり、その……ぬーっとはいったんで……たんすのひきだしをあけて、大きなつつみをこさえて逃げようとすると、親方が帰っていらしった。しかたがないから、縁の下へかくれた。すると、おかみさんが帰っていらしって、つつみのことから夫婦喧嘩がはじまった。あげくの果てに、親方が鉄瓶をほうりなすったやつが台所へとんできて、あつい湯が揚げ板のあいだからポタポタポタポタ……とても熱くって縁の下にいられませんから、とびだしてきて仲裁にはいったというわけで……」 「じゃあ、おまえさんが、この荷物をこさえたんだね?」 「えへへへ……まあ、早くいえば……」 「おそくいったっておんなじじゃあねえか……すると、おまえさん、どろ……どろぼうさんだね?」 「えへへへ……まあ、そういったもんで……」 「そういったもんでたって、それにちげえねえじゃあねえか……それ、みやがれ! 日の暮れがた、うちをあけっぱなしにしとくから、こんなどろぼう……どろぼうさんがへえるんだ。このどろぼうさんがでてくれなけりゃあ、おめえとおれとはわかれちまうところだったじゃあねえか。めそめそ泣いてる場合じゃあねえや。どろぼうさんにお礼申しあげろい」 「……どろぼうさん、よくでてきてくださいました。ありがとうございます」 「いいえ、どういたしまして、お手をおあげなすって……しかし、まあ、無事におさまってようございました……けどねえ、縁の下でうかがっていましたが、お宅なんか喧嘩をなさる仲じゃあありませんね。仲がよすぎるてえやつだ。うかがいましたよ。親方とおかみさんの馴《な》れ染《そ》めを……えへへへ……おかみさんが伊勢屋さんてえお店ではたらいていらっしゃると、そこへ親方が仕事にきて、おかみさんの袖をひいたなんて……どうもおやすくないおはなしで……えへへ」 「おい、よせよ、よせよ」 「えへへへ、まことにおめでたいことで……」 「うん、まあ、すべてがまちげえだったわけだ」 「まちがいだって、ばかげているじゃあないか。おまえさんが気が早いからああいうことになったんだよ。あたしがお湯から帰ってきたら、いきなりけんつく(荒っぽい叱言)を食わすんだもの……」 「すまねえ、すまねえ……まあ、いずれにしても厄《やく》おとしだ。一ぺえやろうじゃあねえか……そうだ、どろぼうさん、おめえもいけるんだろう?」 「へえ、ありがとうございます。いたって好きなほうで……」 「そうかい。それじゃあ、なんにもねえけど、やってってくんねえ。どろぼうさん」 「いえもう、あたしは、酒さえあれば、さかななんぞいりゃあしません」 「おう、もう燗《かん》がついたか……おい、どろぼうさん、まあ、ひとついこう」 「へえ、ありがとうございます。いただきます……うーん、こいつはいい酒だ」 「ほー……なかなか飲みっぷりがいいな、どろぼうさん」 「そういちいちどろぼうさんというのはかんべんしてください」 「そうだったなあ。すまねえ、すまねえ……どうも小せえもんじゃあはかがいかねえようだから、この湯飲みでぐっとやんねえ」 「こりゃあ、どうもご親切にありがとうございます。どろぼうにはいってごちそうになったのははじめてで……酒がはいったところで、ついでのことにといっちゃあなんですが、このつつみはなかったものとあきらめて、これをばったに売って、吉原へでもくりだしませんか?」 「そんな気楽なことをいってちゃあこまるぜ」 「えへへへ……これはじょうだんで……どうか、おかみさん、お気になさらないでください……ごちそうになりながらそんなことをするもんですか……ねえ、親方、あたしは酔っぱらっていうわけじゃあありませんが、あなたは、おかみさんに惚れてるくせに、むやみにひっぱたくのはいけませんよ……あーあ、いい心持ちになった。どうもたいへんにごちそうになってすみませんが、ひとつこのままごろりと、一晩ご厄介をねがいましょ」 「どろぼうに泊まられては閉口《へいこう》だな」 「まあ、そうおっしゃらずに……こうやってうかがったというのもなにかのご縁ですから、これからはちょくちょくあがります」 「ちょくちょくこられてたまるもんか……おいおい、寝ちゃあいけないよ、寝るなよ」 「まあ、おまえさん、このどろぼう、ほんとうに寝こんじまったよ」 「寝た者を追いだすわけにもいかねえから、ふとんをかけてやんねえな……そうだ、おれたちも早く寝ちまおう。おめえ、戸じまりをしろ」 「さっき、しんばりをかったよ」 「いつものところへしんばりをかったってだめだぜ」 「どうして?」 「かんげえてもみねえな。どろぼうはうちで寝てるんだぜ。それをうちんなかにしまりをしたってしょうがねえじゃあねえか」 「じゃあ、どうするのさ?」 「うん、そとにまわって、表からしんばり棒をかうんだ。それで、どろぼうをしめこんどけ」 おせつ徳三郎 「番頭さん、まあ、こっちへおはいり。このあいだから折りがあったらおまえに相談しようとおもっていたが……なあに、ほかのことじゃあない。おせつのことさ」 「へえ、どういうことでございましょう?」 「まあ、おまえも知ってるように、あれも小さいときに母親をなくして、わたしが手ひとつでこれまで育ててきたが、もう年ごろだ。どうかいい婿をとって一日も早く孫の顔でもみて安心したいとこうおもってね、みなさんにおねがいしておいたところが、こんど伊勢屋さんからお世話くだすったのはいい男だったね。色白で、鼻すじが通って……これなら、おせつがよろこぶだろうとおもったら、『おとっつあん、ことわってください。あんまり色が白すぎていやらしいじゃあありませんか』とこういうんだ。そこで、色の黒いほうがよごれが目立たなくてよかろうとおもって、こんどは黒いのをみせた。もっともすこし黒すぎるとはおもったがね……すると、『おとっつあん、あのかたは、むこうをむいてるんですか、こっちをむいてるんですか?』というんだ。わが子ながら口のわるいのにおどろいた。いくら色が黒いたって、顔の裏表のわからない人間なんぞありゃあしない。背の高いのをみせれば、日かげのもやしみたいだとか、やせたのをみせれば鶏《とり》のガラみたいだとか、ふとったのをみせれば、おまんまつぶが水がめへおっこったようだとか、いろいろとわがままをいって、いくら見合をしてもはなしがまとまらない。どちらさまもみんなあきれてお世話くださらない。しかたがないからしばらくそのままにしておいた。すると、つい二、三日前、ご近所の若いかたたちのうわさに、店の徳三郎とおせつができているということをちらりと聞いて、いやもうびっくりしてしまった。おまえも店にいてそういうことを聞いているだろうに、かくしていられてはこまるじゃあないか」 「へえ、どうもご心配のことでございますが、わたくしははじめてうかがいましたことで……まさか、ご当家のお嬢さまにかぎってそのようなことはなかろうと存じますが………」 「ふん、おまえも知らないのかい……しかし、火のないところに煙は立たないというからね……それじゃあおまえはまったく知らないのかい?」 「へえ、まったく存じません」 「そんならしかたがないが、もしも、今後そんなうわさを聞いたら知らしておくれよ」 「へえ、承知いたしました」 「それじゃあ店へいっておくれ。そうして小僧にちょっとくるようにいっておくれ、あの定吉に……」 「かしこまりました」 「ああ、定吉か、なんだ、主人の前で突っ立っているやつがありますか。坐んなさい」 「旦那さま、ご用というのは急ぎですか?」 「なんのことだ?」 「いいえ、急ぎならば、このまま立っていて、ご用をうかがってすぐに駆けだしたほうが早いじゃあありませんか」 「小僧のくせに生意気《なまいき》なことをいうんじゃあない。いいから、うしろをしめてそこへ坐んなさい」 「へえ、坐りました。殺さば殺せ」 「だれが殺すといった? さあ、おまえはなぜ主人にものをかくしている?」 「いえ、なにもかくしたりしておりません」 「ないことはない。胸へ手をあててかんがえてみろ。わたしはなにもかも知ってるぞ」 「えっ、ご存知ですか? ……ごめんくださいまし。あれはお店をしまいまして、帳場格子をかたづけようとしましたら、お金がでてきましたので、旦那のところへ持っていかなければいけないとおもいましたが、『もう帳面もしめてしまったから、いまさら旦那のところへ持っていってもつまらない。縁《えん》の下の力持ちというものだ。そんなことをするよりもおすしを買って食べよう』と金どんがいいますから、わたしもそれがよかろうといったんで……」 「なぜそれがよかろうなんていうんだ? わるいやつだ。まだあるだろう?」 「ああ、湯銭の一件ですか? あれはわたしがわるいんじゃないんです。留どんがわるいんです。いっしょに風呂へいったんです。すると番台のおやじがいねむりしてるんです。留どんが『わからないから持ってきな』って……」 「なにを?」 「十銭玉を三つ……いいえ、わたしじゃないんです。留どんがいうもんですから……」 「それじゃあ、まるで泥棒だ」 「まあ早くいえば……」 「おそくいったっておんなじだ。なぜそんなわるいことをするんだ? ほかにもまだかくしてあることがあるはずだ」 「あっ、伊勢屋さんの猫の一件ですか? あれは芳どんがわるいんです。猫の首っ玉へ縄をつけて天水桶へほうりこんだから、わたしがちょいと棒でつっついただけなんで……」 「なぜそんなことをするんだ? いたずらばかりしゃあがる。まだあるだろう?」 「もうなにもございません。もう、これっきりです」 「うそをつけ! おまえがわすれているならいってやろう。この三月、おせつの供《とも》をして向島《むこうじま》へ花見にいったろう?」 「へえ、まいりました。あのときはおもしろうございましたよ」 「そのときのはなしをしろ」 「もうわすれてしまいました」 「こいつ、しらばっくれるな。おもしろかったといいながら、わすれたというやつがあるか」 「……ええ……あのときにはおもしろかったんですが、いまはわすれてしまいました」 「わすれたならおもいだせ」 「どうしてもおもいだせません」 「そうか……おい梅や、ちょっとここへきておくれ。その火鉢のひきだしにもぐさがはいっている。それをみんな盆の上へだしておくれ。それに線香を三本ばかりのせてきておいておくれよ。ああ、それでいい。ごくろうさま。もうおまえは、あっちへいってもいいから……さあ、定吉、子どもがものをわすれるというのは若もうろくだ。それには灸《きゆう》がいちばんいいというから、いま、おまえにすえてやる。これみろ。もぐさがこんなにある。小さな灸をすえたっておもいだせないから、脳天《のうてん》から爪《つま》さきまできくようにかためたやつをすえてやる。さあ、足をだせ」 「ごめんください」 「いいから、足をだせ」 「ごめんくださいまし。そんなに大きなのをすえられたら足へ穴があいてしまいます」 「そうすればおもいだせる」 「ごめんくださいまし」 「いや、いえなければいうな。もうおまえには、年に二度の藪入《やぶい》りの休みもやらないからそうおもえ」 「そんな殺生《せつしよう》な……藪入りのお休みもくれないで、そんな大きなお灸をすえるなんて……」 「これ、泣くほどつらいならなぜいわない? いえば藪入りのほかにも休みをやるし、店の者にないしょで小づかいもあげる。さあ、どっちがいいかかんがえてみろ」 「へえ、すると、いわないと藪入りもだめで、お灸をすえられるんですか?」 「そうだよ」 「いえば藪入りのほかもお休みをくだすって、お小づかいもいただけるんでございますか?」 「そうだよ」 「こりゃあ、たいしたちがいだなあ」 「そうだとも、だからいっちまいな」 「じゃあ、すこしおもいだしましょうか?」 「なんだ、すこしとは……みんなおもいだしな」 「お嬢さんに店の徳どんにばあやさんにわたしと四人でおうちをでましたら、お嬢さんが、『砂ほこりの中を歩くのはいやだから、お舟でいきたいわ』っておっしゃったんで……」 「嬢が舟でいきたいといったのか?」 「その嬢がいいました」 「小僧のくせに、おまえが嬢というやつがあるか」 「へえ……それから柳橋の舟宿に着きました」 「それからどうした?」 「お嬢さんと徳どんが舟宿の二階へあがっちゃったんで、わたしとばあやさんと下で待っていたんですが、ばあやさんとふたりじゃあ色っぽくありません」 「ませたことをいうな……で、嬢と徳はどうした?」 「ええ、すこしたつとおりてきましたが、徳どんがみちがえるようにいい服装《なり》になって……どっかの若旦那みたいになりました」 「ふん、そうか」 「ふん、そうだ」 「まねするな。それからどうした?」 「舟に乗りました。大川へ舟がずっとでまして、 スチャラカチャン、スチャラカチャン、スチャラカチャン……吹けよ川風、あがれよすだれ、中のお客の顔みたや……スチャラカチャン、スチャラカチャン……」 「なんだ、それは?」 「芸者が三味線をひいて歌ったんです」 「芸者なんぞあげたのか?」 「いいえ、これはむこうの舟なんで……」 「むこうの舟なんぞどうでもいい」 「それがよくないんです。むこうの舟もこのはなしにかかわりがあるんですから……」 「どうかかわりがあるんだ?」 「徳どんが、むこうの舟で芸者がさわいでいるのをおもしろそうにながめていますと、お嬢さんが怒りました。『徳や、おまえ、むこうの芸者衆のほうが、わたしよりもいいんでしょ? わたし、くやしいっ』って、お嬢さんが涙をポロポロ……その涙で隅田川の水が急にふえました」 「うそをいえ。で、どうした?」 「あまりのくやしさに、お嬢さんは大川へドブンと……」 「あっ、あぶない! 早くとめてくれ!」 「なに、いまのことじゃありません。三月のはなしなんで……しかし、そのくらいに気をもむてえのも親子の情だ」 「生意気をいうな。とめたのか?」 「ええ、びっくりしてお嬢さんをとめました。そしたら、ばあやさんにしかられました。『おまえなんぞのでる幕じゃあない。そっちへひっこんでおいで』というんです。すると徳どんが『お嬢さん、わたしがわるうございました。もうむこうはかならずみませんから、どうぞごかんべんください』とあやまりました。そうすると、お嬢さんの怒って赤くなった顔がさめてまっ白になって、『じょうだんに怒ったのに、おまえ、そんなに真剣にあやまってはこまるじゃあないか。喧嘩ごっこしてみたのだから……おまえ、かんがえてごらん。女房の前で亭主が手をついてあやまるってのがあるものかね』っていいましたが、お嬢さんは徳どんの女房なんですか?」 「なにをばかなことをいってるんだ……それからどうした?」 「それから舟が向島の四めぐりの土手へ着きました」 「四めぐりというやつがあるか。三めぐりだ」 「一めぐりはおまけ」 「おまけなんぞはいらない。うん、それからどうした?」 「それからお花見をして帰ってきておしまい」 「なんだ、舟が柳橋をでて、向島の三めぐりに着いて、花見をして、それでもうおしまいか?」 「だって、わすれちまったんですもの……」 「わすれたのなら足をだせ。灸をすえてやるから……」 「ごめんください。それじゃあ、もうすこしおもいだします」 「どうした?」 「なんだか舟へ板がかかりました」 「うん、桟橋《さんばし》だ」 「すると、お嬢さんが、『定吉や、おまえさきへおあがり』とおっしゃいましたから、わたしがいちばんさきへあがりました。それから、徳どんがあがって、そのつぎにばあやがあがりました」 「うん、うん」 「ばあやのからだが大きいもんでございますから、板がゆらゆらゆれました」 「そうだろうなあ……で、おまえたちがあがって嬢がいちばん後か?」 「はい、お嬢さんがいちばん後でございました」 「そりゃああぶないなあ」 「ですから、わたしがお嬢さんの手をひっぱろうとすると、また、ばあやにしかられました。『おまえなんかさきに土手へあがってあそんでいればいいんだよ』って……子どもだとおもってばかにしてるんで……徳どんが、『お嬢さん、あぶないから、わたしがお手をおひきしましょう』っていうと、お嬢さんがまっ赤になって、『徳や、おまえならねがったりかなったり』……土手ではばあやがすべったりころんだり……」 「よけいなことをいうな。それから?」 「もうおしまいでございます」 「おしまい?」 「いえ、わすれちまいました」 「足をだせ」 「ごめんなさい。もうすこしおもいだしました」 「よくちびちびおもいだすな」 「くたびれたから、ここらでやすもうと、茶店へ腰をかけました」 「うん」 「お嬢さんが、『定や、きょうは遠慮なくなんでも好きなものをおあがり』とおっしゃいましたから、わたしがいろいろなものをいただきました。ゆでたまごを十三、大福を十八、おせんべいを二十八枚」 「よくそんなに食べられたな」 「へえ、このときとばかり食べまくりました。徳どんはなにを食べてるのかとみていましたら、ゆでたまごを半分食べて、のこりの半分を右手に持ったままひとりごとをいってるんです。『この半分のたまご、大家《たいけ》の若旦那か役者の食べかけなら、だれでもよろこんで食べてくれるだろうけれども、こんなわたしの食べかけだから、だれも食べてはくれない』といってますから、『徳どん、その半分はわたしが食べますよ』と手をだしたら、またばあやさんにしかられました。『なんだねえ、意地のきたない。たまごが食べたければいくらでもそっちのをお食べな。あれ、むこうをみてごらん。隅田川で都鳥が、かっぽれを踊ってるから……』といいますから、そりゃあめずらしいとおもってひょいとみたけれど、都鳥はかっぽれなんぞ踊ってません。それから徳どんのたまごはどうなったかとみると、たまごは行方不明」 「手品つかいじゃああるまいし、そんなに早くたまごがなくなるやつがあるもんか。どうしたい?」 「なんだか知りませんけれども、お嬢さんのほうをみましたら、口のところへ袂《たもと》をあてて、もぐもぐやってるんです。たまごの行方はこれにて一件落着《けんらくちやく》」 「なにをいってるんだ」 「しばらくすると、お嬢さんと徳どんと顔をみあわせて、くすっと笑ってるんです。いくら小僧でもみちゃあいられませんよ。ねえ、おとっつあん」 「なんだ、おとっつあんとは……ふーん、そんなことがあったのか。それでどうした?」 「それでおしまい」 「またおしまいか。よくしまいになるな」 「わすれちまいました」 「わすれたなら足をだせ」 「ごめんなさい。それじゃあもうすこしおもいだします」 「よく切れ切れにおもいだすな。わるいやつだ」 「それから午《うま》の御前さまにおまいりしました」 「向島のは午《うま》の御前じゃあない。牛の御前だ」 「へえ、角《つの》をおとしたんで……」 「よけいなことをいうな。まあ、おまいりとは感心だ」 「お嬢さんが、お賽銭《さいせん》をたくさんあげて、南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経とおがみました」 「うん」 「徳どんが南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、ばあやがオンガボキャアベーロシャノー……」 「みんなちがうんだな」 「お嬢さんが、『わたしが法華《ほけ》なんだから、みんなも法華にならなくっちゃあいけない。みんなちがうことをいうと、牛の御前の罰があたって牛になるよ』とおっしゃいましたが、牛の御前さまの罰があたると牛になりますか?」 「ああ、なるとも……おまえなんぞうそをつくから、きっと牛になるなあ」 「わたしは牛になったほうがいいんで……」 「どうして?」 「寝ていてご飯《ぜん》が食べられますもの」 「無精《ぶしよう》なことをいうな。それから?」 「それから、お腹がすいたから、ご飯《ぜん》を食べようというんで……」 「よく食うな。いまたまごやなんか食べたばかりじゃあないか」 「へえ……奥の植半《うえはん》という料理屋へいきました」 「植半ならなじみの店だ」 「道理で知ってましたよ。女中さんがでてきて、『おや、お嬢さま、よくおいでくださいました。ばあやさん、ごくろうさま。これは若旦那さまもようこそおいでくださいました。まあ、小僧さんもごいっしょで……』といったときに、わたし、ちょっと気にいらないから、ひとりでさきに帰ろうとおもいました」 「どうしてだ?」 「だって……お嬢さんをお嬢さまっていうのはあたりまえですよ。けれども、徳どんのことを若旦那といって、わたしのことを小僧さんとは……」 「おまえは小僧じゃあないか」 「でも、徳どんを若旦那とよぶんでしょう、せめてわたしのことをお坊っちゃんとかなんとか……」 「そんなきたないお坊っちゃんがあるもんか」 「すぐにお膳がでました。ずいぶんごちそうがでましたよ。吸いものに鯛の塩焼きに、お刺身に酢《す》のもの、うま煮《に》にきんとんなんて……旦那、勘定は安くないでしょうねえ」 「そんなことは、おまえが心配しなくてもいい」 「お嬢さんがくわいのきんとんをわたしにくださいました」 「そりゃあよかったな」 「徳どんもまねしてくれました」 「ふーん」 「ばあやさんはけちだから半分しかくれません」 「たいへんにきんとんをもらったな」 「へえ、いっしょうけんめいにわたしは食べました。もう、のどのところまでつまってしまって、下をむくとでてくるんで……」 「きたないやつだな。でるまで食うやつがあるか」 「それから、お嬢さんがお金をだして、『ばあや、うちへおみやげにするから、長命丸寺へいって桜餅《さくらもち》を買っておいで』とおっしゃいました」 「なんだ、長命丸寺というやつがあるか。長命丸てのは薬の名じゃあないか。あれは長命寺だ。門番が桜の葉をひろって、その葉へつつんだのが桜餅のはじめだ。よくおぼえておけ」 「へえ、それから?」 「門へはいると、その桜の木がある。その下に十返舎一九の碑がある。ないそんか腎虚《じんきよ》を我は願うなり、そは百年《ももとせ》も生き延びしのちとあるな。その奥に芭蕉の碑がある。いざさらば雪見に転ぶところまで——これは名代《なだい》の句だ。よくおぼえておけ」 「へえ、それから?」 「あすこへいって桜餅を食べないと、なんだか向島へいったような気分がしないな」 「へえ、それから?」 「それでおしまいだ」 「おしまい? じゃあ足をだせ」 「いうことがあべこべだ。それから、どうした?」 「おやおや、こっちへもどってきた。それじゃあぎりぎり一ぱいというところを申しあげますから……」 「ああ、みんないってしまえ」 「お嬢さんが、『定や、おまえはもう用がないからあそんでおいで』とおっしゃいましたから、わたしは表へあそびにでましたけれども、ひとりでおもしろくありませんからしばらくして帰ってくると、ばあやだけ坐っていて、お嬢さんも徳どんもおりません」 「どうした?」 「ばあやに、『お嬢さんはどうしました?』と聞きましたら、『お嬢さんは、癪《しやく》がおこって奥のお座敷でおやすみになっているよ』というじゃあありませんか。こりゃお家の大事、こうしてはいられないと、わたしが奥へいこうとしましたら、『おまえはいかないでもいい。この癪は徳どんにかぎる』というので、そのときにわたしは、ははあとおもいました」 「なにをなまいきなことをいってるんだ」 「それからないしょでいって、立ち聞きをしてやりました」 「なんといってた?」 「『徳や、おまえはなぜわたしのことをお嬢さん、お嬢さんというのだえ?』『でも、あなたは、ご主人さまのお娘さんだからお嬢さんといいます』『これからはもうそんなことをいわないで、せつやといってくれなけりゃあいやあ』って、ふふん……」 「変な声をだすな。もういい」 「それからね、旦那」 「もういい。おまえのようにぺらぺらしゃべるやつがあるか。よそへいってそんなことをしゃべると承知しないぞ」 「それからね、旦那」 「もういいんだ。うるさい。あっちへいけ」 「だって、旦那がしゃべれとおっしゃったじゃあありませんか。それから、旦那、ちょいとうかがいますがね」 「うるさいな。なにをうかがうんだ?」 「年に二度の藪入《やぶい》りのほかにもおやすみをくれて、お小づかいもくださるというはなしのほうはどうなります?」 「そんなことはどうでもいい」 「じゃあ約束がちがうじゃあありませんか旦那、おい!」 「おいとはなんだ?」  旦那も心配でございますから、番頭を呼んで相談をいたしまして、とにかく徳三郎を店においてはまずいからと、なんともつかず暇《ひま》をだすことになりました。徳三郎は、ひとまずおじのところへひきとられました。 「徳や、ちょいとでかけてくるから留守《るす》をたのむよ」 「はい……で、どちらへ?」 「うん、きょうはお店《たな》におめでたがあるから、おまえもかげながら喜びな。なんといっても、おまえが読み書きそろばん、なにやかや一人前になったのもみんなお店のおかげだからな。おれはこれからいって、おばさんはさきへ帰してよこすから……」 「へええ? おめでたってえのはなんです? 地所《じしよ》でもふえましたか? 家作《かさく》でもふえましたか?」 「なあに、そんなことじゃあない。今夜、お店《たな》のお嬢さんのところへお婿《むこ》さんがくるのよ」 「へええ? お店《たな》のお嬢さんというと、あの、おせつさんよりほかにはありません」 「そうよ、ひとり娘だ」 「それじゃあ、いくらお婿さんをすすめても承知なさるはずがありません」 「なぜ?」 「なぜって……あの人にすまないとかなんとかお嬢さんがおっしゃっていましょう?」 「なんだな、気味のわりい。あの人もこの人もねえ。蔵前辺のご大家《たいけ》の若旦那を見染めて、あのかたをもらってくれなければ死んでしまうと、死ぬの生きるのってお嬢さんがさわぐもんだから、旦那さまがいろいろ手に手をつくして、そのお婿さんをもらうことになったんだ。まあそんなわけだから、あたしあね、ちょいとお祝いにいってくるから、留守をたのむよ、いいかい?」 「へえ、いってらっしゃいまし……そんなばかなはなしはあるはずがないんだがなあ。このあいだもお嬢さんから手紙がきて、『徳や、こんなことになって申しわけないが、こうなるからには、たとえおとっつあんが養子をとれといってもとらない。おまえを生涯の夫とおもうから、決して浮気なんぞしてはいけない。そのうちにきっとあたしからおとっつあんにはなしをして、おまえのいいようにするから……』といってくだすったんだから、もしも婿をとるんなら、せめてひとことぐらいこうだといってくれたらいいじゃあないか……なんにしてもあんまりひどすぎらあ。むこうがそういうつもりなら……かわいさあまってにくさ百倍、よし、いっそのこと殺してやろう」  徳三郎は、わずかの金をふところにいれると、ふらふらっと表へでると、どこをどう歩いたか、刀屋の店さきへやってまいりました。 「こんばんは、ごめんください」 「はい、どなた?」 「どうぞ刀をひとつおみせなすってください」 「へえへえ、どうかこちらへおかけなさい……ばあさん、茶をいれな……どういうところをごらんにいれましょうかな?」 「どういうところでもかまいません。斬《き》れる刀を……」 「斬れる刀? ……へえへえ、刀はたいてい斬れますが……」 「なるたけよけいに斬れるのを……めちゃくちゃに斬れるのをください」 「斬れることはみな斬れます。おこしらえにおのぞみはございませんか?」 「ええ、こしらえなんぞ、なんでもようございます」 「へえへえ承知いたしました。これなんぞいかがでございましょうか?」 「へええ、これは白いんでございますか?」 「いえ、それは白鞘《しらざや》で、まだこしらえをいたしませんので……」 「ああ、さようでございますか……これ抜けますか?」 「へへへ、刀はみな抜けます」 「光っていますか?」 「へえ、光っておりますよ」 「斬れますか?」 「それならば斬れることはうけあいます。あっ、あぶない、あぶない、あぶないよ、あなた……あたしも長いこと刀屋をしているが、刀をみるのにふりまわす人ははじめてだ」 「これはおいくらなんで?」 「へえ、おねだんのところは二十五両にねがいたいのでございますが、まあ、ご縁つなぎで二十二両までにいたしておきましょう」 「へーえ、二十二両! ……どうぞ、そちらへおおさめなすってください」 「お気にいりませんか?」 「いいえ。気にはいっておりますが……へえ、そんなに斬れなくってもようございます。もっとずっと安いのを……」 「斬れなくてもようございますか?」 「……ええ、まあ、そんなに斬れなくても、ふたあり斬れればよろしいんでございます。二人前斬れるのをいただきたいんで……」 「二人前? ……刺身だね、まるで……じゃあ、お安いのがよろしいんでございますか? ……ふーん……じゃあね、その隅に十本ばかりならべてあるのがいいでしょう。それならば、どれでも一|朱《しゆ》と二百《にひやく》文でございますよ」 「へーえ、これでございますか……おや、これは抜けませんね」 「ああ、ひっぱったって抜けません。それは木刀だから……」 「からかっちゃあいけません。木刀なんぞじゃあしょうがありません。ふたあり斬らなくっちゃあならないんでございますから、どうか二人前斬れるやつをいただきたいんで……」 「あれっ、まだやってるよ。二人前を……ちょっとお待ちなさい。おまえさんねえ、さっきからみていたが、なんだかごようすがおかしい。目の色が変ってますなあ、どうも……まあ、お茶をおあがんなさい……さっきからなんだか斬る斬るっていってるけども、いったいなにをお斬りなさるんで?」 「あの……そのう……じつは、あたくしはいま、あるお店《たな》に奉公しているんでございます」 「なるほど……」 「で、主人のつかいで大金を持って旅へでることがございます。その途中で、もしも山賊にとりまかれたときには、刀を抜いて山賊を斬るんでございます」 「ほう、おまえさんが山賊を斬る……ふーん、そりゃあ、まあいさましいはなしだね。失礼だが、おまえさんがどのくらい腕前がすぐれているか知らないが、芝居などでみると、山賊てえものは、熊の皮の胴着《どうぎ》を着て、長い刀をさして、月代《さかやき》が生えて、髭《ひげ》ぼうぼうで、たいへんに強そうだが、まあ、ふたあり斬るとおっしゃるが、そりゃあふたりだけ、でてくれりゃあいいが、そうこっちの都合のいいようにいかないもんで、五人も十人もでてきたら、そのときはどうなさる? ご主人の金をとられた上に、なまじ刃物を持ってるだけに、刃むかう了見《りようけん》がおこって、かえってその身にあやまちがおこる。つまり、山賊におまえさんの刀をひったくられて、自分の刀で自分が斬られるようなことになる。こんなばかなはなしはありますまい? まあ、そういうときは木刀のほうがいい。ひったくられてひっぱたかれたところで、こぶができりゃあそれでおしまいだ。生兵法《なまびようほう》は大怪我のもとということがある。なまじ刀なんぞ持たないほうがいいんじゃあありませんか? ……おまえさん、山賊を斬るなんていっているが、失礼ながらそうじゃあありますまい? なにかわけがあるんでしょう? さっきおまえさんがはいってきたときのようすをみると、くちびるの色まで変って、からだもぶるぶるふるえておいでなすったが、若いうちはよくあるやつで、満座《まんざ》のなかで恥をかかせられて、『とんでもねえ、あいつはもう生かしてはおけねえから殺してやる』とか、惚《ほ》れた女をとられたから、その女と男を殺して自分も死のうとか、まあ、よくあるやつだ。けれども、その本人は死んでしまえばすむが、あとにのこった親兄弟に嘆《なげ》きをかける。このくらい不孝なことはない。まあ、お客さまにこんな意見がましいことをいって失礼だが、どうもおまえさんが他人とおもえないからこんなことをいったんで……おまえさん、おいくつですい?」 「はい、二十歳《はたち》で……」 「おい、ばあさん、このかたは二十歳になんなさるとよ。うちの野郎もおない年だ。じつはね、わたしにもおまえさんと同年になるせがれがあります。いや、こいつがしようのないやくざ者で、飲酒《のむ》、賭博《うつ》、女郎買《かう》の三|拍子《びようし》そろっているんで、親類とも相談の上、とうとう勘当をしました。まあそんなやくざ野郎だからどうでもいいようなもんだが、やっぱり親子てえものはしようのないもんだ。雨降り風間《かざま》には、『ああ、きょうは野郎どうしているか。ああいうろくでなしだから、わるいことをしてお上《かみ》の手にでもかかってやあしないか。食うや食わずでいはしないか』と、ばあさんとふたりで目をこすったり、鼻をすすったりすることもあります。ましておまえさんのようにおとなしい、人柄のいいむすこさんを持った親御さんのお心をお察しするから、ついこんな意見がましいことをいうんだ。わたしも若いときには、ずいぶん死ぬの、生きるのと大さわぎしたこともあるが、年がたってみれば、ああばかなことをしたと、いまになって、われながらおかしいやら、はずかしいやら、おもわず冷や汗をかくようなことがあります。だから、むやみにおもいつめないで、気をゆったりと持って、まあ、とっくりとおかんがえなさい。ようございますか?」 「へえ、ありがとうございます」 「もしもおまえさんが思案にあまるようなことがあったら、大きにお世話だが、ご相談にも乗ろうじゃあありませんか……おい、ばあさんや、お茶をいれかえて、ああ、なんかつまむものがあるだろ、なんでもいいから持ってきな……さあ、おまえさん、おあがんなさい……ばあさん、このかたは、なにかよっぽどのことがあったとみえて、男泣きに泣いておいでなさる。ねえ、おまえさん、くどいようだが、くれぐれも短気をおこしちゃあいけませんよ」 「へえ、ありがとう存じます。じつは小さい時分に両親に死にわかれまして、義理ある叔父の厄介になっておりますので、ほかに身よりたよりもございません。あなたのようにそうやさしくおっしゃってくださいますと、なんだか他人のような気がいたしません」 「わたしもおまえさんを他人とはおもえない。だから、さっきもいったようにご相談に乗ろうじゃあありませんか」 「へえ、ありがとうございます。ご意見にしたがい、わたくしは刀を買うのはよしましょう」 「およしなさい、およしなさい。わたしも売りたくない」 「へえ、おことばに甘えまして、すこしご相談申したいことがございます」 「はいはい、うかがいましょう」 「あなた、どうもひどいじゃあありませんか」 「え? なにがひどいのか、だしぬけでわたしにはさっぱりわかりません」 「だって、あんまりひどいとおもいます」 「なにがひどいんで?」 「じつは、わたしではないんです」 「へえ、へえ……」 「わたしの友だちなんでございます」 「なるほど、そのお友だちがどうなさいました?」 「あるお店《たな》へ奉公しておりましたが、そこにお嬢さまがいらっしゃいました」 「へえ、へえ……」 「ところが、その友だちが……なったんでございます」 「え? なった?」 「お嬢さまと友だちが……なったんでございます」 「どうなったんで?」 「いえ、できましたんです」 「できた? ……ああ、若いからねえ、できものができましたか?」 「いいえ、できものじゃあないんで……つまり……その……いい仲になったんで……」 「いい仲になった? ああ、それはよくない。どうもご主人の娘をそそのかすというのはよくないな」 「いえ、なにもそそのかしたなんてんじゃあないんで……ひとりでにそうなっちまったんで……」 「なるほどね……まあ、とにかくいい仲になったわけだ」 「それで、そのことが知れたんで、その友だちはお暇《いとま》になりました」 「ああ、そりゃあしかたがないねえ。そのばか野郎がお暇になったのは……」 「なにもばか野郎なんていわなくてもいいじゃあありませんか。べつにこっちだけでやったことじゃあなし……」 「まあ、そうむきになりなさんな……で、どうなりました?」 「ところが、そのお嬢さんのところへ婿がくるんで……」 「えらいね、感心だ……ばあさんや、人間がりこうになったねえ。おまえやおれたちの若い時分には、さきの男にすむのすまないの、死ぬの生きるの、駈けおちをするのといったもんだが、それをいままでは親のゆるさぬ勝手なことをしたとあきらめて、親御《おやご》さんのめがねにかなった婿をとって孝行をしようというのは、じつにりこうな娘さんだ。ああ、感心、感心」 「あなた、むやみにむこうばかりほめて……」 「いや、むやみにほめてるわけじゃあないが……じゃあ、おまえさんのお友だちも、そのお嬢さんが婿をとるてえことをかげながら聞いて喜んでおりましょう?」 「喜んでなんかいるもんですか」 「どうして?」 「だって、ひとことのことわりもなしに、そういうはなしをきめてしまうなんて、ひどいじゃあありませんか……だしぬけに婿をとるなんてあんまりです……ですから、婚礼の席へあばれこんで、娘も婿も殺して、自分も死のうとこういうんで……」 「その友だちがですかい? そりゃあ、とんでもねえ気ちげえだ」 「べつに気ちがいじゃあありません」 「それじゃあ、その男は娘さんにいくら払いました? いくら金をだしました?」 「いいえ、金なんぞつかいません」 「へーえ、ただですかい。ただほど安いものはない。まあ、おいらんを買いにいったって、入り山形に二つ星なんてりっぱなおいらんとなると、芸者、たいこもちまでに金をつかって、その上に高い食いものまでとって、いよいよというときになってふられることだってあらあ。それからおもえば、たとえ一度でも二度でもご主人の娘が、いいとかわるいとかいってくれたんだ。ありがてえとおもわなくっちゃあ……なにもことわりがないからといって、そんなに腹を立つことはありますまい。それどころか、祝いもののひとつでもしてやるのがあたりまえじゃあありませんか。ねえ、そうでしょう?」 「祝いものなんて、そんな……そんなばかな……」 「そういうと失礼だが、おまえさんのお友だちがそれほどくやしいとおもうなら、なぜ男らしい仕返しをしてやんなさらない?」 「へえ、男らしい仕返しというと?」 「その仕返しというのは、いまにみろってんで、死んだ気になってはたらくんだね。そして、むこうよりもりっぱな身代《しんだい》になり、お嬢さまよりもきりょうのいい女房をもらって、みせびらかしてやるんだ。『どうだ、おれはこれくらいはたらき者だ。なぜおれを亭主にしなかった?』と胸を張って、むこうのうちの前を通ってやる。まあ、世の中にこんなに男らしい仕返しはないじゃあないか……しかし、そういう気のきいたことができなけりゃあ、どかんぼこんでいくよりしようがねえ」 「どかんぼこんというのは?」 「その男は泳ぎを知ってなさるかね?」 「いいえ、知りません」 「そりゃあ好都合だ。両国橋なり大橋なり、好きなところからとびこんで、浮きあがったときには土左衛門と名前が変わるんだが、ちょっとおもしろかろう?」 「おもしろかあありません……じゃあ、死んじまうんですか?」 「ああ……そこで芝居仕立てにすれば、お嬢さんが日傘《ひがさ》かなんかさして、女中を供にここへ通りかかるてえやつだ。人だかりがしてるんで、なんだろうとのぞいてみると例の死骸《しがい》……『ああ、わたしゆえにこういうすがたになったか情けない、申しわけない、おまえひとりは死なせはせぬ』ってんで、娘がその男に惚れていれば、つづいてどかんぼこんととびこむ。そうすれば、死骸がふたつになって心中と浮き名が立つ。このほうがずっといきじゃあねえか。相手を殺して、てめえも死んじまうなんてまぬけなことをするよりもどのくれえ気がきいてるか知れやあしねえ」 「じゃあ、もしもこっちが死ねば、むこうもたしかに死にますか?」 「まあ惚れてれば死ぬだろうが、惚れてなければ、『あの人は死んだかえ、いいあんばいに厄介ばらいができた』ってんでむこうが喜ぶことになるかも知れねえ。まあまあ、その娘さんばかりが女じゃああるまいし、世の中てえものは、そうつきつめてかんがえたってどうにもなるもんじゃあねえ。世の中はなんでもいきに暮らさなくっちゃあ、世の中すいすい、お茶漬けさらさら……ああ、お茶漬けでおもいだした。腹がへっちまった。ばあさんや、おまんまのしたくをしておくれ。おまえさんもどうです、いっしょにおまんまでもおあがりなすったら?」 「へい、こんばんは」 「おやおや、熊さんじゃあないか。留さんも金さんも八つあんもごいっしょで……さあ、おはいんなさい」 「へえ、ありがとうござんす。まことにすいませんが、雨がぱらついてきましたんで、どんなんでもよろしいんですが、傘を一本拝借させていただきてえんで……あっしだけは雨具の用意をしてこなかったもんですから……」 「ああ、お持ちなさい。その隅に立てかけてあるから……で、どちらへおでかけで?」 「ええ、迷《ま》い子さがしなんで……」 「おい、ばあさんや、迷い子さがしだとよ」 「まあ、おじいさん、いやですねえ。わたしゃ迷い子とまちがわれてつれていかれるといけないから、表へでるのはよすよ」 「ふざけちゃあいけねえ。おめえをつれてくような、そんな茶人がいるもんか……で、熊さん、迷い子はよほどお小さいのかね?」 「いいえ、それが、ことし十八になるんで……」 「十八? なんだ、迷い子じゃあない、迷い親だねそいつあ……十八になって迷い子はばかばかしいね」 「ちょっと聞くとばかばかしいようですが……」 「どう聞いたってばかばかしいや……どうしたんだね?」 「ええ、あっしどもの地主のお嬢さんなんですが、店《たな》にいた徳三郎という若いのといい仲になったんです、ところが、それがわかったもんだから、徳三郎にはお暇がでちまった。ところが、今夜、お嬢さんがいやがるものをむりやりに婿をとることになったんですが、いま婿がこようってときになって、徳三郎にすまないってんで、お嬢さんがどっかへとびだしちまって、いやもう店《たな》はひっくりかえるようなさわぎなんで……あっしどもも地面うちにいますからねえ、すててもおかれないんで、これから迷い子さがしというわけなんで……あっ、痛《いて》え! なにをするんだ、なんだい、あの野郎、いきなり人の横っ腹を肘《ひじ》でついてでていきゃあがった。ありゃあ徳だ。いま、むこうをむいてる横顔がちょっと似てるとおもっていたが、いまのはなしを聞いてとびだしたところをみると徳三郎だな。おやじさん、あの男にすまないってんで、お嬢さんは逃げだしたんでさあ」 「ああ、そうだったのかい。いや、どうもね、うちへきたときからようすがちょいとおかしいとはおもっていたが……刀を売らないでまあよかった。それにしてもどこへとびだしていったんだろう?」 「なんでも隅田川《おおかわ》のほうへいったようですぜ」 「えっ、そりゃあいけねえ。なあ、ばあさん、前の意見だけでよせばよかったのに、どかんぼこんまでいっちまったからなあ」 「なんです、おやじさん、そのどかんぼこんてえなあ?」 「いや、まあ、ちょいと口をすべらしたことなんだが……もしもほんとうにやられたらたいへんだから、ごいっしょにいきましょう」 「そいつあありがてえ。ひとりでも多いほうが心強えや。なあ、そうだろう? 留さん」 「ああ、おやじさん、ごくろうでもおねげえしまさあ」 「じゃあ、どうかまあつれてってください」  みんなでわあわあいいながらでかけました。 「迷い子やーい」 「迷い子やーい」 「迷い子の迷い子の三太郎やーい」 「おいおい、女で三太郎というのはおかしいじゃあねえか」 「だって、いつもお嬢さん、お嬢さんとばかりいってて名前なんぞわかりゃあしねえ」 「そういやあそうだが……えーと……たしか、おせつさんといやあしなかったかい?」 「ああそうだ。じゃあ名前のほうがわかりやすいや……迷い子の迷い子のおせつやーい」 「迷い子の迷い子のどかんぼこんやーい」 「だれだい、どかんぼこんてえのは?」  徳三郎は刀屋の店を夢中でとびだして、おせつをさがしに両国橋の上までやってまいりますと、橋のまん中でドスンとぶつかった人があります。 「こりゃあどうも失礼いたしました。急いでおりましたもんでございますから……」 「わたくしもあわてまして、どうぞごかんべんねがいます」 「おや、そういうお声はお嬢さまじゃあございませんか?」 「まあ、徳かい? あたしゃ、おまえに逢いたかったよ」  といううちにも、うしろから「迷い子やーい」という声がしてきますから、その声に追われ追われて、深川の木場《きば》の橋までくると、「迷子やーい」の声が横にそれたようす。 「徳や、道道《みちみち》もいう通り、あたしはおとっつあんのおことばにそむいて、こうやって逃げだしてきたからには、とても生きてはいられないよ」 「それじゃあお嬢さま、いっそのこと、ふたありで川へとびこみましょう」 「おまえといっしょに死ねるならうれしいよ」 「それじゃあお嬢さま、すぐにとびこみましょう」 「ああうれしい。未来とやらはかならず夫婦だよ」  と、たがいに手をとりあって、 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  と、お題目《だいもく》もろともに橋の上からとびこむと、木場のあたりだから下が一面のいかだでございます。 「おや、なぜ死ねないんだろう?」 「ああ、いまのお材木(お題目)で助かった」 しの字ぎらい 「権助や」 「へえー、なんかご用でごぜえますか?」 「いや、べつに用というわけじゃあないが、いまは正月だ。正月になにか縁起のわるいことがあると、一年中いやなことばかりあっていけない。そこで、わたしがあらためておまえにいいわたすが、どうもしという字のつくことにろくなことがない。ついては、正月一ぱいだけしの字を封じるから、はなしをするときに、しという字を決していわないようにしておくれよ」 「へえー、しの字はそんなに縁起がわりいかね?」 「ああ、わるいな。第一に死ぬという。人間、死ぬよりわるいことはない。それから、始終しあわせがわるい。身上《しんしよう》をしまう。身代《しんだい》かぎりをする。しくじる。しばられる。しのつくことばにろくなものはない」 「あははは、そういえばそうだが、ものはかんげえようで、わるくかんげえればきりがねえが、よくせえかんげえればみんなよくなるもんでね。おらが故郷《くに》にいたとき、もの知りの隠居さんに聞いたことがあるだが、文字なんてえものは理詰めのものだ。善も悪もおのれの心でどうにでもとれるということだ。おなじしの字だが、つかいようによれば、死なぬ、しくじらぬ、始終しあわせがいい、身上をしまわぬ、身代かぎりをしねえなんていえば、かえってよくなるでねえか。しかし、おめえさまが気になるというなら、なにごともご主人さまのためだ。なるたけまあしの字をいいますめえ」 「なるたけでなく、きっといってはならない。もしもしの字をひとついえば一月分、ふたついえば二月分の給金をさしひくから、そのつもりで気をつけて口をききなさい」 「はあ、すると、十二いやあ一年間無給金かね?」 「そうだ」 「どうもよくねえしゃれだね」 「しゃれではない。ほんとうだ」 「なおわりいだ」 「わるくともなんでも、わたしのうちの家風だ」 「へえー、そんな家風のあることは、いまはじめて聞くだ。なぜそんなら奉公にきたときにいいわたしてくれねえだね?」 「いまそういう家風をもうけたのだ。それがいやならば、家風にあわない者はでていってもらおう」 「そういわれては一も二もねえ。ようがす。おれもこういう強情な人間だから、いわねえといったら決していう気づけえはねえ。けれども、おめえさま、ひとばかり封じて自分がいっちゃあだめだよ」 「わたしはいう気づかいはない」 「けれども、もしもおめえさまがいったらどうするだね?」 「よし、もしもわたしがしの字をいったら、なんでもおまえののぞみのものをやる」 「そうかね。そうときまれば安心だ。おらあいわねえ。そのかわり、すこしことばがぞんぜえになるか知らねえが、そりゃあしかたがねえ」 「その知らねえがしかたがねえと、そうのべつにしの字をいっちゃあいけない」 「だって、まだきめねえうちはよかんべえ」 「じゃあいいかい、手をふたつ打つのを合図《あいず》にしっかりときめるよ」 「それ、そのしっかりはだめだ」 「まだきまらねえうちはいいんだよ……じゃあ、手を打つよ。それ、(ポンポンと打って)ああ、きまった」 「じゃあ、旦那さま、おめえさまもいわねえように……」 「わたしはいわないが、おまえこそいうなよ。用があったら呼ぶからあっちへいっといで……ふふふ、こいつあおもしろい。しかし、よほど気をつけないと、こっちがさきにいうかも知れない。なかなかあいつも油断しないからな。なにかいわしてやりたいものだ。ああ、いま水を汲んでるようだ。『権助、水を汲んでしまったか?』というと、しの字がつくな。『権助、水を汲んだか?』といえば、『汲んでしまいました』と、こういうにちがいない。これはだしぬけにやるにかぎる……おい、権助や、水を汲んだか?」 「へえー、水は汲んで……あああぶねえ。汲んでおわった」 「あれっ、汲んでおわったといやあがる。なかなか用心をしているな。そばへ呼びつけなけりゃあいかない。はてな、なにかないかな? ……ああ、いいことがある。本家の嫁のうわさをよくしている。あの嫁は、どこもかしこもいいが、尻が大きいと近所の評判だといってるから、これをいわしてやろう。おい、権助や」 「へえー」 「ちょっとここへきな」 「へえ」 「いま、だれもいないのをさいわい、おまえに聞くがな。こんどきた本家の嫁のうわさを近所でするものがいるだろう?」 「へえ」 「だれがどんなことをいってるかい?」 「まあ、近所の若えもんが……」 「うん、なんというな?」 「本家の嫁御は、きりょうもええし、ものもできて、どこもかしこもええが……なにそれ、けつがでけえ」 「これ、けつとはなんだ」 「けつでわるければおいど、おいどでわるければおかまさ」 「もうわかった。あっちへいけ……いまいましいやつだな。なにかいわしてやりたいもんだ。なにかいいかんがえは? ……ああ、ここに銭が五貫ある。このうちからはんぱをとって、四貫四百四十四文という勘定をさしてやろう。そうすればさし(銭をつなぐ細い縄)をつかうし、おまけに長く坐《すわ》らせておけば、行儀《ぎようぎ》がわるいから、じきにしびれをきらせる。そうすると、きっとあしにしびれがきれたというだろう。ひとつぐらいいわせてやりたいもんだ。……権助や、ちょっときておくれ」 「よく呼ぶだな……へえー」 「立ってないでそこへ坐れ」 「へえ、なんでごぜえます?」 「なんという坐りようだ。行儀のわるいやつだ。ちゃんと坐りなさい」 「旦那さまの前だが、どうもおれ、かたくすわると、あんよがいたくてなんねえ」 「なんだ? あんよだ? なにをいってやがる。十三文甲高のくせに……ちょっとこの銭勘定をやっとくれ」 「はあ、銭勘定をやらかすかね?」 「ああ、ばらではいけないから、ひとつにまとめてな」 「まとめるにはなにかなくっちゃあいかねえ。その、さ……あああぶねえ。銭をまとめる縄がなくっちゃいけねえ」 「その縄をなんという?」 「おめえさま教えてくんなせえ」 「いや、教えるわけにはいかない」 「そんならおらもいいますめえ……ああ、こりゃあたまらねえ」 「どうした?」 「うーん、長く坐ってたら……きれた」 「なにがきれた?」 「うーん……よびれがきれた」 「よびれとはなんだ」 「じゃあ、一びれの三びれだ」 「強情なやつだ。早く勘定をやれ」 「えー、一貫、二貫、三貫……百、二百、三百……十、二十、三十……はてな、おめえさま、ちょっくらそろばんをおいてくだせえ」 「そろばんか、よし」 「ええかね? ……では、二貫と」 「うん、二貫」 「また二貫」 「二貫」 「二百」 「うん、二百」 「また二百」 「よし、二百」 「二十」 「二十」 「また二十」 「うん、二十」 「二文」 「二文」 「また二文」 「また二文」 「旦那さま、それでいくらだね?」 「なんだ、権助、おまえがいうんだ」 「じゃあ、よん貫、よん百、よん十、よん文」 「そんな勘定がどこにある?」 「それでわるければ、三貫一貫、三百、百、三十、十文、三文、一文」 「こいつ、しぶといやつだ」 「そらいった。この銭はおらのものだ」 五人まわし  女郎買いふられて帰る果報者  という川柳もありますように、あの廓《さと》へ足をいれてもてると身のためにならないと申します。むかしから、女郎買いをせっせとして、ごほうびをいただいたなんていう人はひとりもありません。足しげく通っているうちには、持っている金はなくなる、親からゆずりうけた財産がなくなる、家、土蔵《くら》がなくなる、他人の信用がなくなる、ただいまはそういうことはありませんが、むかしは瘡《かさ》をうけて鼻の障子がなくなるという。なくなるものばかりで、ふえるものは借金。なるほど、ふられて帰る者のほうが、果報かも知れません。しかし、どなたでも、あの廓へ足をいれたが最後、身のためになるから、どうにかしてふられてみたいなんていうかたはあまりないようで、たいがいはもてるりょうけんでおでかけになる。むかしから、もてんとすべからず、ふられずとすべしなぞといわれております。なるほど、もてようとしてでかけるより、ふられまいとしてでかけるにかぎるんだそうで……もてりゃああのくらいやすいものはありません。そのかわりふられると、あのくらいつまらないものはありません。  ところで、京都、大阪あたりの関西の遊廓では、その晩、登楼すれば、その女郎は、朝までほかの客はとらなかったのですが、東京では、まわしといって、ひとりの女が、いく人もの客の相手をしましたので、なじみの客が一晩にかちあうと、女がなかなかまわってきませんから、客のほうでは、売れのこった木魚みたように、ふとんの上にちょこなんと坐って、女のくるのを、いまか、いまかと待っているということになったもんで…… 「あーあ弱ったなあ、今夜は、もののみごとにしょい投げを食った。全体ゆうべの夢見がよくなかったよ。債券にあたってありがてえとおもっていたら、うちのなかへ水雷艇《すいらいてい》がはいってきやあがったからねえ。どうかんがえてみても、水雷艇なんてえものは、陸《おか》にあがるもんじゃあねえからなあ。なんかわりいことがなけりゃあいいとおもっていたら、今夜はこのしまつだ。ちぇっ、いやになるなあ。今夜ここの楼《うち》でいくらか銭をつかうくらいなら、質屋から帯でもだしときゃあよかった。女郎買いにきてこんな里心《さとごころ》がでちゃあおしまいだねえ。おれの部屋はさびしいが、となりの部屋はまたやけにもててるなあ……ええ、おしずかにねがいますよ。となりには独身者が住居しておりますよ。しずかにしろ、こんちくしょうめ、さっきからだまって聞いてりゃあべちゃくちゃしゃべってばかりいやあがって、しずかにしろい!いま、腹を立ってるところだぞ。こっちはなにをするかわからねえや。ひさしく人間の刺身を食わねえぞ。いやだいやだ、たばこの火は消える、命に別条ないばかりてえんだ。かなわねえな、こうなると……こりゃあまた、障子だの、壁だのに、おそろしく落書をしたねえ。ふられたやつのしわざだよ。落書にいい手はねえてえが、まったくだ。えー、なんだと……『この楼《うち》は、牛と狐の泣き別れ、もうコンコン』だと、ちくしょうめ! ……こっちのはなんだって……東京駅から神戸までの急行列車のあがり高がみんなもらいてえだってやがら……いきなことを書くやつがあるもんだねえ。こういう人とつきあってみたいねえ。おたがいに長生きするよ。やあ、またそばへ書きたしたやつがあるな。ぼくも同感、ふざけちゃあいけねえや。のんきなやつもいたもんだ……どうにかして女のくるような思案をめぐらさなくっちゃあ……『火事だ、火事だ!』とさわぎだすか? しかし、女のきたところであとのおさまりがつかねえからねえ。『ちょいと、火事はどうしたの?』『じつはねぼけたんだ』なんてえのはいけねえな。廊下へでて、すっぱだかでころがっていようか? 人が多勢あつまってくるだろうな。『なにをしてるんです?』と聞かれたら、『どじょうの丸煮のかたちだ。駒形のどじょう屋で研究をした』なんてえのは、あんまり女っ惚《ぽ》れのする芸当じゃあないねえ。いまから帰るったって時間ははんちく(はんぱ)だし、そればかりじゃあねえ。宵勘《よいかん》てえんで、もう勘定は宵にとられちまったんだからなあ。まったく女郎買えのつけなんてえものはあとでみるもんじゃあねえや。金五十銭也、娼妓揚げ代。ちぇっ、ふざけちゃあいけねえ。なにが揚げ代金だ。あげるにもさげるにも、てんで手がかりがねえんじゃあねえか。それに、こうなってみると、この二度めのすしの代金だけはよけいだったねえ。こんなことになると知ってりゃあ、とりゃあしねえや。あんちくしょうめ、『ねえ、ちょいと、さびしいじゃあないか。代《かわ》り台《だい》(遊廓でとる料理を台のものといい、そのおかわりの意)でもおいれな』てえから、おれもいい間のふりをして(ちょい気どって)、『ああ、弥助(すし)でもいれな』なんて高慢なつらをしたんだが、とうとう七十五銭|玉《たま》なしだ。吉原《なか》で七十五銭の弥助とくると、いくつもねえんだからねえ。すしよりも笹っ葉のほうが多いんだからな。のりまきばかりうんとあって、たったひとつしかねえまぐろを女が食っちまやあがった。おらあ、のりまきを二本しきゃあ食わねえよ。どういうわけだろうね? おらあこの女郎買えにくると、のりまきよりほかに食えねえてえのは? ……一度はさかなを食ってみてえとおもうんだが、習慣たあおそろしいもんだ。ついのりまきのほうへ手がいっちまうんだから……おやおや、まだ嘆《なげ》いちゃあいけねえよ。運勢地に落ちないところがあるねえ。おもて階段《ばしご》を、トーン、トーン、トンときたよ。しめしめ、これだよ、情夫《まぶ》はひけすぎ(遊女が店にならぶ、いわゆる張り店からひきあげる。午前二時すぎ)てえのは……いちばんしめえにおれんところへおみこしをすえるてえやつだ。『ちょいとすまなかったね。おそくなっちまって……なにね、酔っぱらいのお客があったもんだからさ。ようやくいま寝かしつけてきたところだよ。今夜はよくきてくれたねえ』てなことを……おや、足音はどこへいっちまったんだい? そのまま立ち消えは心細いぜ。おやおや、こんどはまた階段《はしご》を足早にトントン、トントン、トントン……なんだ、むこうの部屋だ。廊下バタバタ、胸ドキドキ、いやんなっちまうなあ……三度めの正直というぜ。こんどは、上ぞうりをひきずりながらバタバタやってきたな。待てよ。こいつは、起きているてえやつも、いいようでわるいねえ。かんがえもんだよ。『あら、ちょいと、起きてたの?』『うん、待っていた』なんてえのは甚助《じんすけ》(やきもち)すぎるからなあ。といって、寝たふりをしていて、『あらちょいと、よく寝ているねえ。起こすのもかあいそうだから、ほかへまわしにいこう』なんていかれちゃった日にゃあ、とんだ川流れだからなあ。そればっかりじゃあねえ。友だちがそういったよ。『おめえは、人に寝顔をみせるな。おめえの寝顔をみると、たいていの者はおどろいて腰をぬかす』だって……ひどい寝顔なんだねえ。『じゃあ、起きてる顔はどうだい?』『起きてる顔は、なおよくねえ』『それじゃあ、おれは、どういう顔がいいんだい?』って聞いたら、『おめえは、死に顔がいちばんいい』だってやがら……ふざけちゃあいけねえ。死に顔なんぞよくったって、なんのたしにもなりゃあしねえや……むずかしいよ、こりゃあ、起きていていけず、寝ていていけねえんだからなあ。しかたがねえから、目をあいていびきをかいてやろう。だれがみたって、寝ているんだか、起きているんだか、さっぱりわからねえ。グー……グー……」 「へえ、こんばんは……」 「グー……おや、なんだい、若い衆かい。若い衆ならこんなことをするんじゃなかった。ええ、なんだ?」 「へい、お目ざめでござんすか?」 「なにを!」 「お目ざめでござんすか?」 「よくみろい。寝ている者が口をきくかい?」 「ええ、あなたさまは、目をあいていびきをかいていらっしゃいましたが……」 「なんだ?」 「へい、失礼ですが、おひとりさまで?」 「よくみろい。そばにだれも坐っていねえんだ。おひとりさまにきまってらい。それとも、てめえのうちには、お半分さまだの、四半分さまだのてえ人間がいるのかい? いるんならお目にかかろうじゃあねえか」 「どうもおさみしゅうございましたろうな?」 「おくやみにはおよばねえや。女郎屋のまわし部屋に、夜なかにひとりでぽつんと坐っているんだ。たいていおにぎやかじゃあねえや」 「まことにお気の毒さまで……あの妓《こ》さんなら、もうほどなくおまわりになります」 「ばかっ、なにいってやんでえ。おらあな、大掃除して、検査のくるのを待ってるんじゃあねえぞ。ほどなくおまわりになりますてえやがる。ばかにしやがんない。おまわりもちんちんもあるもんか。犬とまちげえんな」 「おそれいりました」 「こう聞きな。こちとらは、なにも女郎|買《け》えにきて、そばに女がいねえからぐずぐずいうような、そんな野暮《やぼ》なおあにいさんじゃあねえんだ。女郎買えにきて、もてるのはいけねえんだ。なるたけあっさりしているのがいいんだがな、あっさりしすぎらあ。こう、てめえにいってもわからねえがな。このあいだの晩だ。おらあ、ここの楼《うち》へ初会《しよけえ》であがってやると、ぜひとも近えうちにきてくれと、たのまれたから今夜あがってやったんだ。ふるのもいいから、きれいにふれい。宵に一ぺんでもきてよ、『今夜いそがしくってまわりきれないから、このつぎにきたときにゆっくり埋めあわせをするから、今夜はがまんをしておくれ』とか、なにか気やすめの文句のひとこともいってくれりゃあ清く帰ってやらあ。三日月女郎を買って、宵にちらりとみたばかりてえのは聞いているが、皆既月蝕《かいきげつしよく》でどうなるんだい?」 「まことに相すみませんで……もうじきにおみえになります。しばらくご辛抱を……」 「なにいってやんでえ。女にそういってくれ。なまいきなまねをするもんじゃあねえってな。あの女のつらなんざあ客をふるつらじゃあねえや。廊下へでて、けつでもふれい。どうみたって売れる女じゃあねえ。大一座の初会でもなきゃあ売れ口のねえ女じゃあねえか。さあ、てめえじゃあはなしがわからねえ。もうすこし人間らしい若え衆をよこしてくれ」 「へえ?」 「まだ死亡届けをしてねえ、区役所へいけば戸籍のある人間をひっぱってこいてえんだい。わからねえかい? もっと人間らしいやつをよこしてくれ」 「へえ、わたしは人間らしくみえませんか?」 「あたりめえよ。てめえなんぞはできのいい猿じゃあねえか」 「こりゃあどうもおそれいりましたなあ。できのいい猿とはひどいなあ……ええ、おっしゃるところはごもっともでございますがな、吉原には吉原の法というものがございますが、ひけ過ぎになりますと、不寝番《ねずばん》のわれわれが、お客さまの仰《おお》せをなんなりとうけたまわりますのが、これがむかしからの廓《くるわ》の法、すなわち廓法《かくほう》でございましてな」 「なに! やい、ばか野郎、モモンガー、チンケイトー、脚気衝心《かつけしようしん》、発疹《はつしん》チフス、インフルエンザ、ペスト、コレラ、肺結核、糸っくず、バケツ、丸太んぼう、鱈《たら》のあたま、スカラベッチョ」 「スカラベッチョてえのはどういうことで?」 「なにをいやあがるんだい。かんべんならねえことをぬかしゃあがったな、うぬは……すなわち廓法だと……ふざけたことをいうない。てめえのつらなんざあ、すなわちてえつらじゃあねえや。すり鉢《ばち》づらが聞いてあきれらあ。すりこぎ野郎め。てめえたちに吉原の法なんぞを聞かされてひっこむような兄《にい》さんとは、おあにいさんのできがちょっとちがうんだ。オギャーと生まれりゃあ、三つのときから大門《おおもん》をまたいでいるんだ。そもそも吉原というもんのはじまりはな、元和《げんな》三年の三月に、庄司甚右衛門というお節介《せつけえ》野郎があって、淫売というものを廃するために、公儀へねがってでて、はじめて江戸に遊廓というものができたんだ。むかしからここにあったんじゃあねえぞ。むかしは、葺屋町《ふきやちよう》の二丁四面というものをお上《かみ》から拝領をして、葺屋町に廓《くるわ》があったればこそ、大門通りという古蹟がいまだにのこっているんだ。それを替地《かえち》を命ぜられたのがここだ。もとは一面の葭《よし》、茅《かや》しげった原だというので吉原といったのを、縁起商売だからてえんで吉原《きちげん》と書いて吉原《よしわら》と読ましたんだ。近くは明治五年十月|何日《いつか》には解放……切り放しというものがあって、それからのちは、女郎屋が貸し座敷と名がかわって、女郎が、でかせぎ娼妓《しようぎ》となったんだ。吉原中で大見世が何軒で、中見世が何軒、小見世が何軒あって、まとめれば何百何十何軒あるんだか、女郎の数が何千何百何十何人いるか、どこの楼《うち》にゃあどういう女がいて、年齢《とし》がいくつで、情夫《いろ》がいるとか、仲の町芸者が何人、横町芸者がどのくらい、たいこもちがいくたりいて、おでん屋が三十六軒あって、どこのつゆが甘《あめ》えとか辛《かれ》えとか、こんにゃくの切りかたが大きいか、小せえか、共同便所へいくたりへえって、小便をしたやつがあるか、くそをたれたやつが何人だか、ちゃんと心得てるおあにいさんだ。ふざけやがって……ぐずぐずいわねえで、やい、玉代《ぎよくだい》(遊女揚げ代金)けえせ! まごまごしやあがると、あたまから塩をつけてかじっちまうぞ、この野郎!」 「ごめんなさいまし。ただいまじきにおいらんがうかがいますから……勘定はすくねえが、いうこたあ多いや……ああおどろいた。たいへんな野郎があるんだねえ。あれじゃあとても女にゃあもてないよ。あたまから塩をつけてかじるってやがら……生梅《なまうめ》とまちげえていやあがるのはひどいねえ。あのおいらんときた日にゃあ、どこへいっちまったんだろうなあ……ええ喜瀬川さんえ、ええ喜瀬川さんえ……」 「おい、くわーっ、小使い、給仕」 「ひらけねえやつもあるもんだ。女郎屋の二階へきて、小使いだの、給仕だのってやつがあるもんか。こらってえのはいくらも出っ会《くわ》したが、くわーってえのはおだやかじゃあねえね……へいへい、ただいまうかがいます。へい、こんばんは、およびになりましたのはこちらさまで?」 「や、ずいとすすみなさい」 「へい」 「つらをあげろ」 「こんばんは」 「年齢《とし》は?」 「えへへ、もういけませんで……」 「だまれっ、人間、もういけませんという年齢があるか。何歳に相《あい》なる?」 「へえ、四十六歳になります」 「なに、四十六歳? かくすとためにならんぞ」 「かくしゃあしません」 「今日《こんにち》、男子たるべきものが、四十六歳にもなって、分別もつかず、客と娼妓《しようぎ》と同衾《どうきん》するのを媒介しておれば、貴様なにがおもしろいか? 貴様の両親じゃとてそうであろう。相当の教育もしたであろうが、貴様の怠惰薄弱心《たいだはくじやくしん》からして、今日では、かかる巷《ちまた》に賤業夫となって、耳に淫声を聞き、眼に醜態をみる。今日を、無念無想、空空寂寂《くうくうじやくじやく》と暮らしておる。ああ、いまさらになって、両親をうらむなよ」 「いえ、うらんだりいたしません……意見をされるのはおそれいったねえ……で、ご用をうけたまわりたいもんで……」 「もそっと前へすすみなさい。貴様も三度のめしを食いおって、打たれたらいたいという感覚のある人間なら、ものをみたら黒白が判然するじゃろう。貴様の目で、いかにわが輩の部屋が一目瞭然《いちもくりようぜん》たるぐらいのことはわかっておろう。みらるるごとく、四隣沈沈、閨中寂莫《けいちゆうせきばく》、人跡途絶《じんせきとだ》えて、闃《げき》として(しんとして)声なきはちと心ぼそい。わが輩の部屋にひきかえて、むこう座敷をみなさい。かの娼妓なるものの待遇によってからに、喜悦の眉《まゆ》をひらいて、胸襟《きようきん》をうちひらき、喋喋喃喃《ちようちようなんなん》(男女が仲良く語りあうさま)としておるは、げにや艶羨《えんせん》(ひどくうらやむこと)の極《きわ》みではないかい?」 「どうもおそれいりました」 「ここに二個の枕がならべてある。一個は、むろんわが輩が使用するにきまっちょるが、のこる一個は何人《なんぴと》が使用するのか? いかにわが輩|寝相《ねぞう》がわるいというても、まさか掛けがえの枕じゃあなかろう?」 「なに、そのひとつは、あの妓《こ》さんのです」 「さあ、あのお妓さんにも、このお妓さんにも、まだ娼妓ちゅうものは一回もまいらんじゃないか。よく常識をもって判断をしてみなさい。今日、男子たるべきものが登楼をする目的とするところは那辺《なへん》にあるか貴様、女郎買いの本分たるや、なにによるか?」 「へい」 「ここに受取書というものに、酒食の代とあるはいいが、冒頭《ぼうとう》にある金五十銭也、娼妓揚げ代ちゅう点にいたっては、ほとほと解釈に苦しむ。いわゆる有名無実のものといってよかろう。それとも当家の娼妓にかぎっては、お酒の相手は十分にいたしますが、閨房《けいぼう》中の相手をせぬちゅうことが民法にでてでもおるのか? ただちに玉代をかえせ、玉代を! まごまごするとダイナマイトを使用するぞ!」 「ごめんくださいまし……ああおどろいた。たいそうなやつがいるもんだねえ。ダイナマイトを使用するだってやがら……とてもあれじゃあ女にはもてねえよ……ええ喜瀬川さんえ、ちょいとお顔を……」 「廊下をかれこれとご通行になる君、ここへもお立ちよりをねがいとうおすな。オホホホホ、オホン……」 「おやおや、黄色い声をだしゃあがって、おもいやられるねえ。へいへい、ただいま、こんばんは。こちらでござんすか?」 「さあ、ずいとはいりたまえ。はいりたまえ。清めたまえ……あとをしめたまえ。あとしめ愛嬌守り神なぞはいかがでげす?」 「いや、おそれいります」 「当家ご繁昌、君あればこそでげす。まさに当家の親柱、大黒柱、うけたまわれば、かの隣室の野暮てんどもがとやかくいうのを、君が風に柳とうけながしているぐあいは感心でげすな。さすがにや千軍万馬往来の猛者《もさ》だけのことがあるねえ。角がとれてまるいねえ尊公は……角がとれてまるいから、ちょうど到来物《とうらいもの》の角砂糖にひとしいねえ」 「あっ、さようで……」 「もそっと前へすすみたまえ。みうけたてまつるところ、尊公もオギャーと生まれて、すぐお女郎屋の若い衆さんでもありゃすまい? もとはずいぶんお道楽もあったにしたところが、このお女郎買いなるものがでげすな、ご酒《しゆ》をいただいている場合はともあれ、いざお引け、いわゆる閨中《けいちゆう》の場合となってから、そばに姫が侍《はべ》っているほうが愉快とおぼしめすか? はたまたご覧ぜられるがごとく何人《なんぴと》もおらんほうが愉快とおぼしめすか? 尊公のお胸に聞いてみたいねえ。おほほほ」 「どうもおそれいりました。なんとも申しわけがございません。あのお妓さんなら、もうほどなくおみえになります。しばらくご辛抱……」 「いえ、なにも姫のご来臨のないのをとやかくいうのじゃごわせんよ。傾城傾国《けいせいけいこく》に罪なし、通う賓客《まろうど》に罪ありとは、吉田の兼好《けんこう》もおつうひねりましたなあ。しかし、いまさら姫がご来臨になったところが、もはや鶏鳴暁《けいめいあかつき》を告ぐるころおい、いかんともせん術《すべ》がごわせん。玉代をかえしておくれでないかねえ。ついては、ちと尊公の背なかを拝借したい。そちらへおむけください」 「へい、どういうことになりましょう?」 「火ばしがまっ赤に焼けておりますから、これを尊公の背なかへジューッとあてがって、東京市の紋を書いてみたいよ」 「ごじょうだんおっしゃっちゃいけません。ただいまじきにうかがいますから……ひどいやつがあるもんだねえ……ええ、喜瀬川さんえ、喜瀬川さんえ……」 「おお、ちょいときてくんな、切りだし君、切りだし君、ちょいときてくれ」 「あれあれ、なんだい、切りだし君てえのは? ……ええ、切りだし君とおっしゃるのは、わたしのことでございますか?」 「てめえだ、てめえだ。てめえなんざあ、まだ妓夫《ぎゆう》(牛)の資格はねえや。妓夫(牛)のくずだから切りだし(こまぎれ)でたくさんだ」 「ひどいことを……妓夫のくずで切りだしとは……どうも、おそれいりまして……おや、どうなさいました? 夜具ふとんをすっかりたたんじまって、たたみをあげてしまいましたな。どうなさいました?」 「おう、ちょいとこっちへへえってくんな。なくなりものがあるんだ。どうみつけてもでてこねえんだ。ちょいとへえってさがしてみてくれ」 「へいへい。では、たたみのあいだへお銀貨でもおとしなさいましたか?」 「そうじゃあねえやい。おれが買った女がいなくなっちまったんだ。たたみをあげてもでてこねえんだ。おめえ、へえってきて、よくさがしてくんな。それでもでてこなけりゃあ玉代をけえしたほうが身のためだぜ」 「こりゃあわるいしゃれだなあ。もうじきにおいらんがまいりますから、しばらくご辛抱を……ああ、おどろいた。ちょいと類のねえまねをしやがるなあ。もっとも最初の切りだし君からおかしいとおもったよ。たたみをみんなあげちまやあがって、その上にあぐらをかいていばっていやがらあ。じょうだんじゃあねえ。おいらんはどこへとじこもっちまったんだろうな? ……喜瀬川さんえ、ちょいとお顔を……」 「あいー」 「どこでござんす?」 「ここだよ」 「あー、おいらん、あなた、すこしまわってやってくださいよ。お客がうるさくってしようがありませんよ」 「うるさくったって、あたしゃ、この人のそばをはなれるのがいやなんだもの」 「ねえ、杢兵衛大尽《もくべえだいじん》、あなた、おいらんをすこし、まわしにだしてやってくださいな」 「そりゃあ、おらあだって、商売《しようべえ》だから、ほかにもいったらよかっぺえと、こういったんだけどもねえ、喜瀬川はいかねえだ。おらあのそばをはなれるのがいやだってなあ……『そりゃあ、はあ、年期《ねん》があければ夫婦《ひいふ》になるだから、いまに、はあ、朝から晩までくっついていられるだ。だどんも、いまは苦界《くげん》の身だから、つれえけんども、まわしまわれっ』てえのに、まわりゃあがらねえでなあ。おっ惚《ぽ》れてるんだなあ、おらあに……それで、ほかの客は、なんちゅうとるかねえ?」 「へえ、玉代かえせってんで……」 「玉代けえせってか? ふーん、田舎《えなか》もんだねえ。おらなんざあ、こうみいても江戸《いど》っ子だあ……なんてまぬけなやつらだんべえ。そんなざまだから、女《あま》っ子に、もてねえだよ……で、ひとりけえ?」 「いえ、お四人《よつたり》で」 「どうも、あきれたもんだ。おいらん、どうするべえ?」 「玉代をかえして、帰ってもらっておくれよ」 「そうけえ。われがそういうなら、玉は、おらがだしてやるべえ……で、いくらだ?」 「えー、おひとりが一円ずつでございますから、みんなで四円で……」 「そいじゃあ、四両だしてやるだから、みんなに帰ってもらってくんろ」 「どうも相すみません。まことにおそれいります。では、ごゆっくり、えへへへ」 「さあ、これで、われも安心して、ここにいられるだぞ」 「だけどもねえ、もう一円はずみなさいよ」 「どうするだ?」 「わたしにくださいよ」 「なんで、われに一円だすだ? われとおらとの仲でねえか。われがものはおらのもの、おらのものはわれがものだんべえ?」 「けれどもさ、銭金《ぜにかね》ばかりは他人だというからさ。わたしにも一円くださいな」 「そうか。われがそれほどいうなら、さあ、一円やるべえ」 「これをもらえば、わたしのものだね?」 「ああ、やっちまえば、われのもんだ。そんなこと、聞くにゃあおよぶめえ?」 「それじゃあ、あらためて、これをおまえさんにあげる」 「あらためて、おらがもらってどうするだ?」 「後生《ごしよう》だから、お前《ま》はんも、これを持って帰っておくれ」 疝気《せんき》の虫 「おや、なんだろう、この虫は? みたことのない虫だねえ。気味がわるいなあ。いっそつぶしちまおうかしら? ……え? なに? 助けてくれって? いったい、おまえはなんなんだい?」 「へえ、疝気《せんき》の虫でございます」 「疝気の虫? へーえ、おまえがかい? ……ふーん、こりゃあおどろいた。はじめてみたよ。それにしても、おまえは、どうしてあんなに人間を苦しめるんだい? わたしは医者だが、じつにどうもこまるな、おまえというものには……」 「いいえ、べつに苦しめるわけじゃないんでございます。ただ、わたしたちは、おそばが大好きでございますからね、人間がおそばを食べますと、わたしたちは、お腹の中で、そのおそばを食べるんでございます」 「それでどうするんだい?」 「へえ、なにしろ好きなおそばをいただいたんでございますからな、すっかり元気がでまして、お腹の中で運動をはじめます。それで、つい筋《すじ》やなんかをひっぱってあそんだりすることになるんでございますが……そうすると、人間が痛がって、苦しむんでございます」 「そんなわるいいたずらをするなよ、よせよ、筋なんかひっぱるのは……それにしても、おまえ、そんなにそばが好きかい?」 「ええ、好きでございますね」 「では、きらいなものはなんだい? いちばんきらいなものは?」 「弱りましたな、それは秘密になっておりますんですが……」 「秘密? いえないのかい? どうしても……」 「へえ」 「いえないとなると、よけいに聞きたくなるな。よーし、いわないと、おまえをひねりつぶすよ」 「そりゃあこまります」 「こまるんなら白状しな」 「へえ、じつはトンガラシでございます。なにしろあなた、あれがからだにちょいとつきますと、そこからくさっちまうんでございますから、トンガラシみたいにこわいものはございませんよ」 「じゃあ、そのこわいトンガラシが腹の中へはいってきたらどうするんだい?」 「そのときは、別荘へ逃げるんでございます」 「別荘? なんだい、それは?」 「へえ、別荘てえのは、つまり、そのう、男のキンの袋なんで……そのなかにはいっちまいます。あすこにいれば、どんなにこわいものがきましても安心でございますからな」 「ははあわかった。それであすこがふくれるんだな。しかし、これからは、あんまり筋なんかひっぱっていたずらするんじゃあないぞ……おや、疝気の虫のやつどこへいったろう? おーい、疝気の虫! 疝公、疝ちゃん! ……あれっ、なんだい、変だとおもったら夢だったのか。うーん、あんまり疝気の患者のことを気にしていたから、それであんな夢をみたんだな……え、なんだい? ああ、すぐきてくれって? いつものあすこのお宅でご主人が疝気で苦しんでるって? ……よし、すぐいくってそういっとくれ……そうだ、さっそくいまの夢をためしてみよう」  夢のみちびきと申しましょうか、疝気の患者からさっそく往診をたのまれました。 「こんにちは」 「まあ、先生、さっそくおいでくださいまして、ありがとう存じます」 「どうかな、ご主人のぐあいは?」 「それが、なんだか、さっきからたいそう苦しんでおりまして……」 「なにかわるいものを食べさせやしないか?」 「いいえ、べつにわるいものなんか……あっ、そうそう、お昼におそばをすこし食べました。そうしたら、急に苦しみだしまして、……」 「なに、そばを食べて苦しみだした? こりゃあ筋をひっぱってるな」 「なんでございます? 筋がどうかいたしましたか?」 「いや、なに……では、きょうは、治療の方法をすこし変えてみましょう……ご主人、いかがですな、ぐあいは?」 「ああ、先生、どうにも痛くて……なんかひっぱられるようで……」 「やっぱり……ひっぱってますな、そりゃあ。では、よろしい。奥さん、そばをな、そう、もりを五つほどとってください」 「だって、先生、おそばはいけないんでございましょ?」 「いや、これは、治療のためじゃから……それから、奥さん、ドンブリにトンガラシ水をいっぱいこしらえてください」 「はあ、では、さっそくそのように……」 「なに、そばがきた? それは、ご主人にあげてはいけませんよ。奥さん、あなたがめしあがってくださいな。これは、別荘にいる疝気の虫をさそいだす計略なんですからな」 「なんでございます、別荘というのは?」 「いや、その、別荘というのは、奥さんには関係のないところで……とにかく、奥さんがおそばをめしあがれば、かくれている疝気の虫が、その匂《にお》いにつられて、旦那の別荘からでてまいります。ところが、おそばを食べているのは旦那じゃなくて奥さんのほうでしょ。匂いばかりでそばがないから、だんだん口のほうへあがってきます。それをつかまえて、このトンガラシの水で退治するというわけです。よろしいですか?」 「別荘だの、トンガラシの水で退治するだのと、なんだかよくわけがわかりませんけれど、とにかくわたしがおそばを食べればいいんでございますね」 「さよう。で、ご主人は、奥さんの口のところで、おそばの匂いをかぎなさい。これは、疝気の虫を、ご主人の腹の中からさそいだす計略なんですからな」 「そうでございますか。では、あなた、わたしがおそばを食べますから匂いをかぐんですよ。よござんすか?」  奥さんが、ご主人の前で、うまそうに音を立ててそばを食べますと、ご主人は、さかんにその匂いをかぎます。これをくりかえしてるうちに、そのそばの匂いが、ご主人の別荘にいた疝気の虫たちにつたわったからたまりません。みんなぞろぞろと別荘からはいだしました。 「おや、いい匂いだよ。いつものところですよ。ありゃ、ありませんよ。おかしいな、もっと上かな? ありゃ、まだないよ。えーと、おそばは? ……そんなはずは? ……あれっ、ないはずだ。おそばは奥さんのほうだ。さあ、みんなむこうへいこう」  いっせいに疝気の虫たちが奥さんのお腹へとびこんで、やっとおそばにありついてたいへんなさわぎで…… 「うまいね、どうも……おどろくね、そばを食うと、からだに元気がでてくるんだから……じっとしていられなくなるね。ここにある筋をひっぱってあそぼうじゃないか。ほれ、どっこいさ、どっこいさ、どっこいさ、こりゃさ。うれしいねえ、どうも……どっこいさのこりゃさ、どっこいさのこりゃさ……」 「ああ、ああ、痛い、痛い」 「どうしました、奥さん?」 「なんですか、急に痛くなりまして……ああ痛い、痛い……苦しい!」 「いや、奥さんが苦しいはずはないんですがね。おかしいな、どうも……ところで、ご主人のほうはいかがです、ぐあいは?」 「ええ、もうすっかり痛みがなくなりました」 「こりゃたいへんだ。奥さんのお腹へ疝気の虫がはいっちまった」 「あーら、どうしましょう?」 「どうしましょうたって、こりゃあ、しかたがありませんから、奥さん、あなた、そのトンガラシの水をおあがんなさい」 「とんでもない、先生、金魚が目をまわしたんじゃありませんよ……ああ、痛い痛い」 「そりゃあ、あなた、この水を飲まなけりゃなおりませんよ」  てんで、医者が奥さんにトンガラシ水を飲ませましたから、おどろいたのは、奥さんの腹のなかの疝気の虫たちで…… 「わあ、たいへんだ、たいへんだ。別荘へ、別荘へ……ありゃ、別荘がないよ」 大工|調《しら》べ 「おう、与太、いるか?」 「ああ、棟梁、おいでなさい」 「おいでなさいじゃあねえや。いやにぼんやりしてるじゃあねえか。どうしたい? おふくろはいねえようだが、どうした? なに? 墓まいりか? ああ、そいつあ結構だ。年寄りは墓まいりがいちばんだからなあ。それにおめえは感心だ。よくおふくろのめんどうをみるからなあ。それについてっていうのもなんだが、こんどはまたいい仕事ができたぜ。番町のほうのお屋敷の仕事でなあ、とにかく一年とつづこうてえ大仕事だ。おれたちはまあ、仕事せえありゃあ大名《でえみよう》ぐらしだ。もう心配《しんぺえ》するこたあねえや。あしたっから仕事がはじまるんでな、今日じゅうに道具箱を屋敷へ持ちこんじまおうとおもうんだ。そうなりゃあ、あしたは手ぶらでいけるってえ寸法だ。だから、道具箱をおれんとこへ持ってっとけ。若《わけ》え者が車でひっぱっていくからな。ええ、おい、与太、わかったかよ?」 「仕事はいつからはじまるんで?」 「だから、あしたっからといったじゃあねえか」 「そいつあこまっちゃったなあ」 「どうした? ほかに請《う》けあった仕事でもあんのか?」 「いや、仕事なんかべつにありゃあしねえ」 「じゃあ、こまるこたああるめえ?」 「だって、道具箱がねえんだもの……」 「あれっ、この野郎、おもちゃ箱(道具箱のこと)を食っちまうやつもねえもんじゃあねえか?」 「なあに、食やあしねえ。あんな堅《かて》えもの、金づちなんぞかじれやしねえや」 「なにいってやんでえ。その食ったんじゃあねえよ。質へ持ってったのか?」 「質になんぞ持ってくもんか。持ってかれちゃったもの」 「なんだなあ、商売道具を持ってかれちまうなんてだらしねえじゃあねえか……ははあ、戸じまりをしねえで寝たんだな」 「いや、夜持ってかれたんじゃあねえんだよ」 「じゃあ、明けがたか? 夜明けにぐっすり寝こんでるときかなんかに?」 「ううん」 「じゃあなにか、日暮れか? バタバタいそがしいすきかなんかに?」 「ううん」 「いつなんだ?」 「ううん」 「なにいってるんだ……いつだと聞いてるんだよ」 「それが昼すぎなんだ」 「昼すぎ? じゃあ、おめえ、うちにいなかったのか?」 「いたんだよ。ちゃんと……」 「じゃあ、いねむりでもしていやがったんだろう?」 「なあに、いねむりなんぞしてるもんか。ちゃんと大きな眼をあいて、持ってくやつをみてたんだ」 「起きてて持っていかれるのをだまってたのか? どうして泥棒とかなんとかどなんなかったんだ?」 「うん、どなってやろうかとおもってね、そいつの顔をみたら、怖《こえ》え顔しやがったからやめちゃった」 「ばかだな。てめえは弱くっても、意気地《いくじ》がねえにしろよ、長屋にはいくらも強《つえ》えやつがいるじゃあねえか。盗人《ぬすつと》とか泥棒とかどなれねえか? そうすりゃあ近所の人がみんなでてきてくれる。泥棒だって重いものを持ってるんだ。早く逃げられやあしねえ。すぐにつかまるじゃあねえか……で、そいつのつらはおぼえてるんだな?」 「ああ、わすれようったってわすれられねえつらだ」 「うらみがあるからな」 「今朝《けさ》もそいつと井戸端んとこで会っちまった」 「しめたな。ふんづかめえたか?」 「いや、おれが、『おはようございます』って、あたまをさげた」 「この野郎、あいさつなんかしてるやつがあるか……うん、そうか、しらばっくれて油断させといて、そーっとあとをつけて、家をたしかめようてんだな?」 「いや、家なんぞたしかめなくってもいいんだ。前からわかってんだから……」 「どこだ? 教えろ。おれがとりけえしてやるから……」 「この露地をでた右っ側の角の家よ」 「なに? 右っ側の角の家? ……ありゃあ、大家《おおや》の家じゃあねえか?」 「そう、大家さんの家」 「なにいってんだ、大家の家なんぞ聞いてやしねえや。その泥棒野郎の家を聞いてんだよ」 「だから、大家さんが持ってったんだよ」 「大家が持ってった?」 「ああ」 「すると、おめえ、たまってた店賃の抵当《かた》かなんかに持ってかれたんじゃあねえか?」 「あははは、あたった」 「ばかっ、あたったじゃあねえ。そんならそうと早くいうがいいじゃあねえか。まぬけな野郎だな。持ってかれたっていうから、盗人にとられたかとおもって口をすっぱくしていってりゃあ、大家に持っていかれたんだといやあがる。ほんとにわからねえ野郎だ。手がつけられやあしねえ……いくらたまってたんだ?」 「一両二分と八百《はつぴやく》文」 「ずいぶんためやがったなあ」 「ちっとも骨を折らねえでたまっちまった」 「ばかっ、店賃なんぞ骨を折ってためるもんじゃあねえや。しょうのねえやつだな……まあそんなことだろうとおもったから用意はしてきたがなあ……一両二分と八百はこまったなあ……さあ、じゃあ、ここにこれだけあるからなあ、これを持ってって、よく大家にわけをはなして道具箱をかえしてもらえ。さあ早くいってこい。なにをぐずぐずしてるんだ?」 「……一両二分と八百借りがあるんで……」 「それがどうした?」 「そこへ一両二分持っていくと、つまり、えー、さしひくと……」 「なにいってやがるんだ。さしひくと、八百不足だというんだろう?」 「ああそうだ」 「しっかりしろやい。いいか、一両二分と八百借りがあるんだ。そこへ一両二分持っていくんだい。八百ぐれえおんの字だ」 「なんだ? おんの字てえなあ」 「あたぼうてんだ」 「なんだい? あたぼうてえなあ」 「いちいち聞くない。あたりめえだ、べらぼうめてんだよ。江戸っ子でえ。あたりめえだ、べらぼうめなんかいってりゃあ、日のみじけえ時分にゃあ日が暮れちまうぜ。だから、つめてあたぼうでえ」 「へーえ、うまくつまっちまうもんだなあ」 「なんだ? そのうまくつまっちまうてえなあ、はんてんやなんか縫いなおしてるんじゃあねえや……いいか、下手《したて》にでて、よくわけをはなしてもらってこい。ほんとうのことをいやあ、言いずくにすりゃあ(りくつをいえば)ただでもとれる仕事だ。だってそうじゃあねえか。道具というものがあるから大工は仕事をして、暑くなく、寒くなくして暮らしていけるんだ。その道具箱をとりあげて、店賃《たなちん》の催促するたあまちがってる。けれども相手がわりいや。町役《ちようやく》なんぞやってるんだから……まあ長《なげ》えもんには巻かれろてえことがある。犬の糞《くそ》で敵《かたき》をとられてもつまらねえから、これだけ持ってって道具箱をおくんなさいというんだ。いいか、下手にでるんだぞ。わかったら早くいってこい」 「じゃあ、いってくらあ……ああ、おどろいちまった。棟梁もいいけど、二言《ふたこと》めにはまっ赤になって、けんつくばかり食わせるんだからやりきれねえや。おまけに大家ときた日《ひ》にゃあ、しみったれだからよ。こっちは、けんつくとしみったれのあいだへへえってどうもこうもやりきれやあしねえや……大家さーん」 「だれだ、そこへきてぐずぐずいってるのは? ……なんだ、裏のばかだな。そんなところでどなってねえで、こっちへへえんなよ……なんだ、なんか用か?」 「道具箱をくれ」 「なんだ。口のききかたを気をつけろよ。くれってえ言い草があるか? 奥の六帖の押しいれへへえってるから、てめえでいってとってこい……待て待て、その前に、ちゃんときまりだけはつけておこうじゃねえか。店賃《たなちん》はどうなるんだ?」 「ここにあらあ」 「ここにあらあって、おめえがにぎってたってしょうがねえじゃあねえか。こっちへよこせ」 「ああ、やるよ。ほれ、うけとれ」 「あれっ、この野郎、銭を投げやがる。なんてえ罰あたりなやつだ。いいか、お宝てえぐらいのもんだぞ。銭をそまつにするやつにろくなやつはねえや。こんなざまだから、てめえはいつになっても貧乏してなきゃあならねえ……おい、ばあさん、そっちのほうへ銭は飛んでねえか? なに? 飛んでねえ? おかしいなあ。おい、与太、いつまでも突っ立ってねえで坐りなよ。いいから坐れってんだ。おい、こりゃあ一両二分のようだな」 「そう」 「そうなんてすましてちゃあいけねえな。八百たりねえじゃあねえか」 「ああ」 「八百たりねえよ」 「いいよ」 「よかあねえや……このたりねえところはどうしてくれるんだ?」 「だから……あの……八百は……あの、おんの字だい」 「なんだ、おんの字てえのは?」 「だから、あたぼうだい」 「なんだ? そのあたぼうてえなあ」 「教えてやろうか。おれも知らなかったんだ。あたりめえだ、べらぼうめってえのをつめていうとあたぼう」 「ふざけたことをいうな……ばか野郎、どうかしていやがる。てえげえにしろ、まぬけめ。おれはてめえの気を知ってるから怒りゃあしねえが、そういうわけのもんじゃあなかろう? なんぼ職人で口のききようを知らねえたって、ほかにいいようもあるもんだ。八百たりませんが、かせいだのちに持ってくるから待ってくれとか、このつぎいっしょにいれるとか、なんとかいいようがあったもんだ。それを、おんの字だの、あたぼうだのというやつがあるか。店賃をなんだとおもってやがる。ばか野郎め。きょうは、てめえ、どうかしていやがるな。ふだんの口のききようでねえ……あとの八百はどうするんだ?」 「ほんとうならただでもとれるんだい」 「なんだ?」 「あ、相手がわりいやい。あの……相手が町役でもって……ええと、長いものに巻かれて、犬の糞だい」 「なにをいってやがる。さっぱりわからねえじゃあねえか……ふーん、そうか。どうもおかしいとおもった。てめえの知恵じゃあねえな。だれか尻押しがあるんだろう? まあ、てめえはともかく、その尻押ししたやつがにくいや。だれでもつれてこい。おどろくんじゃねえや。その差《さ》し金《がね》した(かげからそそのかした)やつをここへだせ」 「だめだい、差し金(かね尺、大工のものさし)は道具箱ん中へへえってらあ」 「その差し金じゃあねえや、ばか野郎……いいから帰れ帰れ」 「だから、あの……道具箱を……」 「ふざけるな、もう八百持ってこい」 「じゃあ、その銭をけえしてくれ」 「こりゃあ店賃の内金《うちきん》にあずかっとく」 「じゃあ道具箱は?」 「だから八百持ってこいてんだ」 「ずるいや。そんなのねえや。道具箱をよこさねえで、銭だけとっちゃうなんて、ず、ずるいぞ」 「なにいってやんでえ。帰れ帰れ。どんな野郎がついてようとおどろくもんか。矢でも鉄砲でも持ってこい。ぐずぐずしやがると、むこう脛《ずね》をかっぱらうぞ!」 「さよなら……さあてえへんだ。銭とられちゃった……棟梁!」 「どうした、道具箱を持ってきたか?」 「むこうにある」 「もらってこなくっちゃあだめじゃあねえか」 「くれねえもの」 「くれねえ? 銭はどうした?」 「わたしてきた」 「え? なんだと? 道具箱をよこさねえで、銭だけとりあげばばあか?」 「ばばあじゃねえ。じじいがとった」 「なにいってやんでえ。どうしたんだ?」 「それでも八百たりねえというんだ」 「わからねえやつだな。八百はあたぼうだというんだ」 「そのことをいったんだ。あたぼうってなんだというから、わけをすっかり教えてやったら怒りゃあがった」 「しょうのねえ野郎だな。あきれけえってものがいえねえ。そんなことをむこうへいっていうやつがあるもんか。そりゃあ、てめえとおれとのあいだの楽屋《がくや》ばなしだ。それをむこうへいってしゃべるやつがあるもんか……怒ったろう?」 「ああ、まっ赤になって怒った」 「あたりめえだ。そんなことをいわれりゃあ、どんなやつだってつむじをまげちまわあ……それでどうした?」 「でね、道具箱っていったら、あと八百持ってこいっていって、まごまごすると、むこう脛かっぱらうぞってえから、さよならって帰ってきた」 「しょうのねえ野郎だなあ。まあいいや。じゃあ、おれがいって、わけをはなしてもらってやるからよ。けれども皮肉なじじいだから、とても素直にゃあわたさなかろう。とにかくおれがいってあたまをさげたらどうにかなるだろう。いっしょにきねえ……いいか、表からへえるんじゃあねえんだ。裏口からへえるんだ。おれのうしろへついてこい……ええ、ごめんくださいまし。ごめんください……ごめんください」 「はい、どなた? ああ、なんだい、棟梁さんじゃあねえか。なんだって台所なんぞからはいってくるんだ? いつものように表からはいればいいのに……まあ、あがんなさいよ。ばあさんや、お茶をいれなさい。それから、ざぶとんを持っといで……棟梁がみえたよ。いつもばあさんとうわさをしているんだ。年が若くても、人を多勢つかってる人はどこかちがっているところがある。おそれいったものだとばあさんとはなしをしているんだよ。ときに、与太のばか野郎だがね、どうもりくつのわからねえやつでしかたがねえが、それでもまあ、ああしておふくろをやしなっているんだから、おまえさんがよく世話をしてやっておくんなさるからお礼をいわなけりゃあならないと、ふだんからいっていたんだよ。どうかまあこっちへあがって……え? だれかおつれさんがいるのかい? じゃあ、いっしょにこっちへへえってもらおうじゃないか。ええ、もし、どうぞこんなきたねえところですけども、あの……なんだ、ばか野郎がついてへえってきた……やあ、棟梁こまるなあ、おまえさん、どうもようすがおかしいとおもったら、そのばかをつれてわびごとにきなすったのかい? まあおよしよ。そんなやつの口をきいたってしょうがねえ。あんまりいいぐさがひでえから、こんな野郎に腹を立ったってしょうがねえんだが、叱言をいって帰したまでのはなしなんだ。もうおよしよ。こんなやつのために口をきいたってむだだから……」 「へえ、まことにすいません。なにしろ人間がおめでたくできあがってまして、へえ、こんなばか野郎ですが、これで仕事をさせりゃあ一人前以上の仕事をするもんで……それにおふくろのめんどうはよくみますし、なかまの者も目をかけてやっておりますが、長えことあそばしちまって……ところが、こんどいい仕事ができたんです。番町の屋敷の仕事で、まあこりゃあ、一年とつづこうというような大きな仕事で、まあ、口はばってえようですが、大工《でえく》なんてものは、仕事せえありゃあまあ大名ぐらし、野郎をよろこばしてやろうとおもって、いまいってはなしをしてみると、あんまりうれしそうなつらをしねえんですよ。それからいろいろ聞いてみると、一両二分と八百、店賃がとどこおってて、大家さんが道具箱を持ってっちゃったとこういいますんで、へえ、いま叱言をいってやりました。『雨露をしのぐ店賃をためるようなことをしちゃあいけねえ』てんでね、一両二分と八百てえことは、あっしも知ってたんですが、ちょうど持ちあわせが一両二分しかなかったもんですから、それだけこの野郎にわたしまして、よーく大家さんにおねげえ申して道具箱をもらってくるようにいったんですが、根がばかですから、どうもつまらねえことをしゃべっちまったようなことなんで……なにしろばかのしゃべったことでござんすから、そこんとこをひとつかんべんしてもらって、野郎に道具箱をわたしてやってもらいてえんで……仕事はあしたっからはじまるんで、今日じゅうにねえ、道具箱をお屋敷へ持ちこんじまうと、あしたは手ぶらでいかれるってえ寸法、まあ職人の貫禄《かんろく》をつけさしてやりてえとこうおもいますんで……門限があるんでねえ、門どめを食っちまうとこまるんで、それでこいつをつれて、おわびにあがったようなわけなんでござんす。まあ、あとのところはたかが八百のことでござんすから、ついででもありましたら、お宅へとどけさせるようにいたしますんで、まあ、大家さん、道具箱のほうをひとつおねげえいたします」 「ああわかった。わかったよ、棟梁、だけどもおまえさんもずいぶんおかしなことをいうねえ。だってそうじゃあないか。あとはたかが八百てえなあなんだい? そりゃあおまえさんはりっぱな棟梁だ。八百ぐらいの銭はたかがかも知れないがねえ、あたしにとっちゃあ大金だねえ。地べたを掘ったって八百の銭はでてくるんじゃあないんだから……それになんだい? ついででもありましたらてえのは? じゃあなにかい、ついでがなければ八百の銭はそれっきりになっちまうのかい?」 「いいえ、そんなつもりでいったんじゃあねえんで……まあ、あっしの口のききかたはぞんぜえ(らんぼう)だから、気にさわったらかんべんしておくんなさい。まあ、あとの八百は、うちの奴《やつこ》にすぐにほうりこませますから……」 「よしとくれよ。うちは賽銭箱じゃあねえんだから、むやみにほうりこまれてごらん、あたりどころがわるけりゃあ怪我しちまわあ」 「べつに表からほうりこもうってんじゃあねえでさあ……大家さんのとこだってねえ、道具箱をあずかっといたってしょうがねえでしょう? あっしのほうじゃあ道具箱がいるんだ。まあ道具箱せえありゃあいくらだって銭がとれるってえわけなんで……それだから、あっしがさんざんあたまをさげてたのんでるんですから、道具箱をわたしてくれたっていいじゃあありませんか?」 「なんだ? あっしがあたまをさげてたのんでるんですから道具箱をわたしてくれたっていいじゃあありませんだと? なにいってやがるんだ。てめえがあたまをさげたからどうしたというんだ。なまいきなことをいうな。あたしゃこうみえても町役人《ちようやくにん》だよ。おめえはたかが大工《でえく》じゃあねえか。職人が町役人の前であたまをさげたのがどうだっていうんだ? 大きなことをいうねえ。あたまなんぞさげてもらいたくねえや。どうしても道具箱がほしかったら、あと八百持ってきな。鐚《びた》一文かけたってわたしてなんかやるもんか」 「大家さん、怒っちゃあこまるなあ。あっしはおまえさんとこへ喧嘩しにきたんじゃあねえんだから、どうかそんな因業《いんごう》なことをいわねえでわたしておくんなさいな」 「ああ、因業だよあたしゃあ、このあたりでも因業大家で通ってるんだから、ああ因業ですよ」 「なにもそんな大きな声をださなくっても……」 「大きな声は地声だよ。まだまだせりあがらあ」 「それじゃあまるっきりはなしにならねえじゃあありませんか」 「はなしにならなかったら帰ったらいいだろう? さあ、お帰り、お帰り」 「じゃあ大家さん、あっしがこれほどおねげえ申しても、どうあっても道具箱をわたしてくれねえっておっしゃるんですかい?」 「いやに念を押しゃあがるな。わたさねえといったら、どんなことがあってもわたすこたあできねえんだ。金をそろえて持ってきたらわたしてやるが、それまではわたすことはできねえ。わたさなけりゃあどうしようというんだ?」 「どうもこうもありゃあしねえ。おまえさんのほうでわたさねえというなら、強《たつ》てもらっていこうとはいわねえ。道具なんざああつめりゃあいくらでもあるんだ。大家さんとかなんとかいってやりゃあつけあがりゃあがって、なにをぬかしゃあがるんだ、この丸太ん棒め!」 「な、な、なんだい、え? おばあさん、逃げるこたあねえやな。逃げるときはいっしょに逃げらあ。棟梁だって人間だ。まさか食いつきゃあしなかろう……おい、棟梁、人間をつかまえて丸太ん棒とはなんてえいいぐさだ!」 「なにいってやんでえ。丸太ん棒といったがどうした? てめえなんざあ丸太ん棒にちげえねえじゃあねえか。血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。てめえなんざあ人間の皮を着た畜生だ。呆助《ほうすけ》、ちんけえとう、株っかじり、芋っ掘りめ! てめえっちにあたまをさげるようなおあにいさんとおあにいさんのできがすこうしばかりちがうんだ。なにぬかしゃがんでえ。大きなつらするない。大家さんとか旦那とかおだてりゃあつけのぼせやがって、ごたく(くどくどいうこと)がすぎらい。どこの町内のおかげで大家とか町役とか膏薬《こうやく》とかいわれるようになったんでえ。ばかっ、むかしのことを知らねえとおもってやがるか? このあんにゃもんにゃ! てめえの氏素姓《うじすじよう》をならべて聞かしてやるからな。びっくりして坐り小便してばかになるな。やい、よく聞けよ。どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ野郎が、この町内にころがりこんできやがって……そのときのてめえのざまはわすれやしめえ。寒空にむかって洗いざらしのゆかた一枚でもってがたがたふるえてやがったろう? さいわいと町内にはお慈悲深えかたがそろっておいでにならあ。あっちの用を聞いたり、こっちの使いをしたりしてまごまごしてやがって、冷やめしの残りをひと口もらって、細く短く命をつないだことをわすれやしめえ。てめえの運のむいたのはなあ、ここの六兵衛さんが死んだからだ。そこにいるばばあは、六兵衛のかかあじゃねえか。その時分にゃあ、ぶくぶくふとって黒油なんぞつけて、おつに気どりやあがっていやらしいばばあだ。ばばあがひとりでもってさびしいばかりじゃあねえや。人手がたりなくてこまってるところへつけこみゃあがって、『おかみさん、水くみましょう。いもを洗いましょう。薪を割りましょう』と、てめえ、ずるずるべったり、そのばばあとくっついて、入夫《にゆうふ》とへえりこみゃあがったろう? その時分のことをよく知ってるんだい。六兵衛はなあ、町内でも評判の焼きいも屋だ。川越の本場のを厚く切って安く売るから、みろい、子どもは正直だい。ほかのいも屋を五軒も六軒も通り越して遠くから買いにきたもんだ。それをてめえの代になってからはなんてえざまだい。そんな気のきいたいもを売ったことがあるか? 場ちげえのいもを売りゃあがって、たきつけを惜しみゃあがるから、なま焼けのガリガリのいもでもってな、そのいもを買って食って、腹をくだして死んだやつが何人いるかわからねえんだ。この人殺しめ!」 「なんだ、なんだ、べらべらべらべらとよくしゃべりゃあがるな。だまって聞いてりゃあおもしれえことをいいやがるな。ええ、おい、なんだ? 細く短くだ? それをいうなら、よくおぼえとけよ。太く短くてんだ」 「なにを? このばかっ、ふとくみじかくてえなあ世間にいくらもあるんだ。てめえなんぞほそくみじかくにちげえねえじゃあねえか。三度のめしを三度ちゃんと食ったか? 一度食らって、ひくひくひくひくついでに生きてたこのばか大家め! 飲まず食わずでもって銭をためやがって、高《たけ》え利息で貧乏人に貸しつけやがって、さんざん人を泣かせたじゃねえか。大家も蜂のあたまもあるけえ。弱《よえ》えこちとらにゃあ、強《つえ》えお奉行さまてえ味方がついてらあ。出るところへでて、白い黒いをみわけてもらうんだ。お白洲《しらす》へでて、砂利をにぎって泣きっつらするねえ。こんちくしょう!」 「よく大きな声をだしゃあがるな」 「大きな声は地声だい。まだまだせりあがらあ……おう、与太、もっと前へでろ」 「棟梁、あの、もう帰ろうか」 「なにいってやんでえ。ふるえてやがらあこんちくしょう、なんだってふるえてやんでえ」 「どうも陽気がよくねえようだ」 「なにいってやんでえ。さあ、こうなりゃあやぶれかぶれだ。ゆきがけの駄賃でえ。かまうこたあねえから文句のひとつもいってやれ」 「え?」 「文句のひとつもいってやれよ」 「じゃあ文句のひとつもいおうか」 「なにいってやがるんだ。おれに相談をもちかけるねえ。てめえ、こんなひどい目にあって腹が立たねえのか?」 「腹が立った」 「腹が立ったら文句をいってやれ」 「怒りゃあしねえか?」 「まぬけめ! こっちで怒ってるんだ。かまうこたあねえから怒ってやれ」 「うん、お、怒るぞ……やい、怒るから覚悟しろ。あのう、大家さん」 「さんなんぞいるもんか。大家でたくさんだ」 「ああそうだ。大家でたくさんだい。なんだい、ほんとうに、大家……ははは、ごめんなさい」 「あやまるな、この野郎、おれがついてるんだ。しっかりやれ!」 「あ、あ、あやまることがあるか。べらぼうめ、なんだ、ほんとうに……てめえなんぞ、なんだぞ、ほんとうに……えれえぞ」 「えらかあねえやい」 「あっ、そうだ。えらかあねえやい。まちげえた。なんだい、てめえなんぞほんとうに、大家だろう、大家のくせに店賃とりゃあがる」 「あたりめえじゃあねえか」 「なんだ、てめえなんぞほんとうに……てめえはなんだろうほんとうに……どこの……そうそう……骨だ……しゃもの骨、豚の骨、からかさの古骨……」 「骨ばっかりならべるな。どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ野郎だってんだ」 「あはは、そうだ、馬の骨だい。で、もってなんじゃあねえか。ころがりこみゃあがって、ざまあみろい。大家コーロコロ、ひょうたんボックリコ」 「なにをいってやがる。ちっともわかんねえじゃあねえか」 「おれにだってわかんねえ……てめえなんぞなんだろう。ほんとうに……寒いときにがたがたしやがったろう? がたがたとうれしがりゃあがって……」 「うれしがるんじゃあねえ。まごまごしたんだい」 「あっ、そうだ。まごまごしたんだい。でもって、なんじゃねえか。てめえ、そのう……細く長く……」 「細く長くじゃあねえ、細く短くだ」 「そうだい、細く短く、太《ふて》えや」 「なにいってやがる。細く短く命をつないだろうてんだ」 「ああ、そうだ。いまいった通りだい」 「この野郎、おれので間にあわせるな」 「なんだぞ。てめえの運のむいたのは、ここの六兵衛が死んだからだぞ。六兵衛が死んだって、てめえなんぞしみったれで香奠《こうでん》やるめえ」 「いいぞ、いいぞ」 「おれもやらねえ」 「よけいなことをいうない」 「そこにいるばばあは六兵衛のかかあじゃあねえか。その時分にゃあぶくぶくふとってやがって黒油なめたもんだから、そんなにひからびちまやがったろう、干物《ひもの》ばばあめ」 「黒油はつけるんだ」 「ああ、そうだい。つけるんだい。で、ばばあがひとりでさみしがってやがると、てめえがそばへきやがって……うふふ、うまくやってやがら、なんかおごれ」 「なにいってやんでえ」 「な、な、な、なんだい、ばばあがひとりでまごまごしてると、てめえがそばへいって、『薪を洗いましょう、いもを割りましょう』って……」 「あべこべだい」 「あ、あ、あべこべだい。でもって、あべこべでもって、なま焼けでもって、てめえ、ガリガリのいもとくっついたろ?」 「いもとくっつけるかい」 「そりゃあだめだ。いもいもしいや」 「なにいってるんだ。ばばあとくっついたんだ」 「ああ、そうだ。ばばあとくっつくんだい。その時分のこたあ……おらあ、よく知らねえぞ」 「知ってるっていうんだ」 「そうだ、知ってる、知ってる。知ってるとも……で、飲まず食わずで銭をためやがって、いまじゃこんなりっぱな大家さんになっちまって……どうもおめでとうござい」 「なんだ!? おめでとうございってやつがあるもんか。毒づくんだ、毒づくんだ。しっかりしろい」 「うん、毒づくぞ。やい、てめえなんぞ、でるとこへでるぞ。そうすりゃあ、白い黒いがわかるんだから……ほんとうにもう、強えこちとらにゃあ、弱えお奉行さまが味方に……」 「あべこべだい」 「そうだ。あべこべがついてるんだ。でもって……あの……お白洲へでて、砂利を食うねえ」 「砂利を食うやつがあるか。にぎるんだ」 「そうだ。にぎるんだい。砂利をにぎってよろこぶない」 「よろこぶんじゃあねえ。おどろくなてんだ」 「お、お、おどろくない、ほんとに……ざまあみろ。おどろいたか……あーあ、おれがおどろいた」 「なにをいってやがるんだ。さあ、いいや、いこう」 「どこへいくんだい? 棟梁」 「おそれながらと駈《か》っこむんだ」 「え?」 「駈っこむんだよ」 「お茶づけかい?」 「ばかっ、そうじゃねえや。南のお町奉行大岡越前守さまのところへ駈けこみうったえをするんだ。さあこい。おれが願書を書《け》えてやるから、細工はりゅうりゅう、しあげをごろうじろてんだ。さあ、いっしょにこい……やい、くそったれじじい、おぼえてろ!」  さすがは棟梁、願書の書きかたがうまかった。家主かたに二十日あまり道具をとりおかれ、ひとりの老母をやしないかね候という文面ですから、これはおだやかならんこと、さっそくおとりあげになりまして、家主のところへよびだしのお差し紙。  およびこみの声もろともに白洲へでましたが、町人は砂利の上へ坐りましたものだそうで、正面のふすまをあけまして、お奉行さまがおでましになりますと、左右には目安方《めやすがた》(民事訴訟に従事した役人)、つくばいの同心がいならんでおりまして、白洲は水を打ったようにしーんとしております。 「神田三河町、家主源六、ならびにその店子《たなこ》、大工職与太郎、差添人《さしぞえにん》神田竪大工町金兵衛地借り、大工職政五郎、付き添えの者一同そろったか?」 「はい、一同そろいましてございます」 「与太郎、おもてをあげい、おもてをあげい」 「おい、与太、おもてをあげろとよ」 「え? たばこ屋の表《おもて》をたのまれてんだけど、道具箱がねえからなおすことができねえ」 「その表じゃあねえ。つらをあげるんだ」 「ああそうか……へえ」 「ああ、何歳にあいなるか? 何歳じゃ?」 「おい、年はいくつだってんだよ」 「だれの?」 「おめえのだよ」 「おれの? おれの年は……棟梁、いくつだったっけなあ」 「しょうがねえなあ。てめえの年を人に聞くやつがあるか。たしか二十八じゃあなかったかな」 「ああ……たしか二十八だなあ」 「てめえでたしかをつけるやつがあるけえ」 「ええ、二十八でございます」 「うん……政五郎、そのほうは何歳じゃ? ……うん、さようか。願書のおもむきによれば、家主宅に二十日あまり道具箱をとめおかれ、ひとりの老母をやしないかねるとの文面じゃが、それに相違ないか? うん……これ、源六」 「へえ」 「そのほう、大工与太郎の道具箱をなにゆえあって二十日あまりもとめおいた? その儀はどうじゃ?」 「おそれながら申しあげます。この与太郎めは、とどこおりました店賃が一両二分八百文ございまして、再三催促をいたしましたが、いっこうにいれようといたしませんので、道具箱でも持ち帰れば、その気になるかとおもいまして、その道具箱をあずかりましたものに相違ございません。ところが、過日、一両二分持参いたしまして、道具箱をくれと申しましたので、八百たりないが、これはどうするのだとたずねますと、八百はおんの字だとか、やれあたぼうだとか、あたりめえだ、べらぼうめなどと、さまざまの悪口《あつこう》を申しましたので、ついいいあらそいをいたしまして、それがためにお上《かみ》にお手数をおかけいたしまして、おそれいりましてございます。道具箱をあずかりおきましたるは、右様《みぎよう》のしだいに相違ございません」 「うん、しからば、一両二分と八百文借用のあるところへ一両二分持参いたし、八百文不足のためにいいあらそいができたと申すのじゃな」 「御意《ぎよい》にございます」 「うんさようか。しかし源六、そのほうの聞きちがいではないか? まさか町役をつとめるもののところへまいって、さような悪口を申すことはあるまい。これ、与太郎、そのほう、そのような悪口を申したおぼえはなかろう? どうじゃ?」 「いいえ、あの……あの、大家さんがあんまりわからねえもんですからねえ、わかるようにねえ、いってやったんで……へえ、あたぼうだって、あたりめえだ、べらぼうめって、たしかにいってやりました」 「ひかえろ! かりにも町役をつとめる者の前でさような悪口を申すやつがあるか? このふとどき者め! それに、そのほう、ひとりの老母をやしないかねると申す者が、いかがいたして一両二分の金子《きんす》を工面《くめん》いたした?」 「おそれながら申しあげます。その金子は、この政五郎が貸したものに相違ございません」 「うん、政五郎、そのほうそれはいかにも奇特《きとく》のいたりじゃが、しかし、一両二分八百ということを承知して、なぜあと八百貸しあたえなかったか? さすればかように上《かみ》の手数をわずらわさずともよいではないか? 下世話《げせわ》に申す、仏つくって魂いれずとか、とてものついでに、政五郎、あと八百文与太郎に貸しあたえるわけにはまいらんか? うん、さようか、では与太郎、政五郎より八百文借りうけ、源六にさっそく払うようにいたせ。日のべ猶予《ゆうよ》はあいならんぞ。立てい」  ぞろぞろぞろぞろ、お腰かけへひきあげてまいりました。 「源六さん、どうでしたい?」 「ありがとう存じます。世のなかにばかほどこわいものはない。あきれかえってものがいわれません。店子が家主をうったえるなんて、そんなはなしは聞いたことがねえ。いいえ、あいつのばかはわかってますがね、そいつの尻押しをした大ばか野郎がいるんだからおどろきますよ。高えところへあがって、トンカチやることは上手《じようず》だろうが、お白洲へでちゃあ、まるっきり形《かた》なしだ。あたしなんざあ、毎朝大神宮さまへ手をあわして、町内繁昌なんてこたあ拝みゃあしねえ。町内騒動を祈っているぐらいの大家だ。そういう者を相手どって、ばかな野郎だよ、ほんとうに……おいおい、与太、さあ、八百持ってきなよ。日のべ猶予はならねえんだからな。銭がなけりゃあ尻押しのところへいって借りてこい」 「棟梁、もう八百貸してくれよ」 「まぬけめ! 貸さねえたあいわねえが、なんだってあすこで、あたぼうだの、おんの字だのといやあがるんだ?」 「だって、ものは正直にいわねえとわるかろうとおもったからよ。お奉行さまがそういってたぜ。こっちがよくねえって……」 「ばか! ここまで恥をかきにきたようなもんだ……いや、貸さねえこたあねえ、さあ貸してやるから持ってけ!」 「うん……大家さん、持ってけ!」 「なんだ、この野郎、持ってけっていいぐさがあるか……さあ、みなさん、恥のかきついでだ。もう一度お白洲へでてもらいましょう」  家主がさき立ちで、ぞろぞろと白洲へはいってずらりとならびました。 「これ源六」 「へえ」 「八百文うけとったか? しからば、帰宅のうえ、さっそく道具箱は与太郎にかえしてつかわせよ。政五郎、そのほう八百文を与太郎に貸しつかわしたか? ……うん、奇特なことじゃ。与太郎、そのほうも家主より道具箱をもらいうけなば、仕事に精をだし、年老いたる母親に孝養をつくせよ。あいわかったな? ……ところで、源六、そのほうは、一両二分と八百の抵当《かた》に道具箱をあずかりおったのであるな?」 「さようにござります」 「金の抵当に品物をあずかるというのは、いわば質屋であるな?」 「へえ」 「そのほうは質屋の株はあるか?」 「いえ……そのう……おそれいります」 「いや、ただおそれいったではわからん。質屋の株を所持しておるのか、おらんのか?」 「へえ……どうも……おそれいりましてございます」 「これこれ、おそれいってばかりおってはわからん。町役をつとめるほどの者、さようのことは心得ておろう。あるのか、ないのか、どうじゃな?」 「へえ、ございません」 「なに、持っておらん? 質株なくして質物《しちもつ》をあずかるとは、なんたるふとどきなやつじゃ。そのほう、二十日あまりも道具をとりあげ、これなる与太郎、ひとりの老母をやしないかねるというは、いかにもふびんのいたりじゃ。きっと重きおとがめを申しつくるところなれど、訴《うつた》え人《にん》が店子ゆえ、このたびはさしゆるす。しかし、二十日間も道具をとめおかれたのであるから、科料として、二十日ぶんの手間賃を与太郎に払いつかわせ。よいか……これ、政五郎、大工の手間賃は、一日どのくらいじゃ?」 「へえ、どうもありがとうございます。与太、もっと前へでろ……へえ、一日の手間賃と申しますと、へえ、まあ、十|匁《もんめ》ぐれえで……」 「なに? はっきり申せ。十五匁か? 十五匁と申したのじゃな?」 「え? ……へっ、へえ、ありがとうござんす。へえ、たしかに十五匁でございます」 「うん、さようであるか。しからば、二十日間で三百匁とあいなるな。これ源六、三百匁払いつかわせ。日のべ猶予はあいならんぞ。立ていっ」  また、お腰かけへぞろぞろとさがってまいりました。 「さあ、与太郎、もらってこい。大家んとこへいってもらってきなよ。天道さまは見通しだい。ざまあみやがれ。おう、早くいってもらってきなよ」 「大家さん、あの……おくれよ。三、三百匁だ。あははは、あの、日のべ猶予はならねえんだからなあ。銭がなかったら尻押しんとこへいって借りてこい」 「まねするない……さあ、持ってけ」 「棟梁、もらってきた」 「おう、よし、じゃあ、それはおれがあずかっとくから……みなさん、すみません。ごくろうさまですが、ごめいわくついでにもう一ぺんお白洲へおねがいいたします」  こんどは、政五郎がさき立ちで、ぞろぞろぞろぞろお白洲へ……よくでたり、はいったりするお調べで…… 「これ、与太郎、いかがいたした? うけとったか? うん、さようか。これで調べもあいすんだ。源六、そのほうにとって、与太郎は店子であるぞ。下世話《げせわ》に申せば、大家といえば親も同然とやら……以後、与太郎をいたわってとらせよ。また与太郎も、大家に対して悪口など申すことはあいならんぞ。よいか……では、一同の者立てっ……ああ、政五郎、これへまいれ。一両二分と八百の公事《くじ》(訴訟)、三百匁と申せば五両にあたるのじゃから、ちともうかったようであるなあ」 「ありがとう存じます」 「さすが大工は棟梁《とうりゆう》(細工はりゅうりゅう)」 「へえ、調べ(しあげ)をごろうじろ」 ろくろ首 「だれだい、そこから首をだしたりひっこましたりしてるのは? ……ああ与太郎か、こっちへあがんな」 「おや、おじさんいたな」 「なんだい、おじさんいたなあてえあいさつがあるかい」 「だっていたじゃあねえか」 「いたじゃあねえかなんてやつがあるか。いくらおじさんのうちでも、あいさつぐらいちゃんとしろ」 「え?」 「あいさつをするんだよ」 「あいさつ? ……じゃあ、さよなら」 「あれっ、もう帰っちまうのか?」 「帰りゃあしねえさ……だって、こないだ、あたいが帰ろうとしたときに、『あいさつをして帰れ』っていうから、『あいさつってどうするんだい?』って聞いたら、『さよならだ』って教えてくれたじゃないか……だから、さよなら」 「なにをいってやがる。そりゃあ帰るときのあいさつじゃあねえか。きたときには、こんにちはと、ていねいにあたまをさげて、おあつうございますとか、おさむうございますとかいうもんだ」 「ちょうどいいかげんだ」 「ばかっ、湯へはいるんじゃあねえ。ちょうどいいかげんてえやつがあるか……なにしにきたんだ? なにか用か?」 「いや、そうじゃあねえんだ」 「なんだ?」 「きょうは、おじさんにすこし相談があってきたんだ」 「うん、あらためて相談というのはなんだ? 第一ひとのうちへあがってきて、立っていてはなしをするやつがあるか。おめえが立って、おれが坐っていては、はなしができねえ。はなしなんてえものは、顔と顔とつきあわしてするもんだ」 「ああそうかい。それじゃあ、おじさんが立ったらいいじゃねえか」 「うちの中で立ってはなしをするやつがあるか」 「でも、立ちばなしなんておつなもんだぜ」 「なにがおつだ……まあ、そこへ坐んな。あらためて相談というのはなんだ?」 「うん、じつはね、早く相談にこようとおもったんだがね、いまご飯《ぜん》を食べてたもんだから、それでおそくなっちまったんだ」 「いまごろめしを食べていたのか? ふーん、昼めしにしちゃあ早いが、なんのめしを食っていたんだ?」 「なんのめしでもないんだ。用がないとご飯《ぜん》を食べるんだ。きのうは六|度《たび》食べたらね、ちょうど日が暮れた」 「そんなにめしを食うやつがあるか。ばかの大食いといって、うんと食うやつにりこうなものはないもんだ……ものを食うといえば、このあいだ山田さんに聞いたんだが、おまえ、たいそう食うそうだな。大掃除のときに天どんを五つ食ったというじゃないか?」 「うん、あのときはね、大掃除の手つだいにいく約束だったんだけど、うっかりわすれちまってね、夕方ごろおもいだしたからいってみたら、大掃除はおわっちまって、みんなでもって天どん食べてた。『なんだい、与太さん、いまごろきたってだめじゃあねえか。まあ、せっかくきたんだから、天どんだけ食べといで』っていうから、『いらないよ』っていってやった」 「はたらかねえで食っちゃあわりいとおもって遠慮したのか?」 「そうじゃあねえや。なまじっかひとつばかり食うとあとをひいていけねえから、『ひとつばかり食うなら食わねえほうがいい』といってやった」 「たいへんなことをいやあがったな」 「『いくつ食べたらいいんだ』ってえから、『そこにある五つそっくり食べさしてくれりゃあ、食べてもいい』っていったら、『こんなに食べられるか? じゃあ食べてみろ』『うん、食べる』ってぺろっと食べちまった」 「一ぺんにかい、よく食べるなあ。それからどうした?」 「それから、ごくろうさまだってお金くれたから、帰りにそば屋へはいってね、もりを三つ食べて……」 「また食べたのか?」 「うちへ帰ったら、おふくろがおまんま食べていたから、鮭をふた切れに、おまんまを五はい……」 「よく食べたな」 「そしたらおじさん、腹がこんな大きくなって、パチンとやぶれちまった。さあたいへんだ。腹がパンクしちまったかとおもって、はだかになってみたら、さるまたのひもが切れてた」 「そんなに食うやつがあるか。まあ、どうもあきれかえったもんだ……ときに、相談というのはなんだ?」 「あたいもね、二十五になった」 「うん、早えもんだな。そうかい」 「この調子でいくと、来年は二十六だ」 「なにをいってるんだ。相談というのはそんなことか?」 「いや、そうじゃあねえ。兄貴は三十二だけど、三年前におかみさんをもらった」 「かみさんをもらったのがどうしたんだ?」 「子どもができちまった」 「かみさんを持ちゃあ子どもができるのはあたりまえだ」 「で、ご飯《ぜん》を食べるときだってなんだぜ。おかみさんがお膳のむこうへ坐ると、兄貴がこっちへ坐って、まん中に子どもが坐るんだ。手でつまんで食ったりなんかするぜ。みてるとかわいらしいや」 「なにをいってるんだ。くだらねえことをいってやがる。それがどうした?」 「おかみさんが兄貴のことを呼ぶのに、あなたや、なんていいやがる。えへへへ」 「なんて笑いかたするんだ。そりゃああのかみさんは、職人の女房にしちゃあおとなしいや。あなたやぐらいはいうだろう。それがどうした?」 「夜、寝ればって、兄貴がむこうの端《はし》へ寝て、子どもがまん中に寝て、おかみさんがこっちの端へ寝るんだ」 「それがどうした?」 「あたいはとなり座敷でおふくろと寝るんだ。寝るとすぐにばあさんはグーグーいびきをかくし、顔をみたってしわくちゃできたねえぜ」 「そりゃああたりめえよ。年をとりゃあだれだってしわくちゃになる」 「ご飯《ぜん》を食べればってそうだ。おふくろとさしむかいで、お給仕をしてもらったってうまかあねえや。顔をみりゃあしわくちゃできたないしね、歯なんぞ総入れ歯だからね、そりゃあもうご飯《ぜん》食べるときはたいへんだよ。たくあんなんぞ噛んだりだしたり噛んだりだしたり、やっとのことでのみこんで、ご飯《ぜん》がおわると、歯をみんなはずしちゃって、大きな湯飲みの中へいれといて、上からお湯をジャーとかけて歯をせんたくしてらあ。歯をはずしたあとは、トンネルみたいな口をしててね、あの口じゃああたいのことをあなたやなんぞいわねえや」 「ばか野郎、親がてめえのせがれのことを、あなたなんぞいうわけがねえじゃあねえか。それがどうした?」 「おじさんは、さっきから、それがどうした、それがどうしたってけどさあ、あの……あたいもねえ」 「なんだ?」 「あたいもさあ……」 「おい、しっかりしろよ。おめえも、もう二十五じゃねえか。二十五にもなって、あたいなんていうじゃねえ。あたいなんてのは、十六、七のかわいい女の子のいいぐさだ。なんだ、むこう脛《ずね》に毛をはやしゃあがって、あたいってやつがあるか」 「うふふ……じゃあ……ぼく」 「ぼくって柄《がら》か、ぼけなすのくせに……」 「じゃあ、あたし」 「うん、そのあたしがどうした?」 「いえね、兄貴が三年前におかみさんをもらって、子どもができて、それがだんだん大きくなったんだ」 「あたりめえだ。だんだん小さくなりゃあなくなっちまわあ」 「それからご飯を食べればってそうだ。お膳をまん中へおいて……」 「なにをひとつことをいってるんだ。それだからどうしようというんだよ?」 「だからね、あたしもね、二十五だからさ、兄貴に負けない気になってね、兄貴のように……早く……えへへ……もらうとね……えへへ……おふくろも安心するだろうとおもって、それでおじさんのとこへ相談にきた」 「ああそうか。おめえももう二十五だから、兄貴に負けねえ気になって、なんか商売でもやっておふくろを安心させようってのか。うん、結構結構、なんでもやんな。資本はおじさんがだしてやるから……で、なにをやる?」 「いや、そうじゃあねえんだ」 「そうじゃあねえ? じゃあ、なんだ?」 「えへへ……うふふ……だからさあ、兄貴に負けない気になって……えへへ……」 「なにいってるんだ。なんだかわからねえじゃあねえか。はっきりいってみろ」 「えへへへ……きまりがわりいや」 「ほう、おめえでもきまりがわりいなんてことがあるのか? おじさんの前だ。きまりのわりいなんてこたあねえから、はっきりいってみろ」 「じゃあ、はっきりいうぞ」 「いってみろ」 「兄貴に負けない気になってねえ……」 「どうするんだ? 大きい声でいってみろ」 「大きい声でいうのかい?」 「ああ、いってみろ」 「おかみさんがもらいたい!」 「わっ、びっくりした」 「おかみさんが!」 「わかったわかった、わかったよ……はっきりいやあがったなあ。おい、ばあさん、そこで笑ってちゃあだめだよ……ふーん、おかみさんがもれえてえのか……この野郎、大めし食らってのそのそあそんでるだけかとおもったら、食い気から色気へうつってきやがったな。まあ、二十五にもなったんだからそれもしかたがねえが、おめえ、かみさんもらって、どうしてめしを食わせる?」 「箸と茶わんで食わせる」 「そんなことをいってるからしょうがねえ。茶わんのなかへいれるものはどうする?」 「お釜からだすんだ」 「お釜へいれる米はどうする?」 「米屋から買ってくらあ」 「その買う銭は?」 「ああ、そりゃあおじさん大丈夫だよ。あのねえ、おふくろをはたらかしたり、おかみさんをかせがせたり……」 「おいおい、虫のいいことをいっちゃあいけねえ。おめえがそんな気じゃあ相談に乗れねえから、帰んな、帰んな……なんだ? ばあさん、え? こいつをお屋敷へ? こんなものは庭掃きにも門番にもなるもんか……なに? お嬢さんのお婿さんに? ああそうか、こいつなら感じがねえからいいかも知れねえな……おい、与太、ちょっと待ちな」 「なんだい?」 「おめえ、お嫁さんがもらいてえなら、養子の口があるんだが、どうだ?」 「養子かい? そうだなあ……けれども小ぬか三合持ったら婿養子《むこようし》にいくなってえから、ようしにしよう」 「ばかのくせにしゃれをいってやがる。なまいきなことをいうな。それは一人前の人間のいうことだ。小ぬか三合持ったら養子にいくなというんじゃない。養子というものはなかなかむずかしいもんだから、こぬかったら養子にいくなというんだ。おめえのは、こぬかりどころか、大ぬかりだ」 「ああ、雨降りの道みたいだ」 「なにいってるんだ」 「どこだい、養子にいくところは?」 「おじさんのお出入りさきのお屋敷で、お嬢さんは身がないんだ」 「すると骨と皮ばかりか?」 「ばかっ、魚の切り身とはちがわあ。身より親類がない、てえことだ。ご両親はもうお亡くなりになってなあ、お嬢さんをおそだて申した乳母《ばあや》さんが、もう六十ばかりになるんだが、どうしてもお嬢さんがかわいくてどこへもいくことができないというので一生奉公している。それから女中さんがふたりいるから、おめえがいけば五人暮らしになる。こんな結構なところはねえ。なにしろ財産だってたいへんだ。おめえが一生かかったって使いきれねえほどあらあ。おまけにお嬢さんはたいへんなごきりょうよしだし……そこへおめえを世話しようってんだが、どうだ、いくかい?」 「そりゃあありがてえ。いくよいくよ、行こうよそこへ……」 「いや、いこうていうが、おめえみてえなばか野郎でも養子に迎えようというには、すこうしばかりわけがあるんだ」 「なんだい、わけてえのは?」 「まあ、お嬢さんにすこしわるい病《やま》いがあるんだ」 「わるい病いがある?」 「夜、お嬢さんがな……」 「ああ、わかった。寝小便かなんかするんだろ? いいよ、いいよ、あたいもときどきやるから……」 「おいおい、ばかだなこいつは……二十五にもなって寝小便してちゃあしょうがねえ。そんなんじゃねえ。お嬢さんがぐっすりおやすみになると……寝るといっても、まず十畳とか、十二畳とかいうような結構なお座敷へ結構な床をのべておやすみになるんだが、お嬢さんの居間てえものは、ある事情で、いまだに電気をつかわねえ。行燈《あんどん》が置いてある」 「へーえ、めずらしいな」 「お嬢さんのお寝間の枕もとには六枚折れの金屏風《きんびようぶ》が立てまわしてある。その外に行燈が置いてある。で、むかしでいうと草木も眠る丑《うし》三つどき、いまの時間でいえば夜なかの二時ごろになると、おやすみになっているお嬢さんの首がな、ひとりでにすーっと長くなって、六枚折れの屏風を越えたかとおもうと、外についている行燈の油を、舌をだして、ぺろぺろとなめるんだ」 「ははあ、それで行燈が置いてあるんだな」 「まあそんなわけだ……しかし、そんなことがあるので、いままでもずいぶんお婿さんもきたんだが、いくら財産があって、きりょうよしでも、みんながまんできねえで逃げだしちまった。ばあやさんも心配して、『この病《やま》いさえご承知のおかたなら、どなたでも結構でございますからお世話をねがいます』と、おじさんにおたのみなすった。そこへおめえを世話しようてんだ。どうだ、いくか?」 「いや、そりゃあおじさん、どくど、どくど、どくどっ首だ」 「なんだ、舌がまわらねえな……ろくろっ首」 「そりゃあ、あたい、あんまり好かねえ」 「だれだって好かねえや。まあ、いやならいやでいいんだよ。よそへいってこんなはなしをするなよ。いいかい?」 「首が長くならないで、そういう結構なはなしはないかい?」 「じょうだんいうな。ありっこねえ」 「そのお嬢さんは、首が長くなるのは夜なかだけかい?」 「ああ、夜なかだけだ。昼はなんともねえ」 「夜なかならいいや。あたいなんぞ寝ちまったら、地震があったって、火事があったって目なんぞさめねえもん……だから、のびてもかまわねえ。のびろやのびろい、天までのびろい」 「なにをのんきなことをいってやがる……そうか、寝坊がなんの役に立つかわからねえな」 「昼間はほんとうに大丈夫だろうね?」 「ああ、昼間は首がのびることはねえ」 「だけれども、きょうは雨が降って退屈だから、ちょいと余興《よきよう》に首をのばしてごらんにいれるなんて……」 「なんだ、余興てえのは……そんなことはねえよ」 「じゃあ、あたい、いこうか?」 「ああそうか。それじゃあな、善は急げというから、これからさきのお屋敷へつれていこう……じゃあ、ばあさん、でかけるからな……え? まあ、見合いてえほどのこともねえが、とにかくこいつをお嬢さんとばあやさんにみせなけりゃあならねえから……ああ、それからなあ、与太、むこうのばあやさんというのがたいへんにていねいな人だからな、そこへいって変なあいさつをするとぶちこわしになるからな……うん、そうだなあ、『こんにちは結構なお天気でございます』といったら、『さよう、さよう』といっときなよ。こりゃあ鷹揚《おうよう》に聞こえていいから……」 「ああ、さようさようか……それから?」 「それから、『ただいまのおはなしがまとまりましたら、お亡くなりになったご両親さまも、さぞかし草葉の陰でおよろこびでございましょう』くらいのことはいうだろうから、ごもっとものしだいでございますという意味で、『ごもっとも、ごもっとも』といっときな」 「ああ、ごもっとも、ごもっとも……それから?」 「そうさな……『つきましては、てまえのような年をとりました者はお役に立ちませんでお気の毒でございますが、ゆくすえ長くどうぞおねがいいたします』かなんかいったらば、なかなかどういたしましてという心持ちで、『なかなか』というんだ」 「ああ、なかなか……それから?」 「まあ、そのくらいでいいや。あとはおじさんが適当にいってやろう。それくらいのことをいわなきゃあ、おしだかなんだかわかりゃしねえ」 「あはははは、そうか、じゃあわけねえや。さようさよう、ごもっともごもっとも、なかなかと、これだけでいいんだろ? むこうでなんかいったら、さようさよう、ごもっともごもっとも、なかなかっていえばいいんだ。そうすりゃあ、むこうでいいのを選《よ》りどらあ」 「選りどるなんざあいけねえ……あんまりとんちんかんなあいさつをしちゃあいけねえから、ひとつ稽古をしてみよう。いいかい? おじさんがばあやさんの役をやるからな……『ええ、てまえのような年をとりました者はお役に立ちませんでお気の毒でございます』っていったら、なんていう?」 「さようさよう」 「そうじゃあねえや」 「ごもっとも、ごもっとも」 「なおよくねえや。なかなかってんだ」 「あっはっは、そうか」 「こまったな。そんなことをむこうでいったらぶちこわしになっちまわあ……うん、じゃあ、おじさんがなんか合図《あいず》しようかな、もめん針の太いのでも持ってって、おまえの膝をつっつくか」 「いたいや、そんなのは……」 「そうか、ばかでも感じるかなあ……そうかといって、袂《たもと》なんぞひっぱりゃあわかっちまうし……あっ、そうそう、ばあさんや、となりの子どもがまりをわすれてったのがあったろう? ……うん、それだ、それだ、それにひもを長めにつけてなあ、こっちへ持ってきてくれ……さあ、与太、このまりにひもがついてるからなあ、このひもをおまえのふんどしに結《ゆわ》えて、こっちの袖口へそのまりをだせ。いいかい、おれがそばでまりをひっぱるから……どうだ、感じるか?」 「ああ、そ、そ、そんなにひっぱっちゃあいたいよ」 「これでいい。ひとつひっぱったら、さようさよう、ふたつひっぱったら、ごもっともごもっとも、みっつひっぱったら、なかなか……これならおぼえられるだろう?」 「ああそうか。ひとつがさようさよう、ふたつがごもっともごもっとも、みっつがなかなかだね。これならおぼえられらあ」 「やってみるぞ、いいか? 『こんにちは結構なお天気でございます』……ほれ、ひとつだ」 「ひとつは? ……さようさよう」 「そうだ……『てまえのような年をとりました者はお役に立ちませんでお気の毒でございます』……ほらほら、みっつだ」 「ええ、みっつは? ……なかなか」 「そうだ、そうだ、うまいぞ……じゃあ、ばあさん、こいつをつれていってくるからな。服装《なり》はきれいな服装《なり》をしてるからいいや。おふくろが甘いからいつもこんな服装をさしておくんだ。これでうまくいけば、人間の廃物利用だ」  なんてんで、おじさんにつれられて先方へやってまいりました。りっぱな座敷へ通されまして…… 「さあさあ、そこへ坐れ。そのふとんの上へ坐るんだ。どうだ、結構なうちだろう? じゃあ、まりをひっぱったらうまくやんなよ……そら、ばあやさんがでてきた。しっかりやるんだぞ」 「これはこれは、ようこそおいでくださいました。こんにちは結構なお天気でございます」 「えーと、ひとつだから……さようさよう」 「どうもおそれいります。ただいまおじさまとおはなしをいたしまして、あたくしももうすっかり安心をいたしました。うまくこのはなしがまとまりますれば、お亡くなりになったご両親さまも、さぞかし草葉の陰でお喜びでございましょう」 「えーと……ごもっともごもっとも、あとはなかなか」 「どうもおそれいります。ただいまお嬢さんがお庭さきをお通りになりますから、どうぞごらんあそばしまして、ごゆるりとなさいまし。ごめんくださいまし」 「あっ、いっちまった」 「おいおい、なんだってよけいなことをいうんだ。むこうでなんともいわねえうちに、なかなかだなんていうやつがあるもんか」 「それでもどうせいうもんだろうとおもったから、手まわしよくさきにいっちまった」 「手まわしなんぞいらねえんだ、そんなこと……いま、お嬢さんがお庭さきを通るというから、よくみてろ」 「お庭をみるのか? お庭なんぞないよ」 「いま障子がしまってるんだ。うちの中に庭があるもんか」 「そうだ。お庭はうちの中にはねえや。みんな外にあるからなあ。ああ、それで、おには外っていうのか?」 「なにをいってやがる」 「あっ、開《あ》いた開いた……なんだ、ひとりでに開いたんだとおもったら、あそこにいる女の人が開けたんだ」 「ありゃあ、こちらのお女中さんだ」 「なんだ、女中か」 「ばかっ、それがいけねえんだ。女中かなんていうやつがあるか。ああいう人をだいじにしなくっちゃあうまくいかねえぞ。どうぞよろしくおねがいします、かなんかあいさつするもんだ。それでないと、こんどきたお婿《むこ》さんは、あたまがたりねえとか、ばかだとかいわれちまうことにならあ」 「ああそうかい……やあ、大きなお庭だなあ。こりゃあいいや、芝生があって、お山があって、お池があって、ずいぶん広いなあ。こりゃあ鬼ごっこするにゃあもってこいだ」 「なにをいってるんだ。いい年をして……」 「ああ、猫がきた。こいこいこい、こっちへこい。やあ、やわらかくってうまそうな猫だ」 「うまそうな猫?」 「えへへへ、こんちくしょう、じゃれてやがらあ。この野郎、子猫のくせになまいきにひげなんかはやして……ひげぬいちまうぞ」 「おいおい、猫のひげをぬくやつがあるか。この猫はお嬢さんお手飼いなんだから、だいじにしなくっちゃあいけねえ」 「ああ、そうか……おまえ、ここのうちのもんか? 猫や、なにぶんよろしく」 「猫にあいさつするやつがあるか……ほれほれ、お嬢さんがお庭さきを通る。猫を膝からおろせ」 「やあ、あれがお嬢さんか、いい女だなあ。兄貴のおかみさんよりはずっときれいだねえ」 「服装《なり》からしてちがわあなあ」 「あっ、おじさん、歩いてる、歩いてる」 「あたりめえじゃねえか」 「おじさん、あの首が?」 「しいっ、聞こえるじゃあねえか」 「ご飯《ぜん》を食べるときに、あなたや、っていうかねえ? ……ああ、ありがてえなあ。だが、首がのびるんだからな。まあ寝ちまえばわからねえけれども、首がのびなければいいんだが……さようさよう!」 「ばかっ、びっくりするじゃあねえか。なんだ、すっとんきょうな声なんぞだしゃあがって……みろ、お嬢さんがまっ赤になってかけだしちまったじゃねえか。なにがさようさようだ。もうそんなことをいわなくてもいいんだよ」 「なかなか」 「なにがなかなかだ。そんなことはもういわなくってもいいというんだ」 「ごもっともごもっとも」 「なにをいってやがる。ばかのひとつおぼえでいつまでやってるんだ」 「いつまでやってるったって、おじさんがひっぱるから……あっ、またひっぱる……さようさよう、なかなか、なかなか、ごもっとも、さようさよう、なかなか……」 「おい、もういいんだよ」 「いいったって、おじさんひっぱってるくせに……」 「ひっぱってやしねえよ」 「だって、ほらほら、なかなか、なかなか、ごもっとも、さようさよう、なかなか、ごもっとも、なかなか……おじさん、そうは息がつづかねえや。ああ、四つはなんだい? 五つも六つもひっぱっちゃあいけねえ」 「なにいってやんでえ。おじさんの手をみろ、ひっぱっていねえじゃねえか。ああ、猫がまりにじゃれてるんだ」 「えっ、猫が? あっ、ほんとだ。しいっ、しいっ!」  たいへんなさわぎでございますが、それでも縁のあるというのはふしぎなもので、はなしがまとまりまして、吉日《きちじつ》をえらんで婚礼、さて床にはいりましたが、こんなばかでも寝床がかわると寝つきのわるいものとみえまして、夜なかになるとふと目をさましました。 「あーあ、おっかさん……いや、そうじゃあねえ。ここのうちへお婿さんにきたんだっけ……そうそう、ずいぶんうまいものを食べて寝たんだっけなあ……ここへ寝てるのがあたいのおかみさんだ。いい女だなあ。こんな人がそばへきて、あなたや、といってくれるとありがてえな……ははあ、六枚折れの金屏風ってえのはこれだな、うん、外に行燈もあらあ……あれ、時計が鳴ってらあ……チンチンだと、ふたっつだ……ふたつだから、ごもっともごもっともだなあ……いい女だけれども、どうも寝相がわりいなあ。枕をはずしちゃったぜ。おやおや、おかしいぞ。うっ、枕から首がはなれらあ……うわっ、のびたのびた」  みているうちに、すーっと長くなった首が、屏風を越したかとおもうと、あんどんの油をペチャペチャなめはじめましたから、与太郎は、きゃっというととびあがって、夢中ではだしのままおじさんのうちへ…… 「おじさん、おじさん!」 「うるさいなあ、たたくな、たたくな。ご近所へ気の毒だ……いま開けるからそうたたくな……なんだ? びっくりさせやあがって、いま時分なにしにきやがった。こっちへへえってあとをしめろ……どうした?」 「のびのびのび……のびたのびた」 「のびた? 首がか? ……ばか野郎、のびるのを承知でいったんじゃねえか」 「いくら承知だって、まさか初日からあんなにのびるなんて……」 「なんだ、初日とは? ……おめえ、夜なかに目がさめねえっていったじゃねえか」 「それがさめちゃったんだ。そしたら、するするとのびて、行燈の油をペロペロ……だめだ、だめだ、あんなもの……」 「なにをいってやがるんだ。ばかっ、これが、首がのびておめえをなめたとか、食いついたとかいうんなら、そりゃあことわりようもあるけども、承知でいっといて、いまさらそんなことをいってこまるじゃあねえか。おれが申しわけなくって、腹を切るようなことになる」 「そりゃあ切ってもいいよ」 「じょうだんいうな。人の腹だとおもって……」 「いくら財産があって、いい女でもやりきれない。やっぱり、うちへ帰って、あなたや、といわれなくってもいいから、しなびたおふくろのそばにいたほうが安心でいいや」 「なにをいってやがるんだ。こまったやつだな。おふくろのそばへいくなんていったって、どのつらさげて帰れる? おふくろはこのはなしで大喜びだ。うまくおさまってくれればいい、あしたはいいたよりの聞けるように、おふくろは、うちで首を長くして待ってらあ」 「えっ、おふくろが首を長くして? あっ、そいつあたいへんだ。うちへも帰れねえ」 町内の若い衆 「ごめんください、ごめんください」 「はーい、どなた? ……あら、熊さん、よくいらしったわね。おひさしぶりで……まあ、おあがんなさいな」 「へえ……すっかりごぶさたしちまいまして……なんとも申しわけねえしだいでござんして……」 「まあ、そんなことはよござんすよ。ごぶさたは、おたがいさまですもの……」 「あのう……兄貴は?」 「それがあいにく、組合の寄り合いで、いまでかけたところなの……まあ、いいから、おあがんなさいな」 「へえ、ありがとうござんす……しかし、まあ、あいかわらずおいそがしくって、なによりでござんすね。あの組合だって、いってみりゃあ、兄貴の力で持ってるようなもんだって、もっぱらのうわさでござんすからね」 「まあ、熊さんたら、お世辞のおじょうずなこと」 「いいえ、どういたしまして……お世辞なんぞじゃあござんせんよ。兄貴のえれえのにゃあ、あっしゃあ、すっかり感心してるんでござんすから……おや、まあ、つい気がつきやせんでしたが、いつのまにか、あちらに建て増しができたんでござんすねえ。へえ、この木口の高えってえのに、まったくてえしたもんでござんすねえ。いや、おそれいりました。まったくもって兄貴ははたらきもんでござんすねえ」 「あら、いやですよ。なあに、うちの人のはたらきひとつで、こんなことができるもんですか。これも、みんなあなたがたのおかげですよ。まあ、いってみれば、町内のみなさんが、よってたかってこさえてくだすったようなものですよ」 「いや、そういわれちゃあめんぼくござんせん。では、またうかがいます。兄貴によろしく……」 「あら、ちょっとお茶でもあがってらっしゃいな」 「いえ、またうかがいますから……さようなら……ふーん、さすがに兄貴んとこのおかみさんはえれえや。まったく、いうことがちがうぜ。おれが、『この木口の高えのに、まったくてえしたもんでござんすね』といったら、『うちの人のはたらきでなくって、町内のみなさんが、よってたかってこさえてくれたようなもんだ』って、ふーん、えれえなあ、まったくえれえや。いうことがおくゆかしいや……それにひきかえて、うちのかかあってものは、ありゃあなんだい。満足にあいさつひとつできねえんだから、まったくいやんなっちまうなあ……こねえだだってそうだ。女のくせにあぐらかいて、たばこ吸ってやがるから、『おい、いいかげんにしろい、あぐらなんかかいて……おめえ、それでも女か?』って聞いてやったら、あんちくしょうが、また、いやあがったね、『女かいって聞くけど、おまえさん、身におぼえがあるだろう?』って……口だけは達者なんだから、あきれけえっちまわあ。ああいうやつは、ずうずうしいから、生涯おれに食いついてはなれねえよ、きっと……煮え湯をぶっかけてみようかしら……それじゃあしらみだよ、まるで……おっかあ、いま帰った」 「あら、いま帰ったじゃないよ。いま時分まで、どこをのたくってたんだよ」 「のたくってただってやがら……おらあ、へびじゃあねえぞ」 「あたりまえだよ。気のきいた蝮《まむし》なら、値よく売れるんだから……」 「あれっ、あんなこといってやがらあ。おめえみてえに口のわりいやつはねえぞ。かりにも、おれは、おめえの亭主だぞ。夫《おつと》なんだぞ」 「夫だって? ふん、笑わせるんじゃないよ。下にどっこいをつけてごらん」 「おっとどっこい……なにいってやがるんだ……おめえってものは、だいたい了見がよくねえぞ。ちっともおくゆかしいってところがねえんだから……そこへいくと、兄貴んとこのおかみさんをみろ。おめえなんかたあ大ちげえだ」 「あら、そうかい。おなじ女じゃないか、部分品はおなじだろ?」 「また、それだ。おめえのいうことは、いちいちそれだからやんなっちまうんだ……いいか、いま、おれが、帰りがけに、兄貴のうちの前を通ったから、ちょいとのぞいてみたんだ」 「あら、いやだよ、この人は……のぞき見したなんて……」 「そうじゃないよ。ちょっと寄ってみたんだ。いいか……そうしたら、兄貴は留守《るす》だったが、ふとみると、建て増しができてるんだ」 「あら、そうかい、この諸式値あがりだっていうのに……」 「そうなんだ。だから、おれがいったんだ。『この木口の高えのに、まったくてえしたもんでござんすね。いや、おそれいりました。まったくもって、兄貴は、はたらきもんでござんすね』って……そうしたら、あねさんのいうことがえれえや。『あら、いやですよ。うちの人のはたらきひとつでできるもんですか。これもみんなあなたがたのおかげですよ。まあ、いってみれば、町内のみなさんがたが、よってたかってこさえてくだすったようなものですよ』って……どうだ、えれえもんじゃあねえか。どうでえ、こんなことが、おめえにいえるか?」 「なんだい、それくらいのことがいえなくってさ。いってやるから、普請《ふしん》してごらん」 「ちくしょう! 人の急所にいきなり斬《き》りこんできやがったな……ああ、いやだ、いやだ。おらあ、気分なおしに湯へいってくるから……」 「ついでに沈んじまえ」 「なにをいやあがるんだ。いいかげんにしろい!」  あきれた熊さんが、銭湯へいこうとすると、途中で、八つあんに逢いました。 「よう、八公!」 「あれ、熊さんか。なんだい、もう湯へいくのか? いい身分じゃあねえか」 「なあに、べつにいい身分で湯にいくわけじゃあねえんだ。あんまり、うちのかかあのやつが、ガサガサしてやがるから、気分なおしにでかけてきたのよ……ああ、そうだ……すまねえが、おめえ、おれが湯へいって留守のうちに、なにかおれのことをほめて、うちのかかあが、どんなあいさつをするかためしてみてくんねえ。それによって、あのあま、ただはおかねえから……」 「そんな、ただはおかねえなんて、どうもおだやかでねえや」 「まあ、なんでもいいから、おれのことをほめて、かかあをためしてみてくんねえ。一ぺえ飲ませるからよ」 「そうかい。じゃあ、やってみるか」 「たのむぜ。あしたにでも一ぺえおごるから……」 「ああ、たのしみにしてるよ……さあてと……熊さんのうちへいってほめるのか……ええ、どうしようかな……むずかしいな……ええ、ごめんなさい、ごめんなさい」 「あーら、八つあんじゃないの。いらっしゃい。なにかご用? うちのかぼちゃ野郎、いま、なまいきに湯へいくなんてでていったんだけど……どうせあらったところで、どうなるもんでもないのにさ、あきれるじゃあないか……おまえさん、どっかで逢わなかったかい?」 「いいえ、その……」 「そうかい。また、どっかへむくずりこんじまったのかしら? あのむじな野郎……」 「ひどいねえ、どうも、いうことが……さあてと、ほめなくっちゃあ……しかし、そうおっしゃるけれど、おたくの熊兄《くまあに》いは、てえしたもんですぜ。ちょっとお座敷をみたって、これだけの道具が……あれっ、まるっきりならんでねえや。たんすひとつありゃあしねえ……しかし、まあ、なんでござんすね、なまじ道具がねえだけに、座敷がひろくつかえてよござんすね。ほかのうちとちがって、六畳が六畳のまんま、そっくりつかえるから、どうもてえしたもんで……そのかわり道具がねえから、まあ、掃除するときはやりやすいや。だから、掃除のほうがきれいにできて……あれっ、きれいじゃねえや……道具がねえところに、紙くずが投げちらしてあるから、よく目立っていけねえ……こいつあ、どうも弱ったなあ、でているざぶとんは、綿がまるっきりはみだしているし……土瓶《どびん》は、口がねえし……畳はすり切れちまって、たたがなくて、みばかりだし……ほめるところなんぞ、なんにもねえじゃあねえか……こうなると、なにをほめたらいいんだろう?」  八つあんが、なにをほめようかと、あれか、これかと思案のあげく、ふとみると、かみさんの腹が、ぐっとせりだして、臨月《りんげつ》だというので、肩でようやく息をしているしまつ。これだとばかり、八つあんが声を高くして、 「えらい! えらいね、どうも……さすがに兄いだ。なにがって、そうでござんしょう。この諸物価の高え折りから、赤ん坊をこせえるなんて、じつにどうもてえしたもんだ。やっぱり、兄いは、はたらきもんだ。いや、おそれいりやした。まったくおそれいった」 「あら、いやですよ。これというのも、べつに、うちの人のはたらきじゃあないんですよ。町内のみなさんが、よってたかってこさえてくれたようなもんなんですよ」 万金丹 「おい、どうしたい? しっかり歩けよ」 「とても腹がへって歩けねえ。二、三日ろくなものを食わねえから、歩いてもふらふらしていけねえ。水さえみりゃあガブガブやってみるが、どうもあいつあ腹にたまらねえなあ。ガバガバアン、ガバガバアンなんて腹ん中が水で波立ってやがら……おまけにきょうはむかいっ風だから、腹ん中は時化《しけ》だ」 「なにをいってやあがる……腹ん中の時化なんてあるもんか」 「ああ腹がへった。たまらねえなあ……こう腹がへってくるとなんでも食いものにみえてくらあ……おめえの顔なんぞでこぼこしてじゃがいもにみえらあ……鼻なんぞまっ赤だからたらの子にみえる……ああ食いてえなあ」 「おいおい、よせよ、こんちくしょう。だんだん目がすわってきやがった。あぶねえ野郎だな、ほんとに……」 「ときに兄弟、もう夕方になるが、この大きな原で、銭はなし、家はなし、どういうところへ泊まるんだい?」 「野宿だよ」 「なんだい、その野宿てえのは?」 「あれっ、おめえ野宿を知らねえのか? 野に寝るから野宿じゃねえか」 「ああそうか。それじゃあ山へ泊まれば山宿だ。してみりゃあ鳥なんざあ枝宿だな……おらあ野宿なんぞしたかあねえや。屋根宿の、畳宿の、ふとん宿の、女宿といきてえ」 「くだらねえことをいうない……おっ……おうおう、むこうをみろよ」 「え?」 「どっちをみてるんだ。おれの指の先をみろ」 「ああ爪があらあ」 「なにをいってやんでえ、爪の先をみろってんだ」 「おっそろしく爪をのばしたなあ。おまけに垢がまっ黒にたまってらあ」 「こんちくしょうめ、爪の垢なんざあどうでもいいんだ。むこうに森がすーっとみえて、白い塀がチラチラみえるだろう?」 「どこに?」 「それ、むこうに森がすーっとみえて、白い塀がチラチラみえるじゃあねえか」 「ああ、森も白い塀もみえるけど、そのすーってやつと、チラチラってえのはみえねえぜ」 「そんなものがみえるわけねえじゃあねえか。そりゃあことばのかざりだよ。まあ、あれだけの塀があれば大百姓のうちにちげえねえ。田舎の人は親切だ。行き暮れて難儀をするといってたのんだら、今夜泊めてくれるだろう」 「そうかい、そいつあありがてえ。早くいってなんか食わしてもらおうじゃあねえか。どうも野宿はからだによくねえから……早くいってみよう」 「うん、まあ元気をだして歩け……おうおう、やっと着いたぜ……おい、百姓家だとおもってきたら、こいつあ寺だ」 「なんだい、寺か……しかし、寺には坊さんがいるだろう?」 「そりゃあいらあな」 「坊主食っちまおうか?」 「この野郎、なんでも食う気でいやがる。坊主が食えるかい?」 「ああ、場ちげえのたこぐらいにゃあ食えるだろう」 「じょうだんいっちゃあいけねえぜ……まあ、人を助けるのは出家の役というから、きっと泊めてくれるよ。いま、おれが聞いてみてやるから……へえ、ごめんくださいまし、おたのみ申します」 「はいはい、どなたじゃな? ……いま、おたのみ申しますといったのはおまえがたか?」 「へえ、おまえがたなんで……」 「自分でおまえがたというのはないな……旅のかたか?」 「じつは、行き暮れて難渋をいたします。今晩ひと晩でよろしいんですが、お宿をねがいたいとおもいまして……いかがなもんでござんしょうか?」 「それはさぞご難儀のことじゃろう。ごらんの通りの荒れ寺、夜の具《もの》とてろくにないが、まあ、お泊め申すだけならお泊め申そう」 「へえへえ、もう本堂の隅なり土間の隅なり、どこでも結構でござんすが……へえ、どうもありがとうございます」 「さあさあ、ふたりともそこで足を洗うてこれへきなさい……さあさあ遠慮せずにいろりのそばへきなさい。山路は冷えるでな、火がなによりのごちそう、これへきてあたたまりなさい。これへきて腹をあたためなさい。腹をあぶりなさい」 「え? 腹をあぶる? ……こちとらあ、腹ん中あからっぽで人間の干物《ひもの》みてえなもんだけど、まさかてめえで、てめえをあぶって食うわけにもいかねえしな」 「なにをくだらねえことをいってるんだ」 「なんか食わせてくれねえかな? 催促してみろい」 「そうもいくめえ」 「だからよ、すこし昼めしを早く食いすぎたかなんかいやあ、むこうで気がつくぜ」 「そうかな? ……やってみるか」 「やってみようじゃあねえか」 「うん」 「なあ兄弟」 「うん?」 「すこし昼めしを早く食いすぎたなあ」 「そんなに早く食ったかなあ」 「ああ早すぎたとも……なにしろ、おとといの晩に食っちまったから……」 「いや、これは愚僧としたことがうかつであった。あなたがたはよほど空腹のごようすじゃな」 「へえ、もう空腹なんてなまやさしいもんじゃあねえんで……もう、へそが背なかへぬけちゃいます」 「そりゃあお気の毒だ。そこに鍋がかかっておる。雑炊《ぞうすい》だが、よかったらおあがり。むこうの棚に椀《わん》があるから自分で盛ってたくさんやんなさい。椀はふたつあるが、箸《はし》は一膳しかないから、そちらのかたは、その火箸でおあがり」 「火箸で? ひでえことになりゃあがったな……じゃあ遠慮なくいただきます……おい、いただこうじゃあねえか」 「うん」 「おい、なにを変なつらあしてるんだ? え? においをかいでみろ? ぜいたくいっちゃあいけねえや、においなんぞどうだって腹さえくちくなりゃあ……なるほど、変なにおいだ」 「それになんだか舌へざらざらあたるぜ」 「舌へざらざらあたる? ……うん、なるほど……ええ、ちょいと和尚《おしよう》さんにうかがいますが……」 「なんじゃな?」 「へえ、この雑炊は、どうも変なにおいがして、口へいれるとざらざら舌にあたりますが、一体これはなんでしょうか?」 「それは、人間のからだに精分がつく薬じゃによってたくさんやんなさい」 「へえ、なんの雑炊なんで?」 「それは赤土のよく乾したものを雑炊にしたのじゃ」 「へえ、赤土? じょうだんじゃあねえ、いくら精分がつくからって、万年青《おもと》じゃああるまいし、赤土で精分なんぞつけられちゃあたまらねえや……それに、和尚さん、藁《わら》のようなものが歯にひっかかりますが……」 「ああ、それは藁のようなものではない」 「藁のようなものでないっていうと、なんなんで?」 「ほんとうの藁じゃ。からだをあたためるようにいれてある」 「じょうだんじゃあねえや。いくらあったまるったって、赤土と藁を食やあ、なんのこたあねえ、腹んなかへ壁ができちゃいますからね、せっかくですが、この雑炊はごめんこうむりましょう」 「いや、おまえがたに食せんのもむりはない。愚僧にも食べられん」 「いやだなあ、自分で食えねえものを……」 「じつはな、わしの師匠がな、出家は樹下石上を宿とするのがつね、武家でいう治にいて乱をわすれずということを教えてくれたによって、月に一度ずつかようなものをこしらえて食すのじゃ。きょうは、師匠の祥月命日《しようつきめいにち》、これをこしらえて仏壇にそなえた。その命日におまえがたが泊まりあわせたのもなにかの因縁、そこで一口ふるもうたようなしだい……なむあみだぶ、なむあみだぶ……」 「なんだか陰気になっちまったなあ……ほかになんか食べるものはありませんか?」 「麦飯《ばくはん》でよろしければ、それにあるからおあがり」 「へえ、ありがとうございます」  こうして泊まりましたところが、それから三、四日雨でふりこめられてしまいました。 「これこれ、おまえがた、雨もすっかりあがったようじゃから、そろそろ旅立ってはどうじゃな?」 「へえへえ、すっかりご厄介になりまして、ご厄介になりついでというのもなんでござんすが、もう四、五日おねげえ申してえんですがね」 「そりゃあこまるなあ。旅のおかたを長いこと泊めておくというのは、檀家のものに聞こえてもどうも……」 「しかしねえ、あっしたちもこうして旅をしておりますが、なにしろ江戸を食いつめて大阪へ知りびとをたずねていくというような心ぼそい旅なんで……」 「まあ、いってみればあまりあてのない旅だというのじゃな」 「へえ、そんなことなんで、もうすこしのあいだご厄介に……」 「どうじゃな? あなたがた、そんなあてのないことで知らぬ他国へいくよりも出家しなさる気はないか?」 「え?」 「うかがったところによると、たいへんに親不孝もし、道楽もしたようであるが、このさい、罪障消滅のために髪をおろし、御仏《みほとけ》の弟子になって修行《しゆぎよう》する気はないか?」 「へえ、なんのことで?」 「つまり、坊さんになるのだな」 「坊主になると、どうかなりますか?」 「一人出家すれば九族天に生ずというな」 「へえ、きゅうりがてんかんになりますか?」 「いやいや、親戚一同のものが極楽浄土へいけるということじゃ。どうじゃな、出家する気はないか?」 「へえ……どうする? 兄弟、和尚さんが坊主になれっていうが、やってみるかい?」 「そうよなあ、なまじっかあてのねえ旅をしてひもじいおもいをするこたあねえからな。まあ、身のふりかたのつくまでやってみるとしようか」 「そうかい……じゃあ和尚さん、なにごとも融通《ゆうずう》ですからねえ、ひとつ坊主をやってみましょう」 「これこれ、融通で出家するやつがあるか。しかし、まあ、おまえがたのことだ。たいして悪気もなかろう。さっそく髪をおろして名前をつけてやろう。おまえがたの名はなんというな?」 「あっしはねえ、梅吉で、こいつは初五郎と申します」 「では、梅坊と初坊となるがよい」 「梅坊主に初坊主とくりゃあ、どうみてもかっぽれだ」  まことにいいかげんな坊主ができあがりましたが、それでも二十日もたつと、どうにか坊さんらしくなりまして、毎朝、本堂で念仏をとなえるようになってまいりました。 「なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……なあ梅坊、しばらく酒をのまねえが、飲みてえなあ……なむあみだぶ、なむあみだぶ……それに女もずいぶん抱いてねえなあ……なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……かわいい女の子と一ぱいやりながら四畳半なんてえなあたまらねえからなあ……なむあみだぶ、なむあみだぶ……おい、ここの和尚はずいぶん金を持っていそうだなあ」 「そうだなあ」 「どうだい、和尚をしめ殺して、有り金かっぱらってずらかっちまうか?」 「それもいいなあ」 「じゃあ善は急げてえから、今夜さっそくやっつけるか、なむあみだぶ、なむあみ……」 「これこれ、なんじゃ、両人のもの、これにおって聞いておればまことにおだやかならん相談をしておったな。和尚をしめころして、有り金持ってずらかるとな?」 「いえなに、ただそうしようかって、はなしをしただけなんで……まあ、しめ殺すほうにまとまりがつきましたが……」 「そんなことをまとめてるやつがあるか……そんなことよりも、両人ともこれへきなさい。じつはな、京都の本山から飛脚がまいって、ぜひいかねばならんことに相成った。おまえたちに留守をいいつけるによって、よう留守居をなさい。わしの留守のあいだに乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》をしてはならんぞ。それに檀家から葬式万端持ちこんでくることがあったら、とてもおまえたちの手には負えまい。この山ひとつ越すと静蓮寺《じようれんじ》という寺がある。これへたのんで万端のことをしなさい。よろしいか?」 「へえへえ……和尚さま、いつごろお帰りになります?」 「一月ほどは帰らぬによって、どうかたのみますぞ」 「へえ、よろしゅうございます。まあ安心していってらっしゃいまし」 「いってらっしゃい、お近いうちに……」 「和尚め、高慢ちきなつらあしてでていきゃあがった。どうだ、梅坊、鬼のいねえ留守に命のせんたくといこうじゃねえか。酒を買ってこいよ」 「酒買うったって銭がねえやな」 「銭なんぞ、本堂へいけば賽銭《さいせん》箱があるじゃあねえか」 「だって鍵がかかってるぜ」 「そんなものあぶちこわせ」 「和尚が帰ってきて文句いうだろう?」 「かまうこたあねえから、賽銭泥棒がへえったかなんかいってごまかすさ」 「そうかい、じゃあちょいといってくらあ……だめだ、だめだ、貧乏寺は情けねえや。賽銭いれるやつもろくにねえとみえて、たいしたこたあねえぜ」 「なんだ、これっぽっちか……まあ、それで酒を買うとして、魚はと……そうだ、裏の池へいきゃあ、鯉《こい》か鯰《なまず》ぐれえいるだろう。そんなもんでもとってこようじゃあねえか」 「とってくるったって、網がねえぜ」 「網がなけりゃあ、麻の衣《ころも》があるじゃあねえか。あいつでやっつけろ」  らんぼうなやつがあるもので、酒を買ってきて、鯉こくのようなものをこしらえると、ひさかたぶりでやりましたから、ふたりともすっかりいい気持ちになりまして、 「どうでえ、すっかりいい心持ちになっちまったなあ、どうだ、酒はまだあるか? なくなったらかまうこたあねえから、本堂のもんでもなんでもたたき売っちまえ。あみださまだろうがなんだろうがかまうこたあねえや……あーあ、いい心持ちだ。こんないい心持ちになったってえのに、ただ飲んでるのもおもしろくねえな。どうだ、木魚でもたたいて都都逸《どどいつ》でも唄うか?」 「あんまりぱっとしねえな」 「じゃあ、ぱあっとしたところで、本堂へ火をつけてわっとさわごうじゃあねえか」 「ぱあっとしてるのはいいが、あとでいるところがなくなっちまわあな」 「ええ、ごめんくだせえまし、おたのみ申します」 「おう、表のほうにだれかきたぜ。おめえ、ちょいとみてきてくれ」 「厄介《やつけえ》な野郎がきやがったな。どれ、いってみるか」 「おい、待ちな、待ちな、はちまきはとっていけよ」 「だっていせいがいいじゃねえか」 「まっ赤なつらあして坊主がはちまきで、でていきゃあ、ゆでだことまちがわれらあ。いいからとっていけよ」 「そうかい……おう、なにか用か?」 「あんれまあ、いせいのいい坊さまがでてござったぞ……まあ、おめえさま、うでだこみてえにまっ赤でねえか?」 「なんだと、まっ赤だ? ああ、このまっ赤なところがありがてえ坊主のしるしだ。ふだんから緋《ひ》の衣《ころも》てえのを着てるから、こうやってまっ赤に染まっちまったんだ」 「へーえ、そうでごぜえますか」 「ああ、そうだとも……ときに、なんか用か?」 「はあ、てまえは、当寺《とうでら》の一檀家でごぜえます新田《しんでん》の万屋《よろずや》金兵衛の身内のものでごぜえますが、けさほど金兵衛が死去つかまつってごぜえます」 「そうかい。そりゃあ結構だ。いずれお目にかかっておよろこび申しますとそういってくれ」 「いえ、死去《かくれ》ましたので……」 「かくれた? そんならさがしたらいいじゃあねえか。これぽっちのせめえ土地だ。じきにわかるだろう」 「なに、金兵衛が落ちいりました」 「どこへおっこった?」 「こりゃあ、はあ、どうもわからねえ坊さまだな……金兵衛がおっ死《ち》にましたんで……」 「ああそうかい、くたばったのか」 「くたばった?」 「くたばったんならくたばったとはやくいうがいいじゃあねえか……それでなんだろう、安葬《やすとむら》いでもだそうってんだろう?」 「さようでごぜえます」 「そいつあこまったなあ、和尚はいねえしなあ……あっ、そうだ、いいよいいよ、安心しな。和尚はいま京都の本山へいって留守だが、江戸からありがてえ大僧正が、これも京都の本山へおいでになるってんで、ちょうど当寺《とうでら》にお泊まりあわせになってるから、そのお上人《しようにん》にたのんでやろうじゃあねえか。そのお上人がいってくださりゃあ、おめえんとこの仏はしあわせだよ。ちょっと待ってな、いまお上人さまに聞いてみてやるから……おい、梅坊、いくんだいくんだ」 「なんだなんだ、喧嘩の助《すけ》っ人《と》か?」 「よせやい、寺へ喧嘩の助っ人をたのみにくるやつがあるもんか。葬《とむれ》えだよ」 「じゃあ、この山ひとつ越して静蓮寺とかいう寺へたのんだらいいじゃあねえか」 「もったいねえことをいうない。うっかりそんな寺へたのんでみろい、お布施《ふせ》はみんな持ってかれちまうじゃあねえか」 「じゃあ、どうするんだ?」 「おめえが江戸のありがてえお上人さまてえことになってるから、むこうへいって、しらばっくれてお経をあげて、お布施をもらったら、それで一ぱいやろうってんだ。さあ、でかけろい」 「そいつあだめだ」 「どうして?」 「どうしてって、おらあ、お経なんざあ知らねえもの……」 「かまうもんか、知らねえったって……なんだっていいんだ。お経らしく節《ふし》をつけてやってりゃあ、それらしく聞こえらあな……いろはにほへとだってなんだっていいんだよ」 「えっ、いろはにほへと?」 「そうよ。いかにもお上人さまみてえな高慢なつらあして、鉦《かね》のひとつもチーンとたたいてな、いー……ろー……はー……にー……ほー……へー……とー……チーンとかなんとかやってりゃあ、お経らしく聞こえらあな」 「大丈夫かい?」 「大丈夫だってえことよ。それであっさりしすぎてるとおもったら、沖の暗いのに白帆がみえるでもなんでも、おまけにやってやれ」 「それじゃあ、かっぽれみてえだ。どうもたいへんなお経だなあ」 「いいんだよ。で、いいかげんのところで引導《いんどう》をわたしちまえばかまやあしねえや」 「引導ってえのはどうするんだ?」 「なあに、かまうこたあねえから、引導らしいもっともらしい声をだして、それつらつらおもんみるに、地獄極楽のふたつあり、いきたきかたへ勝手にいけ! 喝《かつ》! かなんかいっておけ」 「いいのかい、そんなことで?」 「もしもそれでぐずぐずいいやがったら、おれがまわりの野郎を三、四人張り倒すから、そのすきに香奠《こうでん》かっつぁらってずらかっちまえ」 「らんぼうだな、どうも……」 「じゃあ、手はずはきまったぜ……ああ、お上人さまがいってくださるそうだ。さあさあ案内をしてくれ」 「こりゃあありがとうごぜえます。そうだにえれえお上人さまをおつれ申せばよろこびますべえ。なにしろまあ、金兵衛のところは村一番の金持ちでごぜえますから、お布施のところもたっぷりはずませてもれえます」 「そうか、そいつあ豪儀《ごうぎ》だ。じゃあ、まあ、早えとこ案内しな」 「へえ、よろしゅうごぜえます。こりゃあ、お上人さま、ごくろうさまでごぜえます。こうおいでくだせえまし……へえ、ここでごぜえます……ああ、いってめえりました。和尚さまあござらっしゃらなかったが、江戸からありがてえお上人さまてえおかたが、ちょうどお泊まりあわせで、はあ、そのお上人さまあたのんでおつれ申しただ」 「はあ、それはそれは、どうもありがてえこった。さあさあ、お上人さま、どうかまあよろしくおねげえ申します」 「はあ、よろしい。ではさっそく……なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……これ、新仏があるというのに仏壇をしめておいてはいかんではないか……なむあみだぶ、なむあみだぶ……しまった、数珠《じゆず》をわすれてきた」 「そそっかしい坊さまだなあ」 「なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……ああ、田舎の仏壇はずいぶんかわっている。線香も花もなんにもあがっていない……なむあみだぶ、なむあみだぶ……こんにゃくとがんもどきと蓮《はす》の煮《に》しめに、たくあんと梅ぼしとつくだ煮があがっているが、こういうものを食うとのどがかわいてしょうがねえ……なむあみだぶ……」 「あれあれ、和尚さま、それは仏壇ではありません。蠅帳《はいちよう》で……」 「はい、ちょうですか」 「あんれまあ、つまんねえしゃれをいうお上人さまだ……こちらに棺桶がごぜえますからおねげえ申します」 「ああ、さようか、なるほど棺だ、棺だ、かんだからからとうち笑い……えへん……なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……このへんで鉦を打ってお経にうつるぞ……チーン……いー、ろー、はー……にー、ほー、へー、とー……チーン……富士の白雪ゃノーエ、富士の白雪ゃノーエ、富士のサイサイ、白雪ゃ朝日でーとける……」 「おかしなお経だね、どっかで聞いたような文句でねえかな」 「なむあみだぶ、なむあみだぶ……おてもやん、あんたこのごろ嫁入りしたではーないかーいーなー……嫁入りしたこつぁしたばってん……チーン……お経はこのくらいにしよう。お経の長いのは仏のためにもよろしくない。お経はさわりのとこだけにかぎる」 「あんれまあ、お経にさわりなんてえのがごぜえますか?」 「ああ、お経だの、痴漢だのてえものは、みんなさわりがつきものだ」 「ばかこくでねえだ」 「さあさあ、お上人さまは、お経がおわったところですこしおやすみになる。あとでゆっくり引導わたしてあげるから、仏のために寺へおさめ物をしなさい。ああ、なるべく現金のほうがよろしいぞ。それはすぐにわしがもらっていくから……それから、こちらのお上人さまは、酒は飲まねえとか、生ぐさものは食わねえとか、そんなやぼなことはいわねえから、なんでもどんどん持ってこい。それにお通夜《つや》の陰気なのはいけねえな。じゃんじゃん陽気にさわげ、芸者でもなんでもあげて夜通しさわぎまくれっ」 「あんれまあ、なんていせいのいい坊さまだ……和尚さま、おねげえがごぜえます」 「なんだ、なんかくれるか?」 「いや、そうではごぜえません。まだ戒名《かいみよう》をいただいておりませんので、ぜひひとつ戒名を……」 「戒名? そうだったなあ、うっかりしてた。そうと知ったら本堂のなんかひっぺがしてくるんだったなあ……戒名なんかどうでもいいだろう」 「いや、戒名のねえ仏というのはごぜえません」 「そうかい……しかし、おめえのうちでもまただれか死ぬだろう? そのときいっしょにまとめてつけようじゃねえか」 「そんなわけにはいかねえだ」 「そうかい、田舎は融通がきかねえな……ええ、お上人さま、戒名がいると申しておりますが……(小声で)なんかねえかい? なあに、字が書いてありゃあいいんだ」 「(小声で)字が書いてあればいいのか? ……うん、こりゃあどうだ? 和尚の居間を掃除してたらおっこってやがったんだが……」 「(小声で)どれどれ……なんでもいいや、字さえ書いてありゃあかまやあしねえ……おいおい、戒名はできていたぞ。お上人さまがお寺をおでかけになるときおつけくだすったんだ。ありがたくおうけするように……」 「へえ、ありがとうごぜえます。これ、みんなここへこうや、お上人さまから戒名をいただいたぞ。これが戒名だ。なに? 戒名なんてものは長えもんだってか? うん、そういえば、えかくまっ四角だな……和尚さま、えかくまっ四角な戒名でごぜえますね」 「ああ、そりゃあ新型の戒名だ」 「へーえ、新型かね? ……えー、なんだと……ええ、官許、伊勢浅間、霊宝万金丹……なんだこりゃあ? ……だめだ、和尚さん、こりゃあ薬の袋でねえだか」 「そうかい、まあいいやな」 「よかあねえだ。戒名なんてものは、その仁《にん》に合うようにできてるもんだ」 「その仁にあってるじゃねえか」 「合ってる? じゃあ、はじめの官許てえのはどういうわけかね?」 「わかりきったことを聞くなよ。いま、お上人さまが棺の前で経をお読みになったろう?」 「へえ」 「だから、かんきょう(棺経)よ」 「へーえ、棺の前で経を読んでかんきょうかね、なんだか判《はん》じ物みてえだね……じゃあ、この伊勢浅間てえのはなんだね?」 「生きてるうちはいせいがいいが、死んじまえば、こんなあさましい姿になるじゃあねえか。いせいのいい者が、あさましくなるから、いせいあさまじゃあねえか」 「はあそうかね……霊宝……この霊宝ちゅうのはなんだね?」 「ああそれか……それは……死ねば幽霊になるから霊の字をつけた」 「幽霊になぞでられてはこまりますだ」 「だから幽霊がでないようにお上人さまにありがたいお経をあげていただいて、お布施をさしあげるわけだ。お布施は、金だ、お宝だ。お宝で幽霊をとめるから霊宝となる。したがって、お布施をはずめということだ」 「あんれまあ、戒名の中にお布施の催促までへえってますかね? ……じゃあ、この万金ちゅうのはなんだね?」 「万屋《よろずや》金兵衛が死んだんだから、万金《よろきん》の万金とならあ」 「へえ、そうかね……ええと……万金丹……この丹ちゅうのはなんだね?」 「うるせえな、丹ぐらいまけとけよ……金兵衛が死ぬときに、ゴロゴロと痰《たん》がのどへからまった。万屋金兵衛が、ゴロゴロきゅうと死んだから、それで万金丹となるじゃあねえか」 「いや、痰《たん》がからんで死んだんではねえだ。年よりの冷水《ひやみず》で、よせばいいに、屋根の草むしりしてるうちに屋根からころがりおちて死んだだ」 「なに? 屋根からおっこったんだと? じゃあ、おっこったんのたんでいいじゃあねえか。屋根からコロコロコロコロおっこったんさ、コロコロコロコロ万金丹、コロコロコロコロ万金丹さ」 「はあ、おっこったん、万金丹かね?」 「そうよ。コロコロコロコロおっこったん、コロコロコロコロ万金丹とくらあ」 「はあ、どうもこりゃあ陽気な戒名だ……わきに白湯《さゆ》にてもちうべしとただし書があるでねえか、なんだね、この白湯にてもちうべしちゅうのは?」 「白湯にてもちうべしってんだから、この仏にはお茶湯《ちやとう》をあげるにはおよばねえ」 蛙茶番  むかしは、素人《しろうと》があつまって、よくお芝居をいたしました。  素人芝居ということになりますと、たいてい出る狂言は「忠臣蔵」で、みんな勘平《かんぺい》ばかりやりたがります。まちがっても、「あたしは猪《いのしし》をやってみたい」なんて人はひとりもおりません。「あたしも勘平」「おれも勘平」「おいらも勘平」てんで、勘平の志願者ばかりふえます。こうなると、世話役もすっかりこまってしまいまして、役もめがおこってはめんどうくさいというので、のこらず勘平にして、幕があくと、鉄砲かついで、三十八人ずらりと勘平がならびました。これにはみている見物のほうがおどろいて、 「ほう、たいそう勘平がならびましたな、なんです? これは?」 「へえ、カンペイ式(観兵式)でしょう」  なんてんで、世話役も骨の折れることでございます。 「おいおい、番頭さんや」 「へい、旦那さま、およびでございますか?」 「およびでございますかじゃありませんよ。お客さまもおそろいになったのに、幕をあけてくれなけりゃこまるじゃないか。おまえさんが世話役なんだから、どんどんすすめておくれ」 「いいえ、もう用意はできてるんでございますが、役者がひとりまいりませんので……」 「役者がひとりこない? だれだい、そりゃあ?」 「へえ、伊勢屋の若旦那なんで……」 「それじゃあ迎《むか》いをだしたらいいじゃないか」 「それがどうも……なんべんも使いもだしたんでございますが、急病ということなので……」 「急病? それはこまるじゃないか。で、役はなんなんだい?」 「ええ、そのことなんでございますが、急病の原因は、その役のせいではないかと存じますが……」 「役もめかい? こまるね、どうも……こんどは苦情がでないようにくじびきで役をきめたんじゃないのかい?」 「さようで……」 「それでいて、どうしてこんなことになったんだい? で、伊勢屋の若旦那の役はなんなんだい?」 「ええ、天竺《てんじく》徳兵衛の『忍術ゆずり場』でございまして……」 「仕出し(筋に関係ない軽い役)の船頭にでもあたったのかい?」 「それならよろしいんでございますが……」 「だって、ほかにたいした役はなかろう?」 「それがございますんで……」 「なんだい?」 「じつは、ガマなんで……」 「ガマ? あの徳兵衛が忍術を使ってでてくるガマかい?」 「あたりました」 「じょうだんじゃない。役が悪すぎるよ。どうも気がきかないね。あんな役をくじにいれることはないじゃあないか。そりゃあおこるのがあたりまえだ。で、かわりはみつからないのかい?」 「で、伊勢屋さんでおっしゃいますには、番頭をかわりにやろうといいますので……」 「へえ、番頭さんをね……で、番頭さんは芝居のほうは心得があるのかい?」 「いいえ、芝居はさっぱりなんで……そのかわりそろばんならばたしかだということで……」 「おいおい、ばかなことをいっちゃいけないよ。芝居とそろばんがいっしょになるかい? はやくだれかかわりをさがして幕をあけなさい」 「へえ……どうもこまったなあ……みんな手がふさがってるし……あっ、そうだ、定吉がいた……おい、定吉、定吉」 「へえ、番頭さん、およびで?」 「ちょっときておくれ」 「お使いでございますか?」 「いや、おまえは、まったくよくはたらくなあ。いつも感心してるよ」 「へえ……」 「で、ごほうびといっちゃあなんだが、きょうは、おまえを芝居へだしてやろうとおもうんだが……」 「お芝居へだしてくださるんでございますか? あたしを役者に?」 「うん、まあそうだよ。どうだ、やるかい?」 「ありがとうございます。あたくし、お芝居は大好きなんで……」 「そりゃあよかった。でておくれ」 「で、役はなんでございます?」 「役かい? 役はガマだ」 「ガマ? そういう名前の役なんで?」 「ああ、そう」 「どんなことをいたしますんで?」 「どんなことって、こう……たいしたことはないよ。ただ、のそのそとはいだせばいいんだから……」 「へ? はいだせばいい? すると、なんですか、あたしの役はガマ蛙なんですか?」 「ああ、そうだよ」 「なーんだ、ガマ蛙か……じゃあよします」 「そんなことをいわずにやっておくれよ。じつは、伊勢屋の若旦那にくじがあたったんだが、でてこないんだ。そこで、おまえにたのむんだから、まあ、あたしを助けるとおもってでておくれ。後生だからでておくれ」 「さいですか。そんなにおっしゃるんならでますが、でるとこを教えてください」 「ああ、教えてやるとも……それから、これはすくないが、とっといとくれ」 「なんです、このお金は? あたくしにくださるんで?」 「そうだよ。ガマ賃だ」 「へえ、ガマ賃!?」 「ええと、そこで、芝居の筋《すじ》をはなしておこう。これは、『天竺徳兵衛|謀叛《むほん》ゆずり場』という芝居だ。ところで、幕があくと、舞台一面の浅黄幕《あさぎまく》。ここへ船頭の浪六と浪七がでて、わたりぜりふになり、これがひっこむと、柝《き》がしらで浅黄幕をふりおとす。上手《かみて》に赤松|満祐《まんゆう》の幽霊、下手《しもて》に天竺徳兵衛、長ぜりふの末に、満祐から徳兵衛が忍術の極意《ごくい》をゆずられる。ドロン、ドロン、ドロンと大どろになるから、そこへおまえがガマになってでてくる。徳兵衛が見得《みえ》を切って幕がしまる。と、まあ、こんなぐあいだ」 「わかりました。つまり、太鼓がドロドロっていったら、ぴょいととびだせばいいんですね」 「そうだよ」 「それでおしまいですか?」 「そうだ。おしまいだ」 「なんだ、つまんない役ですね。踊りかなんかそこでありませんか?」 「ガマが踊るやつがあるものか……いいな、わかったな、たのむよ……え? なに? だれがきてない? 舞台番? だれだい、舞台番は? 半公? 建具屋の半公かい? 世話をやかせるなどうも……おい、定吉、お役者をつかってはなはだすまないが、おまえ、半公のところへちょっといって、よんできておくれでないか。『みなさんおそろいで、もう幕があきますから、いそいできてください』ってなあ、たのむよ。急いでいってきておくれ」 「へえ、いってまいります……さあ、半ちゃんのうちは……ああ、ここだ……こんちわ、いるかい? 半さん」 「おう、定どんじゃねえか」 「あのう、お芝居が始まりますから、すぐきておくれって……」 「芝居か? いかねえよ」 「そんなこといわないで、きておくれよ」 「いかねえよ。いくもんか。あのな、おめえにこんなことをいったってしょうがねえが、じつはこうなんだ。町内に芝居があるっていうから、『あっしも一役やらしていただきましょう』とおれがいったときの、おめえんとこの旦《だん》つくのせりふが気に食わねえ。おれの顔を穴のあくほどじいっとみて、『半ちゃん、おまえ、鏡をみたことがあるのかい? いずれ化けもの芝居があったときには、おまえを座頭《ざがしら》にたのむとして、こんどは舞台番をやってくれ』ってんだ。なにいいやがんでえ。ふざけるねえ。どうせおれはいい男じゃあねえ。つらはまずい……なにいってやんでえ。どうせつらはまずい……ああ、まずいとも……」 「えへへ、そういわれてみると、ひどくまずい」 「なにいってやんでえ。つまんなく感心するねえ……だれがいってなんかやるもんか……おめえもはやく帰んな。はやく帰れ!」 「さいなら……たいへんだ、こりゃあ……へえ、いってまいりました」 「ああ、ごくろうさま。どうした? 半公はくるかい?」 「だめなんで……なんでも旦那さまが、『こんど化けもの芝居の座頭にたのむ』とおっしゃったとかで、もうすごいおかんむりで……」 「そうかい、そりゃあこまったな。なにかいい思案は……と、そうだ。いいことがある。いいかい、定吉、こんどは、おまえ、迎いにいってあいつをうまく持ちあげておくれ」 「持ちあげるんでございますか?」 「そうだよ」 「だって、あたくしじゃあ重くて持ちあがりません」 「そうじゃないよ。油をかけるんだ」 「火をつけますか?」 「そうじゃないよ。まあ、はやくいえば、おだてるんだ。なあ定吉、半公は、小間物屋のみい坊に岡惚《おかぼ》れしてるってじゃないか?」 「へえ、そうなんで……でも、惚れたってだめなんですよ。なにしろ足袋屋《たびや》の看板なんですから……」 「なんだい? その足袋屋の看板てのは?」 「へえ、片っぽうだけできている」 「つまらないしゃれをいうな……いいかい、こんど半公のところへいったら、こういうんだ。『いま帰ろうとしたら、途中でみいちゃんに会って、どこへいくんだと聞かれたから、半さんのとこへお使いだよといったら、名前を聞いただけで、みいちゃんがぽーっと赤くなって、あら、半さんもお芝居にでるのって聞くから、こんどは舞台番だといったら、みいちゃんがほめていたって……ほんとうに半さんはえらい。素人が、おしろいなんかつけて、ぎくりばったり変なかっこうをするよりも、舞台番と逃げたところが半さんのりこうなところだ。あの人は粋《いき》だから、きっと似合うわ。お芝居はどうでもいいけど、半さんがでるんなら、これからすぐにみにいくわって、みい坊がそういってた』と、こういいな。すると、あのばか、喜んでとんでくるから……」 「なるほど、こりゃあいいや。うまいなあ。へえ、いってまいります……おう、半さん、またきたよ」 「なんだ? またきただと? ……だれがなんといおうといくもんか。ふざけんねえ」 「それがね、いま、みいちゃんに会ってね、『半ちゃんのうちへいく』っていったら、ぽーっと赤くなって……」 「えっ、みい坊が、おれんとこへいくっていったら、ぽーっと赤くなったってえのか? ふーん、そうか。うんうん、町内の娘っ子にもやっと半ちゃんの値打ちがわかってきたな。で、どうしたい?」 「で、『きょうのお芝居に半ちゃんもでるのかしら』っていうからね、『でるにゃあでるけれども舞台番だ』って、そういった」 「ばかっ! どじ! まぬけ! そんな気のきかねえことをなんでいうんだ? みっともねえじゃあねえか」 「ううん、そういったら、みいちゃんがほめてたよ。『素人がおしろいつけて、ぎくりばったり変なかっこうするのはいや味だけど、そこをぐっと渋く、舞台番と逃げたところは、さすがに半ちゃんはえらい』って……『あとでみにいくわよ』っていってたよ」 「ほんとうかい? え? みい坊がいくってのか? ふうん……ふふふふ……なあ、旦那だってそうだ。ものをたのむんなら、なにも化けものだなんぞいわねえでさ……こっちだって、そんなことをいわれりゃあおもしろくねえやな。だれがなんといおうと、こんどはおれはもうでねえつもりだったんだが、まあいいや、とにかくいこう」 「え?」 「いくよ」 「はは、うまく持ちあがった」 「なに?」 「いえ、いいんだよ……じゃあすぐにきておくれ」 「ああ、いくよ。いくよはいいんだが、まあ、この扮装《なり》じゃあしょうがねえ」 「着物なんかいいじゃあないか」 「そうよなあ、まあ、扮装《なり》はしょうがねえとして、いま、ふんどしがねえんだ」 「えっ、しめてないのかい?」 「ばかいうねえ。ただのふんどしじゃあおもしろくねえやな。舞台番てえものはな、おめえなんか子どもだから知るめえが、なにしろ舞台のわきで、半畳にすわって尻をまくるんだ。だから、どうしたってふんどしがかんじんなんだ。ところが、おめえも知ってるだろう? 去年の祭りにしめた緋縮緬《ひぢりめん》のふんどし」 「ああ、あの赤いの……あれならきれいでいいや」 「ところで、あれが、いま、うちにねえんだ」 「ああ、わかった。まげちゃったんだね、質にいれちゃったんだね」 「察しのいい小僧だな。じつはそうなんだ」 「ああ、それならなにかといれ替えしなよ」 「なんでもよく知ってやがるなあ。ではと……そうだ。その釜でも持ってって、いれ替えるか」 「釜を持ってく? うふふ、ふんどしのかわりに釜なんざあ縁があっていいや」 「変なこというない」 「じゃあ、急いでおくれよ」 「わかったよ。すぐいくよ」  半ちゃん、これから質受けをして、すぐに店へいけばいいものを、そこはみいちゃんにいいところをみせようって気がありますから、お湯へはいってきれいになろうってんで…… 「おう、ごめんよ」 「へえ、いらっしゃいまし。おや、半さん、たいへんにおめかしで……ああ、そうそう、お店《たな》にお芝居があるそうじゃあありませんか。え? あなたもお芝居へ? え? お手つだいに? お役者ですか?」 「なに? お役者だってやがら……そうじゃねえよ。素人がおしろいなんかつけて、ぎくりばったり変なかっこうするなんてえことはごめんこうむって、おらあ、舞台番と逃げた」 「舞台番と申しますと?」 「舞台のわきへ、ちょいとおれが半畳にすわって、尻をまくってすわって場内をしずめるんだ」 「ああそうですか。しかし、あなた、その舞台番にしちゃあ、おみなりがちょいと地味《じみ》じゃあありませんか?」 「そうよ。これじゃあすこうしばかり地味だ。舞台番ていやあ、首抜きかなんか派手《はで》なものを着るんだ。そこをこっちゃあ、うわべを地味にして、中身でぐっと派手にするんだ」 「へえ? 中身を派手にと申しますと?」 「みてくんねえ。これだ。どうだい、このふんどしは?」 「へえ、緋縮緬ですな。こりゃあごりっぱだ」 「どうだい? 町内広しといえども、これだけのものをしめてるやつはあるめえ」 「はあ、さようで……」 「重くてどっしりしてらあ」 「へえ、へえ……」 「くわえてひっぱってみねえ。チャリチャリ音がすらあ。どうだ、くわえてみるか?」 「いいえ、もうけっこうで……」 「ときに油紙あるか?」 「油紙? どうなさるんで?」 「ふんどしをとられねえように、油紙にくるんで、あたまへ結《いわ》いつけてへえるんだ」 「川|越《ご》しですな、まるで……大丈夫ですよ。そんなことしなくても、番台であずかりますから……」 「え? あずかってくれる? そうか。すまねえな。ひとつ神棚かなんかにあげといてくれ」 「じょうだんいっちゃあいけません」  一方、お店のほうじゃあ、くるといった半ちゃんがきませんから、またあわてました。 「どうしたんだ? 定吉や、半ちゃんとこへもういっぺんいってきな」 「へえ、では、いってまいります……ほんとにあんな手数のかかるやつはありゃあしない……半さん、あれっ、戸がしまってらあ。あの、おとなりのおかみさん、半ちゃん、どこへいったかご存じですか? え? お湯へいった? なんだい、ばかだね、あいつは……なにもこの最中《さなか》にお湯へなんかいかなくったっていいじゃあねえか……こんちわ、あの、半さん、きてますか?」 「おや、お店の小僧さんか。半さんかい? 建具屋のはね半かい? ああ、きてるよ。あそこだ。ほら、尻にひょっとこのほりものをした……」 「あっ、きたねえ尻をしてるな……おい、半さん、なにしてるんだよ。みいちゃんが帰っちゃうっていってるよ。早くしとくれよ」 「えっ? みいちゃんが帰っちゃう? おい、すぐいくから待ってくれ」  半ちゃん、おどろいて湯からとびだして、からだをふく間もなく、あわてて着物をひっかけて、かんじんのふんどしを番台へあずけたまま表へとびだしてしまいました。 「おうおう、半公じゃねえか。どこへいくんだ?」 「やあ兄貴か、どうも……じつは、お店へ芝居があって……」 「ああそうか。で、おめえにもなにか役がついたのか?」 「いえね、素人がおしろいなんぞくっつけて、ぎくりばったり変なかっこうしたってはじまらねえや、そこで舞台番と逃げた」 「え? 舞台番? それにしちゃあ、おめえ、なりが地味じゃあねえか」 「そこなんで、趣向は……まあみてくんねえ。うわべは地味だが、中身のほうをぐっと派手にってんで……まあみてくんねえ、中身を、これ……」 「えっ? 中身を? おいおい、よせよ。ばかだな。真《ま》っ昼《ぴる》間だってえのに、度胸がいいな。まるだしで……こいつは、どうも……いいからしまっときなよ」 「てえしたもんだろう?」 「ああ、てえしたもんだよ」 「りっぱだろう?」 「ああ、りっぱだ。ばかなりっぱだ」 「町内広しといえども、これだけのものは……」 「ああ、ありゃあしねえよ。八丁いまわりさがしたってありゃあしねえ」 「重くてどっしりしてらあ」 「目方もありそうだな、そのようすじゃあ」 「くわえてひっぱってみねえ。チャリチャリ音がすらあ」 「だれがくわえるやつがあるもんか。まあ、早くしまいなよ」 「あとでみにきてくんねえ。きっとだぜ。じゃあ、おれはいくから……」 「ああいくよ、あとで……ばかだな。あいつはふんどしもしめねえで駆けだしていきゃあがった」  やっとお店へ着いた半ちゃん…… 「どうもおそくなってすいません」 「やっときてくれたか。おまえがいないんで幕があかなかったんだから……では、早くでておくれ」 「へえ」  てんで、これでやっと幕があきました。そこは素人ながら十分に稽古《けいこ》がつんでありますから、万事そつがございません。お客のほうも一心に芝居をみておりますが、舞台番の半ちゃんはおちついていられません。なにしろ小間物屋のみいちゃんをさがそうってんで…… 「ええと、みいちゃんは……あれ? きてやしねえじゃねえか。ことによったら帰っちまったのかしら? それはそうと、これだけ見物もはいってるのに、だれもおれをみるものがいやあしねえ。こっちには趣向があるってのになあ。こっちもすこしはみてくれ。しょっしょっ、子どもはさわいじゃいけねえぜ。さあ……」 「どうです、なかなかどうもうまいもんですね。素人芝居だなんてばかになりませんよ。天竺徳兵衛はだれ? え? 紀伊国《きのくに》屋の旦那? へーえ、あの人にこんなかくし芸があろうとはねえ……いや、おどろきました。え? あなた、さっきからなにをみてるんです? お芝居をごらんなさい。え? なんです? 舞台番をみろって? ……舞台番? ああ、あれ、あれは建具屋の半公、通称ばか半、はね半……だいたいそうぞうしい。舞台番がさ、ばかだねえ、あいつは……だいたい舞台番てえものは、客がどなったり、子どもがさわいだりするのをしずめる役なのに、客がしずかにしてるのをひとりでさわいでやがる。あんなばかなやつはないね。あきれた……あなた、なにを笑ってるんです? え? 舞台番をよくみろって? みたってしょうがない。あれは、いまいったように、ばか半……え? 舞台番の顔じゃない? 下のほうをみろって? 下のほうを? ……あっ! ありゃあほんものですかね? まさか、あめ細工やしんこ細工じゃありますまいね」 「さあ、こしらえものじゃありますまい」 「わかった。野郎、さっきからさわいでいたのは、あれがみせたかったんだ。どうもかわった男だね。妙な趣向をしてきて……しかし、かわいそうだからほめてやりましょう……ようよう、半ちゃん、日本一! ご趣向! 大道具ごりっぱ!」 「あっ、ちくしょう。ようやくおれの趣向に気がつきゃあがった」  ほめられた半ちゃん、ありがてえってんで、いっそう派手に尻をまくって前のほうへ乗りだしましたから、場内はこれをみて大さわぎ……そのうちに、芝居のほうはどんどんすすんで、舞台は最後の忍術ゆずり場になって、天竺徳兵衛が九字を切って、ドロンドロンドロンドロン……と、大どろになりましたが、かんじんのガマがでてきません。 「おいおい、ガマはどうした? ガマ蛙がはやくでなくっちゃだめじゃないか。おい、定吉!」 「へえ、でられません」 「どうして?」 「あそこで青大将がねらってますから……」 宮戸川 「番頭さん、せがれはまだ帰りませんか? こまったやつです。今夜は、もううちへいれてやりませんよ。毎晩毎晩、碁《ご》だ、将棋《しようぎ》だとあそんでばかりいて……そりゃあ若いものだから、たまにはしかたありません。しかし、道楽も程度ですからね。それに、いくらせがれだからといっても、店のものたちにしめしがつきません。ですからね、番頭さん、そのつもりで口添えをしないでくださいよ。さあ、今夜はもうやすんでください。いいえ、遠慮しないで……それにしてもだいぶおそいなあ」 「おとっつあん、おとっつあん」 「うわさをすればかげとやら、せがれのやつ、帰ってきたな。番頭さん、かまわないからやすんでくださいよ。早くおやすみよ……」 「おとっつあん、わたしです」 「はいはい、夜分おそいもんでございますから、店はもうしめてしまいました。お買いものなら明朝お早くねがいます」 「おとっつあん、半七ですよ」 「そう戸をおたたきなさいますと、こわれてしまいます。ご近所の手前もございますから、おしずかにねがいます」 「おそくなってまことに申しわけありません。半七でございます」 「ああ、半七のお友だちのかたでございますか。ええ、てまえどもにも半七というせがれがございましたが、ちっともわたくしのいうことを聞きませんで、勝手にあそびあるいてばかりおりまして、店の奉公人のしめしもつきませんし、いかにもならんやつでございますから、もはやみかぎりまして、勘当をいたしました。どうぞ半七にお会いになりましたら、おやじがかよう申したと、お言伝《ことづて》をねがいます」 「おとっつあん、わたしは半七でございます。まことにおそくなってすみませんが、どうぞごかんべんねがいます」 「なに? おそくなってすみませんからごかんべんをねがうだと? いいかげんにしろ! きょうはじめてならば、かんべんもしてやろうが、こう毎晩になってきては、もう愛想《あいそ》もこそもつき果てた。むだ口をきくにはおよばないから、どこへでも勝手にいきなさい。うちには若い奉公人がたくさんいる。せがれだからいいわとすてておいてみろ、奉公人にすみません。おまえのようなものはどこへでもいってしまえ! ……いいかい、店の人たちも、だれも表をあけてせがれをうちへいれてはいけませんよ」 「へえ……まことにすみません。おとっつあん、これからは、きっと夜分おもてへでないようにいたします。碁も将棋も断ちますから、どうぞごかんべんなすってくださいまし……だれかおとっつあんにわびごとをしておくれ……あれっ、みんな寝てしまった。不人情だね」  ちょうどむこう側のうちでは、 「おっかさん、おっかさん、まことにおそくなってすみませんがあけてくださいな」 「いいえ、いけませんよ。若い娘が、いまごろまで表をほっつき歩いていいものか、わるいものかかんがえてごらん。しまいにはろくなことをしでかしゃあしません。あしたおとっつあんがお帰りになるから、よくおとっつあんにうけたまわった上であけましょう。女親だとおもってばかにおしでないよ」 「だって、いろいろ都合でおそくなったんですもの……すいません、あけてくださいな。この寒いのに表に立っていると風邪をひいちまいますから……」 「勝手にあそんできて、よくまあ、そんなことがいえるねえ。風邪をひこうと、車をひこうと、そんなこと知りませんよ」 「おっかさん、おっかさんてば……どうぞここをあけてくださいよ」  むこうでは半七が声を枯らして、 「おとっつあん、あけてくださいな」 「おっかさん、あけてくださいよ」 「おとっつあん」 「おっかさん」  両方で掛け合いでございます。 「おや、そこにおいでなさるのは、お花さんじゃあありませんか?」 「あら、半七さんじゃありませんか。あなたどうなすったの?」 「しめだしをくっちまいました。お花さんは?」 「わたしもしめだしを食べたの」 「しめだしを食べたてえのはありません」 「今夜はしめだしのはやる晩なのね」 「しめだしなんぞはやらないほうがいいですよ」 「で、半七さんはこれからどうなさいますの?」 「しようがありませんから、霊岸島《れいがんじま》のおじのところへいって泊めてもらいます」 「まあ、近くにおじさんがあっていいわねえ。わたしのおじはちょっと遠いの」 「ちょっと遠いって、どこ?」 「肥後の熊本」 「そりゃあ遠すぎますよ。じゃあ、あなたはこれから熊本までいくんですか?」 「とてもいけやあしないわ。ねえ、半七さん、霊岸島のおじさんって、この前、お祭りのときにみえたかたでしょう? ちょいと鼻のあたまの赤い、たんこぶのあるかたね?」 「大きにお世話です。鼻のあたまが赤かろうと、たんこぶがあろうと……」 「たいへんにさばけた意気なかたね」 「おじさんは、うちのおやじとちがって、むかし道楽をしましたから、おもしろい人です」 「ねえ、半七さん、わたし、今晩、霊岸島のおじさんのおうちへ泊めてくださらない?」 「いけませんよ。ふたりでいけば、おじさんに変におもわれます。おじさんは、そりゃあ早飲みこみなんですから……わたしひとりでいきますから、あなたは、熊本へいったらいいでしょう。第一、夜なかに男と女と歩いていればあやしまれますよ」 「だって、わたし、いくところがないんですもの」 「ついてきちゃいけませんよ。だめだったら、ついてくると、石をぶつけるから……」 「そんな意地のわるいことをいわないで……」 「駈けだすから……」 「わたしも駈けだすわ」 「いけないっていうのに……」 「しょうがないなあ。とうとうついてきちゃった。ここがおじさんのうちだから、あなたはそっちへいってください。きちゃあいけないったら……どこへでも勝手においでなさい……おじさん、おじさん、こんばんは、ちょっとあけてください」 「はいはい、いまごろどなたです?」 「おじさん、わたしです。小網町の半七です」 「なんだ、半七か。どうも聞いたような声だとおもった。待ちな。ゆうべっから下っ腹が痛んでおきられない。いま、ばあさんをおこすから、ちょっと待ってくれ。おい、ばあさんや、ばあさんてば……まったくよく寝るばばあだな。これ、ばあさんてえのに……生きてるんだか死んでるんだかわかりゃあしねえ。何年ぶりかでばあさんの寝顔をはっきりみたが、まずい寝顔だね。あれっ、鼻からちょうちんをだしてやがら……ふーん、お祭りの夢かなんかみてるんだな……おや、ちょうちんが消えたとおもったら、こんどは歯ぎしりか。歯ぎしりしたって、歯が満足にねえから土手ぎしりだ。半七、ちょっと待ってな。おい、ばあさん、ばあさんや、おきてくれ。小網町の半七がきたんだ。小網町の半七だよ」 「はい、はい、そりゃあたいへんだ。この節はほんとうに物騒《ぶつそう》だね。うかうか寝てもいられないよ」 「おいおい、ばあさん、なにをあわててるんだい? あれ、腰巻きにご先祖の位牌《いはい》をくるんでどうするんだ?」 「だって、おじいさんが、小網町で半鐘《はんしよう》を打ってるというんだから、火事でしょう?」 「なに寝ぼけてるんだ。あわてるんじゃねえ。小網町から半七がきたといったんじゃあねえか」 「おや、そうかい。まあ半坊、よくおいでだね。おまえ、ちょっとみないあいだにずいぶん老《ふ》けたね」 「あれっ、まだ寝ぼけてやがる。これはおれだよ。半七は、まだ表にいるんだ」 「おじいさん、寝ぼけちゃあいけないよ」 「おめえが寝ぼけてるんだ。早く表をあけてやってくれ……どうせ半七のことだ。また碁か将棋でしくじってきたんだろう。しょうのねえ野郎だ。おれなんぞは若《わけ》え時分、人のうちへひとりでいったことはなかった。女のひとりぐれえいつもひっぱっていったもんだが、あの野郎ときたら、満足なつらを持っていながらだらしがねえじゃあねえか……おい、ぼんやりしてねえで早くあけてやれよ」 「あいよ。半坊、いまごろどうしておいでだい? さあ早くおはいり。なにをもじもじしてるんだよ。あれっ、娘さんがいっしょだね。ちょいと、おじいさん、寝てる場合じゃないよ」 「なんだい?」 「半坊がね、きれいな娘さんをつれてきたんだよ。半坊や、うまくやったねえ。まあ、よく取った、取った」 「ばあさん、なにいってんだ。猫がねずみでも取ったように、よく取った、取ったもねえもんじゃあねえか。ふーん、そうか。そりゃあ大出来だ。半七、早くおつれしねえか。もし、あなた、こんなむさくるしいうちですが、こちらへおはいんなさいまし……半七、なにをしてるんだ?」 「おじさん、勘ちがいしちゃあこまります。きちゃあいけないというのに、この人がついてきちゃったんですよ」 「なにをいやあがる。おじさんは、そんな野暮《やぼ》じゃあねえ。おめえのおやじとはちがうんだ。まったくおめえのおやじぐれえ野暮なやつはありゃあしねえ。あんまり堅くってしょうがねえから、このあいだも、おれが、『すこしは世間をながめろ』といったら、物干《ものほ》しへあがってあたりをみまわしてやがるし、金はきれいにつかわなくっちゃあいけねえといったら小判をみがいてやがる。じつにどうもあきれけえったもんだ。そこへいくと、このおれなんか色できたえたこのからだで、万事心得てるから、まあ安心しろ。どちらの娘さんか存じませんが、明朝あらためてごあいさついたします。半七のおじでございます。毎度、半七がご厄介になります。どうぞ半七をよろしくおねがいいたします」 「こんなにおそくおじゃまいたしまして、まことにごめんどうをおかけいたします」 「いいえ、どうつかまつりまして……なかなかきれいな娘さんだ。半七、よくひっぱってきたな。おれは、おめえを子どもだ、子どもだとおもっていたが、なかなかやるじゃあねえか。うん、感心だ、感心だ。さあ、夜もおそいんだから、二階へあがって、戸棚をあけりゃあふとんがあるから早く寝ちまえ。なにをぐずぐずしてるんだ。早く二階へおつれしないか」 「いいえ、そりゃあいけません。わたしは、今夜は、おじさんといっしょに寝ます」 「ばかあいうな。情婦《おんな》をひっぱってきて、おじさんと寝るやつがあるもんか。さあ、娘さん、早く二階へおあがんなさい」 「まあ、おじさん、それでは、わたしが半七さんにお気の毒さまで……今晩はそういうわけでは……」 「そういうわけもこういうわけもありません。万事こっちは心得てるんだから、まあまあ二階へおあがり……半七、おめえも早くあがんねえか」  ふたりともすっかり煙に巻かれて、追いたてられるように二階へあげられてしまいました。 「おじさん、こまりますよ。ちがうんですから……」 「なにをいってやがる。二階から首だすと突っつくぞ。おりられないように、はしご段をとっちまったからな。なんでもいいから早く寝ちまえ。あしたになったら、おじさんがちゃんとはなしをつけてやるから……」 「だって、ちがうんですから、わたしはおじさんと寝ます」 「ばか! まだあんなことをいってやがる。ふざけたことをいうな。そんないい娘さんじゃあねえか。てめえが気にいらなければ、ばあさんを離縁しておれがもらっちまうぞ」 「なにをいうんですよ。おじいさん……」 「あれっ、ばかばばあ、やきもちやいてやがる」 「やきもちじゃあないけどさ……だけれども、おじいさん、若いうちはきまりのわるいものだよ」 「そうよなあ。おたげえにおぼえがあるからな……野郎はいくつだっけな?」 「ことし十八になったんだあね」 「そうか、あの娘《こ》はいくつぐれえだ?」 「そうさねえ、十七ぐらいかねえ」 「ふーん、ひとつちげえか。いい夫婦だ」 「おじいさん、むかしがおもいだされますねえ」 「あのころは、富本《とみもと》や常盤津《ときわず》がはやってな。おめえが常磐津の稽古に通っていて、おれもあとから通ったもんだ」 「おじいさんは、いまとちがって、あのころは、男前がよくて声もよくってさ」 「ばあさん、おめえも十七、八のころは、ふるいつきてえようないい女だったぜ……それにひきかえて、たぬきばばあになったなあ」 「おじいさん、おまえもしなびたねえ」 「化けたなあ、おたげえに……」 「わたしゃ、あのおさらいのときをよくおぼえていますよ。山台《やまだい》(舞踊などのとき、常磐津、清元連中がならんで坐る舞台よりも一段高い台)におじいさんとふたりであがって、わたしの三味線で、おじいさんが見台《けんだい》の前にきちんと坐って、幕があくと、町内の見物衆が、『よう、待ってました。ご両人。似合いました』といわれたときには、わたしゃぽーっとしちゃって、あんまりうれしいのでおしっこをもらした」 「きたねえな、いうことが……おれだって、あのときは夢中で、なにを語ったんだかわからなかった」 「わたしも夢中で三味線をひいてしまって、あれがわたしとおじいさんの馴《な》れ初《そ》めだったのさ。ちょいと、おじいさん、もっとそばへお寄りよ」 「よせよ。ばあさん……おもえば、いっしょになったとき、おれが二十一で、ばあさんが十八だった」 「そうそう、おじいさんが二十一で、わたしが十八の三つちがい……ねえ、おじいさん、おかしなことがありますね」 「なにが?」 「だって、いっしょになったときが三つちがいで、いまだに三つちがい」 「あたりめえじゃあねえか」  階下《した》では、むかしばなしに花が咲いておりますが、二階のふたりは妙ななりゆきにたがいにもじもじしております。 「あの、お花さん、そばへよっちゃいけませんよ」 「すいません」 「わたしがふとんをしきますから、どいてください」 「いいえ、わたしがしきますよ」 「ふとんは一組しかありませんから、あなた寝てください。わたしが起きてますから……」 「いいえ、半七さん、あなたこそおやすみください。わたし、起きてます」 「寝なければ毒ですよ。じゃあ、帯をふとんのまん中に長くしておきますから、これをさかいにして、なるたけ小さくなって寝てください」  いつとなく寝床《とこ》へはいりましたが、おたがいに若い者同士できまりがわるいから、はじめのうちは背なかあわせに寝ました。  芭蕉の句に、   木曽どのと背中あわせのさむさかな  いいあんばいに、あんどんのあかりが消えてしまいましたのは、出雲の神の縁《えにし》をむすびあわせますのか、どういたしましても、年ごろの者がひとつ寝床《とこ》に寝たのでございますから、ついに、その夜うれしい夢をみました。  翌日、早朝に目をさました半七が、おじの枕もとにきて、ゆうべのようすとは打ってかわって、 「どうぞおじさん、夫婦にしてください」  とたのみました。おじさんはもとよりはなしのわかった人ですから、 「おっとひきうけた」  と、さっそくお花のうちにかけあってみますと、お花の父親もちょうど帰っておりまして、 「半七さんならば結構でございます。ねがったりかなったりで……なにぶんよろしくねがいます。あなたにおまかせ申します」  と、二つ返事で娘をくれました。  さて、こんどは半七の父親は、自分の兄弟だから、はなしはかんたんだろうとかけあってみますと、ものがたい父親ですので、なかなか承知いたしません。 「ひとさまの娘御《むすめご》をかどわかしのようなまねをした不行跡《ふぎようせき》なやつを、うちへいれるわけにはいかないから、ぜひとも勘当する」  と、しきりに頑固《がんこ》なことをいっておりますから、おじも怒ってしまい、 「そんなら勘当しねえ。半七は、おれがもらって、おれのせがれにしよう」  と、父親から勘当金といって、当座入り用の金をとりまして、おじが万端世話を焼き、両国横山町辺へ小ぢんまりしたうちをもたせて、下女と小僧ぐらいつかいまして小商《あきな》いをさせ、夫婦仲もまことにむつまじく暮らすようになりました。おじが時折りやってきては、商いのやりかたを指図《さしず》いたします。もとより場所もよろしいので、いいあんばいに商いも繁昌して、若夫婦はたのしい毎日をおくっておりました。  ところが、ある夏のことで、女房のお花は、小僧を供《とも》につれて、浅草辺へ用足しにまいりまして、観音さまにおまいりをして、雷門のところまでまいりますと、ポツーリ、ポツーリふってまいりました。これをみましたお花が、小僧に傘を借りてくるようにいいつけましたので、小僧は、急いで駒形の知りあいのところへ傘をとりにまいりました。お花は、雷門の軒下《のきした》に立っておりますと、雨はますますはげしくなりました。そのうちに、日はすっかり暮れ、空の底がぬけたかとおもうようなすさまじい大夕立でございます。あまり雨がはげしいのとかみなりのはげしいのとで、ではじめていた夜店《よみせ》の者は店をかたづけ、商人《あきんど》はみな戸をしめてしまいましたから、さすがの盛り場も、日が暮れたばかりというのに、人通りがまったくみられなくなりました。  すると、吾妻橋のむこう側に落雷があって、ガラガラズーンというものすごい音におどろき、お花は癪《しやく》をおこし、歯を食いしばって石畳の上に倒れました。ふだんならだれか介抱をいたしますが、この雷雨で、あいにくだれもみているものがおりませんから、そのままでございます。とたんに、このあたりに住むならずもの三人、ひとりはあたまから米俵をかぶって雨をしのぎ、ひとりはまっ裸でふんどしひとつ、ひとりはぼろぼろの着物を着てなにやらあたまへのせ、雨の中を駆けだしてまいりましたが、やがて雷門の軒下へはいって雨やみをはじめました。 「どうでえ、おっそろしい雨じゃあねえか。あのかみなりはすごかったなあ、目のなかへとびこんだかとおもったぜ。ま、どこへおちたろうな?」 「そうよ、吾妻橋むこう……枕橋あたりへおっこったろうよ」 「そうよな。ここですこし雨やみをしていこう。そっちはまっ裸か?」 「ああ、まっ裸だ。いかに夏とはいいながら……」 「それじゃあうすら寒いだろう?」 「なんだかひんやりしていい心持ちだとおもったが、いまじゃあすこしつめたくなった」  と着物をしぼり、あるいはからだをぬぐい、手ぬぐいをしぼりなどしておりますと、まっ暗ではございますが、倒れているお花が、ひょいと目につきました。 「おや、そこになにかいるんじゃねえか? なんだ? たいそうなものが倒れてるな」 「ああ、どうしたんだろう? さては、いまのかみなりにおどろいて目をまわしたのかな? かわいそうに……いい女だぜ」 「いくつぐれえだろう?」 「そうよなあ、ようようまだ二十一、二というところかな?」 「そんなものだろうな」 「そうだ、助けてやろうじゃあねえか」 「うん、助けてやろう」  と、まだ息がありますから、ひとりが抱きあげて、雨水を口うつしに飲ませようとしましたが、歯を食いしばっておりますから、水ものどへ通りません。すると、ひとりのやつが、お花の顔を穴のあくほどみつめておりましたが、ほっとためいきをついて、 「いい女だなあ、こちとらあ、このくれえな女は、生涯抱いて寝ようたって、とても抱いて寝られやしねえが、どうだ? ここじゃあいけねえや、さびしいところへつれてって、すっかり介抱してやって、その返礼に三人で、なぐさもうじゃあねえか?」 「ばかなことをいうな。そんなことが天下のお膝もとでできるもんか」 「なあに、いのちを助けてやった礼とするからよかろう?」 「ばかをいうな。あらわれてみろ。はりつけ、獄門はまぬかれねえぜ」 「そりゃあ、てめえ、了見がせめえや。これまでさんざんわりいことをしているから、殺されたって不足はあるめえ。ひとつ太く短かく生きようじゃあねえか。これくれえの女をみのがす手はねえぜ」 「そういわれてみりゃあそうよなあ。ひとつやっつけるか……あたりをみろ」  とみまわしましたが、さいわいあかりひとつみえず、人通りはなし、しめたとばかり、三人でお花をかついで、吾妻橋のほうへいってしまいました。そのあとへ小僧が傘をかつぎまして、雷門のあたりをうろうろしながら、 「おかみさん、おかみさん! ……どこへいっちまったんだろうな? 待ってておくんなさいといったのに、どこへいっちまったんだろう? ……おかみさん、傘を持ってきましたよ。おかみさん!」  すると、わきに寝ていました乞食が、むっくりと首をあげて、 「小僧さん、小僧さん、おまえ、おかみさんをおたずねのようだが、あらいさつまのゆかたを着ておいでなすった、かわいらしいかたでしょ? おかわいそうに、さっき、かみなりさまにおどろいて倒れたとたんに、ならずものらしいのが三人きて、どっかへかついでいってしまいましたが、いったさきがわかりませんぜ」 「えっ! そりゃあたいへんだ。知っていながら、おまえ、なぜ追っかけてくれない?」 「追っかけていきたくても、わたしはいざりで立つことができゃあしない」 「不自由ないざりじゃあないか」 「そんな無理なことをいったってしかたがない」 「なにしろたいへんだ」  と、小僧は急いで帰って、半七にこのことを告げましたから、半七もおどろいてさっそく八方に手分けをしてさがしましたが、その夜はとうとうゆくえが知れません。翌日は、伯父に相談して、お上《かみ》へも訴《うつた》え、ほうぼうさがしましたが、ついにゆくえ知れずでございます。やむをえず、お花がいなくなった日を命日として、野辺《のべ》の送りもすませてしまいました。  月日に関守《せきもり》もなく、翌年の一|周忌《しゆうき》になりましたので、橋場が菩提所《ぼだいしよ》ゆえ寺まいりをして、親戚の者にもわかれて半七は、今戸あたりでちょっとした用足《ようた》しをすませ、あまり暑いので、堀の船宿から船に乗って両国まで帰ろうと、船宿の門口へ立ち、 「はい、ごめんよ」 「いらっしゃいまし」 「元柳橋まで片道ねがいます」 「お気の毒さまで……この通りのお暑さで、屋根船がみんな出払っております。猪牙《ちよき》ではいかがでございましょう?」 「ああ、猪牙でもなんでもいい。どうせひとりだから……」 「さようでございますか。お気の毒さまで……」 「それからお手数だが、ちょっとひと口いただきますから、なにかみつくろってください」 「はい、かしこまりました。めしあがりものは? 水貝に洗いかなんかでは?」 「そこいらでよかろうな」  これから小船へ酒、さかなをいれまして、船頭がひとりつき、堀をでます。 「さようならば、おちかいうちに……」  と艫首《みよし》(船のへさき)のさきにちょいと船宿のおかみさんが手をかけますのは、なんのたそく(たし)にもなりませんが、まことに愛嬌のあるもので……いま船がでようというところへ、あだ名を正覚坊《しようがくぼう》の亀という船頭が、小弁慶《こべんけい》(弁慶縞のこまかいもの)のひとえに、紺白木の二《ふ》た重《え》まわりの三尺をしめ、したたかに酔っぱらって、 「おお仁三」 「なんでえ?」 「両国までたのまあ」 「ばかなことをいうな。屋根がなくって、この旦那でさえ猪牙にねがってるんだ」 「いいじゃあねえか。両国までいくんだ。すみのほうでもいいからたのまあ」 「いけねえてことよ」 「旦那にたのんでくれ」 「いけねえよ」 「もしもし船頭さん、両国までいくのなら、お酒のいけるかただ。わたしもひとりでぽつねんとしてるより、お酒の相手がいたほうがいいから、乗せておやりな」 「あまり食らい酔っておりますから……」 「なあに、酔っててもかまやあしないよ」 「さようでございますか、まことにすみません。なに、ふだんは猫みたようないい男なんでございますが、酒がはいるとからっきしだらしがありません。おい、亀、旦那がせっかくああいってくださるから、辛抱しておとなしくしてなくっちゃあいけねえぜ」 「じゃあ、旦那、ごめんをこうむります」  船に乗ってきた亀が、 「どうも旦那、とんだご厄介になります。この通り食らい酔って歩けませんから、ご無理をねがいました。どうもありがとう存じます。しかし、きょうはばかにお暑うございますな……船ぐらい、いいものはございません。うぬが田に水を引くのではございませんが、夏は船にかぎります」 「さあ、やります!」  船頭が櫓《ろ》へつかまって漕ぎはじめ、船はすーっと堀をでます。半七はさかずきをとって亀にさし、 「さ、ひとつおあがりな」 「これはとんだごちそうさまで……」 「お酌しよう」 「いいえ、どうぞおかまいなく……さいですか、旦那さまにお酌をしていただいて……これはおそれいりますな……では、遠慮なくちょうだいします」  と、二つ三つやったりとったりしているうちに、 「ねえ旦那、あなたなどはなんでございましょうね、ごきりょうはよし、おみなりはよし、お若くはあるし、女がうっちゃってはおきますまいな?」 「ばかなことをおいいでない。わたしのような野暮《やぼ》な者になんで女が惚れましょう。女が惚れたりする稼業はおまえさんがただ。おまえさんがたは、いきな稼業だからね」 「そりゃあ旦那、いきなことをする船頭もございますが、この野郎や、わっちには、なかなかそんなことはできません。わっちのつらをごらんなせえ。魔よけ、女よけのつらってえやつで、色気がありませんから……しょうがねえから、酒でも食らってポンポンいってるんで……この野郎もやっぱり女にかわいがられねえつらで……」 「うまいことをいってるね。そうかくすとなお聞きたいね。なにかお酒のさかなにのろけをうかがおうじゃあないか」 「じょうだんいっちゃあいけません。女に惚れられたり、もてたりしたことはありません。この野郎とわっちと、年じゅう女郎買いにいきますが、いつでもふられっぱなし……じまんじゃねえがもてたことさらになしというやつ……ま、女に縁があったはなしといえば、去年のちょうど……いま時分だったかな? なんでも暑い時分で、めちゃめちゃに雨がふって、この野郎と、わっちの友だちとわっちと三人で、すってんてんにとられ、わっちなんかまっ裸で、雷門までまいりました。すると、雨はますます強くふりだし、かみなりは鳴るし……」 「やいやい、亀! なにをいやあがるんだ。つまらねえはなしをするなよ。くだらねえことをいうな」 「いいじゃあねえか。酒のさかなにはなしをするんだあな」 「そんなら、もっとほかのはなしをしたらいいじゃあねえか」 「ほかのって、おもしろいはなしはなかろうじゃあねえか。ねえ、旦那」 「船頭さん、酔ってるおかたのおっしゃることを、わたしはべつにとりあげはしないから……さあ、亀さんとやら、聞きたいね……まあまあいいじゃあないか」 「すると、旦那の前ですが、三人で雷門の軒下へ立っていると、年ごろ二十《はたち》か……二十一になる、いい女だ。かみなりが近所へ落っこったもんだから、おどろいて目をまわして倒れました」 「うんうん」 「なにしろ介抱してやろうとおもいましたが、さて、旦那、薬はなし、あたり近所は戸がしまっててしようがありません」 「うん、それからどうした?」 「やいやい、いいかげんにしろ! 旦那、そんなはなしを聞いちゃあいけません。こいつのあだ名を千三つ、てえくれえなんで……千はなしをするうちに、ほんとうのことは三つしきゃあいわねえから千三つというんで、ほんとにしちゃあいけません」 「だまってろい。仁三のいう通り、わっちゃあ千三つでございます。ほんとうのことは三つしかございません。その三つのうちを申しあげますんで……そばから口をだすので、はなしがめちゃめちゃになっちまわあ」 「船頭さん、だまっておいでよ。わたしはとりあげやあしないから……」 「で、わっちが介抱しようとおもうと……この野郎です。この野郎のいうには、このくれえないい女は、生涯抱いて寝ることはできねえから、強淫《ごういん》をしようということになって、じゃあそうしようと、三人で多田薬師《ただのやくし》の石置き場へひっかついでいって、人通りはなしさいわいだと、こいつをなぐさんで、さて、わっちの番になると、その女が息を吹っけえしたとおおもいなせえ」 「うん……」 「ちょうど月がでて、わっちの顔をみて、その女が、亀じゃあねえかと、こういうんで」 「うん、なるほど……」 「みんなが、てめえ知ってる女かといいますから、よくよくかんげえてみますと、その女は、小網町の桜屋てえ船宿の娘で、お花というんで、すこしばかりわっちのためには主人すじのうちの娘だから、おどろきましたな」 「うん、うん……」 「そいつが、亀じゃあねえかときたから、わっちゃあ逃げだそうとおもうと、この野郎が、『知っていられちゃあこうしちゃあおかれねえ。三人の素っ首がとぶ仕事だ。やっつけてしめえ』と、かわいそうだとはおもいましたが、助けてくれてえやつを、三人で手ぬぐいでその女の口を結《いわ》いて、むざんにもくびり殺し、吾妻橋から川ん中へほうりこんじまいました。いまかんがえますと、気の毒なことをいたしました。ばかをみたのはわっちひとりで、お察しなすっておくんなせえまし」  と、酒がいわせる一部始終のはなしを半七が聞いて、おもわず手にもっていたさかずきをぽんとおとし、 「はあ……とんだおもしろいはなしを聞きました。さあ、ひとつ献じましょう」 「へえ、ちょうだい……」  とだす手さきをひんにぎって、 (これより芝居がかりになる) 「これでようすが、カラリと知れた」  とキッと見得《みえ》になる。よろしくあつらえの合方《あいかた》(芝居のせりふのあいだにいれる三味線)になり、 「しかも去年六月十七日、女房お花が観音へ、まいる下向《げこう》の道すがら」 「おれもその日は多勢で、よりあつまっての手なぐさみ、すっかりとられたその末が、しょうことなしの空《から》素見《ひやかし》、すごすご帰る途中にて、にわかにふりだす篠《しの》突く雨」 「しばし駆けこむ雷門、はたちの上が二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気がさしたのが運の尽き」 「丁稚《でつち》の知らせに折りよくも、そこやここぞとたずねしが、いまだにゆくえの知れぬのは」 「知れぬも道理よ、多田薬師の石置き場、さんざんなぐさむその末に、助けてやろうとおもったが、のちの憂《うれ》いがおそろしく、ふびんとおもえど宮戸川」 「どんぶりやった水煙り」 「さてはその日の悪者は、汝等《わいら》であったか?」 「亭主というはうぬであったか?」 「はて、いいところで……」 「わるいところで……」 「会ったよなあ」 「もしもし、旦那さま、旦那さま! たいそううなされておいででございますが、どうなさいました?」 「ううう……おお、定吉じゃないか、どうした、帰ったか、お花は?」 「はい、いま浅草見付まできますと、かみなりが鳴って、大つぶの雨がふってきましたので、おかみさんを待たしておいて傘をとりにまいりました」 「それじゃあ、お花に別条はないか?」 「お濡れなさるといけませんから、急いで傘をとりにまいりましたんで……」 「ああ、それでわかった。夢は小僧(五臓)のつかい(つかれ)だわい」 文ちがい  人と生まれてうぬぼれのない人はございません。  遊興にまいりましても、おれは女の子にかわいがられまいとおもってゆく人はありません。どんな醜男《ぶおとこ》でも、顔はみにくいが、心意気はおれほどの者はないなどと、みなうぬぼれてまいります。色の白い人は、ほかがわるくても、七難をかくしているから女が惚れるだろうとおもい、また黒い人でも、色の白いのはにやけていけないが、黒いほうが丈夫そうでいや味がない、第一よごれっぼくないから、いつまでもあきがこなくていいと、自分勝手のりくつをつけて逢いにいくのだそうでございます。  傾城《けいせい》に誠はないということを申します。しかし、おなじ人間でございますから、まるっきりないのではありませんが、くる客ごとに誠をつくしていたんではからだがいくつあってもたりるわけのものではございません。多くくる人の中には、いい人というのがかならずひとりはあるに相違ないので…… 「どうもこまったじゃあねえか。くわしいことが手紙に書いてねえからわからねえが、どういうわけなんだ?」 「どういうわけだって、おまえさんも知っての通り、わたしのおやじというものはほんとうのじゃない。けれども、六歳《むつつ》のときから育ててくれたんで、それを恩に着せて、五両貸せの、十両貸せのってのべつの無心、けれど、親だからどうすることもできない。まあ、年期《ねん》があけて、おまえさんと夫婦になっても、あのおやじにのべつゆすられては、じつにおまえさんに気の毒……いいえ、いまはいいたって、それが長い年月だから、わたしもどんなにおまえさんに気の毒だか知れない。どうにかならないかとおもっていたら、こんども二十両の無心だろ? そんな大金はとてもできないといったら、こんどだけはなんとか助けてくれ。そのかわり親子の縁を切ってもいいから、二十両だけはなんとか都合してくれと、こういうんだよ。おまえさんにねえ、お金の心配をさせても気の毒だとおもうけれども、そういうことなら、なぜおれのところへいってよこさねえと、あとでいわれてもなるまいとおもって手紙をだしたんだよ……で、どうなの? お金のほうは?」 「どうも弱っちゃったなあ。おれもなんとかこせえようとおもったんだが、十両だけはできたんだけども、なんとかそれで承知しねえか?」 「さあ、二十両てんだから、十両じゃあねえ……だれだい? 障子の外で、ぐずぐずいわずにあけておはいりよ。お客さんたって心配な人がいるんじゃあない。うちの人だよ。半ちゃんだからこっちへおはいり。喜助どんかい? なんだい? 小さい声じゃあわからないよ。大きな声をおだし。え? 角さんがきたって? そうかい、そりゃあよかったねえ……ちょいと半ちゃん、角蔵というやつがきたんだそうだよ。これは在方《ざいかた》からくるやつで、じつのところをいうと、おまえさんのふところをいためたくないから、そいつに無心をいっておいたんだが、そいつがきやがったんだよ。きっといくらか持ってきたんだよ。喜助どん、どこの座敷だい? え? 六番? いやだねえ、筋《すじ》むこうじゃあないか。もうすこしはなれたところへいれてくれりゃあいいのにさ。いいよ、いまいくから……じゃあねえ、そいつがきたてえから、お金はきっと持ってきたにちがいないから、ちょいといってくるよ」 「うん、金がほしいとおもうところへそいつがくるなんてえのは、芝居でするようだなあ。早くいってきねえな」 「なにをいうんだよ。おまえさんは、すぐにちんちん(嫉妬)なんだからねえ……金をださせるんだから、こっちもすこしはあまいことをいわなくっちゃあならないじゃあないか……あとでおまえ怒ったりなんかしちゃあいやだよ。いいかい?」 「ああ、そんなこたあねえから、とにかく早くいってきねえ」 「じゃあね、ちょいとのあいだだから待っておくれ」  廊下へでますと、厚い草履をつっかけて、わざと足音をバターリ、バターリとさせて筋むかいの部屋へ……なにしろ相手をなめておりますから、はじめから高飛車にでて…… 「角さん、きたのかい? なんだねえ、いま時分やってきて……気のきいた化けものはひっこむ時分だよ。ほんとうに……」 「へっへへへ、なにいってるだ。へへへへ、あんでもおらのつらあみさえすりゃああまったれやあがって……えへへへ……まあ、ちょくら此処《こけ》へこう、こけへこう」 「なんだい、にわとりだねえまるで、コケッコウだって……ほんとうにおまえさんぐらいたよりにならない人はないよ。わたしがなんべん手紙をだしたとおもってるんだよ」 「そりゃあ三本はおらがとこへとどいているだが、こんどのことというものはなみたいていのことでねえ。七ヵ村のもめごとがもちあがっただ。それをおさめるにもおらでなければなんねえ。ようやくはなしがついたとおもうと、あとは村の祭りだ。それについて、ばか囃子《ばやし》の小屋のかけかたも角さんが指図をしてくれなければわかんねえというでねえか。そもそもばか囃子ちゅうものは……」 「なにいってるんだよ。いまさらばか囃子の講釈なんぞ聞いたってしょうがないやね……いいんだよ。なにもとぼけなくったって……たんと浮気をしておあるきよ」 「ばかこけ。われをさしおいて浮気ができるかできねえか、かんげえてみるがええ」 「そんなことをいうだけに面《つら》がにくいんだよ。そんならなぜこのあいだ東屋《あずまや》へあそびにいったんだい?」 「あんれまあ、おめえ知ってるか?」 「なんでもお見通しさ。いそがしい、いそがしいって、そんな浮気をするひまがあったって、あたしに手紙一本よこさないのはどういうわけなのさ?」 「うん、まあ……そりゃああんだあな……べつに浮気ちゅうわけじゃねえで……ありゃあ交際《つきあい》でいっただよ。一晩ぐれえは交際ならしかたなかんべえに……なにしろ上《かみ》の村の杢太左衛門がいっしょにいってくんろっちゅうで、そんで、おらもやだっちゅうわけにはいかねえでつきあうことになっただ。すると、若《わけ》え者頭《もんがしら》だけでいくべえでねえかちゅうことになって、おらと、杢太左衛門と、下新田《しもしんでん》の甚次郎兵衛と、それから寅八郎と、四人《よつたり》でいっただ。そのとき、おらの相手にでた女などというものは、どうしたって浮気のできねえような面《つら》で、われにみせたかった。長え面ったって、おらあ、ああだに長え面ちゅうのをみたことねえだ。上みて、まんなかあみて、下あみるうちに、上のほうをわすれちまうちゅう長え面だ。馬が紙くず籠をくわえて、そのさきへうなぎぶるさげて……」 「そんな長い顔があるもんかね。人をばかにしてるよ、この人は……ちょいと、ちょいと喜助どん、ここへきてごらん。この角さんてえ人は、ちょいとみたところは野暮《やぼ》にみえるだろう? ところが、それが野暮じゃあないんだよ。うわべは野暮にみせて、しんはいきなんだからね、うわべ野暮のしんいきてんだよ。だから女の子がうっちゃっておかないんだよ。ほんとうに女殺しだよ、この人は……あたしゃあなんの因果でこんな浮気な人に惚れたんだろう? くやしいよほんとうに……」 「おいおい、痛《いて》えでねえか、人の膝なんぞつねって……おいよせ、へへへへ……よせっちゅうに……へへへへ……若え衆がみてるっちゅうに、こっ恥《ぱず》かしいでねえか」 「へへへ……どうもお仲のおよろしいことで……」 「喜助、こまるなあ、われがそこにいては、すこしじゃまになることがあるだ。あっちへいってくんろ」 「どうもおそれいりました。たいへんに気のきかないことで……おじゃまになってはなんとやらでございますから、わたくしはごめんをこうむります。へえ、おあつらえのものも、もうちゃんと心得ておりますから……」 「喜助、そこをぴったりしめていけよ……おすみ、われはこまったもんだなあ。ふたりさしむけえのときはなにをいってもかまわねえが、喜助という他人がひとりおれば、口をきくにも気をつけねえではだめだ。おらはええ、おらはええが、われのつとめのじゃまになるべえとおもって心配ぶつだ」 「それだからねえ、おまえさんは、あたしのおもう半分でもないてんだよ。おまえさんのことは、あたしゃあかくしたことはないんだよ。おまえとあたしの浮名てえものは、この新宿じゅうで知らないものはないんだから……それをおまえさんがかくすなんて、ほんとうに水くさいよ。あたしがこんなに心配してやせたのが目にはいらないのかねえ」 「だれがやせた?」 「あたしがさ」 「なーに、この前《めえ》よりゃあちょっくら太ったな」 「あんなことをいってるよ、人がやせたといえば太ったって……ほんとうににくらしい……あたしは廊下でお百度ふんでるんだよ」 「いくらお百度をふんだっても、用があればこられねえ」 「おまえさんのためにお百度をふんでるんじゃあないよ。あたしのおっかさんがね、あすにも知れないという大病なんだよ」 「なんだと、かかさまが塩梅《あんべえ》がわりいだと? そらあおらあ知らなかった。たまげたな、われがかかさまなれば、おらがためにもかかさまだ。年期《ねん》があければ夫婦《ひいふ》になって、肥《こ》い桶《たご》の底を洗いあうという間柄《ええだがら》だ。たいせつなかかさまでねえか。医者さまにかけろ」 「おまえさんにいわれるまでもないよ。お医者さまにもみせたけれど、三人にみはなされてしまって、しまいのお医者さまのいうには、『おれがうけあってなおしてやるが、けれども高いくすりをもらなければとてもなおらない。それを前金でよこせ』とこういうんだが、そのお金があたしにはないだろう? それができないで、おっかさんにもしものことでもあったら親不孝になるから、どうしたらよかろうか、おまえさんがきたら相談しようとおもうのにきてくれず、あたしはもう心配しぬいていたんだよ」 「そうか、その金は、おらがだしてくれべえ」 「えっ、おまえさんがお金を? あの……お金をだしてくれるのかい? ありがたいね。そうすればほんとうにあたしは助かるんだから、どうかだしておくれよ」 「だすにゃあだすだが、金高はいくらだ?」 「たった二十両だよ」 「なんだと? たった二十両だと? あんまりたったでもねえだな。五、六両ならばどうにかなるべえが、二十両とは高《たけ》えくすりでねえか。なんてえくすりを買うだ?」 「お医者さまのいうには、人参を飲ませればなおるというんで……」 「なに、にんじんだ? よし、そんならば、金ができなくっても現品《しなもの》を間にあわせてくれべえ。これから帰って、おらが村だけでたりなければ、近村をかけまわって十両分でも、十五両分でも、できるだけどんどんこっちへ送ってよこすべえ」 「お待ちよ。なにを送るの?」 「にんじんを……畑のをみんな抜いてよこすべえ」 「いやだよこの人は……あたしゃ八百屋の店びらきをするんじゃああるまいし、そんなものを送られてどうするのさ。人参といっても、朝鮮からくるんで、すこしばかりで二十両いるんだあね」 「そうか、にんじんを二十両なんて、なんになるべえかとおもっただ。しかし、こまっただなあ」 「まるっきりないの?」 「そりゃあまあ十五両だらばあるだ」 「じゃあ、それをおくれな」 「これはやれねえ。この金は、上《かみ》の村の辰松が馬を買うべえという約束になっていて……もっとも手付金《てつけ》はぶってあるので、これは残金だ。この金で馬をうけとってくれろとたのまれただ」 「いいじゃないか。手付金《てつけ》が打ってあるなら、そのお金をくれたって……そうして、うちへ帰ってお金を持って馬をひきにいけば、りくつはおなじことじゃあないか」 「そうはいかねえ。すぐと馬をひいて帰らねえと、辰松にいいわけができねえ」 「じゃあなにかい、馬をひいて帰れば、おっかさんは死んでもいいの? おまえさん、そんな不人情な人なの?」 「そういうわけではねえけんども、こまったなあ。馬をひいて帰れば、かかさまが病死というし、かかさまを助けべえとおもえば、馬をひいて帰ることができねえし……」 「そんなことをいって、おまえさん、おっかさんを殺すつもりなんだね、人殺し!」 「ばかなこといわねえもんだ。あんだ、人殺しだってやがら……おらあ、なにもそんなつもりは……」 「それじゃあ、あたしにお金をくれたっていいじゃないの」 「だって、おめえにこの銭をやれば、馬がうけとれねえで、おらあ辰松にあわす顔が……」 「もういい! わかったよ。もうお金はいらないよ。そのかわり、年期《ねん》があけたら夫婦になるという、あの約束は反故《ほご》にしてもらうからね、いいね?」 「そんなに怒ることはあんめえ」 「怒りたくもならあね、馬だ、馬だって、おっかさんよりも馬を大事にするような人と夫婦になんぞなりゃあ、どんなにひどい目にあうか……」 「おらあ、そんなつもりではねえだ。まあ、そう怒るでねえちゅうに……さあ、怒るでねえ……うん、そうだ。この十五両は、おめえにやんべえ。さあ持ってけ」 「いらないよ」 「いらねえって、銭を投げたりするもんでねえ……そんじゃまあ、おらがわるかったからあやまるで、あやまるから持ってけや。それ、あやまるから持ってけちゅうに……」 「おまえさんにあやまらしたり、お金をもらったりするような、そんなはたらきのある女じゃあないけれど、おっかさんは病気だし、お金はできないし、なにもかもうまくいかなくて、むしゃくしゃするもんだから、それでおまえさんにあたりちらしたんだけども、じゃあ、このお金を、すこしのあいだ貸しておくれよ」 「そんな、貸すの、貸さねえのって水くせえことをいうもんでねえ。年期《ねん》があけたら夫婦《ひいふ》になんべえちゅう間柄《ええだがら》でねえけえ」 「そうだったねえ。じゃあ、すまないけど、このお金は遠慮なく借りておくけどもね……つかいの者にちょいとわたしてくるから……」 「うん、早えほうがええ。はやくわたしてこうよ」 「じゃあそうさせてもらうよ。すぐだから、待ってておくれよ」  角蔵を座敷へおいて廊下へでますと、そっともとの部屋へもどってまいりました。 「ほんとにいやだよ、半ちゃん、あんなとこからのぞいたりして……あたしゃ気がさしてはなしができないじゃないか」 「かんにんしてくんねえ。おれものぞいちゃあわりいとおもったんだが、どんなやつか、まだみたことがねえから、ちょいと障子の穴からのぞいてみたけども、どうもたいへんなつらしてやがるな。鼻がまともに上へむいてるから、たばこをのむと煙がまっすぐ上へあがっていきゃあがる。どうもあきれたもんだ。それになんだい、年期《ねん》があけたらひいふになるってやがら……にんじんを二十両だけ馬に積んで送ってよこすって、まぬけな野郎じゃあねえか。しかし、おめえはてえした腕だなあ、あいつと肥《こ》い桶《たご》の底を洗いあうと約束するところなんざあ……」 「いやだよ。そんなことまで聞いてるんだもの……あんなことでもいわなければ金を持ってきやあしないやね。だから、つとめはいやだというんだ。察しておくれよ……それはそうと、おねがいだから、五両だけだしておくれ」 「だって、あの野郎が十五両持ってきたから、それでいいじゃあねえのか?」 「だけども、おやじが二十両というんだから、五両たりなけりゃあ、はなしがまとまりゃあしないよ。五両だしておくれな」 「だけどもよう、じつのところをいうと、おれは、この銭がねえとこまるんだ。だから、きょうのところは、その十五両でなんとかはなしをつけてくれ」 「あたしもねえ、なんとかおやじと縁を切っちまいたいんだからさ。どうしても二十両わたしてしまいたいんだよ。ねえ、おねがいだからだしとくれな。ねえ、だしとくれってのに……だめ? どうしても?」 「いや、どうしてもってえわけじゃあねえけどもよう、おれもこの銭がちょいとばかり入り用だもんだから……」 「そうかい、やっぱりだめかい? ふーん……あーあ、あたしゃやっぱり生涯あのおやじのために苦労するようになっているんだねえ……もういいよ」 「なんだなあ、おめえ、そんなにすねるこたあねえじゃあねえか」 「べつにすねてるわけじゃあないけどもさ、あんなおやじにいつまでもつきまとわれていたら、おまえさんと夫婦になったって、どうせうまくなんかいきっこないとおもうから、それでたのんでるんじゃあないか……だからいいよ。あたしさえいつまででも苦労すりゃあいいんだから、もういらないよ」 「なんだなあ、そんな厭《や》なことをいって……じゃあ、いいや、いいからこれを持っていきねえ」 「いいよ、もういらないよ」 「なに? いらねえ? なにいってるんだな。せっかくだしたんだから持ってったらいいじゃあねえか……なあ、だししぶったのは、たしかにおれがわるかった。だから、あやまるから持ってけよ。なあ、おれがあやまるから……」 「なにもおまえさんにあやまらしたり、お金をもらったりするような、そんなはたらきのある女じゃあないけどもさ、じゃあ、すまないけど、当分貸しておくれ」 「そんな、貸すの、貸さねえのって水くせえ……あ、ちょっと待ちな、それからここに別に二両あるから、こいつをおやじにわたして、なにか食って帰れっていってやれ……なーに、いいってことよ。どうせはんぱになっちまった銭なんだから……」 「まあ、すまないねえ。そうしてやってくれればほんとにありがたいよ……じゃあね、これをわたして早く帰しちまうから……」 「ああ……すぐ帰ってきな」 「じゃあ、ちょいといってくるよ」  おすみは二十二両をふところにして座敷をでまして、裏|梯子《ばしご》をおりて廊下づたいに表梯子をあがってまいりますと、表座敷に最前から待っている人がございます。  としのころは三十二、三、色のあさ黒い、目のぎょろりとした鼻すじのつーんと通った、にがみばしったいい男で……目がわるいとみえて、紅絹《もみ》のきれをだして、ときどき目をおさえております。 「ちょいとちょいとあの子や、たばこを持ってきておくれ。きせるはわたしが持っているから……あっちへとりにいっちゃあいけないよ。どこかで借りてきておくれ。たのむよ……ちょいと芳さん、待たせてすまなかったねえ。ばかにおそくなってしまって、さぞ怒ってやしないかと、そればかり心配をしていたんだよ」 「ああ、おすみか。いや、いくらなんだって腹を立つなんてことがあるもんか。おめえんとこへとんだ無理をいってすまねえとおもって……」 「いやなことをいうじゃあないか。無理をいうもいわないもありゃあしない。あたりまえのはなしだあね。けどねえ、あたしも気をもんだんだよ。お金がなかなかできないもんだから……やっとのこと、いま、まとまってねえ、こしらえてきたんだよ。それからべつに二両あるからね、おまえさんも滋養《じよう》になるものでも食べて、元気になっておくれよ」 「ありがとうよ。ほんとうにすまねえ。おかげでおらあ目が助かるんだ」 「なにいってるんだよ。夫婦の仲じゃあないか。水くさいことをおいいでないよ」 「いや、なんの仲でも銭金《ぜにかね》は他人というぜ、まあ、おめえのおかげでおれもほんとうに助かる。あらためて礼をいうよ」 「そりゃあいいけども、目のほうはどうなの? ちょいとこっちをむいてごらんよ……おかしいねえ。みたところはなんともないようだけどもねえ」 「おもてからみるとなんでもないようにみえるだろう? 医者のいうには、こういうのがいちばん質《たち》がわるいんだそうだ。おもてのわるくなってるほうが、かえって療治しやすい。へたをするとつぶれると、こういうんだ」 「へーえ、そうかねえ……で、なんてえ目なの?」 「うん……その……な……内傷眼《ないしようがん》とかいうんだそうだ」 「内傷眼? ……聞いたことがないけど、なおるのかねえ?」 「医者のいうには、真珠というくすりをつけると、たしかになおると、うけあってくれたんだ。おめえのおかげで銭はできたし、なんともありがてえ。じゃあ、これを持って、おれはさっそく医者へいってくるから……」 「え? すぐに帰っちまうの? いいじゃあないのさあ。今夜は泊まっておいでな」 「いや、それがいけねえんだ。医者のいうには、女のそばへ寄ってもいけねえというんだ」 「だって、あたしもいろいろはなしがあるんだよ。あれもはなしたい、これもはなしたいとおもって、お腹の中ははなしで一ぱいになっているんだから、泊まっていっておくれよ」 「おれもいろいろはなしはあるけども、なにしろこの目は一刻《いつとき》をあらそうてんだから、すぐに医者にやってくれ」 「そんなことをいわずにねえ、ちょいと泊まってっとくれよ。おねがいだからさあ」 「そんな無理なことをいうなよ。今日んところは、まあ帰してくれ」 「だってさ、せっかくお金をこしらえたのに……ねえ、どうしても帰るの? ……金ができりゃあ、持ってすぐに帰っちまうなんて……じゃあ、あたしそのお金あげないよ。かえしておくれ」 「じゃあなにかい、泊まっていかなけりゃあくれねえってのかい? ……ふーん、そうかい……じゃあ、せっかくだからおけえし申しやしょう。どうもおじゃまさまでござんしたね」 「ちょいと、ちょいと、芳さん、どうしたの? いきなり立ちあがったりして……怒ったの?」 「怒りたくもならあな。だって、そうじゃあねえか。おめえもあんまりわけがわからなすぎらあ。よしんば、おれが泊まっていくといっても、早く医者へいっておくれというのがあたりめえじゃあねえか。それをおれが病気をなおすんだから帰るといってるのに、なんだ、泊まっていかなきゃあ銭はやらねえとは?」 「そんなつもりでいったんじゃあないよ。ねえ、じょうだんだから……」 「なにいってやんでえ。じょうだんにもほどがあらあ」 「ねえ、そんなことをいわないでさあ、かんにんしておくれよ。あたしがわるかったんだから……ねえ、だから、このお金はとっておいとくれよ」 「いや、いらねえ。もう銭なんかいるもんか。目なんぞどうなったってかまうこたあねえ」 「そんなことをいわないでさあ、あたしがわるいからこの通りあやまるから、そんなに怒らないでさあ、ねえ、あやまるからお金を持ってっとくれよ」 「おめえにあやまらしたり、金をもらったりするような、そんなはたらきのある男じゃあねえが、むしゃくしゃしてしょうがねえんだ」 「かんにんしておくれよ。あたしがさからったのがわるかったんだから……じゃあね、お医者さまへすぐにおいでよ。ちょいとお待ち、いま、だれかに送らせるから……ちょいと、喜助どん、うちの人がね、帰るんだから、ちょいと手をひいてあげておくれよ。目がわるいんだから、気をつけてやっとくれ。それからね、これはうちの人から、まあ、たばこでも買っとくれな。いいからとっておいて……」 「そりゃあどうもありがとうございます。では遠慮なくいただきます……へえ、お手をとります。へえへえ、おあぶのうございます。お目がおわるいそうで、いけませんですなあ」 「目のわりいてえなあ不自由なもんで……手数をかけてすまねえなあ……」 「芳さん、あたしが心配してるんだからね、手紙ででもいいから、すぐに知らしとくれよ、いいかい?」 「ああ、そうするよ」 「ええ、ここはくぐり戸でございますから、おつむりをどうぞお気をおつけになって……お大事にどうぞ……ごめんくださいまし」  ガラガラガラッとくぐり戸をしめます。おすみは、惚れた男のことで心配でございますから、梯子《はしご》段をかけあがって、手すりのところから、男のうしろ姿をのびあがってみております。  男は、杖をついて四、五軒むこうへいきますと、わきから駕籠屋がつーっとでてまいりまして…… 「へえ、お待ちしておりました。ご用ずみでございますか?」 「大きな声だな。しずかにしねえ。だいぶ手間がとれた。おそくなったから、早くやってくんねえ」 「へえ、承知しました。さあ、相棒、いくぜ!」  駕籠は芳次郎を乗せていってしまいます。 「あらっ、いやだよ。あんなとこへ駕籠屋を待たしておいてどうしたんだろう? ……ああ、駕籠を乗りつけては、金の無心をするのに気がひけるっていうんだね。それで駕籠をあんなところに待たしといて、杖にすがってきたんだ。気の毒だねえ。なにもそんなに気がねをしないでもいいのに……」  たばこをわすれたので、ふたたびもとの座敷へもどって、おすみがふとみると、芳次郎が坐っていたところに手紙がおちております。 「おや、この手紙はなんだろう? こまるねえ。目がみえないもんだからおとしていったんだよ。いまからあとを追っかけても間にあうまい。なんの手紙だろう? ……ええ、芳次郎さままいる、小筆《こふで》より……あらいやだ、こりゃあ女の手紙だよ。まあなんだろうねえ、女のそばへよってもいけないてえのにこんな手紙を持ってあるいてる。これだから、あたしゃ心配でならない。なかをみてやろう。なんだかたいそう長い手紙のようだね……ええ、ひと筆しめしまいらせ候。先夜はゆるゆるとお目もじもいたし、やまやまうれしく存じまいらせ……あれっ、この女に逢っているんだよ。いやだねえ、だから男ってえものは油断ができないよ……やまやまうれしく存じまいらせ候。その折りおはなし申し候通り、わたくし兄の欲心より田舎の大尽《だいじん》へ妾にゆけと申され、いやなれば五十両よこせとの難題をいいかけられ、おんまえさまにおわかれ申すもしみじみ悲しく、親方にたのみ三十両はこしらえ候えども、あと金二十両にさしつかえ、おんまえさまに申せしところ、新宿の女郎にておすみとやらを……あらっ、あたしの名がでているよ。なんだろう? ……おすみとやらを眼病といつわり、二十両おこしらえ候とのこと……えっ、なんだい? 目がわるいんじゃあないんだよ。この女にやるんだ。あきれるじゃあないか。どうもおもてからみてなんともないようだっていったら、内傷(内緒《ないしよ》)眼だなんていって……くやしいねえ、ほんとに……おすみとやらを眼病といつわり、二十両おこしらえ候とのこと、それより義理ずくとなり、そのおすみとやらをおかみさんにお持ちなされ候かと、それのみ心にかかり候。わたくしとてもたよりすくなき身ゆえ、いついつまでもお見捨てなきよう、神かけ念じあげ候。申しあげたきことはかずかず御座候えども、いずれこのほどお目もじの上申しあげ候。まずはあらあらめでたく、かしこ……なにがめでたいんだい、ちくしょうめ、まさか芳さんがこんな人だとは……」  こちらは半ちゃん、おすみがなかなか帰ってこないので、いらいらしながら待っております。 「ああ、どうしたんだなあ、たいそうおそいじゃあねえか。金をわたしたらさっさと帰ってきやがればいいんだ。いつまでくだらねえことをぐずぐずいってやがるんだろう? どうだい、まあ、おやじの前へいくってえのに、あわてやがって、たばこ箱へつまずいて、ころがしていきゃあがった。こまったもんだぜ。これじゃあ年期《ねん》があけて夫婦になったって案じられるぜ。なんだろう? たばこ箱からはみだしてやがる。あれっ、手紙がでてきやがった。なんだと、おすみさまへ、芳じるしより……ふん、いやに色男ぶってやがらあ、芳じるしだってやがる。へへへへ、ここに半ちゃんてえいい人があるてえことを知らねえんだからなあ。やっぱりこの里《さと》はこれでもつんだ。こういうまぬけなうぬぼれ野郎がきやがるから……どれ、読んでやろうじゃあねえか……ええ、ちょっと申しあげ候、いつもいつもご全盛にお暮らしなされ、かげながらおよろこび申し候。それにひきかえ、わたくしこと、このほどより眼病にてうち伏し申し候……ああ、なるほどねえ、目がわるくっていまいかれねえかなんか、ことわりの手紙をよこしたんだ。女郎のところへことわりの手紙をよこすなんて、またごていねいな野郎がいたもんだ……医者の申すには、真珠とやらのくすりをつけぬ上は目もつぶれ候とのことにて、その価二十両……たいそう高えくすりだなあ……その価二十両と申し候えども、知っての通りふしあわせにて、なかなか金子才覚でき申さず、なれども眼病にはかえがたく、またまたつとめのなかへ無理を申しあげ候ところ、なじみ客にて日向屋《ひゆうがや》の半七……あれっ、なんだ、おれの名前がでてきやがらあ……ええ、日向屋の半七をだまし、おこしらえくだされ候よし……あれっ、ちくしょうめ! おやじとの縁切りだなんてぬかしゃあがって……だれだ、障子のそとに立っていやあがるのは? おすみか? こっちへへえれ!」 「しずかにしておくれよ。はいれっていわないでもはいるよ。ほんとうに情夫《いいひと》ぶって、ぽんぽんいっておくれでないよ。なんだい、ひとのたばこ箱なんかほうりだして……大事なものがはいってんだからね」 「で、で、大事《でえじ》なもんのへえってるとこをあけてわるかったな。おうおう、なにつっ立ってるんだ。そこへ坐んねえ。坐れってんだ。そりゃあ女郎は人をだますのが商売かも知れねえが、だますにもだまさねえにもほどがあるもんだ。ふん、おめえなんざあ、大《てえ》した女郎だ。いい女郎だよ」 「なにいってるんだい。人間はね、虫のいどころのいいときばかりはないんだよ。あたしゃあ、いま、むしゃくしゃしてるんだから……」 「なにいってやんでえ。こっちのほうがよっぽどむしゃくしゃしてらあ。ふん、ふざけやあがって……なにがおやじだ。いいおやじだ。おやじのところへたんといってろい。ふん、色男のあることはちゃーんと知ってるんだ」 「色女のあることは知ってるんだい」 「なにいってやんでえ。おかげで七両かたられてらあ」 「こっちは二十両かたられてらあ」 「なんでえ、人のまねばかりしゃあがって……ふん、その上、目がわるいまで聞かされりゃあたくさんだ」 「目がわるいとおもったら、わるくもなんともないんだ」 「なにをぬかしゃあがる。てめえなんぞこうしてくれらあ!」 「なにをするんだい。よくもおぶちだね。あたしをぶって怪我でもさせりゃあ、おまえさんだってただはすまないんだよ。年期のあるあいだは親方のからだなんだから……」 「なにを、こんちくしょうめ!」 「ちくしょう、またぶったね。殺すともどうとも勝手におし」 「殺さなくってどうするもんか」 「殺せ、殺せ、殺しゃあがれ!」 「だれかいねえけえ、おい、だれかいねえけえ?」 「へーい」 「おい、ちょっくらこう、ちょっくらこけへこう」 「へえへえ」 「喜助でねえか」 「へえ、お呼びでございますか?」 「まあ、ここへへえれ」 「へえ」 「いま、むこうの座敷でたたかれて泣いているのはおすみのようだな」 「へえ、たいへんなさわぎをお耳にいれまして、まことにおそれいります」 「おそれいるの、いらねえのって……いま、おれがここで聞いていれば、色男に金をもらったとか、もらわねえとかいって、えかくはたかれているようだが、われ、むこうへいってとめてやれ。『あれは色でも恋でもごぜえません。かかさまが塩梅《あんべえ》がわりいちゅうから十五両めぐんでやりやした』って、早くいってとめてやれ」 「へえ……では、さっそく……」 「ああ、ちょっくら待て……いや、そういったら、おらが情夫《いろ》だということがあらわれやしねえか?」 王子のきつね  きつね、たぬきは人を化かすなんてえことを申しますが、たぬきときつねとでは化かしかたがまるっきりちがうようでございます。  たぬきのほうは、化けるにしても、大入道とか、ひとつ目小僧とか、気のきかないものに化けたりして、どこかまぬけなところがございますようで……  ある田舎で、野良《のら》仕事がおしまいになりますと、お百姓があつまっては、お茶を飲み、おもしろいはなしをしております。これを毎晩みているうちに、たぬ公のやつが仲間にはいりたくてたまらなくなりました。 「おもしろそうだなあ。けれども、みんなが知らない者に化けたんじゃあ、すぐにあやしまれちまう……そうだ、このなかからだれか帰ったら、そいつに化けてはいろう」  と、毎晩待っております。ところが、ある晩のこと、なかのひとりが、うちからよびにきたので帰っていきましたから、たぬ公のやつ大喜びで、 「うちへ帰ったら、何《あん》の用もねえというで、またもどってきただ」  と、仲間入りしたところが、 「あっ、たぬきがきやがった」  てんで、みんなになぐられて、しばられてしまいました。  これはそのはずで、たぬ公のやつ、あんまりうれしかったので、化けるのをわすれて、たぬきの姿のままであぐらをかいていたっていうんですが、まことにそそっかしいはなしでございます。  そこへまいりますと、きつねのほうは、りこうで、陰険《いんけん》でございますから、むかしばなしでも、風呂だといって、あのきたない肥料《こやし》の糞尿溜《ため》のなかへ人間をいれたり、酒だといって馬の小便を飲ませたり、ぼたもちだといって馬糞を食べさせたり、おそばだといってみみずを食べさせたりしたなどと申しますし、化けかたもぐっといきで、芸者に化けるとか、娘に化けるとか、とかく気のきいた化けかたをいたします。  あるかたが、王子稲荷へ参詣をして、ぶらぶらと歩いてまいりますと、ただいまのように王子もまだひらけません時分で、両側が田んぼでございます。ふとみると、稲むらのところにひょっくりしっぽがみえます。 「あれっ、あんなところにしっぽが……犬かしら? いやいや、そうじゃあねえや……なんだろう? おや、きつねだ。こんなところにきつねがいるとは? ……なにしてるんだろう? あたまへ草なんぞのっけてるけど……なにをしようってんだろう?」  男がふしぎにおもってみておりますと、きつねはくるりとひっくりかえって、たちまち二十五、六のきれいな年増《としま》に化けてしまいました。 「おや、こりゃあおもしれえや。おれもいままで、ずいぶん絵やなにかでみちゃあいたが、きつねが人間に化けるのを目の前でみたのははじめてだ。へーえ、うまいもんだねえ。いい女じゃあねえか。あれじゃあ、みんなが化かされるのも無理はねえなあ。ははあ、これからだれかを化かそうてんだな。だれがくるのかしら? ……だあれもみえねえや……あたりに人かげがないところをみると、おれのことを化かそうってんだ。おれが女が好きだってんで、それで女に化けやがった。こりゃあ、えれえことになったぞ。みといてよかったねえ。あれをみてなきゃあ、もうやられてるよ……だが待てよ。タネはわかってるんだ。むこうで化かそうってんなら、ひとつ化かされてやろうかしら……」  てんで、もの好きな人があったもんで、眉毛《まゆげ》につばをつけて、 「なんていってやろうかな……うーん、そうだ。となり町の清元の師匠にちょいと似てるから、師匠とよんでみようかな? ……なんて返事をするだろう? ……『師匠』『コーン』かなんかいうのかな? ……ちょいとよんでみよう」 「えー、師匠、師匠」 「あらっ、半ちゃんじゃあないの」 「あれっ、口をききましたよ。コーンてなことはいわないね。それに、おれの名前を知ってやがらあ。おどろいたねどうも……あぶねえ、あぶねえ。もうやられかけてらあ」 「え? なにかいった?」 「いえ、こっちのことで……いえね、うしろ姿があんまり似てたもんだから、つい声をかけちまったんだけど、まさか師匠がこんなとこを歩いてるとはおもわなかったよ。今時分、なにしに、こんなところへ?」 「ええ、いまお稲荷さまへおまいりをしてね、あんまり天気がいいから、ぶらぶら歩いてきたの」 「そうかい。じつは、おれもお稲荷さまへおまいりにいった帰りよ」 「あら、そうだったの……あたし、半ちゃんと逢えてうれしいわ」 「おれもうれしいぜ。どうだい? どっかへいこうか?」 「そうねえ、いきたいわねえ」 「どっかしずかなところへふたりでいってさあ」 「ええ、お風呂へでもはいらない?」 「お風呂? ……じょうだんじゃあねえ。お風呂だなんて、肥《こえ》だめへでもいれるつもりだな」 「え? なんですって?」 「いや、その……お風呂は、きょうのところはよしにしよう。なにしろ風邪気味だもんだから……どうだい? なんか食わねえかい?」 「そうねえ、おそばなんかどう?」 「おそば? ……ははあ、おそばだなんていって、みみずかなんか食わせようってんだな。その手に乗るもんか……おそばはいやだよ。ああいうおそばは、釣りのえさにするだけなんだから……そうだ、どうせ王子へきたんだから、扇屋へいこうじゃあねえか」 「いいわねえ。いきましょう」 「じゃあ、はなしはきまった。さあいこう……ええ、ごめんよ」 「いらっしゃいまし。どうぞ、おふたりさま、お二階へ……すぐにご案内いたします」 「師匠、二階だとさ。おれがさきにあがるから……さあさあ、師匠もあがっておいでよ……ああ、こりゃあ、なかなかいい部屋だ。ちょいと、ねえさん、その障子をあけておくれ……うん、いいながめだ。青々としていて……さあ、師匠、坐ろうじゃあないか。そして、好きなものをどんどんいっとくれ。さあ、遠慮しないでさ……好きなものはなに? え? 油揚《あぶら》げ? 油揚げはいけないよ。こういう店へきて油揚げなんてえのはしゃれにならないから……なにかほかには? え? 天ぷら? ふーん、やっぱり揚げたものがいいんだね。ちょいと、ねえさん、こちらは天ぷらがいいってから、三人前ばかり、あとはみつくろいでいいよ。あっ、それからねえ、あたしのほうは天ぷらはいらないからね、とにかくまあ、すぐにお酒を持ってきておくれ……ねえ、師匠、おかしなもんだねえ。まさか師匠とこんなふうに一ぱいやれるとはおもってもいなかった。ほんとうにうれしい日だよ。こりゃあ、きっとお稲荷さまのご利益だろう……おや、ねえさん、もうできたのかい? はい、ごくろうさま……ずいぶん早かったねえ。はいはい、こっちへいただこう。え? あとはこっちでやるから、ねえさんにはお手数はかけないよ。うん、もう階下《した》へいっていいよ。用があったらね、手をたたいてよぶから……どうもごくろうさま……あっ、そんなにぴったりしめてっちゃあいけない。すこうしあけとくんだ……いざとなったら、ぱっと逃げだす都合があるんだから……いえ、なに、なんでもない。いいから、すこうしあけといとくれ……さあ、師匠、一ぱいさしあげよう」 「あたし、お酒はだめなの」 「なにいってんだよ。かくしたってだめだめ。おまえさんがいけることはちゃんとネタはあがってるんだから……だって、いつもお神酒《みき》があがって……いえ、おまえさんとこの神棚のはなしさ……さあさあ、一ぱいいこう。なあに、沢山《たんと》は飲ませやしねえから……いいから心配せずにぐっとあけなよ。うん、いざとなりゃあ、ちゃんと介抱《かいほう》するから安心してお飲みよ……うーん、いい飲みっぷりだ。その調子だと相当いけるね……え? ご返盃? うれしいねえ……しかし、こりゃあほんとうの酒だろうな。まさか馬の小便じゃああるまいね……え? なに……その……いえ、こんなうれしいことはないよ。師匠から盃が頂戴できるなんて……こんなうれしいことは……おっとっとっと……こんなにいっぱいついじまって、こんなじゃあしまつにわりいや。こんなに、こんなに、盃にあふれて、こんなに……え? なに? そうこんこんいっちゃあいけないって? ……ああそうか。やっぱりこんていうのは気がさすんだな……ああ、すまねえ、すまねえ。おまえさんがこんといっちゃあいけねえというんなら、今後《こんご》は、金輪際《こんりんざい》いわねえ……あれっ、いうまいとすると、よけいにいうねえ。あっはははは……さあさあ、天ぷらのさめねえうちに食べたほうがいいよ。そうそう、どんどん食べて……もうひとつ、お酌《しやく》しよう。ぐっとあけて、ぐっとあけて……」  さかんに飲まされたもんですから、きつねのほうはすっかりいい心持ちになって、 「あたし、すっかり酔っちまったわ」 「うん、そういやあ、だいぶいい色になったねえ。色の白いところへぽーっと赤味がさしてきつね色……いやいや……なあに……そのう……とにかくいい色だ……いい色になったところでもう一ぱい……え? なに? 眠くなった? それじゃあ、横になったらいいよ。いえさ、なにも師匠とおれの仲で遠慮なんぞいるもんか。このざぶとんをふたつに折って、枕がわりにして……そうそう……それから、手ぬぐいをしいたほうがいいよ。髪の油でよごれるから……ああ、それでいい、それでいい。いいから安心しておやすみ。おれはここで飲んでるから……」  と、さんざんひとりで飲んだり食べたりしてるうちに、きつねはぐっすり寝こんでしまいましたので、それをみすました男は、そっと階下《した》へおりてくると、 「おい、ねえさん、ねえさん」 「あっ、お帰りでございますか?」 「しいっ、しずかにしておくれ……いまね、つれの女が寝こんだところだから……なあに、ちょいと飲みすぎて眠くなったというから寝かしてあるんだから心配はいらねえ……で、おれは、ちょいと用足しにいってくるから……なあに、このさきに友だちが住んでるんだ。ちょいとここまできたついでに顔だししようってえやつだ。なにかこう、みやげになるものはないかい? え? たまご焼き? うん、そりゃあいいや。ここんちのたまご焼きならいいみやげにならあ。じゃあ、それを三人前折り詰めにしておくれ……それから、勘定はね、二階のつれからもらっとくれ。いいかい。ちゃんと紙入れがあずけてあるんだから……起きたら、用足しがあって、おれはさきへ帰ったとそういっとくれ。まだ当分寝かしといてやっとくれよ。うん、起こすときも、いきなり起こさないほうがいいよ。いきなり起こすと、ぽーんととびあがったりするといけないからね……ああ、折り詰めができた? ありがとう。じゃあ、よろしくたのむよ。どうもごちそうさま」 「毎度ありがとうございます」 「はい、さようなら」  ひどいやつがあったもんで、そのままずらかってしまいました。 「ああ、お竹や、二階のお客さま、そろそろお起こししたらどうなの? あんまりおそくなるといけないから……」 「はい、かしこまりました……あのう、ごめんくださいませ。ごめんくださいませ。お客さま、ごめんくださいませ。ちょっとここをあけさせていただきます……まあ、よくおやすみのようでございますねえ……あの、お客さま、お客さま、失礼でございますけども、あまりおそくなるといけませんから、お目ざめを……もし、お客さま、お目ざめを……」 「ああ、あーあ……はい……はい、あいすみません。すっかり酔ってしまって……あらっ、つれの者はどういたしました?」 「なんでも、ご近所にお友だちがいらっしゃるとかで、ちょいと顔だしをしてくるからと、おみやげにたまご焼きを三人前お持ちになってお帰りになりました」 「まあ、そうですか。人を寝かしたまま帰っちまうなんてひどい人ですわね……それで、あの、こちらのお勘定は?」 「ええ、あなたさまに紙入れがあずけてあるからいただくようにとのことで……」 「えっ、あたしから!」  びっくりしたとたんに、きつねのやつ、神通力をうしなって、もとの姿にもどっちまった。耳がぴーんと立って、口は耳もとまですーっとさけて、うしろのほうからはふといしっぽがにょっきりでてきましたから、女中がおどろいたのなんのって、「きゃっ」という声とともに二階からガラガラガラ…… 「だれだい? 二階からおっこったのは?」 「金さん、勝つあん、たいへんだよ。たいへんだよ」 「なんだ、お竹どんじゃあねえか。どうしたんだよ、二階からおっこったりして……」 「たいへんだよ。二階がたいへんなんだよ」 「なにがたいへんなんだい?」 「さっきのふたりのお客さまね、ひとり、男のほうは帰ったろう?」 「うん、それがどうした?」 「二階に、女のほうが寝てたけど……あれはきつねだよ」 「えっ、きつね? じょうだんいっちゃあいけねえや。そんなことでかつごうったってだめだ」 「うそじゃあないよ。いまね、二階へいって起こしたら、『お勘定は?』って聞くから、『あなたさまに紙入れがあずけてあるからいただくようにとのことで……』といったとたんにしっぽをだしたんだよ」 「なにいってやんでえ。勘定で足をだすってなあ聞いたことはあるが、勘定でしっぽをだしたなんてはなしは聞いたことがねえぜ……え? 耳がぴーんと立って、口が耳もとまでさけた? ほんとうかい? そりゃあたいへんだ……こういうときは、辰つあんでなくっちゃあ……おい、辰つあん、辰つあん! ちょいときてくんねえ」 「なんだ、なんだ、なんだ? 喧嘩か? ゆすりか? 食い逃げか?」 「いえ、そんなんじゃあないんだけどね、きょうは旦那がお留守で、どうにもさばきがつかねえんだが、辰つあん、おめえはたいそう強えんだってなあ」 「ああ、おらあ、鬼がこようと蛇《じや》がこようと、びくともするんじゃあねえや」 「そうだってなあ……じつは、鬼でも蛇でもねえんだが、二階にきつねがいるんだ。ちょいとみてきてくんねえ」 「えっ、きつね? こんこんさまかい? ……なに? 二階に寝てたのが、女《め》ぎつねかい? ……へえ、そいつあおどろいたな」 「だからさ、このさわぎはおめえじゃなくっちゃあおさまりがつかねえってわけだ」 「あたりめえよ。こちとらあ、じまんじゃねえが、鬼がこようと、蛇がこようと……」 「だからさ、鬼でも蛇でもねえ。きつねなんだから……」 「うん、きつねねえ……きつねはいま断《た》ってるんだ。ここんところ鬼と蛇にかかりっきりで手がはなせねえ」 「なにいってやんでえ。強え強えってでけえことばかりいってやがるくせに……いいや、いいや、もうたのまねえ。さあ、みんな、いいか、旦那がお留守のあいだに、きつねなんぞに食い逃げされたとあっちゃあ、旦那に顔むけができやしねえ。かまうこたあねえから、そのきつねをたたきのめしてやろう」  若い衆が五、六人、天びん棒やほうきやものさしなんか持って、そーっと二階へあがってまいりました。きつねは、自分が正体をあらわしているとは気がつきません。しきりに勘定をどう払おうかとかんがえているところへ、いきなりみんなでとびこんできて、「こんちくしょう、こんちくしょう」とひっぱたきましたから、さすがのきつねも不意をくらって座敷のなかを逃げまわるばかり。そのうちに、もうだめだというんで、最後の一手、強烈な、鼻をつらぬくようなやつを一発はなった。いたちの最後っ屁ということをよく申しますが、このきつねの苦しっ屁もそれにおとらぬ猛威で…… 「あっ、プッ……こりゃあたまらねえ。だれだい、この最中《さなか》に……なに? きつねかい? おどろいたね、どうも、気が遠くなるようだ……おやっ、きつねは逃げちまった。惜しいことをしたなあ」 「ただいま帰りました。なんだ? 二階のさわぎは?」 「あっ、旦那のお帰りだ……へい、旦那、お帰りなさいまし」 「へえ、お帰り……」 「お帰り……」 「なんだ、おまえたちは……はちまきなんぞして、てんでに棒なんぞ持って……いったいなんのまねだ?」 「へえ、食い逃げなんで……」 「食い逃げだって手荒いことをしちゃあだめじゃあないか。仮りにもお客さまだよ」 「それが……旦那……きつねなんで……」 「なに、きつね?」 「へえ、きつねが二ひきできゃあがって、おすのほうはさきにみやげなんぞ持って帰っちまったんですが、めすのほうが飲みすぎて寝こんじまったんで……お竹どんが起こしにいって、勘定のことをいうと、そのきつねがびっくりして正体をあらわしやがったんで……それから、みんなでたたきのめしてやろうってんで、なぐりつけたんですが、苦しっ屁をして逃げちまいました」 「おいっ、おまえたちはとんでもないことをしてくれたな」 「なんで?」 「なんでって……ここは王子じゃあないか。うちの店がこうやって繁昌してるのも、みんなお稲荷さまのおかげなんだ。おきつねさまは、そのありがたいお稲荷さまのおつかい姫だぐらいのことは、おまえたちも知ってるだろう? そのおきつねさまが、わざわざきてくだすったんだ。だから、日ごろのご恩がえしに、うんとごちそうしてお帰しするのがあたりまえじゃあないか。それをなぐったり、たたいたりして、とんでもないやつらだ! ……だれだ、なぐったのは? 金助、おまえか?」 「いえ、あっしじゃあねえんで……あっしはなぐったりしません」 「なぐらない? じゃあなんだ、その手にもってるものさしは?」 「え? このものさし? ……あっ、これはでござんすね……これは……そのう……おきつねさまの身の丈《たけ》はどのくらいあるかと、ちょいとはかったんで……」 「なにいいかげんなことをいってるんだ。のんきなことをいってる場合じゃないぞ。おまえたちは、おきつねさまにとりつかれるぞ」 「へえー」 「へえーじゃあない。病気にでもなったらどうする?」 「とんだことをしちまったなあ……どうしたらよござんしょう?」 「まあ、いろいろとおそなえものを持って、みんなでおわびにいくんだ」  扇屋の主人も心配ですから、店の者をつれて、お稲荷さまへおわびにいくというしまつ。  こちらは、きつねをだました男でございます。三人前のたまご焼きを持って、いい心持ちにほろ酔いきげんで友だちのうちへやってまいりました。 「ありがてえなあ。おきつねさまにごちそうになろうたあおもわなかったな……こんちわ、おい、いねえのかい?」 「よう、半ちゃんじゃあねえか。しばらくだったな。どうしたい、たいそうごきげんじゃあねえか」 「ああ……これは手みやげがわりだ、たまご焼きだけど……」 「へーえ、扇屋かい? こりゃあごちそうさま。しかし、ぜいたくなもんだな。だいぶかかったろう?」 「それがただなんだ」 「ただ? 官費かい?」 「いや、こん費」 「なんだい、そのこん費てえのは?」 「それがね、お稲荷さまにおまいりした帰りにきつねがでてきやがって、おつな年増に化けやがった。となり町の清元の師匠に似てたから、師匠、師匠と心やすくはなしかけて、うまく扇屋へつれこんで、酔わして寝かしておいて、たまご焼きを三人前みやげに持って、勘定を押しつけて逃げてきちまったんだ」 「おいおい、半ちゃん、ひどいことをしたなどうも……人間がきつねに化かされたてえはなしは聞いたことがあるが、人間がきつねを化かしたってえのは初耳だ。しかし、まあ、とんだことをしたもんだな」 「なぜ?」 「なぜって、おめえは知らねえのかい? きつねは稲荷さまのおつかい姫というじゃあねえか。せっかく稲荷さまにおまいりにいったって、きつねをだましたりしたんじゃあなんにもならねえぜ。それどころか、きつねは執念|深《ぶけ》えから、きっとたたりがあるよ。もしもおめえにたたりがなくっても、おかみさんにとりついたらどうするんだ? これから帰ってみな、おかみさんが、きつねの面をかぶって、はたきを持って、テケレッテン、スケテンテンって、お神楽《かぐら》かなんか踊ってるぜ。で、おめえの顔をみると、『よくもおまえはひどいことをしてくれたねえ。コーン』てなことをいって、おめえののど笛へ食らいつくぜ」 「そりゃあ、えれえことをしちまった」  これから、半ちゃんはうちへ帰りましたが、一睡もできません。あくる日になると、朝早く起きて、手みやげを用意すると、王子へわびにやってまいりました。 「あーあ、おどろいたねえ。ちょいとしたいたずらがこんなことになるとはおもわなかった。しかし、まあ、ちょいとしゃれが強すぎたなあ。せめてまあ、勘定だけでも払っときゃあよかったんだが……えーと、たしかこのあたりだったな。ここかしら? ここに穴があるから……ああ、たしかにここだ。この木の下で、草をあたまにのせて、ひっくりけえったんだ……おやっ、うなり声が聞こえるぞ……おやおや、ちっちゃなきつねがでてきた。こりゃあ、きっときのうのきつねの子どもだぞ……へへへへ、もしもし、お坊っちゃんだか、お嬢ちゃんだかわかりませんけど……おや、お坊っちゃんですか。どうもお毛|並《な》みがようございますねえ。かわいいなあどうも……奥でうなってるのはどなたです? え? おっかさん? きのう人間に化かされて怪我をなすったって? ……そいつあわるかったな……あのね、おじさんねえ、きのうね、坊やのおっかさんにちょっと悪ふざけをしちゃったんだ。いえ、べつに悪気があったんじゃあないんだけれど、ついふらふらとやっちまって……それでね、たいへんにすまないとおもったもんだから、おわびにきたんだ。坊やからよーくあやまっといとくれ。人間がぴょこぴょこあたまをさげていたってね、で、これ、ほんとうにつまんないもんだけど、おわびのしるしだから、おっかさんにあげておくれ。いいかい、くれぐれもすまなかったって、よくそういっとくれよ……ああ、くわえて穴んなかへはいっちまった。かわいいもんだな」 「おっかさん、おっかさん」 「しずかにおしよ、この子は……おっかさんは、からだじゅうがいたいんだから、大きな声をだすとひびくじゃあないか……どこへいってたんだよ。むやみに表へでるんじゃあないよ。おまえなんぞ子どもなんだから、どんな目にあうか知れないよ。この節の人間は油断できないんだから……」 「あのね、きのう、おっかさんを化かした人間がきたよ」 「えっ、とうとうここまでつきとめてきたかい? 人間なんて、なんてまあ執念深いんだろう……まだいるのかい?」 「ううん、もう帰った。それでね、おれのことを坊っちゃん、いいお毛並みですねえなんてほめてたよ」 「まあ、なんてそらぞらしい。いいかげんな空世辞《からせじ》なんかいって……で、どうしたい?」 「うん、おっかさんによーくあやまっといとくれって、ぴょこぴょこあたまをさげていやがんの……それから、つまんないものだけど、おわびのしるしにって、これ持ってきたよ」 「ちくしょうめ、なにがおわびのしるしだい……それにしても、なにを持ってきたんだろうね」 「あけてみようか」 「ああ、あけてごらん」 「あっ、おっかさん、ぼたもちだ」 「えっ、ぼたもち?」 「うん、おいしそうだよ。食べようよ」 「ああ、食べるんじゃあない! 馬の糞かも知れない」 汲み立て  道楽というものはいろいろございますが、その中で、清元や小唄の稽古所へお通いになるかたがございます。これもどうも女のお師匠さんへばかり、お弟子の付きが早《はよ》うございまして、男のお師匠さんには、どうもお弟子の付きがおそいようでございます。  それも芸を十分にやろうというかたは、男のお師匠さんのところへいらっしゃいますが、女のお師匠さんのところへいらっしゃるかたの中には、お色気が目的で、お稽古がつけたりというようなお弟子がいろいろとございます。  師匠をはりにくるというので経師屋《きようじや》連なんていのがいるかとおもうと、なかには蚊弟子《かでし》なんてのがございます。これは、蚊のいる時分は、夜なべができませんから、あそび半分に稽古所へ通ってみようという……涼みがてらに唄を唄って、蚊がいなくなる時分には、蚊とともにいなくなるから、これを蚊弟子というんだそうで……なかには狼連《おおかみれん》というのがございます。どういうわけかというと、これは、師匠がころんだら食おうというのですが、物騒な弟子があったものでございます。  お師匠さんがすこしでもきりょうがいいと、お弟子なかまに苦情が絶えません。 「このあいだからようすをみてると、あの野郎には四度《よたび》も稽古をしてやって、おれには二度しか稽古してくんねえ。どうも変だ」  なんてひとりがいいますと、 「そういえば、どうもおれにも当たりがよくねえ」  なんてのがでてきまして、よるとさわるとぐずぐずいっております。 「どうしたい、みんなあつまっているのかい?」 「いや、喜三っぺ、まあ、こっちへあがんねえ」 「だれだい、辰がきてるのかい? 金公もきてるな」 「ときに喜三っぺ、おめえは、毎晩、横町の師匠んとこへいくのかい?」 「いくとも! おらあなまけやしねえ。たいていいくが、おめえはいくかい?」 「おめえとかけちがって、このごろは会わねえが、おれだっていってらあな……ときに喜三っぺ、おめえ、なにを稽古している?」 「『将門《まさかど》』よ」 「え?『将門』?」 「なんだ、知らねえのか?  嵯峨や御室《おむろ》の花盛り……」 「おかしな声を張りあげるない。そんなこたあおめえに聞かなくったってわかってらあな。おめえ、この春、あすこの師匠がはじめたとき、『将門』を習いはじめたんじゃあねえか」 「そうよ」 「そうよじゃねえよ。ことしの春からこの夏場までもち越すとは、すこし長すぎたな」 「ああ、ずいぶん長えもんだな。おれも感心してるんだ」 「てめえで感心してりゃあ世話あねえや……どういうわけでそう長えんだい?」 「どうも、おめえも知っての通り、おれは声がよくねえからなあ」 「うん、そういやあ、おめえの声は人間に遠い声だ」 「よせやい! それで、節《ふし》がうまくいかねえのよ。調子にはずれて、三味線に乗らねえからな」 「じゃあ、いいところはねえじゃあねえか」 「まあ、早くいえば……」 「おそくいったっておんなじだよ……はじめのほうはどうだい?」 「まだちょいとあやふやだなあ」 「中ほどは?」 「形《かた》はないよ」 「しまいは?」 「まだ習わない」 「なあんだい、じゃあ、形《かた》なしじゃあねえか」 「どうものどのぐあいがわりいから、師匠がそういった。『おまえさんは吹っ切るとよくなるよ』って……」 「いまのうちに吸いだし膏薬《こうやく》でも張んねえ」 「ばかにするねえ。できものじゃああるめえし、のどへ吸いだしを張るやつがあるもんか……このごろは、声がわりいから三味線をとおもって、いっしょうけんめいに三味線をはじめた」 「おめえがかい? よしたほうがいいな」 「なぜ?」 「だって、三味線なんてえものは、いきな男がひくとか、かわいい女の子がひくから、それで色気があるんだぜ。てめえが三味線をかかえたところは、鬼が棕梠箒《しゆろぼうき》をかかえたようだよ」 「鬼が棕梠箒とは情けねえな。鬼が十能《じゆうのう》てえのは聞いているが、棕梠箒はひでえな」 「ほかに呼びようがねえんだよ」 「ひでえことをいいやがるな。だが、辰ちゃんの前だけれども、三味線は得《とく》だぜ」 「なにが得だい?」 「唄の稽古のときは、まん中に見台《けんだい》という邪魔をはさんで、師匠とさしむかいでやらあ。そこへいくと、三味線となりゃあ、見台をわきへすーっとどかして、膝と膝がつきあわせになる」 「お調べがむずかしいな」 「犯罪人《とがにん》じゃあねえや……そればっかりじゃあねえぜ。わからねえところがあると、指をこうおさえて教えてくれらあ。おんなし月謝なら、指へさわってもらったほうが安いじゃあねえか」 「あれっ、勘定ずくではじめやがったんだな。いやな野郎じゃあねえか」 「うん、けど、このあいだ、膝で師匠がおれを突いてにらんだぜ。『おまえさんといっしょにはじめた子どもでさえ、とうに二段も三段もあげちまったのに、まだ一段もあがらないとは、なんたる情けない人です』といったから、『あたしも情けないとおもいます』といった」 「なんだい、おっそろしくすなおな野郎だなあ。しかし、なにをおめえ習ってるんだよ?」 「むずかしいもんだよ」 「それだからなんだよ?」 「『過ぎにし』だ」 「情けねえやつだな。この節《せつ》、六つか七つの子どもでさえ、『過ぎにし』なんか聞きおぼえでひく。それが二十六にもなって、習ってもできねえんじゃあ、じまんにはならねえや。どういうわけでいけねえんだろう?」 「どうも三味線てえやつは、指のほうをみていりゃあいけなくなっちまうし、撥《ばち》のほうへ目をつけりゃあ上がお留守になるし、上をみりゃあ撥が留守になるし、なかなかむずかしいもんだ……このあいだ、おまけに撥で張り倒された」 「なんで? いかになんでも、撥でなぐるってえのは、すこしらんぼうじゃあねえか」 「もっともおれがわるかった」 「どうしたんだよ?」 「なにね、そのときは、師匠が洗い髪だったとおもいねえ」 「つまらねえことをいうな。なにも洗い髪を聞くんじゃあねえ。ぶたれたわけを聞くんだよ」 「そもそもこれが発端《ほつたん》よ」 「かたき討ちだなあ、発端とくると……どうしたい?」 「色が白くって、薄化粧して、師匠が毛の性《しよう》がいいや。洗い髪にして、うしろへすーっと垂らしているのが、畳《たたみ》八|畳《じよう》ぐれえひきずって……」 「ばかなことをいうな。そんな長《なげ》え毛があるもんか」 「まあ、このくらいにいわなければおもしろくねえや」 「つまんねえところへ景気をつけるない」 「紺しぼりの浴衣《ゆかた》に、お納戸献上《なんどけんじよう》の幅の広い帯で、『さあ、喜三ちゃん、いままでは三味線が二|挺《ちよう》だったけれど、いつまでも二挺でやってあとへついてきては、おもうようにおぼえられないから、あなたひとりでひいてごらんなさい』とこういうんだ」 「ふん」 「『どうかおねがい申します』っていうと、師匠が前へきて、いつもの通り見台をわきへどかして立て膝をしたんだけれど、いい腰巻きをしめてたねえ」 「腰巻きなんざあどうだっていいや」 「白|縮緬《ちりめん》の浜の一番という上等品だ。蚤《のみ》の糞《ふん》なんぞ一つもついていねえや。上のほうに金巾《かなきん》や晒《さら》し木綿《もめん》はついちゃあいねえだろうとおもうんだ」 「そんなに気をつけなくてもいいじゃあねえか」 「立て膝をしてるもんだから、端《はじ》のほうがぺらぺらぺらぺらうごくんだ。それから下からおれが、ふーっと吹いた」 「ばかなまねをするない」 「いくら吹いても、ものがよくって重《おも》てえからなかなかこれがもちあがらねえ。それから、ふーっ、ふーっ、ふーってんで、かんしゃくもちが火でもおこすように夢中でやってると、あたまがお留守になったからたまらねえや。そばにあった撥をとると、いきなりぱっときたから、『一本まいった』とあたまをおさえた」 「なんだい、剣術だな、まるで……」 「『いいかげんにしておくんなさい。じょうだんするにもほどがありますよ』と、顔色を変えて怒ったから、『まことに相すみません』てんで、ちょうど七つお辞儀《じぎ》をした」 「ばかな野郎だな」 「もっとも、なぐられてもしょうがねえや」 「あきらめがいいな」 「かんがえてみると、お開帳《かいちよう》をただ拝《おが》もうとおもったから、罰《ばち》(撥)があたるのもあたりめえだ」 「なにをいってやがる。なぐられて落としばなしをこしらえてるのは、てめえぐれえのもんだ。あきれけえった野郎じゃあねえか」 「おいおい、辰つあん、喜三さん、おめえたちは、また、師匠のうわさでもちっきりだけど、おらあ、もう稽古にいくめえとおもうぜ」 「なぜ、留さんはいかねえんだい?」 「おらあ、もういやだ。このごろは、師匠にちゃーんときまった男ができたからな」 「おい、ほんとかい? おう、みんな聞いたか?」 「だれだ、その相手は?」 「建具屋の半公が師匠とおかしいぜ」 「あの色のなまっ白《ちろ》い野郎か?」 「そうよ」 「そんなはずはねえとおもうがな」 「なぜ?」 「なぜって、あんな野郎を師匠が相手にするわけがねえじゃあねえか。まあ、弟子はおおぜいいるけれど、師匠の情夫《いろ》にでもなろうてえのは、男前《おとこまえ》は二の次《つぎ》だが、ちょいと色の浅黒い、にがみばしったおつな男で、度胸があって、喧嘩《けんか》に強くって……まあ、男の中の男というような男でなければ、とても師匠の相手にはなるめえ」 「へーえ、そんな弟子がいるのかい?」 「ああ、いるとも……」 「だれだい?」 「現在、おめえの前にいるじゃあねえか……あーあ、わからねえかなあ」 「だれだろうね?」 「まあ……おれだ」 「ばかにするない。男前は二の次だってやがら……ふん、てめえなんぞ、二の次どころじゃあねえや。三の次、四の次、五の次|面《づら》だ。色の浅黒いだって、浅黒いんじゃねえ、おめえのはどす黒いんじゃあねえか。喧嘩に強いだって? こないだの縁日につきとばされて、尻餅をついたじゃねえか」 「あのときは腹が下《くだ》っていたからだよ」 「しまらねえ野郎だなあ」 「それはそうと、半公と師匠の仲はほんとうなのか?」 「そうよ。このあいだのことだが、おれが『師匠、おうちですかい?』と格子をあけたんだ。すると、師匠の声で、『どなた?』というから、『へえ、わっちです』『おや、留さんですか、おあがんなさい』というが、障子《しようじ》をあけるにあけられず、暫時《ざんじ》立ち往生《おうじよう》……」 「だって師匠のうちじゃあねえか。立ち往生するこたああるめえ」 「ところがそうはいかねえんだ。半公の野郎が主人《あるじ》然として、高慢な面《つら》あして、師匠と火鉢をあいだにはさんで、師匠がこっちにいて、半公がむこうにいて、まん中に火鉢だ。半公むこうの師匠こっち、まん中に火鉢……師匠こっちの、半公むこうの……」 「もうわかった。いつまでいったっておんなしだい、こんちきしょう!」 「すると、師匠が、『お茶をおあがんなさい』というから、『へえ、ごちそうさま』と飲んでたら、半公の野郎が、『お菓子をおあがんなさい』といったから、『ありがとうございます』ってんで、ひょいと食うと、あんこがくさっていてすっぺえんだ」 「くさってるのを、てめえ、食いやしめえ?」 「だけれども、あわてて吐きだすわけにもいかねえから、がまんして食っちまった。あとまたひとつ食ったら、そいつもくさってた」 「ばか野郎!」 「ところが、半公の野郎は、ほかの容《い》れ物《もの》から菓子をもそもそ食ってるんだ」 「菓子なんかどうでもいいや。で、どうなった?」 「やがて、半公のやつが、つーっと立って廊下へでるとね、『ちょいと半ちゃん、お手洗《ちようず》なの?』ってんで、師匠がまた縁側《えんがわ》へいって、ぴたっと障子をしめて、ふたりで、こちょ、こちょ、こちょ、こちょ、なんかいってやがる。どうもこれはただごとじゃあねえなとおもうから、おれが、そーっと這って……」 「うん、廊下のはなしを聞いたか?」 「半公の食ってた菓子を食ってみた」 「そんなものを食ってる場合じゃねえじゃねえか」 「半公の食ってるほうは、くさってなくってうめえんだよ。それから、おらあ夢中でみんな食っちまった」 「で、はなしはどうだったんだ?」 「聞きそこなっちまった」 「ばかだな。てめえは……」 「まあ、とにかく、あのようすじゃあただごとじゃあねえとおもってるんだが……あそこに与太郎がいるから、あいつに聞きゃあすぐわからあ」 「えっ? おうおう、与太郎がいい塩梅《あんべえ》にきやがった……おい、与太!」 「やあ……おおぜいあつまってるな」 「こっちへへえれ……おめえ、いま師匠のうちにいるんだったな」 「うんうん、いるよ。女中さんがね、病気になって帰っちまったから、手つだいにいってるんだ」 「てめえはいまあそこにいるんじゃあ知ってるだろうが、師匠んとこへ泊まりにくる男がいるだろう?」 「ああ」 「だれだ?」 「あたい」 「なにいってやがるんだ……てめえのいるのはわかってるが、ほかに男がくるだろう? 半公が泊まりにくることがあるだろう?」 「へーえ、よく知ってるね。うん、くるよ」 「師匠と仲がいいだろう?」 「仲がいいよ。でも、こないだ喧嘩した」 「なんだって?」 「なんだか知らないがね、半さんが、お師匠《しよ》さんの髪の毛をつかんで、ポカポカなぐった」 「ひでえことをするな。てめえ、だまってみてたのか?」 「う、うん、『およし、およしよ』ってとめたんだ。そしたら、『てめえのでる幕じゃあねえ』って、横っ腹蹴とばされて眼をまわした」 「だらしのねえ野郎だなあ」 「気がついたときは、もう喧嘩はおしまい」 「あたりめえだ。そんなにいつまで喧嘩してるもんか」 「暮がたになって、半さんがあやまったよ」 「なんて?」 「『おれが気が短《みじけ》えから、あんな手荒なことをして、すまなかったなあ』って……」 「師匠は怒ってたろう?」 「う、うん、『おまえさんが気が短かいことを知ってながらさからって、ぶたれたのは自業自得《じごうじとく》でしかたがない。いやな人にやさしくされるよりも、好きな人にぶたれたほうがうれしいよ』って、そういった」 「ちえっ……それからどうした?」 「そしたら、半さんが、『おれも虫のいどころがわるかったんで、つまらねえことに腹を立ててすまなかった』と、仲なおりにお酒を飲みはじめた」 「うん」 「で、半さんが、『与太公、てめえは寝ろ』っていうから、『おれは眠くないから寝ない』って、そういった」 「うん、えれえな」 「そしたら、お師匠さんが、『そんなことをいって、半さんが、またかんしゃくをおこすといけないから、いい子だから与太さん寝ておくれ』っていうんだ。半さんのいうことは聞けないが、お師匠さんのいうことにさからっちゃあわるいとおもったから、『じゃあ寝ます』って寝たけど、眠くねえから、大きな目をあいてようすをみていた」 「よしよし、感心だ」 「そのうちに、ほんとうに眠くなって寝ちゃった」 「なにをいいやがるんだ」 「それからね、夜なかに小便がしたくなったから起きた」 「なるほど……」 「すると、また喧嘩してたよ」 「へーえ、執念深えやつだな。また髪の毛を持って蹴とばしたりしてたか?」 「こんどは蚊帳の中で、取っ組みあってた」 「おーい、だれか受け付けかわってくれ。おらあひとりで受けきれねえから……」 「ばかだな。くだらねえことをいってやがらあ。のろけの中売りをはじめやがって……おい、与太、おめえ、たいそういい服装《なり》をしているが、どっかへいくのか?」 「これからね、涼みにいくんだ」 「なまいきいってやがらあ。てめえなんか涼みにいく面《つら》じゃねえや」 「だって、お師匠さんが、『柳橋から舟へ乗っていくから、与太さんもいっしょにおいで』っていうから、それでいくんだ」 「なんだなあ、それならちょいと声をかけてくれりゃあ、こっちだってつきあおうじゃねえか」 「でもね、お師匠さんがそういってたよ。『あの有象無象《うぞうむぞう》がいくと、せっかくの涼みがなんにもならないからないしょにしておきなよ』って……」 「なんだ、その有象無象ってえのは? いまさら口をおさえたって間にあうもんか……だれだ、その有象ってえのは?」 「あの人」 「だれだ、辰公か?」 「うん」 「それだけか?」 「それからあの人」 「そうか、喜三っぺもか」 「うん、それに、あの人も……」 「金公か」 「そう……おまえが無象」 「なにいってやんでえ。こんちくしょうめ!」 「おそくなるとしかられるからいくよ」 「あれっ、いっちまやあがった。ちくしょうめ……おい、聞いたかい、ふてえことをいうじゃねえか」 「みんなでそろって、うちをたたっこわして火をつけてやろう」 「たいそうなことをいうようだが、師匠があれだけになったのも、こちとらがよってたかってしたんだ。なあ、そうだろう?」 「そうだとも……師匠のところをぶちこわしてやろう」 「待て待て、そんならんぼうをしたってしょうがねえやな」 「しょうがねえったって、だまっていたんじゃあ、まるっきりまぬけになっちまうじゃあねえか」 「だからよ、涼みにいってるから、船のそばへいってじゃましてやろう」 「どうするんだい? 泳いでいって水でもかけるのかい?」 「河童のかたき討ちじゃああるめえし、そんなことをするもんか。半公の野郎がのどじまんで、師匠の三味線《いと》で端唄《はうた》かなんかやるにちげえねえから、こっちも舟へ乗ってって、むこうの舟のそばで、鳴りものをそろえてな、ばか囃子《ばやし》をしようじゃねえか。そうぞうしくって、これじゃあしょうがねえってんで、ところを変えたら、どこまででも追っかけてって、ドンチャカ、ドンチャカやってじゃましてやるんだ。そのうちに、半公が怒って面《つら》でもだしゃあがったら、師匠の目の前で、あいつを袋だたきにしてやろうってえ寸法だ。どうだい?」 「なるほど、そいつあいいや! よしっ、さっそくしたくにとりかかろう」  みんなで手わけして、すっかりしたくをととのえて舟を乗りだしましたが、師匠のほうではそんなことはちっとも知りません。 「ちょいと半ちゃんごらんよ。こうして涼んでいると、いのちの洗濯《せんたく》だね。暑さ知らずだよ……ちょいと与太さん、お燗ができたら、こっちへもってきておくれ……船頭さんもこっちへきて一ぱいおやんなさいな」 「へえ、ありがとうござんす。いえ、もうここで結構でござんす」 「まあ、いいじゃあねえか。師匠もああいってるんだから遠慮なくこっちへおはいんなさい……ああ、ほんとうにいい涼みだ」 「ちょいと半ちゃん、なにかお唄いよ。せっかく三味線を持ってきたんだから……」 「どうものどのぐあいがわりいから、よそうじゃねえか」 「そんなこといわずに、なにかお唄いよ」 「そうか。じゃあ調子をひくくしてくれ」  チンツン、チンツンと調子をあわしております。これから端唄がはじまりますと、例の連中は待ってましたとばかり…… 「さあ、はじまった、はじまった。いいか、こっちもはじめるぜ。それっ」  というと、スケテンスケテン、スケテンテン……ドドン、ドンドンドン、チャンチキチャンチキ、ピキピッピ…… 「なんだい、たいへんなさわぎだな。なんだい? 船頭さん?」 「へえ、となりの舟でばか囃子《ばやし》をはじめましたんで……」 「これじゃあ涼みにならねえや。おい、舟をどっか、上手《うわて》のほうへやってくんねえ」 「へえ、よろしゅうございます……しかし旦那、いま時分、ばか囃子をするとはかわっていますね。花時分ならばよくばか囃子もしますが……ばかばかしい連中でどうも……へえ、この辺でよろしゅうござんすか?」 「ああ、ここならよかろう。おかげで唄がめちゃくちゃになっちまった」 「しょうがないねえ。じゃあ、気分を変えて、都都逸《どどいつ》でもおやんなさいな」 「うん、そうしよう」  と都都逸をはじめますと、まただしぬけに、スケテンテンテン、ドコドンドン、ピキピッピ、ピキピッピ、ドコドンドン…… 「またはじめやがった。うるせえな……おい、船頭さん、ずーっと上手へやっておくれ」 「この調子では、どこまでもついてきますよ」 「すっかりいやな心持ちになっちまった。せっかく涼んでいたのに、あんな暑《あつ》っ苦しい……涼みにもなんにもなりゃあしねえや」 「ちょいと与太さん、よそのお舟なんぞみるもんじゃあないよ」 「やあ、お師匠さんみてごらん。おもしろいよ。有象無象がまっ赤になって、太鼓や鉦《かね》をたたいていらあ……やーい、有象無象!」 「なにをいやがるんでえ。てめえじゃあ相手にならねえ。半公をだせ、半公を!」 「なんでえ、半公をだせだと……よし、でてやらあ」 「およしなさいよ、半ちゃん。むこうがおおぜいなんだから、もし怪我でもするといけないから……」 「そうはいかねえ。でろってんだから、でねえわけにはいかねえや。うっちゃっといてくれ……さあ、なんだ、おれがでたが、どうしたってんだ?」 「あっ、でてきやがった。やい、この野郎」 「なんだ?」 「なんだとはなんだ……おい、なんとかいってやれ」 「え?」 「おめえもなんかいってやれ」 「うん……まあ、よろしくたのまあ」 「なにをいってるんだ……やい半公、こそこそといやなまねをするんじゃあねえぞ。師匠をどうしようとこうしようと、そんなことをとやかくいうんじゃあねえが、『このたびは、こういう仲になりまして、どうかよろしくおねがい申します』と、ひとことぐれえのあいさつがあってもよかろう? それをなんだ、泥棒猫みてえに……だからしゃくにさわるんだ。もっと男らしくしろい! ……さあ、おめえもなんかいってやれ」 「いってやろうか」 「いってやれ、いってやれ」 「やい、半公、この野郎、てめえなんざあ、なんだ、男だろう?」 「あたりめえじゃあねえか。もっとしっかりいってやれ」 「やい、半公、てめえはふてえ野郎だ」 「なにがふてえ?」 「なにがふてえったって……ふてえぞ……てめえもてめえなら、師匠も師匠だ。師匠なんざあ、まったくいい女だ」 「そんなとこでほめるなよ。もっと、しっかり悪口いってやれ」 「やい、この野郎、てめえなんざあ屋根舟へ乗って、うめえ酒飲んで、うめえものを食って、うまくやってやがらあ、どうもおめでとう」 「ばかっ、ほめるんじゃあねえや」 「そこへいきゃあ、こっちは、この暑いのに、炎天で太鼓をたたくなんて……とほほほ……なんたる情けねえ」 「泣くなよ。みっともねえ」 「なにいってやんでえ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちにとやかくいわれる筋合《すじあい》はねえや。くそでもくらえ」 「くそをくらえ? おー、おもしれえや、くそをくらうから持ってこい!」 「くそでもくらやがれ!」 「くそをくらうから持ってこい!」  と両方であらそっておりますまんなかへ、肥舟(糞尿運搬船)がすーっとはいってまいりまして、 「ははは、どうだね、汲みたてだが、一ぺえあがるけえ?」 火事むすこ  むかしは、江戸の名物というと、「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬のくそ」などと申しましたが、いやな名物があったもんでございます。  江戸は火事早いということをよく申しまして、火事のない晩はすくなかったそうでございます。  その時分は、ただいまとちがいまして、火事となると、半鐘が鳴りましたもんで……そうなると、若い連中なんかじっとしておられません。 「おいおい、火事はどこだって?」 「うん、なんだか知らねえが、北のほうへむいてるね」 「北? ただ北じゃあわからねえが、観音さまの手前か?」 「いいや、そうじゃあねえな。五重の塔のうしろにみえらあ」 「へーえ、五重の塔のうしろ? ……吉原じゃあねえか?」 「ああ、吉原かも知れねえ」 「そいつあどうも……しめたぞ!」 「なにがしめただ?」 「なにがって……えー、おう、どうだい、ひとつ、女《あま》をひきとりにいこうじゃあねえか?」 「なまいきなことをいうない。女《あま》ってなあだれだ?」 「おれのなじみよ」 「なにいってやんでえ。なじみにもなんにも……おめえ、吉原へなんぞいかねえじゃあねえか?」 「ええ?」 「いえ、吉原へいかねえじゃあねえか?」 「いったあな!」 「いつ?」 「八年前に……よ」 「ふざけるない。親のかたきをさがしにいくんじゃあねえぞ。八年前の女がいるかいねえか、わかるもんか」 「なにしろ、ためしにでかけよう」  なんてんでのんきなやつがあったもんで……そうかとおもうと、見舞いにいくうちもないのに、あわててとんでいくやつもございます。いわゆる弥次馬というやつで…… 「やあい、あらあらあらあら、やあ、えーい、じゃまだ、じゃまだあい」  なんてんで、自分のほうがよっぽどじゃまで……こんな連中は、火事場へいっても、なんにも用事はございませんから、片すみのほうに寄って立っております。 「どうだい、いせいよく焼けるなあ。風がいいからね……西北《いぬい》でよ。こいつあ大きくなるぜ。しめしめ……」 「なにがしめしめだ? ふざけちゃあいけねえ」 「あっ、おいおい」 「ええ?」 「あすこに大きな蔵があるな」 「うん」 「何屋の蔵だ?」 「質屋の蔵だ」 「質屋か。質屋なんてえものは、まぬけなもんだな。じゃまっけなところへ大きな蔵を建てやがって……しゃくじゃあねえか。あの蔵のために、あすこでとまってしまわあ」 「おいおい、戸前から火がでるぜ」 「え? 戸前から火が? ……なるほど、蔵へ火がへえった。こいつあありがてえ……」  なんてんで……なにがありがたいことがあるもんですか。人の憂《うれ》いをみて喜んでおります。しかし、火事の好きな江戸っ子になると、そんなものだったでございましょう。  こういう一般|町家《ちようか》の消火にあたりましたのが、いろは四十八組の町《まち》火消しというものでございました。なぜ町火消しというものができたかと申しますと、公儀の火消し屋敷の人足というものがおりましたが、これは、大名、旗本の屋敷に火災があったときだけに出動いたしましたので、町家の火事は燃えほうだい……そこで、大岡越前守が、江戸の町火消しをつくって、町家の火災の備《そな》えをしたと申します。で、火消し屋敷の人足を臥煙《がえん》と申しました。これは、いきで、いせいはよかったが、命知らずのらんぼうな連中が多かったようで、たいてい彫《ほ》りものをしておりまして、いざとなると、火よけになる刺子《さしこ》なんぞ身《み》にまとわずに、法被《はつぴ》一枚で火がかりをしたという、どうも荒っぽいはなしでございます。  神田へんの伊勢屋という質屋の若旦那で藤三郎という人が、たいそう火事が好きで、火事と聞くと、すぐにうちをとびだしていくので、親御さんは気が気でございません。半鐘が鳴ると、 「これよ、半鐘が鳴るから、せがれをよく気をつけておくれ……ああ、それから、火事はどこだい?」  なんてんで、せがれのほうをさきにいって、火事のほうをあとから聞くというくらいでございます。  それでも、若旦那のほうは、なんとか鳶《とび》の者《もの》(町火消し)になりたくてたまりませんが、店に出入りの鳶頭《かしら》はもちろんのこと、ほかの鳶頭連中も廻状《かいじよう》がまわってますから相手にしてくれません。親御さんも不承知で、たびたび叱言をいうのですが、若旦那のほうは、火事ばかり追いかけるという道楽のために、家にはとんと寄りつきません。  この若旦那、年は二十六、色白で小ぶとりにふとりまして、体格のいいところへ、背なか一面に牡丹《ぼたん》に唐獅子《からじし》のあざやかな彫《ほ》りものまでほどこしまして、いっぱしの火消し人足気どりですが、鳶の者になれないものですから、火消し屋敷へはいって、臥煙《がえん》の仲間入りをしようというさわぎ……おやじさんは、かわいいひとりむすこだが、親戚の手前もあり、世間の手前もあるというわけで、勘当同様、うちへの出入りをさしとめということにいたしました。ところが、ご当人は、かえってそれをいいことにして、わびをいれるようすもなく、そのままどこへいったのか、親御さんの前に姿をみせません。  親が子をおもう情は、むかしもいまもかわりはございません。子どものほうはそうでもないが、道楽むすこを持つ親御さんの苦労はたいへんなもので、暑いにつけ、寒いにつけ、「ああ、あの不孝者は、いまごろ、どこでどんな難儀をしているか」と、おとっつあんとおっかさんとが、ときどき寝物語をするくらいでございます。  ある年、十一月の末のことで、ちょうど九つ(十二時)前という刻限、ジャンジャンジャン…… 「おい、番頭さん、半鐘が鳴るようだね」 「へえ、火事でございます」  といううちに、ジャンジャンジャンジャン、近火とみえまして、火の粉がどんどんかぶってまいります。 「番頭さん、こまったねえ。いや、ほかの商売ならいいが、うちは質屋で、人さまのものをおあずかりしてるのに、おまえ、蔵の目塗りをしなくちゃいけないねえ……きょうにかぎって、左官の八公がおそくてしょうがないなあ……こんなとき、目塗りもしてないようじゃあ、あんな店へ品物はあずけられないという評判が立っちまう……うちののれんにかかわるから、八公が間にあわなきゃあしかたがない……ねえ、番頭さん」 「へえ」 「おまえさん、ちょいと目塗りをしておくれでないか?」 「あたくしが目塗りを?」 「ああ、あれへあがって、おまえ、ちょいとやっておくれよ」 「へえ……ではございますが……あたくしは、どうも高いところへあがりますことが、まことに不得手で……」 「まあ、そんなことをいわないでさ……泥さえついていれば、それでなんとかいいわけは立つんだから……ねえ、あたしも手つだうからさ……おい、定吉」 「へい」 「おまえもこっちへきて、手つだいなさい」 「へえ、なにをいたしましょう?」 「おまえは、土をこねなさい」 「へえ、かしこまりました……旦那、こんなもんでいかがでございますか?」 「もっと大きくしな」 「へえ、では、このくらいでは?」 「もっと大きく」 「ええ、これより大きくなりますと、お値段のほうがずっと張りますが……」 「なにいってるんだい。たどんを買ってるんじゃあないよ……ああ、番頭さん、あぶないよ。しっかり、その折れ釘へつかまって……ああ、あやしい腰つきだな……片っぽうの手で、うまく泥がうけとれるかな……なに? 両方の手ははなせない? それはもっともだ……じゃあいいかい? 泥をほうるから、うまくうけとっておくれよ。そら、いいかい……あっ、おとしちまった! なんという腰つきをしているんだ? だめだな、そんなようすでは……第一、その……下からほうるものを、上でつまんじゃあいけないよ。なんのことだねえ……そら、いいかい? 手をこうひろげてうけとるようにするんだ。おまえだって、知ってそうなもんじゃあないか? かわら屋だの、左官だのが、泥をうけとるのをみたって、上からつまみゃあしない。いいかい、ほうるよ。小さいから、うまくおうけとりよ……ほら! あははは、おまえの顔へぶつかっちまった。おまえの顔を目塗りをするつもりじゃあなかったんだが、つい、はずみがついたもんだから……さあ、いいかい? こんどはしっかり……いや、どうもうまくいかないもんだな……」  と、さわいでおりますところへ、屋根から屋根をぴょいぴょいつたわって、とんできたのは、年のころ二十五、六になります、色白で小ぶとりの男、からだじゅう彫りものだらけで、法被《はつぴ》一まいというこしらえで、猿《ましら》のようにぴょいぴょいと屋根から屋根をとんでまいりましたが、 「おう、そんなこっちゃあいけねえ」 「へえへえ、どうも、これは……」 「待ちねえ。おれがうまくやってやるから……片っぽうの手じゃあいけねえ。帯をときねえ。それ、ここでゆわいて、この折れ釘へひっかけるんだ。それ、そっちの手をはなしてもいい……両方の手がつかえるだろう?」 「なるほど……へえ、どうもおそれいりました。これならだいじょうぶで……なるほど、うしろへひもがついていて……もし、旦那さま、こんどはだいじょうぶでございますよ」 「これはどうもありがとうございます。おかげさまで……いや、さすがはご商売がらだ……なるほど、折れ釘へしっかり帯をゆわえつけて……それなら、おちる気づかいはありませんねえ……番頭さんや、どうだい?」 「ええ、もうだいじょうぶでございます。これなら両手がつかえますから、たしかにうけとれます……もう、踊りでもなんでも……なんならかっぽれでもお目にかけましょうか?」 「なにをのんきなことをいってるんだ。早くやっておしまい」  ようようのことで、目塗りのまねごとができました。 「ああ、骨が折れた。みているだけだったが、じつにどうもくたびれた。どうも年をとっちゃあいけないな。ちょいとしたことでもたまらない……しずかになったようだがどうした? 定吉、もう消えたか?」 「へえ、ただいまやっとしめったそうで……」 「ああ、そうかい。そりゃあよかった。はいはい、どうもありがとうございます……あ、どうもありがとう存じます。お早や早やとどうも……」 「へい、こんばんは。近江屋でございます。どうもおそうぞうしいことで……」 「ええ、山田屋でございます」 「へえ、どうもわざわざありがとう存じます……へい、どうも……おい、定吉、あれはどちらの? なに? あれが加賀屋さんの若旦那かい? そうかい……うーん、いいせがれさんになんなすった……たしか、うちのばか野郎とおない年だったな?」 「へえ、うちのばか野郎とおない年で……」 「なんだ、おまえまでばか野郎なんていわなくてもいい……ああ、あれをみるにつけても、うちのせがれは親不孝、加賀屋さんのせがれはりこうもんだ……まあまあ、勘当したやつのことをおもってもしかたがないが……そうだ、お見舞いにみえたかたのお名前を帳面につけとかなきゃあいけない。ああ、番頭さんはどうしたい?」 「番頭さんは、まだ、折れ釘にぶらさがっております」 「えっ、そりゃあいけない。だれか手つだっておろしてやんなさい。ひとりでおりることができないんだ。早くおろしてやんなさい……ああ、おりてきたか。いや、ごくろうさま、ごくろうさま。さぞこまったろう?」 「へえ、どうもなれませんことは、しょうのないもんで……」 「顔を洗ったか? ……いや、どうも、おまえさんも店でそろばんをはじいていりゃあ一人前だが、高いところへあがっちゃあ、どうもだらしがないなあ……しかしまあ、ああしておけば、人さまにみられても恥ずかしくはない。いや、結構、結構……」 「ときに、……旦那さま」 「なんだい?」 「さきほど、あたくしがこまっているところを手つだってくださったかたがございます」 「ああ、そうだった。すっかりわすれていたよ……しかしまあおどろいたねえ。いかに商売とはいいながら、屋根から屋根へぴょいぴょいととんだときは、とても人間わざとはおもえないようだった」 「そのことについてでございますが……旦那さまが、あのかたにひとことお礼がおっしゃりたいのではないかと存じまして、あたくし、おひきとめいたしておきました」 「そりゃあよかった。よくおひきとめしてくれたねえ……じゃあ、さっそく会ってお礼を申しあげよう」 「へえ……けれども……むこうさまでは、旦那さまにお目にかかることは、まことにめんぼくないとおっしゃってるんでございますが……」 「なんだい、あたしに会うのがめんぼくない? へーえ、どういうわけなんだい? ……ふーん、すると、うちのお客さまだね? こちらでこまるという品物を無理に質に置きなすって、しかも、流してしまったというようなことじゃあないのかい?」 「いえ、そういうわけではないんで……」 「なんだい? それじゃあ……」 「へえ、せっかく、こういうときに、おかけつけなさいましたんでございますから……」 「せっかくかけつけた? なんのことだい? ちっともわからないじゃあないか」 「へえ、あのかたは、ご勘当になりました若旦那でございます」 「ええっ、あれがせがれかい!? からだじゅう彫りもので……」 「さようでございます」 「屋根から屋根をとんできた……あの男が?」 「へえ……」 「まあ、あぶないじゃあないか! もし、おまえ……屋根からおっこちたら……いやいや、あたしのせがれじゃあないから、そんな心配もいらないことだが……人さまだって、怪我をしていいということはない。なにはともあれ、こういうときにおかけつけになって、おまえの、ああやってこまってるところを……なにしてくだすったんだ。お目にかかって、お礼だけはいいましょうよ」 「へえ、どうもありがとう存じます」 「どこにおいでなさる?」 「ええ、裏口のほうから、台所の、あの二畳のところにいらっしゃいます」 「ああそうかい……では、いってお目にかかり、よくお礼をいいましょう」  番頭さんも喜んで旦那をつれてまいりますと、若旦那はきまりがわるうございます。法被《はつぴ》一まいで、太股《ふともも》のところも彫りものだらけでございますから、下帯のたれをとりまして、前だれのようにひっぱりましたが、どうしたってかくれるものではございません。しかたがないから、台所の隅で小さくなっております。 「ええ、旦那さま、ここにおいででございます」 「ははあ、おまえさんかい?」 「へえ……どうも、ごぶさたをいたしました。いつもおかわりがございませんで……おめでとう存じます。こうしてお目にかかりますのも、まことにめんぼくないことで……」 「はい」  はい……とはいったものの、おやじさんは返事もできませんくらいに、涙がいっぱいでておりますが、しかし、あくまで他人行儀に、 「いや、さきほどはありがとうございました。番頭から委細を聞きまして、ここまでお礼を申しあげにまいりました。どうぞこちらへおでましをねがいたいもんで、そんな隅にいらしったんじゃあ、暗くてしょうがございません」 「へえ、かような姿になりまして、お目にかかるのもお恥ずかしいようなしだいで……」 「へえへえ、どういたしまして……まあ、おまえさんもおかわりがなくと申しあげたいが、たいそうりっぱな絵がかけましたな。わたくしどもにおいでのころは、そんな絵なんぞかいてあげなかったが……まあまあ、おまえさんもおたっしゃで結構だが、親はばかなもので、おまえさんが、そういう道楽でとんで歩いているとは知らず、しばらくうわさにも聞かず、おもてでも会ったこともないが、ああいうやつだから、さだめしこまって、どこぞの木賃宿にでも住んでいやあしないかと、親はよけいな心配をしている……いや、親でない、子でない……お他人さまのことを大きなお世話だが……まあまあ、おたっしゃで結構……この寒いのに、そんなかっこうで歩くのも、おまえさんが好きですることだから、なにもいうことはないが……いまも、加賀屋さんのせがれさんが、火事見舞いにきてくだすったが、たしか、おまえさんとおない年だ。おない年でも、あちらはあの通りのりこうもの、おまえは、そんな服装《なり》をして、このへんをぶらぶら歩いて、『ああ、あれは伊勢屋のせがれの藤三郎さんか』と、人さまにうしろ指をさされる……親の顔へ泥を塗るというのは、おまえさんのことだ」 「へへへ、旦那なんか、さっき番頭さんの顔へ泥を塗りました」 「なんだ、定吉、おまえ、そんなところで聞いてたのか……あっちへいけ! ……お礼を申しあげまして、これでもうあたくしのほうでは用はございません。おひきとりをねがいます」 「まことにめんぼくしだいもございません。またおわびのかなう時節《じせつ》もございましょう。それじゃあ、これでおいとまいたします」  いっているうちに、小僧が奥へいって、母親にこのことをはなしましたから、母親は喜んで、抱いていた猫もなにもほうりだして、あわててでてまいりました。 「あの……おとっつあん、いま、定吉から聞きましたが、あれがきましたってね? ほんとうですか? どこにいます?」 「そこへ坐ってらあ」 「あらまあ……よくおいでだねえ。まあ、苦労をしたとみえて、わずかのあいだにずいぶん年をとっちまって、髪んなかへ白毛がまじって……」 「そりゃあ番頭だよ」 「あら、ほんとうだ。いやだよ、番頭さん、なぜおまえ、そこへ顔をだすんだ。まちがえるじゃあないか……藤三郎や、まあまあ、よくおいでだねえ」 「うかがえた義理じゃあございませんが、遠くからみておりますと、番頭さんがこまっておりましたんで、矢もたてもたまらず、ついお手つだいをいたしました……おっかさんもおかわりなくておめでとうございます」 「ああ、ありがとう……まあ、おとっつあん、みておやんなさい。このさむそうな服装《なり》……いいえ、おとっつあんとおまえのうわさばかりしてるんだよ……『こうやって身代《しんだい》はのびるばかりだが、これをゆずるものもない。どうかあれがまともになってくれれば、この身代はすっかりゆずってやるんだが……まあ、どうしているか? かわったことはないか? それとも死んでしまったか?』と、いって、いつもおとっつあんとうわさばかり……おまえが火事が好きだから、どうか世間に大火事があってくれれば会えるんだがと……」 「なにをばかなことをいうんだ!」 「ようございますよ。それくらいのことをいったって……わたしは、なにもこのうちへ火をつけようとは申しません」 「うちへ火なんぞつけられてたまるもんか」 「まあ、いいじゃあありませんか。そんなにぽんぽんおっしゃらなくても……男親というものは、いやにやせがまんをするというけれどほんとうですね。あなただって、お腹んなかで泣いていることは、よくわかってますよ」 「なにをばかな……」 「しかし、藤三郎や、おまえもいいかげんにまともにならなくっちゃあいけないよ。まあ、そんな服装《なり》をして、風邪でもひいたらどうするんだい? ……もし、おとっつあん、わたしは、この子のものを蔵へいってみると、胸がいっぱいになりますよ」 「なにもこんなやつのものを、蔵へなんぞしまっておくことはないじゃあないか。けがらわしいから、往来へすてちまいな!」 「それがあなたは頑固《がんこ》ですよ。すてるぐらいならやってくださいな」 「だからすてちまえっていうんだ……わからないなあ。すてりゃあ、着物でも、小づかいでも、ひろっていくからうっちゃれってんだよ」 「あはは、そうですか。よくわかりました。ええ、さっそくすてますよ。すてますとも……みんな、ちょいと手を貸しとくれ。たんすごとすてるから……」 「そんなにすてなくったっていいよ」 「小づかいは、どのくらいすてましょうね? 千両もすてますか?」 「そんなに一ぺんにすてずに、ちょくちょくすててやんなよ」 「それに、この子は、勇みの姿《なり》も似合いますけれども、色が白うございますから、ほんとうの……品のいい服装《なり》もよく似合います。あの……それ、いつでしたか、あなたのかわりに、年始まわりをしたことがございましたろう? ……一本、お太刀をさして、袴《はかま》、羽織で……ほんとうによく似合いましたね。あれは、伊勢屋のせがれだって、人がうわさをいたしました。あのとき、わたしは、もううれしくてたまりませんでしたよ……なにしろ、あの子は、あなたより男っぷりがようございますからね……」 「なんだい……つまらないことをいいなさんな」 「だって、ほんとうでございますもの……もし、あなた、これが色白でございますから、袴羽織で黒の紋付が、そりゃあもうよく似合います。どうか……ねえ、わたしはいま、これに……あのときの服装《なり》をさせて、小僧を供《とも》につけてやりとうございます」 「なにをいってるんだ。勘当したこんなやくざなせがれに、そんな服装《なり》をさせて、小僧を供につけて、いったいどうするんだ?」 「わたしゃあ、火事のおかげで……会えましたから、火元へ礼にやりとうございます」 ひとつ穴  焼きはしやせんと女房いぶすなり  なんていう川柳《せんりゆう》がございますが、ご夫婦のあいだに焼きもちがないというのも情《じよう》がうすいようで……といって、あんまりありすぎるのもずいぶんお荷物で……そこはほどほどというところで、焼くほどでなく、狐色《きつねいろ》ぐらいにいぶすというのがよろしいようでございます。 「ちょっと、権助や」 「ひえい」 「まあ、なんていう返事をするのさ。ここへおいでよ」 「へえ」 「そこへお坐り」 「何《あ》んでがす?」 「おまえも知ってるだろうが、旦那がもう三日も帰っていらっしゃらないね」 「へえ、そりゃあまあ、旦那どんのお帰りになんねえのは、おらだって知んねえこともねえが、まあ、あれだけの年齢《とし》だで、まさか迷子になるわけはなかんべえし、といって、どこかでおっ死《ち》んだちゅうわけも……」 「なにいってるんだねえ。縁起のわるいことをおいいでないよ。おまえ、旦那さまの居所 「おらあ知んねえ」 「そんなことがあるもんかね?」 「そんなことがあるもんかったって、知んねえことは知んねえだ」 「だって、おまえ、いつも旦那さまのお供《とも》をして歩いてるじゃあないか」 「そりゃあそうだが、どうもおらあはぐれちまうだ」 「どうしてさ?」 「こねえだだってそうだ。となり町の絵草紙屋の前までいくと、きれいなあまっ子の絵をみて、旦那どんが『この絵を知ってるか?』と聞くだから、『えかくきれいでがすねえ。どこのあまっ子だんべえ?』っていうと、『ばかっ、これはあまっ子ではねえ。中村歌右衛門という女形の役者だ』って……だから、『女形って何《あん》でがす?』と聞いたら、男があまっ子に化けとるだって……まあ、えかく腰ぬけ野郎があるもんだとおもって、おらがながめているうちに、気がついてふりむいたら、旦那どんの姿がねえ」 「まあ、だらしがない。おまえ、まかれちゃったんだね」 「いや、まかれたではねえ。はぐれただ」 「どっちにしたっておんなじさ。おまえがぼんやりしてるからいけないんだよ」 「おらがぼんやりではねえ。野郎がはしっこいだもの」 「なんだい? 野郎というのは」 「あっ、こりゃあいけねえ。陰じゃあ旦那どんのことをいつも野郎といってるもんで……」 「あきれたねえ。自分の主人をつかまえて野郎ということがあるもんかね。じゃあ、あたしのことはなんというんだい?」 「へえ、うちのあまっ子が……」 「いやだねえ……これからそんな口のききかたをしたら承知しないよ」 「へえ、どうかかんべんしとくんなせえ」 「とにかく口のききかたは気をつけないとこまりますからね……旦那がきょうはお帰りになるとおもうの」 「はあ」 「で、もしも、またおでかけになるようだったら、どうせおまえにお供をいいつけるから、途中でまかれたふりをして、どこへいらっしゃるか、ようくみてきておくれ」 「はあ、ようがす」 「それから、これはすくないけれどもね、鼻紙でもお買いよ」 「あんれまあ、もらっちゃあすまねえのう」 「いいからとっておおき」 「では、せっかくのおぼしめしだで……なんぼへえっとるか……」 「なぜあけてみるんだよ」 「なあに、銭高によって忠義のつくしかたをかんげえなくては……」 「現金だねえ、いうことが……」 「いやあ、えかくたくさんへえっとる。何《あに》を買うべえ」 「鼻紙でもお買いよ」 「こんだにたくさん鼻紙買って、いちどきに鼻あかんだら、鼻がすりきれちまうだんべえ」 「なにもこんなに鼻紙ばっかり買うことはないさ。好きなものをお買いよ」 「そんじゃあ、おらあ、ふんどしも買うべえ」 「なにいってるんだね。おまえの買い物の相談してるんじゃあないよ」 「あっ、かんじんなことを聞くのをわすれた」 「なんだい?」 「こりゃあ給金とは別でがしょうね?」 「なに、給金からさしひくもんかね。そのかわりたのんどくよ。こんどはきっとむこうまでついていって旦那のおいでになるところをつきとめておくれよ」 「へえ、むこうまでついていきますだ」 「そうして、むこうを知らしておくれ。たのむよ……そら、旦那さまがお帰りだ。あっちへ早くおいで……お帰りなさいまし」 「はい、ただいま」 「早くあっちへおいでよ」 「なんだって権助を座敷へいれるんだい?」 「いえ……その……いま掃除をさせましたもんですから……」 「掃除をさせるのなら清や竹がいるじゃあないか。あんな者を座敷へいれるんじゃあない。あいつの歩いたあとをごらんなさい。足あとがついているから……どうもきたないやつだ。このあいだもあいつの足をみておどろいちまった。なんだか、かかとをつかずにぴょこぴょこ歩いてるから、『かかとになにかついてるのなら、とったらどうだ』というと、とれないという。どういうわけだと聞いたら、『故郷《くに》をでるとき、かかとのあかぎれんなかへ粟をふんづけてきやしたが、ことしは気候が順調にいったもんで芽《め》をふきやした。このかかとをみるにつけても故郷をおもいだしやす』と涙ぐんでやがる。かかとへ田地《でんじ》をつけて歩いてるんだからあきれたもんだ……二、三日うちをあけちまってどうも……」 「どちらへ?」 「いや、その……すぐに帰ろうとおもったんだが、なにしろ田中が相手だもんだから……あいつときたら梯子《はしご》酒だから、もうすこしつきあえ、もうすこしつきあえというので、ついついどうも……どちらからも手紙がこなかったかい?」 「いいえ、お手紙はまいりませんが、川田さんからお使いのかたがみえました」 「川田さんからお使いのかたが? ……いつ? きのうかい? さあ、しまった。きのういくつもりでいたんだが……きょう帰り道にまわってくればよかった。急いだもんだから、ついわすれちまった。すぐにいってこよう」 「お召しものは?」 「着物はこれでいいが……」 「おでかけになりますなら、お供《とも》をおつれになって」 「いや、べつに供なんぞいらない」 「でも、もしもご用があるといけませんから、おつれになりましたら?」 「じゃあ、定吉をつれていきましょう」 「定吉は手がふさがっておりますので……権助をおつれなすって」 「あれかい? ありゃあごめんをこうむりましょう。おまえはねえ、たいそうひいき役者で、あれをかわいがってやるのはいいが、あんなばかなやつはないねえ。叱言《こごと》をいうとむやみにふくれやがって……このあいだも供のくせにさきへ立って歩くから、『ばかめ、なんだって供がさきへ立って歩くんだ』といったら、『わしがさきへ立って歩くんではねえ。おめえさまがのろいからあとになるんだ』という。『なんぼ足が早いったって供がさきへ立って歩くやつがあるもんか』といったら、ようやくあとからきやあがった。そのときはたいへん素直でよかったが、神田へいってちょうちんを借りてきたとき、あいつはちょうちんを持ってあとからくるんだ。『なぜあとからくるんだ?』といったら、『こねえだは、供はあとからこいといったのに、そんな無理なことはねえ。ちょうちんはさきへこい。供はあとからこいったって、わしあそんだに長《なげ》え手は持たねえ』と、こういうのさ。それはいいけれども、それからしばらくして、番町を歩いているときに、風の吹いてる日だったが、つめたいものが顔へかかった。みると、おどろくじゃあないか、これが痰《たん》だ。ふりむくと、あいつが荷物をしょったままでげらげら笑ってるんだ。『おまえか?』と聞くと、『へえ、三度目だ』と、こういやあがる。『三度目とはなんのことだ?』『二度目まではうまくとびこしたが、三度目は風のかげんでおめえさまの顔へ吹きつけた。わりいのは風だがら、なにごとも因果とおもってあきらめてくんろ』と、こうとぼけたことをいやあがる。あんなばか者はありゃあしない」 「いいえ、あたくしからようく叱言を申しておきましたから、どうぞおつれになりますように……」 「そうかい。まあ、おまえがそういうんならつれてってもいいが、呼んでごらん。あいつは返事もしやしないから……」 「権助や、権助や」 「はーい」 「おや? こりゃあめずらしい。あいつが返事をしたよ。雨がふらなきゃあいいが……したくをしなよ。供だよ」 「とうにしたくができて、尻をはしょって待ってるだよ。さあ、いくべえ」 「あの……お履物《はきもの》は?」 「はあ、もう履《へ》えてますだ」 「おまえのじゃないよ。お履物といったら旦那さまのじゃあないか」 「ああ、野郎の……えへへ、旦那どんのはまだでてねえだ」 「そんなことでお供がつとまるかねえ。気をつけなくっちゃあいけませんよ。いいかい、途中気をつけて、旦那さまにまちがいのないように、どこまでもようくお供をするんだよ」 「わかってるだ。さあ、履物がでただ。早く歩《あゆ》め」 「まあ、なんですね、旦那さまをつかまえて早く歩めとは?」 「へえ、すみません」 「じゃあ、いってくるよ」 「いってらっしゃいまし……権助たのむよ」 「へえ、よろしゅうがす」 「権助、きょうはいい天気だなあ」 「ああ、よく晴れていい気持ちでがすなあ」 「これからあたしはすこし急いでいこうとおもう」 「ああ、勝手に急げ」 「なんだ、勝手に急げとは? ……用はないから、おまえはうちへ帰んなさい」 「いや、ぜひにお供すべえ」 「いかなくってもいいよ」 「いや、いくべえよ」 「うちになにか用があるといけないよ」 「なあに、もう米はといじまったし、薪も割っちまったし、なんにも用はねえだ」 「だけれども、あたしがいいというんだから帰んなよ」 「いや、そういうけんどもねえ、人間てえものは、いつなんどき災難《せえなん》がこねえともかぎんねえ。おめえさまが、いつ行き倒れになるかわかんねえからね」 「縁起のわりいことをいうな。おまえはつれて歩いてもいいんだが、すぐにそうやってひとの気にさわるようなことばかりいう。どうもこまったやつだ……あれっ、急にみえなくなっちまった。おい、権助、権助! ……ざまあみやがれ。なまいきなことをいったって、人ごみにきたらはぐれてしまやあがる。ざまあみやがれ」 「うふふ、ばか野郎、はぐれたではねえ。おらあここへかくれただぞ。このたぬき野郎、またうまくまいたとおもってやがるな。あれっ、野郎|馳《か》んだしたな。よしっ、おらも負けずに……よいしょ、よいしょ……あんてまあ、脚が早えだ。きょうはどうあっても、野郎の寝床《ねどこ》をみとどけなければ、おらあ、おかみさまへ対《てえ》して顔むけがならねえ。やあ、この横丁へへえりゃあがったな。野郎、このあたりに巣を食ってるにちげえねえ。あれっ、みえなくなっちまった。こらあいかねえ……うふふ、あたまかくして尻かくさずちゅうのはこのこった。このうちへへえっただな。ここに野郎の下駄《げた》がある……どこぞで、ようすをみとどけてやんべえ。あ、この塀《へい》にでけえ節穴《ふしあな》があるだ。ちょうどいいから、のぞいてやんべえ……やあ、みえる、みえる。野郎、おらがここでのぞいてるとも知らねえで、高慢なつらあして、でけえふとんの上に坐ってやあがる。売れのこりの木魚《もくぎよ》みてえな野郎だ。あれっ、きれいなあまっ子だなあ、何《あん》てえ色が白えだんべえ。ありゃまあ、そばへぴったり寄りゃあがって……えへっ、まっとはなれろ。ここにひとり者がいるだぞ。あんまりみせつけるでねえ……何《あん》だと? 腹がへったで、まんま食うべえかって? ばか野郎、腹のへるほど馳んだすこともあんめえに……何《あに》がよかんべえ? このごろは、さかなも場ちげえものが多くて口にあうものがねえだと? 何《あに》ぬかすだ、この野郎、うちにいるときゃあ、さかなといやあせいぜい目ざしでねえか。それをうめえうめえと食《くら》ってるくせしてでけえことぬかすでねえ。何《あん》だと? うなぎでも食うべえ? わしゃ、うなぎ断《た》ちやしたって? ほかに増す花できたのか、旦那がこのごろ顔をみせねえから、好きなうなぎを断って信心ぶった甲斐《けえ》があって、きょうはようやくござったよう。うん、そうかって……鼻の下あ伸ばしゃがってこの野郎。え? かわいいおめえのほかに女なんかこせえるもんか……その口前《くちめえ》であまっ子をだましなさるだよ、ほんとににくい人だよ。痛《いて》えからよせって? ばかだな、この野郎、楊子《ようじ》でほっぺた突っつかれてとろけそうなつらあしてやがらあ……そうだに、そばへ寄ってでれでれするな」 「あなたおひとりですの?」 「いや、供がいたんだが、途中でまいちまった」 「小僧さんですの?」 「いや、小僧なら、つれてきて口どめすりゃあいいんだが、いつかあの深川の不動さまへいったとき、永代《えいたい》でおまえに逢ったろう? おまえは供がいるので佐賀町のほうへまがってしまったが、あのとき供をしていた権助だ」 「ああ、そうそう。おそろしく色の黒い、まるでなべのお尻のような人ねえ」 「この女《あま》あ、存外ろくでなしだな。おらのことをなべの尻《けつ》だって、ぬかしてやがる。ばかべえこきゃあがって、そんだに黒《くれ》えつらがあるもんでねえ。あれっ、なにか小せえ声ではなしてやがる。もっとでっけえ声をしてやれ。あっ、こりゃたまげた。昼間だってえのに障子《しようじ》をしめちまった。これじゃあ、かみさんがぐずぐずいうのも無理ねえこった……あ、痛《いて》え……おう痛え。このばか犬め、かじるならさきへ吠えたらよかっぺえ。あやしいもんではねえ。おらあ、かみさんの忠臣だ。このばか犬め。かかとをかじられて、こんだに目の上まで痛えわけは? あっ、ここに釘がでてたな。あんりまあ、この黒えのは何だ? やっ、こりゃあ塗りたてだ。かさねがさねつらあ汚されちゃあかんべんなんねえ」  権助、烈火のごとく怒って家へ帰ってまいりました。 「ただいま帰りやした」 「ごくろうだったねえ。こっちへおはいり……どうしたんだい? おまえの鼻のあたまと額はまっ黒だよ。それに血がでてるじゃないか」 「へえ、かぎ裂《ざ》きぶっただ」 「顔をかぎ裂きするやつがあるもんかね。で、どうしたい?」 「どうにもこうにも、きょうはたまげた。旦那どんの供をして途中までいくと、権助、ここでひまをくれるから帰れとこういうから、おらあ帰らねえ。いつおめえさまが行き倒れになるかわかんねえから帰らねえとがんばった」 「まあ、縁起でもないことをいうねえ」 「なんといわれてもかまわねえとおもって、あとにのこのこくっついて家の五、六軒もいくと、えかく人が立っているから、そのあいだへおらあかくれちまった。旦那どんは気がつかねえであるいたが、うしろをみるとおらがいねえもんだから、『人ごみにはぐれてしまった。ざまあみろ』なんてなまいきなことをぬかしているのを、おらあうしろで聞いたから、まずしめたとおもって、それからみえがくれに旦那どんのうしろへついていくと、両国の橋のところでしばらくかんげえて、川っ端の横丁へまがっていった」 「それから?」 「横丁をまがってすこしいくと、格子のはまったうちへ、つっぺえったようだ。おらが表から、のぞくと履物があるだ。しめた、うちへ帰ってあんたに告げべえとおもったが、中のようすをみとどけなけりゃあだめだとおもって、裏のほうへまわっていくと、ずーっと塀がある。ちょうど塀に節穴があったからのぞいてみると、ふとんの上に旦那どんが乗っかって、そばにあまっ子が行儀《ぎようぎ》わるくななめに坐ってるだ。そのあまっ子のきれえのきれえでねえのって、年ごろは、二十二、三だんべえか、色が白くって、まるで白子とおもうようなじつにいい女だ。あんたとくらべちゃあ……まあ……えへん、あんまりよくねえけんども、まあ、そのあまっ子と、はあ、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ、とっついたり、ひっついたりしてな、そんで、はあ、おらのことをなべの尻だといった」 「ふーん、じゃあ、それがお囲《かこ》い者なんだね?」 「そうにちげえねえ」 「やっぱりそうかい。そんなことじゃあないかとおもったからおまえにたのんだのだが、道はよくおぼえておいでかい?」 「おぼえちゃあいるだが、口ではいえねえ」 「いけばわかるだろう?」 「そりゃあわかるだ」 「おまえ、後生《ごしよう》だからいっしょにきておくれな」 「どけへ?」 「どこへったって、旦那さまにお目にかかりにさ」 「会ってどうするだ?」 「会ってどうするったって、知れたことじゃあないか。男のはたらきだからなにをするのもいいけれども、旦那さまがどうなさるおつもりだか、あたしゃうかがいたいから……」 「こりゃあ、えれえことになった。そりゃあいくのはよくなかんべえ」 「なぜ?」 「何故《あぜ》って、いくさだって、こっちにいてするのと、むこうへでばるのとは五分の損がある。そうだなことをせずに、わが家だから、いつか一度は帰るにちげえねえ。そうしたら、いろいろとはなしをして、そんでもわかんなかったら、そのときにひでえ目にあわしておやんなせえ。ええ、わさびおろしで鼻づらでもひっけえてやったらよかんべえ。おらも野郎ぶっぱたいてやるだから……」 「なんだね、旦那をなぐってどうするんだね。じゃあ、どうしてもいっしょにいくのはいやかい?」 「いやっちゅうこたあねえが、やめたほうがよかんべえに……」 「そうかい、おまえもなんだねえ、旦那とひとつ穴のきつねだねえ」 「きつねとはひどかんべえ」 「そんならつれていきなよ。つれていかないところをみるとおかしいじゃないか」 「じゃあつれていくべえ。おらだって人間だ。きつねといわれてはこころよくねえ……しかし、いくがね、いわば夫婦喧嘩だ。仲なおりをしたあとで、だれがここへ案内した? 権助だ、あの野郎とんでもねえやつだ、なんてんでうらまれるのはこまるだからね」 「おまえの名なんぞだす気づかいないから、つれておいでよ」  こうなったらだれがとめてもなかなかとまりません。しかし、そこはご婦人のことでございますから、髪をなおして、着物を着かえてうちをでましたが、いつもはちょいとあるくと、鼻緒ずれがしたとか、足が痛いとかいってなかなかあるかないのに、きょうはかんしゃくをおこしておりますから、早いの早くないのって、宙をとぶようでございます。 「そうだに早くいっちまっちゃあだめだ」 「ぐずぐずしてないで、早くおいでよ」 「早くおいでったって、そうだにでけえ声だしちゃあだめだあな。ここだ、ここのうちだよ」 「そうかい。じゃあ、おまえ表で待っといで」 「待ってるなあええが、喧嘩ぶつようなことがあっちゃあだめだよ。ええけえ?」 「よけいなことをおいいでないよ。おまえはそこにおいでよ……こめんくださいまし。ごめんくださいまし。どなたもいないの?」  と格子戸へ手をかけてひくと、ガラガラとあいて女中がでてまいりまして…… 「はい、いらっしゃいまし。どなたさまで?」 「こちらさまに大津屋の半兵衛さんがおいででございますか?」 「はい……いいえ、いらっしゃいませんが……」 「おとぼけなすっちゃあいけません。ここに下駄があるじゃあございませんか?」 「ああさようでございますか。あたくしはよそへまいっていま帰ったばかりですから……それじゃあおいでになったかも知れませんが、あなたはどなたさまで?」 「ちょっとお目にかかればわかるんでございますから……」 「でございますがね、どなたさまでございます?」 「お目にさえかかればわかります」 「ですけれども、お名前をお聞かせなすってくださいまし」 「そうですか、名前を申さなくってわからなかったら、わたくしのようなばばあがまいったと、おっしゃってください」 「さようでございますか……」  女中はけげんな顔をして奥へきてみると、六畳ばかりの座敷で、一間の床の間に一間のちがい棚、下が袋戸棚になっておりまして、床の掛けものは光琳《こうりん》風の花鳥《かちよう》物がかかっており、まわりが縁側で腰高の障子がはまり、きゃしゃな小意気な桐の胴丸の火鉢に利久《りきゆう》型の鉄瓶《てつびん》、中に桜炭の上等なのがいけこんである。すこしはなれて枕もとのところには結構なたばこ盆があって、絹布のふとんの上に旦那はうとうととやすんでおいでなさいます。 「あの、ちょいと、ねえさん」 「なんだよ。旦那が、いまおやすみになったばかりじゃあないか」 「ちょっとこっちへいらしってください」 「なんだよ。どうしたの?」 「どうしたって、旦那の浮気なのにはおどろきましたわ」 「なんだい?」 「だから、あたしがいわないこっちゃあないんです」 「なにがさ?」 「なにがさって、表でごめんなさいっていうからいってみますとね、いい年増なんですの。みると、ちょっと人柄のところがあっていい服装《なり》をした人がね、息せき切ってきているんですの」 「はあ……全体なんなの?」 「まあ、お聞きなさいまし。それからなんというかとおもっていると、こちらに大津屋の半兵衛さんがおりますかというから、あたしはいないといいましたら、おとぼけなすっちゃあいけません。そこに履物《はきもの》がありますというんですよ。まあにくいじゃありませんか。履物まで知っているんですの。あたしも間がわるうございましたからね、いま用たしから帰ってきたばかりですが、ことによったら留守においでなすったか知れません、といったらね、ちょっとお目にかかりたいというから、お名前はなんとおっしゃるんですかと聞いたら、名前はいわなくってもお目にかかればわかるとこういうんですわ。それから二度も三度も聞いてやったら、しまいに怒ってね、名前を申さなくっていけなかったら、ばばあがまいったとおっしゃってくださいまし、と、こうなんですよ。にくらしいじゃありませんか。それがばばあどころじゃあない、いい年増《としま》ですね。なんだかようすが変なんですけれど、どうしましょうねえ? 旦那はきっとほかにも浮気をしておいでなさるにちがいないとおもいますわ」 「きているってそういっておやりな。なにをいうんだい。笑わせやがる。いや味《み》なことをいいやがって、生意気だよ」  どっちが生意気だかわからない。囲《かこ》い者は囲い者でいくらか焼きもちがあるもんで、寝巻き姿の上へお召し縮緬《ちりめん》のあわせをひっかけ、ほつれた鬢《びん》の毛をかきあげながら、さっきすこし飲んだ酒の酔いで目のふちをほんのり赤くして、ずるずるおひきずりで門口へでたときの風は、えもいわれない風情《ふぜい》でございます。 「おいでなさいまし。あなた、どちらからおいでなさいました?」 「お女中はいく人《たり》おいでくだすってもいけません。半兵衛さんをおだしなすってくださいまし」 「そりゃああなた、そうおっしゃいますけれども、とりつぎにでましたものが、お名前をおうかがいしましたら、なにか、ばばあとおっしゃったそうでございますが、ばばあなんていうお名前のおかたはありますまい、とおもうんでございますが……旦那はおやすみになっていらっしゃいます。お名前をうかがいまして、ご用によったらおとりつぎをいたしましょう」  というと、前に権助からいろいろなはなしを聞いたあげくにこの姿。この女が、いままで自分の亭主となにをしていたかとおもうとがまんができません。こっちのほうから焼きもちの虫がこみあがってくる。こいつをおさえようとすると、こっちのほうからかんしゃくの虫があたまをもちあげてくる。こいつを無理におさえると、まん中から屁っぴり虫が……さあ、こうなるともうむちゃくちゃです。 「名前をいわなくっちゃあならないんですか? わたしは大津屋半兵衛の家内です!」  といわれて、お妾《めかけ》さんもさすがにおどろいた。まさか奥さんがくるとは夢にもおもっていませんから、家内ですといわれたんで、 「はっ」  とあとへさがったとたんに、奥さんはバタバタバタッと奥へはいって、旦那の枕もとにぴたりと坐りました。いままでは強かったが、旦那の枕もとへ坐ってしまうと、女というものは意気地《いくじ》のないもので、なにかいいたいけれどもなにもいえず、口ごもって涙ぐんでくる。口はもごもごするが、鼻がつまって、からだがふるえて胸がどきどきしてまいります。やがて気をとりなおして、旦那の肩をゆすぶりながら、 「旦那さま、お、お起きあそばせ……もし、だ、旦那さま!」 「あーあ、水を一ぱいくんな。ああどうも、バタバタしちゃあいけないよ。せっかくいい気持ちに寝こんでいたのに……あっ、こりゃあ、おまえか! おどろくじゃあないか。どうしてここへきた? よく知れたねえ。ほんとに、ど、どうしてここへきたんだい?」 「わたくしよりも、あなた、どうしてここへおいでなさいました? うちをおでかけになるときは、川田さんへおでかけになるおつもりじゃございませんでしたの? まあ妙なところに川田さんのお宅があるんでございますね。あなた、どうしてここへいらっしゃいますの?」 「えへん……えへん……そりゃあどうも……その……なんなんだ。こういうその……わけなんだ。なにが……その……」 「どういうわけでございます?」 「その、川田さんへいったんだ。その……」 「おいでになったものが、なんでここにいらっしゃいますの?」 「いや、いったところが、川田さんのおっしゃるには、どうも……だから……なんなんだ。まあすこし……わけなんだから……もらいたいとこういうわけですから……さようですかというんで……なにが……そのうなんなんだ」 「なんだか、おっしゃることがちっともわかりません」 「いや、川田さんのなんなんです」 「なんでございます?」 「川田さんの持ちもの……なんですよ。ご妾宅ですよ。ここは……」 「川田さんのご妾宅? それで?」 「川田さんのいうには、あちらではなしをするから、あちらへいってろ……と、まあいうようなわけなんで……」 「さようでございますか。大きに失礼をいたしました。川田さんはどうあそばしました?」 「そのう……またほかに急用ができて、おむかえがあったもんで、それででかけられて、そのう……なにしたんだ」 「そうですか。それでわかりましたが、川田さんのお持ちもののうちへおいでなすって、あなたがおやすみになって、それですむんでございますか?」 「えへん……えへん……そのう……寝たというわけじゃあない。このご婦人が急に癪《しやく》がおこったってえもんだから、それで押してあげたりなんかして、あたしもつかれたもんだから……」 「あなたのお力で押してあげたら、さぞ癪もおさまりましょう。けれども、癪を押すのに枕がふたつおいりになりますの?」 「え? いや、その……なにしろお癪が強いもんだから、ひとつは、その……ころがったときのかけかえの枕……」 「おとぼけなさいますな。なにもそんなにおかくしあそばさなくったっていいじゃありませんか。そりゃあ男のはたらきですから、なにをなすったって決して焼きもちがましいことは申しません。おかくしなさることはおよしくださいまし。わたくしもご存知の通り姉妹《きようだい》もなし、それほどあなたがかわいいとおぼしめすなら、うちへひきとって姉妹となり、あなたがどこへでもつれてあそびにおいでなすったとて、家内の姉妹ですといえば、わたくしも心持ちがよし、あなたも世間でわるくもいわれず、家内は感心だ、仲をよくしている。さだめし主人の教えがいいのだろうといわれ、わたくしも肩身が広ければ、あなたも光りを増すことになるではございませんか。それなのに……なぜわたくしにそうとうちあけてくださらないんです!」 「うん、えへん、そのう……大きな声をしちゃあいけないよ。いや、まことにすまない。いや、これはわたしがわるかった。うちあけていえばよかったんだが、ついどうもな、きょういおう、あすいおうといいそびれてこういうことになったんだが、ここでせりふをならべられちゃあこまる。うちへ帰ってはなしをしよう。ねえ、おまえ、そう泣いちゃあこまるから、まあ、ひと足さきへお帰り」 「ごいっしょいたしましょう」 「いっしょにいかなくったっていいじゃないか。ばつがわるいからさきへお帰りというんだよ」 「どうせわたくしのようなばばあといっしょに帰るのはおいやでございましょう……」 「いや、べつに、ばばあというわけじゃあない。さきへお帰りというんだよ。じきに帰るから……さきへおいでといえばおいでよ! そんなわからないことをいわないで、わたしがわるいからあやまる。うちへ帰ってはなしをするからお帰りというんだよ。わからないなあ」 「どうせわたくしはわかりません」 「そう、おまえ、袂《たもと》をひっぱっちゃあいけない。帰らないとはいわないよ。すぐ帰るよ。おい、そうひっぱっちゃあ袂が切れるよ……ええい、なにをするんだ! いいかげんになさい。おまえもあんまりわからなすぎる。わたしもわるいとおもったから一目《いちもく》も二目《にもく》もおいて、わびてるんだ。それなのになんです、けしからん。うちへ帰ってはなしをするというんだから、それでいいじゃあないか。帰んなさい、さきへ……おい、なにをするんだ。またひっぱって、袂が切れるってえのに……おい、いいかげんにしろ!」 「いたい! あなた、おぶちなさいましたね。さあ、殺すんなら殺してください!」  と、旦那にむしゃぶりつきました。 「なにをするんだ!」  と、旦那が奥さんの丸髷《まるまげ》をつかみましたので、元結がぷっつり切れて散らし髪になって、なおもむしゃぶりつくのを、ぽーんとむこうへつきとばす。奥さんがひょろひょろとよろけて火鉢の上へどすんと尻餅をつく。鉄瓶がとたんにひっくりかえって灰《はい》神楽《かぐら》があがる。旦那がそばにあった刺身の皿をほうりつけると、奥さんがひょいとよけたが、よけきれないで、あたまから刺身をあびる。耳のあいだにツマがぶらさがって、鼻のあたまへ大根おろしがついている。そのさわぎにおどろいて、妾ははばかりへ逃げこむ。女中がびっくりして裏口からとびだすとたんに井戸端ですべってころぶ。とたんに猫がとびこんできて魚をくわえだすというえらいさわぎ。  こうなっては権助もひっこんではいられませんからとびこんできて、 「まあまあ待ちなせえ。あぶねえからやめなせえ。あっ、痛え、おかみさん、何《あ》んでおらが手へ食いつくだ? だからいわねえこっちゃあねえ。あっ、旦那どんあぶねえ、怪我でもぶったらどうするだ? まあ待ちなせえ。短気は損気、たぬきのきんたま八畳敷だ」 「やい、権助、なにしにここへきた?」 「さあしまった。でるところじゃあなかったな」 「どうもおかしいとおもった。権助! おまえがここへつれてきたんだな。どうもようすがおかしいとおもった。権助! おまえぐらいわるいやつはないぞ。ちくしょう、犬め!」 「何だ、犬だ? おかみさん、ちょっくら待ってくんなせえ。あんたがたは夫婦のこった。あとではなしがわかるだんべえが、おらあ、ひとつ掛けあわなけりゃあなんねえ。野郎、ちょっくらここへでろ」 「主人をつかまえて野郎とはなんだ?」 「野郎といったがどうした? そりゃあ、あんたんとこで奉公ぶって給金もらってるだからめし炊《た》きだが、これでも故郷《くに》へ帰れば権左衛門のせがれ権助といって、村に事のあるときには名主《なぬし》どんから三番目に坐る家柄だ」 「なにをいってるんだ。家柄なんぞ聞いてやしねえ」 「聞かねえでも、いわねえではわからねえからいってやるだ。そのおらのことをつかめえて犬とは何《あん》だ! おらがいつ椀のなかへつらあつっこんでめしを食った?」 「なにをいやがるんだ。つらをつっこんで食うばかりが犬じゃあねえや。あっちへいっちゃあいいようなことをいい、こっちへいっちゃあいいようなことをいうから、それで犬といったんだ」 「それじゃあ、夫婦してよってたかっておらのことをけだものにするだな。おめえさんは犬だといい、おかみさんは、ひとつ穴のきつねだといった」 妾馬 「女、氏《うじ》なくして玉の輿《こし》へ乗る」とか申します。  これは、ごきりょうのいいかたが、おもいがけない出世をなすったことをいったものでございます。  むかしは、お大名がお妾《めかけ》をたくさん置きましたもので、それはなぜかと申しますと、ご本妻にお子さまがないと、家の血統が絶えて、そのお家が断絶する、つまり、お家がつぶれてしまうということになりました。そのために子どもがたいせつで、お妾もお部屋さまとよばれて丁重《ていちよう》にあつかわれましたそうで……  丸の内の赤井御門守というお大名、あるお屋敷へおいでの帰り道、わずかのお供をしたがえ、表通りをご通行になりますと、いま、裏長屋からでてまいりましたのは、十七、八になるきりょうのいい娘で、染めかえしのそまつな着物に、ほそい帯をぐるぐると巻き、そこへしゃがみまして、手に持った味噌こし(細長いざるで、味噌汁のかすをとったが豆腐などの買いものにももちいた)を前かけでかくして、頭《つむり》をさげております。  この姿を、駕籠のなかからごらんになった殿さまは、駕籠わきの侍を召され、なにかないしょばなしをして、そのままいってしまわれました。  かの侍が、裏長屋へはいってきて、 「あー、これこれ……」 「へえ? ……ああ、これはどうも、お武家さま……なにかご用でございますか?」 「あー、この長屋に家守《やもり》はおるか?」 「へ?」 「いや、家守はおらんか?」 「え? やもり? ……やもりはね、いまはいませんが、日が暮れると、あの塀《へい》のところへでてまいります」 「いや、虫のことではない。この長屋を支配するものを申すのだ。貴様《きさま》か?」 「いいえ、貴様じゃあございません」 「なんだ、自分のことを貴様とは? ……あー、支配するものは、どこじゃ?」 「ああ、大家《おおや》ですかい?」 「さよう」 「大家さんなら……旦那、ごくろうさまでも、もう一ぺん表へおでになって、右へいきますと、左側で、五軒目の荒物屋がそうなんですよ。いえ、荒物ったって、ろくなものはありません。そのくせ他店《わき》より高えときてやがるんで……べつに買いたかあねえんですが、家賃がたまってる都合やなんかで、しかたなしに買うんですよ……このじいさん、植木が好きで、はいりっ口に、植木が屋根へ乗っかってまさあ。植木ったってねえ、いい植木なんぞありゃあしねえんだ。縁日でひやかして、値切り倒して買ってきやがった植木ですからねえ……とにかくすぐにわかりますから……」 「あー、この裏長屋を支配いたすのは、そのほうか?」 「へっ? ……ええ、さようでございます」 「しからばたずねるが、年のころ十七、八にあいなるか、眉目《みめ》よき女子《おなご》が、味噌こしとやら申すものを持って、かの長屋の路地のうちへはいったが、あれは、おまえの支配内の者であるか、どうじゃ?」 「へえへえ、味噌こしを持って? ……だれだい、おばあさん、え? ああ、お鶴かい? ……ええ、お武家さま、たしかにあれは、てまえの支配内の者ではございますが、えー、なにかいたしたのでございますか?」 「いやいや、あー、拙者は、ただいま、表をご通行になられた赤井御門守家来であるが……」 「ああ、さようで……いえ、あれは、体格《なり》が大きゅうございますので、ちょっとごらんになりますと、十七、八にみえますが、まだ十三でございまして、からばかなんでございます」 「なに? 年齢は十三歳で、しかもからばかと申すか?」 「へえへえ、さようで……」 「それは、まことにこまったな」 「なにか?」 「じつはな、殿のお目にとまって、あの娘を側室《そばめ》にとのことであるが……ご奉公にあがれば、たいへんに出世になるとおもったが、いやあ、十三ではのう……」 「いえ、十八でございます」 「なんだ、いま、十三と申したではないか」 「いえ、それは、なにか無礼でもはたらいたのかとおもいましたものでございますから……へえ、たしかに十八でございます」 「しかし、からばかではのう……」 「いいえ、もう目から鼻へ抜けるようなりこう者でございまして、親孝行で、あんな心がけのよい娘はございません」 「まるっきりはなしがちがうな」 「ええ、無礼でもはたらきましたときは、十三で、からばかということでおゆるしをねがおうと存じましたもので……ええ、たしかに十八のりこう者でございます」 「しかとさようであるな?」 「ええ、決してまちがいはございません。昨年が十七で、今年が十八、この調子で、首尾よくまいりますと、来年が十九歳で……」 「くだらんことを申すな……で、あの者に親兄弟は?」 「へえ、母親と兄がございます」 「しからば、その兄に相談をいたして、よろしければ……」 「いいえ、相談もなにも……兄と申しましてもろくでなしで、あってもなきがごとくでございまして、おふくろを相手に、ああやってぼろを着て、いっしょうけんめいに内職をしてはたらいておりますが、じつに感心な娘でございます。もしご縁がございまして、ご奉公がかないますれば、おふくろの喜びは一通りではございません。どうもありがとう存じます」 「いや、しかし、おまえがありがたいといったところが、本人が不承知ではいかず、また、やくざ者にもせよ、兄という者があってみれば、それに相談せねばなるまい?」 「なあに、とんでもございません、兄貴だって、あんな野郎は、長屋の厄介者で、否応《いやおう》いわせる気づかいはございません」 「しかし、万一、不承知をいうようなことがあってはならん。さっそく赤井御門守屋敷へたずねまいるよう、そのほうから申しつけてもらいたい。支度金《したくきん》はのぞみ通りとらせる。なお、ひとつ申しそえておくが、ご当家には、いまだにお世継《よつぎ》の若君がおられない。したがって、かの鶴とか申す娘が、さいわいにご男子《なんし》ご出生《しゆつしよう》……お世取《よと》り(あとつぎ)でももうけることになれば、たいそうな出世であるから、母や兄にもよく申しつけて、とくと相談の上、さっそく否《いなや》応を申しいずるよう」 「へえ、さっそく明朝うかがうようにいたします。ええもう、否応《いやおう》いわせっこはございません……どうもありがとうございました。お茶もさしあげませんで、たいへんに失礼をいたしました。へえ、ごめんくださいまし……おばあさんや、お鶴坊が、殿さまのお目にとまったってえんだ。いや、なにしろたいへんなことになっちまった。おまえも聞いてたろ? 裏へいって、お鶴のおふくろを呼んできな。あのばあさんも聞いたら、さぞ喜ぶことだろう。正直の者は、神さまが助けるんだな。支度金はのぞみ通りだすというんだ……え? どうした? なに? 風邪ひいて寝てる? そうか、あんなじょうぶなばあさんでも風邪をひくことがあるのかい? ふーん……しかしまあ、病人を呼ぶというわけにもいかねえ。おれがいって、はなしをしてやったら、風邪ぐらいなおっちまうだろう。じゃあ、ちょいといってくるから……おい、ばあさんや、閉《し》めて寝ていやがる。よっぽどわるいとみえるな……おい、ばあさんや、ばあさん……」 「うるさいねえ。ばあさん、ばあさんといやあがら。なにをいやがるんだい。酒屋のご用聞きめ。女は年をとりゃあ、ばあさんになるんだい。てめえだって、そのうちに、じいさんになるんだ。そんときになっておどろくな!」 「なにいってるんだい。おれだよ……あかねえのか? ええ? しまりはしてねえって? あかねえじゃあねえか。なに? 力をいれて、うんと押せだと? ……ああ、なるほど、あいた……おお、寝ているな」 「おや、これは大家さんでございますか? まあ、とんだ失礼をいたしました。いえ、いつもこの横丁の酒屋のご用聞きがきましては、わたくしのことを、やれ梅ぼしばばあだの、からかさばばあだのといいますんで、ちょいとお声が似ていたもんでございますから、大きに失礼をいたしました……大家さん、毎度ありがとう存じます」 「どうした? 鬼の霍乱《かくらん》ということがあるが、ふだんじょうぶなおまえが風邪をひくなんて……」 「いえ、なに、仮病《けびよう》なんでございます。あしたは晦日《みそか》でございますからね、みんな勘定とりにきますから……で、まあ、からだのわるいふりをしてるんでございますよ。こうして寝ていますれば、勘定の催促も、いくらかしにくうございますからね」 「あきれたもんだ……じつはな、はなしがあってきたんだ」 「いえ、どうもあいすみませんでございます。もうねえ、お家賃もいれなくっちゃあならないんでございますけど、なにしろ、うちのあのばか野郎が、もう、どこへいっちまったのかわからないようなことで……お鶴がひとりではたらいておりますんですからねえ」 「いえ、きょうきたのは、店賃の催促じゃあないんだよ」 「おやまあ、めずらしい」 「ふざけなさんな。なんだ? めずらしいとは……」 「いえ、これはひとりごとで……いいえ、もう、大家さんのこと、いつもはなしてるんでございますよ。あんないい大家さんはない。ほんとうにお家賃の催促もなさらないで、なにからなにまでお世話くださって、まったくほとけさまのようなかただ。そのうち、お家賃をあちらからくださるのではないかなんて……」 「ばかなことをいうな。店子《たなこ》に家賃を払う家主なんぞあるもんか……じつはな、ほかでもないんだが、おまえに相談ごとがあってな」 「相談ごと? なんでございます?」 「うん、お妾《めかけ》の口があるんでな」 「まあ、いやですよ、大家さん、そりゃあ、あなた、年はとりましても、茶飲み友だちのひとりやふたり、ないことはございませんけれども、こんな年よりを、あなた、お妾だなんて……わたしゃはずかしい」 「なにをいってるんだ。おれのほうがはずかしいや……いいえ、おまえじゃあない。お鶴だよ」 「おや、そうでございますか。どうもわたくしもすこしおかしいと……」 「あたりめえだあな。だれがおめえなんぞ妾にする粋狂《すいきよう》人があるもんか。じつはな、さっき表をお通りになった丸の内の赤井御門守さまというお大名だ。お鶴が、その御門守さまのお目にとまったんだ」 「お目にとまったというのは、どういうことで?」 「どういうって、たいへんにお気に入って、お屋敷へ奉公にあげるようにという、つまり殿さまのご側室、早くいえばお妾にということだ。だから、お鶴はたいへんな出世じゃあねえか。支度金はのぞみ通りだすとさ……どうだい、おまえ、不承知か?」 「不承知どころじゃあございません。この通り三度の食にもさしつかえるくらいでございますから……大家さん、まあ、わたしは起きてるんでしょうか?」 「起きてるから、口をきいてるんじゃあねえか」 「まあ、夢のようでございますねえ、これと申しますのも、三年前に亡くなりましたおやじのひきあわせでございましょう。また、ひとつには、日ごろ信ずる象頭山《ぞうずさん》の金比羅《こんぴら》さま、中山の鬼子母神さま、熊本の清正公《せいしようこう》さま、豊川稲荷大明神、成田山新勝寺、不動明王さま…… 妙見さまへ願かけて……」 「おいおい、踊っちゃあいけないよ……ああ、それでな、八公にな、ともかくもこのはなしをして、得心《とくしん》させなけりゃあいけないから……」 「あんなもの、いいんでございますよ」 「そうはいかねえんだ。どこにいるんだ?」 「どこにいるんだかわからないんでございますが……まあ、きょうで五日も帰りませんから、もうそろそろ帰ってくるとおもうんでございますよ……これから心あたりをさがしまして、なんとかお宅へうかがわせますから……」 「ああ、そうしとくれ。待ってるからな」 「こんちわっ、大家さん、こんちわっ」 「やあ、八か。まあ、こっちへあがれ。きょうは叱言《こごと》はいわねえから……」 「へえ、どうもまことにすいません。おっかあから、あらかたはなしは聞きましたが……なんだか知らねえけれども、お鶴のあまが、お大名の鼻へとまったって?」 「鼻へとまるやつがあるか。お目にとまったんだ」 「ああ、お目にとまったのか。なんでも、その見当《けんとう》だとおもった」 「なんだ、その見当とは……火事の火もとをさがしてるんじゃあねえや……で、まあ、むこうがご奉公にあげろとおっしゃる。それについて、おまえに不承知があるかどうか、それを聞きてえから、おふくろにさがしにやったんだ」 「どういたしまして……不承知なんかありゃあしません。あんなものでも売れ口がありゃあ結構で……」 「むこうから、支度金がでるんだが、いくらとってやろうな?」 「いくらぐらいでるでしょう?」 「おまえがほしいだけいってみろ」 「そうですねえ。そういうことは、たいがい相場があるでしょうけど……そうさなあ……こんなとこじゃあどうでしょう? 片手というところじゃあ……」 「そうさなあ、片手というと、ちっと多すぎるようだが……」 「じゃあ、三両ぐらい……」 「ええ?」 「三両じゃあ、多いですかい?」 「ばか野郎! 相手はお大名だ。なんだ、三両ばかり……おまえが片手といったんで、五百両だとおもったから、すこし多いといったんだ。まあ、三百両ってとこなら、むこうだってだすだろう。三百両とってやろうか?」 「三百両!? よござんす。手を打ちましょう」 「手を打つってやつがあるか。古着屋じゃああるまいし……」 「しかし、三百両ならしめたもんだ。ほうぼうに借りがあるからねえ……米屋に借りがあって、酒屋にあって、炭屋にあって……それから、魚屋に、八百屋に、そば屋に……みんなそいつに返《けえ》さなけりゃあいけねえ。それから、質をだして……すっかり服装《なり》もできたら、ちょいとしばらく吉原《なか》へいかないから。女郎《おんな》んとこへいってやるかな。きっとよろこぶよ……『あら、おまえさん、よくきてくれたねえ。あたし、ずいぶん待ってたんだよ。いやん、ばかーん』」 「なにいってるんだ。ばかっ! そんなことをいってる場合じゃあねえ」  支度万端《したくばんたん》ととのいまして、お鶴はお屋敷へあがりましたが、殿さまのご寵愛《ちようあい》深くたちまちご妊娠《にんしん》。月満ちて産みおとしましたのが、玉のような男の子、お世とりをお産み申しましたから、すぐに、お鶴の方《かた》さま、お部屋さまということで、特別のおとりあつかいでございます。 「ええ、こんちわ、大家さん、なにかご用で?」 「八公か、いいからあがれ」 「どうもすいません。えへへへ、ほうぼうさがしたってねえ」 「さがしたってじゃあねえや。どこへいっちまったんだ?」 「どこへいったって……まあ、あっちこっち……とにかくうちのほうへはごぶさたしてますからね」 「なにいってやがる。自分のうちへごぶさたしてるやつがあるもんか。まあ、そんなことはどうでもいいんだが……おまえの妹のお鶴だがな」 「へえ」 「あれが、たいへんなことになったぞ」 「たいへんなこと? なにか持ち逃げでもしましたか?」 「おめえじゃああるめえし、そんなことをするもんか……こんど、お世とりをもうけた」 「え?」 「お世とりをお産みなすったよ」 「ええ、そいつあたいへんだ。そりゃあ、おれのせいじゃあねえや。しかし、まあ、そいつは因縁だね。そりゃあ、うちのおふくろにかけあったほうがいいな。にわとりなんぞ産んじまっちゃあ、しまつがわりいや」 「ばか野郎! にわとりを産んだんじゃあねえや。お世とりだよ!」 「およとりっていうと、夜の鳥だからみみずくかなんか……」 「そんなんじゃあねえや。男の子をお産みになったんだ」 「へーえ、かっぱ野郎をひりだしたんで?」 「なんだい? かっぱ野郎をひりだしたとは……とにかく、もう殿さまのご寵愛が深い。『そちには、兄があるそうじゃが……』と、こうおっしゃると、おめえの妹が、『ございますが、いたってがさつな者でございます』とかなんとかいったんだが、『そちも会いたいであろう。よし、余も兄に会ってつかわす』というのでな、さっき、お屋敷からおつかいのかたがみえたんだ。だから、これから、おまえは、お屋敷へあがらなくっちゃいけねえ」 「あっしがですか?」 「そうだよ」 「いやだな」 「どうして?」 「どうしてったって……ちったあ、いい着物もなけりゃあならず、交際《つきええ》に追い倒されてやりきれねえ。もう、あっしゃあ、大名とつきあうのはごめんだね」 「このばか野郎、つきあう気でいやがる。そうじゃあねえや。おめえがむこうへいくんだ」 「だって、ただもいかれねえ。手みやげのひとつも持っていかなくっちゃあならねえでしょ?」 「なにいってるんだ。高貴がたへ対して、いいかげんなものを持っていくなどということは、たいへんな失礼だ。ただ、いきさえすりゃあいい」 「いきゃあどうします?」 「いけば、損はないよ」 「へーえ、なにかくれますか?」 「そりゃあ、くださるさ」 「なにを?」 「お目録《もくろく》をくださるな」 「へーえ、おもくもく?」 「おもくもくじゃあねえ。お目録といって、金をくださるんだ」 「へーえ、そうかねえ。してみると、つきあって損はねえや……で、いくらくださるんで?」 「まず百両はくださるだろうな」 「百両も! へーえ、ほんとにくれますかい?」 「まあ、くれるだろう」 「だろうじゃあこまるなあ。くれるってことにきめてくれなくっちゃあ……もしもくれないときは、大家さんがだすということに……」 「ばかなことをいっちゃあいけない。ご寵愛深いお鶴の方の兄がくるんだ。殿さまだって、百両ぐらいくださるよ」 「ありがてえなあどうも……じゃあ、百両もらったら、大家さんに一割ぐれえあげますよ」 「いいよ。そんなことをしなくったって……」 「いいえ、ふだん世話になってるんですから、遠慮なしにとっといてくださいな。ねえ、遠慮しねえで……」 「なにをいってやがら。遠慮するもしねえも、なんにもありゃあしねえじゃねえか」 「あははは、そうだったね……じゃあ、さっそくいってきますから……」 「おいおい、いってきますって、その服装《なり》でいくのかい?」 「ええ」 「ばか野郎、大掃除の手つだいにいくんじゃあねえ。そんなうすぎたねえ服装《なり》をしてむこうへいってどうするんだ。おめえはかまわねえが、妹が恥をかくよ」 「いけませんかね? これじゃあ……」 「ああ、ああいうところへいくには、紋付きの着物に、袴《はかま》とかってものがなくっちゃしょうがねえ」 「へーえ、紋付きの着物に袴ってえと、あのきゅうくつぶくろまではいていくんですかい?」 「なんだ、袴のことをきゅうくつぶくろだってやがら……どうだ、その用意があるか?」 「ええ、よくなきゃあ、あるんですけどもねえ」 「ふーん、感心だな、ものはわるくったって、ありさえすりゃあいい。ほんとに持ってんのかい?」 「へえ、へへへへ、ろくなものはねえけどもねえ、うしろのたんすの三つめのひきだしにへえってるんで……」 「こりゃあ、おれのだ」 「へへへ、そうですよ」 「じゃあ、借りていくつもりなのか?」 「へえ」 「しかし、なんだな、……おまえ、よく、この三つめのひきだしにへえってるのを知ってたな?」 「ええ、こないだね、留守にあけたんで……」 「なぜ、そんなことをするんだ。あきれけえったやつだ……おい、ばあさん、しかたがねえからだしてやんなよ……さあ、八公、着物をぬいで、これを着かえてみな……そうそう、着かえたら、袴をはくんだ」 「大家さん、こりゃあ、へそのふたですかね?」 「へそのふた? あれっ、おばあさん、みてやんなよ。袴をあべこべにはいちまったんだ……へそのふたじゃあねえ。そりゃあ腰板といって、うしろへいくんだ」 「へーえ、うしろへいくんですかい……すると、屁のふたかね?」 「屁のふたなんてものがあるか……早くはきなおすんだ」 「どうもめんどうくせえなあ……へえ、はきなおしました」 「そうかい……ひもはちゃんとむすばねえと、袴がさがっていけねえぞ」 「へえ」 「むすんだかい?」 「へえ、むすびましたが……ちょいと、はさみを貸してもれえてえんで……」 「どうするんだ?」 「ひもが長《なげ》えから、切るんで……」 「おいおい、切るんじゃあねえよ。そりゃあ、こうやってはさんどくんだ……そうそう……あれっ、よるんじゃあねえ。わらじのひもじゃあねえや……袴がはけたら、こんどは羽織を着るんだ……うん、馬子にも衣装というが、どうやらかたちがついた。男の紋服すがたはいいもんだ。生涯にそういう服装《なり》を一度すれば、また二度することがある」 「ええ、近《ちけ》えうちにまたするだろうとおもうんで……」 「なにかあるのかい?」 「へえ、えへへへ……大家さんの葬式《とむれえ》があるだろうとおもって……」 「なんてことをいうんだ。縁起でもねえ」 「なにしろ、あっしゃあ、言いあてますからねえ」 「なおよくねえや……服装《なり》ができたら刷毛先《はけさき》を……髷《まげ》のさきをなおしていきな。それから、袂《たもと》のさきへ手をいれて、突き袖というものをするんだ」 「へえ、こうですか?」 「そうだ……そうしたら、いくらか反《そ》り身になったほうがいいな。女は、屈《こご》みかげんのほうが女らしくていいし、男は反りかげんのほうがりっぱにみえる」 「へーえ、そうですかねえ。女は屈《こご》みかげんのほうが女らしいですかねえ……その割りにゃあ、ここんちのおばあさんなんざあ女らしくねえなあ、あんなに屈んでるのに……」 「ばかっ! ありゃあ、年のかげんで腰がまがったんじゃあねえか……くだらねえことをいってねえで早くいってこい。おめえ、お屋敷は知ってるな?」 「ええ、わかってます。あの、丸の内の、まっ赤な大きな門のあるうちでしょ?」 「そうだ。むこうへいったらな、ご門番に、『お広敷《ひろしき》へ通ります』っていうんだよ。『どなたにお目にかかるか?』っていったらば、『田中三太夫っておかたにお目にかかります』って、こういうんだ。いいか、田中さんておかたは、ご重役で、万事を心得ていらっしゃるんだからな……それからな、おまえはね、ことばがらんぼうでいけないよ。ああいうところへいったら、ていねいなことばをつかわなくっちゃあいけねえ」 「ていねいにって、どうすりゃあいいんで?」 「ものの頭《かしら》には『お』の字をつけて、しまいのほうには『たてまつる』をつける。そうすりゃあ、自然とていねいになるんだ」 「ああ、なるほどね……上へ『お』の字がついて、下へ『たてまつる』で、おったてまつるだ」 「なんだい、おったてまつるとは? ……じゃあ、わかったな?」 「へえ、わかりました」 「うまくやってこい」 「へえ……あのう、草履を貸してもれえてえんで……」 「草履を? ……おまえ、下駄はいてきたんだろ?」 「下駄はねえんで……」 「どうしたんだ?」 「いえね、五日ばかり前に割れちまったんだが、ここんところ銭がねえもんだから、はだしで歩いてるんで……」 「おう、ひでえ野郎だな」 「けどね、どこの家へいったって、洗ってあがるからきれいなもんでさあ……もっとも、さっきはいそいでたから洗わなかったけれど……」 「なんだよ、きたねえなあどうも……おい、ばあさんや、しかたがねえから、だしてやんなよ、草履を……さあ、これをはいてけ。失《な》くなすんじゃあねえぞ」 「大丈夫ですよ。こんなうすぎたねえ草履、だれが盗《と》るもんですか」 「なんだ、うすぎたねえたあ? ……じゃあ、気をつけていってきなよ」 「へえ、いってきます……あははは……ありがてえ、ありがてえどうも……なんのかんのっていっても、大家は世話好きだからなあ、おれのことをいろいろと心配してくれらあ。いい人だなあ、まったく……へへへ、これから、おれがむこうへいくのを、みんな、うわさしてるぜきっと……御殿女中《ごてんじよちゆう》やなんかが、ばかていねいなことばでね、『お鶴さまのお兄上さまのおつらつきは、いかがでござりたてまつりましょうか?』なんてんで、そこへおれがいくと、『あらっ、なんてまあ、おいきで、お伝法で、おいなせで、おわたくしは、お見染めたてまつり候』てなことを……いうかどうかわからねえけど……うふふふ、うれしくなってきやがったなあ、ちくしょうめ! へへへ、こんちわ」 「ははあ、妙なやつがきたな……ああ、こらこら、どこへいく? 通れ! 通れ!」 「へえ、どうもありがとうござんす」 「これこれ、どこへいく?」 「おまはん、通れってから、中へ通るんでさあ」 「ご門のなかへ通るのではない! 前を通って立ち去れというのだ。あやしいやつだ。そのほうは、いったい何者であるか? ああ、なんであるか?」 「ああ、なんであるかとお聞きになりますか?」 「なにを申しておる……そのほうは、なんであるか?」 「へえ、人間です」 「人間はわかっておる。どこからまいったのだ?」 「むこうからきました」 「どうして?」 「歩いて……」 「あたりまえだ……で、どこへまいる?」 「ええ、なんでも、ふろしきとかいうところへ……」 「ふろしき? ……お広敷《ひろしき》ではないか?」 「ちゃんと知ってるくせに、横着《おうちやく》な……」 「なにを申しておる……お広敷へ通ってどうするのじゃ? どなたにお目にかかる?」 「へえ、田中三太夫って人に……」 「これこれ」 「え?」 「田中三太夫って人とはなんだ」 「へえ、人じゃあねえんですかい?」 「なにを申す……人にまちがいはないが、田中殿はご重役である。ご重役をそう気やすくお呼びしてはならんぞ」 「へえ」 「田中殿に面会とあらば、通ってよろしい。お広敷への道順はじゃな、このご門をはいるな、まっすぐにいくわ。すると、左のほうにお馬場がみえる。そのお馬場を通り越すと、柳の木がある、その下に井戸がある」 「へへへ、そこからお化けがでる」 「そんなもの、でやせん。そこへまいれば、すぐにお広敷に通れるわ」 「へえ、どうもすいません……なんだ、あの野郎、いばった野郎じゃあねえか……なんだと、まっすぐにいくと、左のほうにおばばがみえるだと……なにいってやんでえ。ばばあなんぞみえやしねえ。原っぱがみえるだけじゃあねえか。でたらめ教えやがって、ちくしょうめ……ああ、ここに柳の木があって、井戸もあらあ。こいつはほんとうだ……ああ、ここだな、お広敷てなあ……こんちわあ、おーい、どうしたい? だれもいねえのかい? こんちわあ、留守かい? それとも死に絶えたかい? ……おーい、たてまつるよー」 「どーれ……これっ、なんだ?」 「ええ、たてまつります」 「たてまつる? なにをたてまつるか?」 「なにもたてまつらねえんで……そう欲ばっちゃあいけねえ」 「なにを申しておる……何用あってまいったか?」 「ええ、田中三太夫てえ人に……」 「これこれ、人というやつがあるか……田中殿に用事があるのじゃな」 「へえ」 「して、そのほうの姓は?」 「五尺四寸」 「そうではない。名はなんと申す?」 「名前は、八五郎《はちよろう》てんで……」 「なに? 早口でわからんな……なんというか?」 「八五郎《はちよろう》」 「はちょろう? 八挺櫓《はつちようろ》と申すか?」 「八挺櫓なんて、船頭でもあるめえし……八五郎ってんでさあ。八五郎……」 「八五郎? ……おお、お鶴の方さまのお兄上、八五郎殿とは御貴殿《ごきでん》でござるか?」 「御貴殿だよ。御貴殿だ、御貴殿だ。ごきでんよろしゅうてえくらいのもんだ」 「さようでござったか。知らぬこととは申しながら失礼いたした。しからば、身について同道《どうどう》しなされ」 「え?」 「身について、同道しなされ」 「どうどうめぐり?」 「そうではない。拙者といっしょにまいれと申すのだ」 「へーえ、ついていきゃあいいんですかい? ……じゃあ、いきますが、草履はどうしましょう?」 「草履などは、どうでもよろしい」 「それがよろしくねえんで……大家から借りてきたもんなんで、盗《と》られちゃあこまるもんですから……」 「盗られはせん」 「しかしねえ、もしもってことがあるといけねえから、これ、ふところへいれて……」 「こらこら、きたない、きたない! 盗られはせんから……」 「そうですか? ……じゃあ、そうしましょうか……」 「しからば、こっちへまいれ」 「へーえ、どうも広い屋敷だなあ。ねえ、ちょいと、そんなにずんずんいっちまわねえで、いっしょにいきましょうよ」 「このお廊下を左へまがる」 「へえ」 「こんどは右へまがる」 「へえ」 「また右へまがる。左へまがる」 「よくまがるね。こんなにまがったんじゃあ、帰り道がわからなくなっちまわあ。こんなにまがるんじゃあ、角々《かどかど》に小便をひっかけていかなくっちゃあ……」 「これこれ」 「え?」 「これにひかえよ」 「ひきがえる?」 「ひきがえるではない。ひかえろと申すのは、待ってろということじゃ」 「ああ、そうですか……ちっともわかりゃあしねえや。だから、おれは、こんなとこへくるのはいやなんだ」  いれかわってでてまいりましたのが、当家の重役で、田中三太夫というおかたでございます。 「ああ、これは、よくみえられたな」 「へえ、こんちわ。こりゃあどうも……殿さまでござんすか?」 「いや、拙者は、田中三太夫と申す者でござる」 「ああ、おまはんですか? 三ちゃんてえのは……」 「三ちゃん!? ……ああ、殿がお待ちかねである。拙者について同道しなさい」 「えへへへ、同道てえのは、いっしょにいくことでしょ?」 「さようじゃ」 「ちゃんと知ってて、えらいでしょ?」 「べつにえらいことはない……さあ、こちらへまいられよ」 「ずいぶん広いんですねえ」 「広いであろう、おどろいたか?」 「へえ、こんなに広くっちゃあ掃除だって大変《てえへん》だ。座敷の数もずいぶんありますけど、家賃も安かあねえでしょうね?」 「そんなことはどうでもよろしい」 「へえ? なんです?」 「しいっ、しいっ……」 「赤ん坊におしっこさせてますか?」 「なにを申しておる。ご出座である。お上間近《かみまぢか》であるぞ。頭《ず》が高い。頭が高い。なぜあたまをさげんか?」 「痛え、痛え。そんなにあたまを押さえつけなくったっていいじゃあねえか。大丈夫だよ。あげねえから……」 「これ、三太夫、鶴の兄、八五郎とは、この者であるか? うん、さようか……これ、苦しゅうない、おもてをあげい。おもてをあげい。これ……いかがいたしたのか? 三太夫、かれはつんぼか?」 「は、はっ、……これ、これっ、おもてをあげい」 「おもてはあがらねえんで……」 「なぜあがらんか?」 「いえね、もう古いもんですからね、すっかりくさっちまって……」 「なんのはなしじゃ?」 「おもての戸でしょ?」 「なにを申しておる。あたまをあげろというのじゃ」 「さっきは、あげちゃあいけねえっていったくせに……」 「こんどはあげるのだ」 「へーえ、そうですかい。あげたり、さげたり、いやにいそがしいや。これがあたまだからいいけど、米相場なら大変《てえへん》だ……じゃあ、あげますよ……わあー、こりゃあだめだ。むこうはきらきらしていてみえねえや」 「おう、鶴の兄八五郎とは、そのほうであるか。余は赤井御門守である。このたび、鶴が男子出生をいたし、世とりであるによって、余も満足におもうぞ。そのほうもさだめしよろこばしいことであろうな。どうじゃ? これ、八五郎、どうじゃ? これ、三太夫、かれはいかがいたした?」 「即答《そくとう》を打て、即答を打て」 「打ってもいいのかい?」 「早く打てと申すに……」 「ほんとうにいいのかい?」 「早く打て」 「じゃあ、いいかい?」 「わっ、なにをいたす? 拙者の頬をなぜ打つか?」 「これこれ、そこでなにをいたしておるか?」 「へえ、そっぽ(横顔)を打て、そっぽを打てというもんですから……」 「あははは、即答がわからぬのであろう。これ、三太夫、教えてつかわせ」 「はっ……これ、即答を打つと申すのは、殿に対して、ただちにじきじきお答え申すことじゃ。それを、拙者の面体《めんてい》を打つとはなにごとであるか?」 「だってさ、おまはん、つらあ持ってきて、そっぽを打て、そっぽを打てってからね、さからっちゃあ、ものに角《かど》が立つとおもったから、なぐっちまったんで……」 「さあ、殿にお答え申しあげろ。ていねいに申すのじゃぞ」 「ていねいとくりゃあ、こっちはお手のもんだ……おったてまつりゃあいいんだから……」 「なに?」 「まかせとけってんだ……えー、お殿さまでござりたてまつりますか。おわたくしことは、お八五郎さまと申したてまつります」 「これこれ、自分に「さま」をつけるやつがあるか」 「そうかい、いけねえかい? ……ええ、おわたくしのお妹さまのお鶴さまが、お子さまをお産みたてまつりまして、まことにめでたくござりたてまつり候につき、おわたくしをお殿さまがお呼びくだされたてまつりまして、なんでもおもくもくで、三百両で、しめこのうさうさでござりたてまつります。恐惶謹言《きようこうきんげん》、こんこんちきでたてまつる」 「なにを申しておるか。かれの申すことは、余にはさっぱりわからん」 「これ、そちの申すことは、殿にはおわかりにならぬと申されるぞ」 「そりゃあそうでしょう。しゃべってるあっしにだってわからねえもの……」 「ああ、これこれ、八五郎、無礼講といたせ。そのほうの朋友《ほうゆう》に申すごとく遠慮なく申してみよ」 「はっ……ありがたきおことばであるぞ」 「え?」 「ありがたいことである」 「ありがてえって、おまはんひとりでありがたがってるけどね、こちとらあ、ちっともわかりゃあしねえ。なんです? その朋友てえのは?」 「なにも知らんやつだな……友だちに申すようにいたせとのおことばだ」 「へーえ、ありがてえね。ざっくばらんでいいんですかい? こいつあありがてえや……いえね、じつは、きょう、大家のでこぼこが……」 「あっ、これ、なにを申すか」 「三太夫、ひかえておれ。大家なるものがいかがいたした?」 「へえ、あっしを呼びによこしましてね、お鶴のあまっちょが、かっぱ野郎をひりだしたって……」 「これ、なにをいうか。無礼であるぞ」 「三太夫、ひかえておれ」 「それがね、はじめは、お世とりを産んだなんていうんでしょ、あっしゃあ、てっきりにわとりを産んだのかとおもっちまってね、こりゃあ、とんでもねえことになったとあわてちまった。ねえ、無理はねえでしょ? なあ、おい!」 「なにをいうか、これっ」 「三太夫、ひかえておれ」 「殿さま、この人は、お宅の番頭さんですかい? どうでもいいけど、うるせえねえ。この三ちゃんとかいう人は……あっしが、なんかいうと、むやみに尻《けつ》をつつきゃあがって……尻だからいいけど、ほおずきならとっくにやぶけてらあ。殿さまもよくこんな者を飼っときますねえ」 「あははは、おもしろいことを申すやつじゃ。これ、八五郎、そのほうは、酒《ささ》をたべるか? どうじゃ?」 「え? 馬じゃあねえですからねえ。いくら貧乏してても、笹の葉なんぞは食いませんや」 「わからんやつであるな。酒《ささ》とは、酒《さけ》のことである。どうじゃ、酒《さけ》は飲むか?」 「えっ、酒? 酒なら浴びるほうなんで……」 「おう、さようか。よほど好物とみえるな。これ、酒《ささ》の支度をいたせ」 「支度? えっ、ごちそうしてくださるんですかい? そいつあすまねえなあ……手ぶらできちまって、わるかったなあ、どうも……おっ、もうお膳がでてきた。おやおやおや、あとからあとから、ずーっとでてくるねえ。もういいかげんにしといてくだせえよ。ねえ、殿さま、そんなに見栄《みえ》ばるこたあありませんや。おたげえにふところは苦しいんだから……」 「あっ、これこれ」 「三太夫、ひかえておれ」 「三太夫ひかえておれっていってるじゃあねえか。ひかえていなよ」 「なにを申すか」 「三太夫、ひかえておれ……これ、たれぞある、酌をしてつかわせ」 「おっ、ありがてえなあ。まあ、りっぱな金蒔絵のついた大きなさかずきだねえ……えへへ、こりゃあどうも、おばあさんのお酌で……」 「これこれ、おばあさんとはなにごとであるか? ご当家のお年寄りであるぞ」 「お年寄りだから、おばあさんじゃあねえか。どうしておばあさんといっちゃあいけねえんだい? ……じゃあ、殿さま、いただきやすよ。こんなりっぱなもんで飲むのははじめてなんで……うん、こりゃあ、いい酒だねえどうも……うめえ、うめえね。こりゃあ安くねえだろうね、一合いくらぐれえするんで?」 「これこれ、なにを申すか!」 「また、これこれかい。いやんなっちゃうなあどうも……酒飲んでるんだ。これこれでなくって、こりゃこりゃといきてえねえ……へえ、またお酌してくださるんで……こりゃあ、どうも……へえへえ、いただきます……うん、うめえ。ほんとうにいい酒だ。ありがてえねえ。酒はいいし、食いものはうめえし……こんなうめえもんなら、うちのばばあに食わせてやりてえなあ……おや、また、お酌を……どうもすいませんねえ……あーあ、どうもいい心持ちになっちまったなあ……おやっ、いままで気がつかなかったが、むこうへいるのは、お鶴じゃねえか。おっ、お鶴坊だな。笑ってやがら……なんでえ、そこにいたんなら、声をかけりゃあいいじゃあねえか。水くせえなあ。おーい、お鶴、元気か? おう、お鶴!」 「これっ、なにを申す! 無礼者!」 「なにいってやんでえ! 無礼なことがあるもんか。おれの妹じゃあねえか。ひさしぶりに逢ったんでえ。名前《なめえ》ぐれえ呼んだっていいじゃあねえか……おう、どうしたい? おれだよ、兄貴だよ。えへへへ、おっそろしくきれいなきものを着ちまって、ずいぶんきれいになりゃあがったなあ……あはははは、こんど、おめえ、赤ん坊を産んだんだってなあ。男の子だそうじゃあねえか。おめでとう! 乳はでるのか? え? そうか、そいつあよかった。あははは、おっかあもよろこんでたぜ。初孫だ、初孫だって、長屋中踊り歩いてやがんのよ。で、そういってたっけ、『そばにいりゃあ、守《も》りもしてやれるし、おしめも洗ってやれるんだが、相手はお大名だから、孫の顔がみてえったって、みることもできねえ。抱きてえったって、抱くこともできねえ。身分がちがうてえことは、まったく情けねえもんだ。八や、おめえ、むこうへいったら、そのがきを……じゃあねえ、その子どもを、どうか二人前みてきてくれ』って、ばあさんがいやあがるんだ。なぐられたって泣いたことのねえおれだが、そのときばかりゃあ、涙がこぼれちまった。『もしも抱けるようなら、二人前抱いてきてくれ』といやあがって、ばあさん、ぽろぽろ泣きゃあがるんだ……二人前みるの、三人前みるのっておかしいけれども、身分がちがうために、そばに寄ることもできねえとおもうと、ばあさんだってかわいそうじゃあねえか……ねえ、おい、大将《てえしよう》!」 「これ、これ、大将とはなんじゃ」 「三太夫、ひかえておれ」 「三ちゃん、ひかえておれとさ……殿さま、酒がすこししめっぽくなっちまって申しわけねえから、ひとつ唄でも唄いましょうか?」 「ほう、唄を唄うと申すか。それは一興である。さっそく唄ってみよ」 「へえ、唄たって、こちとらの知ってるなあ都都逸ぐれえですけれども、おつな文句がありますぜ……『この酒をとめちゃいやだよ、酔わしておくれ、まさかしらふじゃいいにくい』なんて、いい文句だねえ」 「おお、さようか」 「なんでえ。張りあいがねえなあ。都都逸を聞いたら、あーこらこらぐれえいってもらいてえや。都都逸を聞いて『おお、さようか』だって……いやんなっちまうなあ。これじゃあ、どうにもやりにくいや……『浮名立ちゃ、それもこまるし世間の人に……』てねえ…… 知らせないのも惜しい仲……なんてねえ、よう、どっかへいこうか、どうでえ、殿公!」 「なんだ!? 殿公とは……」 「いや、おもしろいやつである。かれを召しかかえてつかわせ」  あのようにものを知らぬ男でも、また、なにかの役に立つこともあろうから、たとえ小身《しようしん》たりともさむらいにとりたて、母親もろともに屋敷へひきとってやったならば、孫の顔もみられるであろうと、あらためてご沙汰があって、八五郎は、五十石の小身ながらもさむらいにおとりたてになった上に、お小屋をくださることになり、親子ともに大よろこびで、それへひきうつりました。さてこうなると、名前がなくてはいけないということになりましたが、妹とちがってひどい醜男《ぶおとこ》なので、お側《そば》役人もおもしろ半分、まるで蟹《かに》そっくりだからおかしな名前をつけてやろうと、岩田|杢蔵源蟹成《もくぞうみなもとのかになり》という名をつけました。  あるの日こと、 「おっかあ、おれが、こないだ、ちょいとはなしに聞いたけれども、こうやってこっちへひきとられるようになってから、友だちのやつがいろいろなことをいってるそうだ。妹の縁で、このごろは、たいしたことになった、というはなしをする人もあるそうだが、なかには、八のやつ、やりきれなくって夜逃げをしたといってるやつもあるそうだ。こっちへうつるとき、ついいそいだもんだから、ろくにいとま乞《ご》いもしてこなかった。それについて、おれは、こないだからそうおもってだが、きょうは、友だちのところをずーっとまわってこようか」 「そうさねえ」 「おれのすがたをみたらみんなも安心するだろうし、大家さんのところへもいってきてえ」 「じゃあ、いってくるがいい」  翌日になりますと、八五郎は、大小をさし、ぶっ裂《さき》羽織を着て、供《とも》をひとりつれて、屋敷をでて、もと住んでいた町内へくると、職人が多いから、昼間はあまりおりません。あっちへまごまご、こっちへまごまごしていると、むこうからきた職人が、 「おう、むこうへきた侍《さむれえ》な、八の野郎にどうも似てるぜ」 「似てるけれども、相手は、侍《さむれえ》だぜ。あいつ、夜逃げしたってえじゃあねえか」 「うん、やりきれなくって逃げちまったそうだ」 「夜逃げをしたやつが、侍《さむれえ》になるわけがねえ」 「だけれども、なんだか妹を女郎に売ったとか、妾にしたとかいうぜ」 「妹が妾になって、あいつが侍になるわけがねえ」 「あんまりよく似てるなあ。にこにこ笑ってきやがる。声をかけてみようじゃあねえか」 「八公なんて呼んで、もしもちがって、いきなり無礼討ちなんてやられると大変《てえへん》じゃあねえか」 「だけれども似ている。だんだんこっちへくるぜ。ひとつなんとかいってみよう」 「じゃあ、おれは尻をはしょって逃げるしたくをしているから、おめえ、声をかけてみねえ。おめえが八公つったら、おれはぱっと逃げる」 「なるほど、そいつはおもしれえ。なーに、追いかけたって、むこうはあれだけのものをさしてるんだ。こっちゃあ空身《からみ》だから、駈けっこなら大丈夫だ。いいか、呼ぶぜ。おお、どうした八公、おそろしくりっぱになったじゃあねえか」 「いや、これはこれは一別以来……」 「おーい、逃げねえでもいい。ほんものの八公だ。一別以来ときやがった。おそろしくりっぱな刀をさしてるじゃあねえか」 「これは殿より拝領して、もらって、いただいたんだ」 「ばかにごていねいだな。なにしろうまくやりゃあがったな」 「まあ喜んでくんねえ。いまじゃあ、こういう身分になったんだから……」  こんな調子の俄《にわか》侍ですから、なにかにつけてとんちんかんで……そのうちに、これがご親戚に知れて、赤井御門守においては、おもしろいご家来をお召しかかえになった。どうぞ非番の折りなどは、つれづれをなぐさめるためにおよこしくださいと、毎日のように八公はほうぼうのお屋敷へよばれますが、あるいはぞんざいな口をきいたり、二本ざしでいながら、職人のようなことをするのがおかしいというので、なかには客を喜ばせるためにきてくれというようなぐあいで……  ある日のこと、ご親戚のお大名から、どうぞぜひにというおたのみがございましたが、当人も諸方へいっては恥をかくので、さすがにきまりがわるく、もう御免《ごめん》をこうむるというので、殿さまとしてもやむをえず、お使者の役をいいつけました。委細《いさい》はこの文箱《ふばこ》のなかの書状にしたためてあるから、これを持ってまいれという申しつけで、八五郎が文箱を持ってでかけようとすると、馬の用意がしてございます。 「おい槍持ち、この馬をどうするんだ?」 「へえ、あなたさまがお召しになるんで……」 「そりゃあいけねえ。まだ三日しきゃあ馬の稽古《けいこ》をしねえから、尻がふわふわして鞍につかねえ」 「それでも馬乗《ばじよう》のお使いですから、お召しなさらなくっちゃあいけません」 「いけねえったって、おれにゃあ乗れやしねえから、おめえ乗ってくれ。おれが槍をかついで供をするから……」 「それはいけません。ご主人が槍をかついで、槍持ちが馬に乗るということはありません」 「弱ったなあ、稽古を三日しきゃあしねえんだからなあ……そうかい、どうしても乗らなきゃあいけねえのかい? じゃあ乗るよ」  どうにかこうにか手綱を持つくらいのことはおぼえましたから、しかたなしに乗りだしたのですが、馬は乗り手を知るといってりこうなもので、馬のほうが八五郎をばかにしてのそのそと歩きだします。どうものろいのなんのって……ちょうど夕方になって、小川町あたりのにぎやかなところへくると、ぴたりと立ちどまってどうしてもうごきません。 「おい、いけねえや。馬をどうかしてくれ。おい、どうかしてくれ。馬もくたびれたとみえてうごかなくなっちまった。弱ったなあ、どうもしょうがねえ」  そのうちに人があつまってきましたから、槍持ちは、槍を持って、往来に突っ立ってもいられません。こっちの番太郎のうちへ槍を立てかけて、縁台へ腰をかけると、日あたりがいいんで居眠りをはじめました。 「どうしたんだ。あの侍は? 往来のまんなかに馬なんかとめやがって……」 「寝ているんだろう。なんにしてもじゃまな野郎だ。かまうこたあねえから馬の尻《けつ》をひっぱたけ」  片っぽうが職人で、気が荒いからたまりません。ぽんとひとつ鞭《むち》をいれたとたんに、馬がヒーンと棹《さお》立ちになったから、八五郎はすっかり胆《きも》をつぶして馬の首っ玉へかじりついて、「たすけてくれ! たすけてくれ!」  とどなるんですが、馬はそんなことはおかまいなしで、そのまま走りだして品川のほうをめざしてとんでまいります。もう八五郎は、生きた心地もなく、夢中でたてがみにしがみついております。  このとき、ちょうど品川のほうからおいでになったのが、同家中で石塚馬之丞という馬の先生、とんでくる馬の前へ立って、「ドウ」といって口をとると、馬は先生ということを知っておりますから、たちまちピタリと四足《しそく》をとどめました。 「岩田氏、血相変えていずれへお越しになる? なにかお家に騒動でもおこり、お国おもてへの早打ちか? いずれへおいでになる?」 「……馬が知っておりましょう」 品川心中  江戸では、吉原を天下|御免《ごめん》の御町《おちよう》、略してお町などと申しまして、あそびの本場としておりました。で、ここ以外の遊廓を岡場所と申しましたが、とりわけ品川、新宿、千住、板橋を四宿《ししゆく》と呼んでいずれもさかえました。このうちでも品川は、東海道の出入り口でございますから、その繁昌もひときわだったそうでございます。  この品川に白木屋という女郎屋がございまして、ここの板頭《いたがしら》をつとめているおそめというおいらんがおりました。板頭というのは、吉原でいえばお職といいますが、つまりいちばんの売れっ妓《こ》で……なぜ板頭というかといえば、板にそこのうちのおいらんの名前がずらりと書きならべてありましたが、いちばんの売れっ妓の名をはじめに書くのでこういう呼びかたができたのでございます。  しかし、いくら売れっ妓でも年齢《とし》には勝てません。自分よりも下の妓《こ》にどんどん客がついてきて、だんだん成績があがってくるから、勝気なおそめとしては気が気でありません。おまけに、この社会には紋日《もんび》というものがあって、たいへんな金がかかったもんで……この日には、うつりかえといって、単衣《ひとえもの》からあわせにうつりかえる。そして、朋輩《ほうばい》を自分の座敷に呼んで、芸者、たいこもちも呼んで飲んでさわいで、遣《や》り手から店の若い衆にまでみんなに祝儀をやって、うつりかえの披露目《ひろめ》をしなければなりません。だからまとまった金がいったわけで、おそめもこまって、親方へはなしをしてみたが貸してくれず、客のところへは四方八方へ手紙をだしてみましたが、一本の返事もこないというわけで……もういっそのこと死んでしまおうとおもいましたが、ひとりで死ねば、紋日前《ものまえ》で金につまって死んだといわれるのがくやしいから、だれか相手をみつけて死のう。そのほうが心中といわれて浮き名が立って派手でいいから、心中の相手はだれにしようと、これから馴染《なじみ》帳を持ってきて、あれにしようか、これにしようかと選びはじめました。 「そうだねえ、辰つあんもいいけどねえ、この人はおかみさんだけじゃあなくって子どももあるっていうからねえ、殺しちゃあどうもかわいそうだし……だれにしたらよかろうねえ……そうだ、この人ならいい。この人なら……中橋から通ってくる貸本屋の金さん、この人ならいいよ。この人ならひとり者だし、のんきでおめでたいし、生きてたってどうってことはないから……そうそう、この人にきめちまおう」  てんで、きめられたやつこそいい面《つら》の皮で……  これからおそめは手紙を書いて金蔵のところへ持たせてやりました。金蔵がひらいてみると、身の上について相談したいことがあるから、ぜひきてくれるようにとあるので、金蔵は大喜び。使いの者にいくらかのものをやって、やりくり算段をして品川へとんでまいりました。 「まあ、よくきてくれたねえ。今夜はすこしばかり相談したいことがあるんだよ」 「よしっ、心得た。どんな相談でも持ってきねえ……おれがひきうけたぜ」 「うれしいねえ……じゃあ、あとでゆっくりはなしをするから待ってておくれよ」  折り悪《あ》しくほかに二、三人の客がありましたので、おそめはその座敷へいってしまいました。 「ちぇっ、ばかにしてやがらあ。おもしろくもねえ。身の上のことについて相談があると、人を呼んでおきゃあがって、でていったきりまるっきりすがたをみせねえじゃあねえか。ばかにしてやがら、じょうだんじゃあねえや……なんの相談か知らねえが、さっさとはなしをするがいいじゃあねえか……ああ、いやだいやだ……こうと知ったらくるんじゃあなかった。ほんとうにつまらねえ。あっ、バタリ、バタリと草履の音がしてきたぜ。きたのかな? きたのなら、ここでおれがふくれっつらをしてたばこをのんでるのはみっともねえや。そうだ、寝たふりをしてようかな……うー、きたきたきた……あれっ、なんだい、ここへへえるのかとおもったら通りすぎちまった。ばかにしてやがら。どうもゆうべの夢見がよくなかったぜ。なにしろ豚にへそをなめられた夢をみたんだからな。あーあ、たばこがなくなってきやがった。たばこはなくなる、火は消える、命に別条ないばかりか……あーあ、それにしてもおそめのあまはどうしたのかな? これだから女郎屋ってものはなんとなくおちつかねえんだ。寝ようとしたって寝られやしねえや……おっ、またきやがった。ははあ、こんどの足音はたしかにあいつだ。ちくしょうめ、さんざん人に気をもませやがって……おぼえてろ。むこうに気をもませてやるから……グー、グー、グー……」  すーっと障子があいて、 「あら、よく寝ていることね」 「くそをくらえ!」 「ちょいと……お起きよ」 「なにをいってやがる……いま時分きやがって……気のきいた化けものは、とうにひっこむ時分だ」 「おやおや。この人は寝言をいってるよ」 「ずうずうしいちくしょうだ。叱言《こごと》も寝言もわからねえ。どうもあきれけえったもんだ」 「ちょいと金ちゃん、いろいろとはなしがあるんだからさ、起きとくれよ」 「グー、グー」 「たいへんないびきだね、この人は……ねえ、起きておくれってえのに……」 「なにいってやんでえ。そうやすやすと起きられるかい。べらぼうめ、グー、グー……」 「あら、また寝言をいってるよ……こんな人とはおもわなかった。あたしゃ、この人と生涯苦労をともにしようとおもっていたんだけども、そういう気ならあたしはあたしで覚悟をしよう」 「なにいってやんでえ。覚悟でもなんでもしゃあがれ。べらぼうめ、いま時分、顔をだしゃあがって……グー、グー……しかし、どうしたんだろう? 急になんにもいわなくなっちまった。こりゃあいけねえや。むこうがなんかいってるうちに目をさましゃあよかったなあ。これじゃあきっかけをなくしちまった。相手がだまってるのに急に起きるわけにもいかねえし……あれっ、あんなところにいやがら……」  金蔵がいびきをかきながら、ふとんから首をだしてむこうをみますと、おそめは、行燈《あんどん》のそばで手紙を書いてるようですから、金蔵は、いびきをかきながら、はいだしてきてのぞきこみました。 「あらっ、おどろいた。じょうだんじゃあないよ、この人は……いびきをかきながら、はいだしてくるやつがあるもんかね。おふざけでないよ」 「おふざけでないよだと? ……そりゃあおれのほうでいうせりふだ。おう、いやなまねをするねえ。つらあてがましいことをするな!」 「なにが?」 「なにがじゃねえや。なぜおれの枕もとで手紙なんぞ書くんだ?」 「大きな声をおしでないよ」 「大きな声はおれの地声だ」 「ほんとにやぼな人だよ」 「ふん、どうせやぼだ。目の前で、いい人へやる手紙を書かれるくれえだからな」 「いい人がほかにあるくらいなら、こんな苦労はするもんかね。おまえのところへやる手紙を書いてるんだよ」 「なにいっていやあがる。ご本尊さまが、ここにこうしているじゃあねえか。いいかげんなことをいうねえ」 「うそか、うそでないか、さあ、書いたから、この手紙をごらんよ」 「あたりめえよ。てめえのほうでみせなくっても、こっちはみずにはおくもんか。さあだせ!」 「みるならごらんよ」 「早くだせ……えー……なになに……書き置きのこと……えっ、書き置きのこと? ……おやおや、なるほど……こいつはすこしようすがちがう……一筆書きのこしまいらせ候。かねておんまえさまもご存知の通り、この紋日前《ものまえ》には金子《きんす》なければ行き立ち申さず、ほかに談合いたすものも……鳴くに鳴かれぬうぐいすの、身はままならぬ籠《かご》の鳥、ほうほけきょうまでおかくし申し候えども、もはやかない申さず、今宵《こよい》かぎり自害いたし相果《あいは》て申し候間……おやおや……えー、もしもわたくしのことをふびんとおもいいだされ候えば、折りふしのご回向《えこう》を、ほかの千供万部(多くの供物や読経)よりうれしく成仏《じようぶつ》つかまつり候。ほかに迷いは御座なく候えども、わたくし亡きのちは、おかみさんをお持ちなされ候かと、それのみ心にかかりまいらせ候。申しのこしたきことは死出の山ほど候えども、心せくまま、あらあらかしこ。金さままいる、そめより……へーえ、おどろいたなあ、おい、これほどのことがあるなら、一応はなしをするがいいじゃあねえか。水くせえじゃあねえか」 「だからおまえに相談しようとおもっても、グーグー眠ってるじゃあないか」 「それがその……眠ってるような、起きてるような、妙な寝かたをしていたんだが……おい、金ですむことなら、どうにでもしようじゃあねえか」 「ほんとう? うれしいこと。どうにかなるの?」 「あーあ、まあな」 「まあ、たよりないねえ……お金ができなきゃあ、みじめなおもいをしたくないから死のうとおもうけれども、おまえさんとは末の末までと約束がしてあったんだから、あたしの死んだのちは、折れた線香の一本も手《た》むけておくれ。後生だから……」 「おいおい、そんなしめっぽいことをいうなよ。人間の命は金で買えやあしねえぜ。だから、金さえできりゃあいいんだろ?」 「そりゃあそうだけれども……」 「じゃあおれが一肌《ひとはだ》ぬごうじゃあねえか。おめえのためなら、うちのものをみんなたたき売ったってなんとかしようじゃあねえか」 「おまえさんにそんなことをしてもらっちゃあすまないとおもうから……」 「すむもすまねえもあるもんか……で、いったいいくらありゃあいいんだ?」 「四十両なきゃあ、どうにもならないんだよ」 「なーんだ、たったそれだけのことか……なにも四十両ばかりのはした金で死ぬことはねえじゃあねえか」 「じゃあ、おまえさん、都合《つごう》してくれるのかい?」 「それがその……とてもできねえ」 「なんだねえ。四十両ばかりのはした金なんていばったくせに……」 「そりゃあいばったけれども……これで、四十両のこらずこせえるとなると、すぐにはなあ……」 「そりゃあ、のこらずできなかったら、あたしがあとはどうにかするけど……三十両ぐらいどうだい?」 「三十両なあ……うーん、ちょいとたりねえなあ」 「二十両かい?」 「二十両できりゃあ、おれも男が立つけど……」 「十両かい?」 「十両なら大いばりだが……」 「じゃあ、いったいいくらならできるの?」 「そうさなあ、まあ、一両ぐれえならなんとか……」 「じょうだんいっちゃあいけないよ。四十両のところへ一両ぐらいつくってどうするのさ?」 「どうするったって……どうもしかたがねえ」 「だって、おまえさん、うちのものを売ってもこさえるといったじゃあないか」 「だから、みんなたたき売ってそれくれえにかならねえんだ」 「情けない身上《しんしよう》だねえ……だから、金さん、これが……この世で、おまえさんの顔のみおさめだよ……」 「待ちなよ。おめえが死んじまっちゃあ、おれだけ生きてたってしょうがねえやな。死ぬならいっしょに死のう」 「死んでくれる?」 「ああ、つきあうよ」 「なんだい、つきあうてえのは……おそばを食べにいくんじゃあないよ。ほんとうに死んでくれるのかい?」 「ああ、うたぐるんじゃあねえよ。ほんとうに死ぬよ。うそだとおもうんなら、手付けに目をまわそうか?」 「目なんぞまわさなくっていいよ。じゃあ、今夜、死んでくれるかい?」 「今夜か? 今夜はだめだ。まだいろいろと用意があるから……」 「じゃあ、いつ?」 「あしたの晩、きっとくるから……まあ、死ぬには死ぬように、ふたりが白無垢《しろむく》を着て死のうじゃあねえか。ふたり、覚悟の心中といわれ、あとに浮き名ののこるようにしよう。うちへ帰って、したくをしてくらあ」 「ほんとうに? うれしいねえ」  その晩、おそめのほうでも金蔵をあしたよばなきゃあいけないとおもうから、腕によりをかけてつとめましたので、あくる朝になると、金蔵はたましいのぬけがらのようになって、ふらふらでうちへ帰ってきました。もうあの女のためなら命はいらねえなんて、女郎買いの決死隊みたいになっちまって、道具屋をつれてくると、家のものを全部たたき売ってしまい、これから白無垢を二まい買うつもりでございますが、すこし金がたりなかったので、女ものだけは満足なのを買い、自分のは、腰から下のない羽織の胴裏《どううら》みたいなものを買って、猫のとびつきそうにさびた赤いわしの短刀《あいくち》も一本買うと、それとなく知りあいのところへいとま乞いをして、昼すぎに、長年厄介になった親分の家へぼんやりといとま乞いにやってまいりました。 「おはようございます」 「だれだい?」 「おはようございます」 「おう、だれだ? いま時分きて、おはようございますというのは? 掃除屋(糞尿くみとり人)か?」 「おやおや、掃除屋とまちがえてやがら……人間も生きてるうちから臭味《くさみ》がついちゃあ往生だ」 「だれだ? なにをいってるんだ?」 「おはようございます」 「なあんだい、金蔵か?」 「へえ、ここにいるのはきんぞうで、台所にあるのがぞうきんで……」 「なにいってんだよ。あいかわらず気楽なことをいって……まあ、こっちへあがれ」 「おはようござい……」 「おはようございって、もう昼すぎだぜ。なにをぼんやりしてるんだ?」 「へえ……」 「じょうだんじゃあねえ……なんだ、大きなつつみをしょやあがって……」 「へえ……」 「へえじゃあねえ。このあいだから、てめえに意見をしようとおもってたんだ。若《わけ》えやつらに聞いたら、つまらねえ女に熱《あつ》くなって、品川へ通ってるそうだが、よしねえよ。もしも、この紋日前《ものまえ》の金につまって、無理心中でもしかけられたらどうするつもりだ?」 「うまくあたった!」 「なんだ?」 「いえ、なに、その……なんでございます。すこし都合をわるくいたしまして……」 「そうだろう。ろくろくかせぎもしねえで、年じゅう女郎買いばかりしてるんだから……」 「へえ、しょうがありませんから、田舎へいってかせいでこようとおもいまして……」 「ああ、そりゃあいいや。いってこい、いってこい……で、田舎といって、どっちへいくんだ?」 「ええ、西のほうへまいります」 「目あてがあっていくんだろうが、いつごろ帰るつもりだ?」 「盆の十三日には帰ります」 「ふーん、そんなに長くかかるのか。すると、だいぶ遠いな」 「ひとのうわさで、なんでも十万億土とか……」 「じょうだんじゃあねえ。なぐるよ、はっきりしねえと……ただ西のほうじゃあわからねえ。どこだ?」 「西方阿弥陀仏《さいほうあみだぶつ》……」 「こいつ、縁起のわりい野郎だ……おいおい、待て待て、おい、用があるんだ、おい! ……しょうがねえなあ。どうかしてやがる。はなしもすまねえうちに駈けだしちまって……なに? なんだ? 民公……」 「へえ、水がめの上へこんな短刀《あいくち》をおいていきましたんで……」 「あの馬鹿野郎、顔色がなんだか変ってるとおもったが、どっかで喧嘩でもしてきたにちげえねえ……いいよ、いいよ。そんなものとどけてやるこたあねえ。うっちゃっときなよ」  金蔵のほうは、かねての約束通り、日の暮れがたになると、品川へやってまいりました。女のほうも、もうくるかと、首を長くして待っているところへ金蔵がきましたから、たいへんな喜びようで…… 「まあ、金ちゃん、よくきてくれたね。さあ金ちゃん、こっちへはいっておくれよ。金ちゃん、まあ、坐っておくれよ。金ちゃん、うれしいねえ。金ちゃん……」  てんで、金ちゃんの国から金ちゃんをひろめにきたようなさわぎで…… 「うれしいよ。あたしはね、おまえさんがきてくれなかったら、どうしようとおもってたんだから……もう今夜は、この世のおわかれだから、うんと飲んでさわごうよ」 「ああ、どうせ死んじまうんだ。勘定の心配はいりゃあしねえや」  ひどいやつがあったもんで、ふだんはしみったれなくせに、今夜にかぎって飲むわ、食うわ…… 「さあ、なんでも持ってこい。勘定がほしけりゃあ、三途《さんず》の川までとりにこい。地獄へいっしょにつれてってやるから……」 「なにをいうんだよ」 「なんでもかまわねえ。どうせいきがけの駄賃《だちん》だ」  おそめは気をもみました。もし、こいつの口からあらわれてはたいへんだとおもいますから、 「さあ、金さん、いいかげんにお酒をよして、寝ておしまいよ」  と、へべれけに酔っぱらっている金蔵を寝かしてしまいました。とたんに、二、三の客があがってきましたので、そのまわしをすまして、真夜なかごろにきてみると、金蔵は高いびきで鼻からちょうちんをだして寝ております。 「まあ、なんて寝ざまだろう。あきれたもんだねえ。いま死のうてえのに、よくこんなにグーグー寝られたもんだ。この人のは度胸があるんじゃあない。のんきで、からばかなんだよ……あらあら、鼻からまたちょうちんがでてきたよ。あれっ、ひっこんだ。またでてきた。こりゃあ、きっとお祭りで夕立に逢った夢かなんかみているんだね……あれっ、ちょうちんがつぶれたよ。きたないねえ……あーあ、こんなやつといっしょに死ぬのかとおもうとつくづく情けないねえ……いつまでこうしちゃあいられない。ちょいと金ちゃんお起きよ。ちょいと金ちゃん、金ちゃん……」 「あーあ、もう食えねえよ」 「まだ食べる気でいるんだよ。なんて人だろう。ねえ、起きとくれよ」 「もう夜があけたのか?」 「夜があけてどうするんだい?」 「夜があけてどうする? ふざけるなよ。夜なかに追いだされてたまるもんか。高輪《たかなわ》のところにわるい犬がいて、このあいだ、朝早く帰ったら、犬にとりまかれてひどい目に会っちまった。おらあ、もう、犬は大《でえ》きれえなんだから……」 「なにをいうんだね。しっかりしておくれ。おまえ、わすれたのかい?」 「なにを?」 「今夜死ぬんじゃあないか」 「なるほど、ちげえねえ……そうそう、すっかりわすれてた。ひと寝入りして起きたら、すこしめんどうくさくなっちまった。どうだい、二、三日死ぬのを延《の》ばすわけにはいかねえか?」 「おふざけでないよ。心中の日延べなんてあるもんかねえ。さあ、早くしたくにかかるんだよ」 「よしきた。そのつつみの中をみねえ」 「おや、りっぱな白無垢《しろむく》があるね」 「これがおめえので、こっちがおれのだ」 「金さん、おまえのは、腰から下がないじゃあないか」 「ああ、倹約につきお取り払いだ……このほうがさばさばしてていいやな」 「なにか、死ぬ道具を持ってきたかい?」 「そのふろしきのなかに短刀《あいくち》がへえってるだろう?」 「短刀が? ……なにもありゃあしないよ」 「そんなはずはねえんだが……よくふるってみなよ……え? ねえかい? おかしいなあ……あっ、たいへんだ。たしかに短刀を買ってきたんだが、昼間、親分のうちへ暇乞《いとまご》いにいって、水がめの上へのせたままわすれてきちまった」 「まあ、そそっかしいねえ、この人は……あたしも、こういうことがあるかと虫が知らしたか、昼間のうちに、かみそりを研《と》がしておいたから……金さん、死ぬのはかみそりにかぎるよ」 「おい、待ちなよ……かみそりはいけねえ。刃のうすいので切ったやつは、療治がしにくいというから……」 「なにいってるんだよ……ああ、そうかい、おまえ、死ぬつもりがないんだね。あたしをだましたんだね……いいよ、おぼえておいでよ。あたしはこれでのどをかき切って死んだら、三日たたないうちにおまえさんをとり殺してやるから……」 「おい、待ちなよ。おいおい、あぶねえからはなしなよ……おいっ、あぶねえじゃあねえか。こんなものをふりまわして……」 「なにするのさ? 人のかみそりをとっちまって……」 「だからよ、なにも荒っぽいことをしなくったって、死ねりゃあいいんだろ?」 「どうするのさ?」 「もめん針を二十本ばかり持ってきねえ」 「もめん針を? ……どうするのさ?」 「ふたりの脈どこを、つっつきあっていたら、夜のあけるまでにはかたがつくだろう」 「おふざけでないよ。しもやけの血をとるんじゃああるまいし……じゃあ、裏へいっしょにおいでよ」 「なに? 裏へ? そりゃあだめだ、だめだ……松の木かなんかへぶらさがろうってんだろ? はなを二本たらして……ありゃあ、あんまり気のきいたもんじゃあねえ……」 「なにをぐずぐずいってるんだよ。なんでもいいからいっしょにおいで!」 「とほほ……いくよ、いきますよ……」  金蔵のやつ、すっかりべそをかいております。おそめにせきたてられて、うらばしごをおりてきました。庭にでまして、飛び石をつたわってくると、垣根があって、木戸には錠《じよう》がおりておりますが、これへ手ぬぐいを巻いてぐっとねじると、潮風のためにくさっていたものか、ぽきりととれましたので、これさいわいと、木戸をあけてでると、前はもう海でございます。折りしも空は雨模様で、ときどき大粒のやつがぽつりぽつりおちてくるというありさま……あげ潮どきとみえて、ドブーン、ドブーンと打ちよせる波は、岸を洗ってものすごうございます。 「さあさあ、金さん、なにしてるんだよ。ずんずん前へいくんだよ。桟橋《さんばし》は長いよ」 「とほほほ、桟橋は長くったって寿命はみじけえや……おいおい、あぶないよ。押しちゃあいけねえよ」 「なにいってるんだい、早くとびこむんだよ」 「そりゃあいけねえ。おらあ、風邪ひいてるから……えっ、だめかい? おどろいたなあ。このあいだ、占《うらな》い者がそういったよ……おまえさんは水難の相があるって……」 「いまさら、そんなことをいったって、しようがないよ」 「じゃあ、水へへえる前によくかきまわして……」 「お風呂へはいるんじゃあないよ。いせいよくとびこむんだよ」 「いせいよくったって、茶わんのかけらでもおちてたら、足を切っちまわあ」 「潮干狩じゃあないよ。じれったいねえ」 「どうもつめたそうだなあ」  度胸のないやつですから、泣き声をだしております。とたんに座敷のほうで、 「おそめさんえ、おそめさんえ」  二声、三声呼ぶ声が聞こえましたので、みつけられちゃあたいへんだと、金蔵のうしろにまわって、すかしてみると、がたがたと爪さきがふるえておりますから、腰のところに手をかけておいて、 「金さん、おまえばかり殺しゃあしない……かんべんしておくれ」  ドーンと、もろにつかれたから、金蔵のやつ、もんどりうって、ドボーンととびこみました。おそめもつづいてとびこもうとすると、店《みせ》の若い衆が、 「おっ、待った、待った。おそめさん、お待ちなさい」 「どうか、恥をかかしておくれでない。みのがしておくんなさい……どうぞ殺して!」 「まあまあ、お待ちなさい。つまらねえことをするじゃあありませんか。おまえさん、紋日《もの》前に金ができねえで、こんな無分別なことをするんでしょう? 金ならできた。できたんだから、死ぬのはおよしなさい」 「えっ、ほんとうに?」 「だれがうそなんぞつくもんですか。番町の旦那が持ってきました。『どうか当人に手わたしして、よろこぶ顔がみたい』って……おまえさん、四十両無心してやったそうだが、十両よけいで五十両、旦那がふところへいれて、さっきから待っていますよ」 「おや、そう、できたの? お金が! ……しかし、とんでもないことをしてしまったよ。もうひと足早ければ、こんなことをするんじゃあなかったのに……」 「どうしたんで?」 「ひとりとびこんじゃったんだよ」 「だれが?」 「金さん」 「金さんてえと、あの貸本屋の金公? あのばか金ですかい? あんなものようがすよ。流されて、鮫《さめ》かなんかに食われちゃうから……あいつは鮫好きのする顔だ」 「だって、おまえさん……」 「なあに、よござんすよ。知っているのは、おまえさんとあっしばかりだ。だまっていれば知れる気づかいはありません」 「それでもね、長年の馴染《なじみ》だもの……」 「勘定ができないで、居残りをしていたが、とうとうとびこんで死んだといえば、なんてえこたあありゃあしません」 「でもねえ、あたしがつきとばしたんだからねえ、その辺にいるもんなら、ひきあげてやりたいから、ちょいと待っとくれよ……ねえ、金ちゃん、もう死ななくてもいいようになったから、もう一ぺんあがっておくれな。ねえ、金ちゃん、あがって頂戴よ。おあがんなさいよ。ちょいと、ちょいと、ねえ、金ちゃん、世話を焼かせないでおあがりよ」 「店さきで客をよんでるわけじゃあねえから、そんなこといったってあがるもんですか。もうどっかへ流れちまったんだから……」 「そうかねえ。じゃあ、しかたがないねえ……じつはねえ、金ちゃん、あたしも死ぬつもりだったけど、お金ができてみると、死ぬのはむだだわ。あたしだっていつかは死ぬから、そうしたら、あの世でお目にかかりましょう。ただいままではながながと失礼……」  世の中にこんな失礼なはなしはありません。  金蔵は、アワをくらい……潮をくらい、面くらい、四苦八苦の苦しみをいたしましたが、ご案内の通り、品川は遠浅《とおあさ》でございますから、水は腰までしかございません。 「なーんだ。浅《あせ》えんだよ。こりゃあ、横になって水飲んだんだ。どうもあきれけえったもんだ……ハー、ハックション! ちくしょうめ、やっぱり風邪ひいちまった。あーあ、鼻がむずむずしゃがる。あれっ、鼻からダボハゼがでてきやがった……ちくしょうめ、人をつきとばしておいて、てめえは金ができたから死なねえとは……よくも人をだましゃがったな。どうするかみやがれ、おぼえてろ!」  金蔵は、元結《もつとい》が切れてざんばら髪、額《ひたい》のところをなにかで切ったとみえて、白い着物には泥と血がついてものすごいありさま……くやしいけれど、おそめのところへこのままあばれこめば恥の上塗りですから、やむをえず、海の中をガバガバと歩いて高輪の崖《がけ》へはいあがりました。すると、駕籠屋が、ちょうちんを前にして、ふたりでいねむりの競争をしておりますから、 「もし、駕籠屋さん」  と、呼んだんですが、駕籠屋がねぼけまなこをあいてみると、腰から下はまっ黒で、上のほうが白い。まして、さんばら髪で、額のところへ血が流れておりますから、駕籠屋はおどろいて、 「わっ」というと逃げてしまいました。金蔵は、駕籠がそこにあっても、かつぎ手がないので、駕籠のまわりをぐるぐるまわっているうちに、 「ワンワンワンワンワン!」  犬もあやしい姿をみてほえかかりますから、金蔵がむやみに逃げだしますと、犬もつづいて追いかけてまいります。芝までくると、犬のほうも係《かか》りがちがってまいります。ここからまた、ほかの犬にとり巻かれ、とうとう犬の町内送りになるようなしまつですが、自分のうちは空き家同様ですから帰るわけにはまいりません。しかたがないから親分のうちへまいりました。  こっちは、若い者をあつめて、さいころでがらっぽんと勝負ごとの最中でございます。とたんに、「ワンワンワンワン……」とほえる犬の声で、 「おい、みんなしずかにしなよ。ひどく犬がほえるから……」  というときに、表の戸をわれるように、ドンドンドンドンとたたきましたから、あわてたやつが、 「手がへえった!」  と、どなったからたまりません。ろうそくをひっくりかえす、行燈をけとばす、これをさいわいに場銭《ばせん》をさらうやつなぞがあって、もうたいへんなさわぎ。 「しずかにしねえかよ。大家《おおや》さんにちげえねえ……へえ、ただいまあけます。ひどくたたいちゃあいけません。大家さんがだしぬけにたたいたので、うちのやつらがねぼけやがって、あのさわぎでございます……おい、しずかにしねえ。だれだい? 金だらいをはいてかけだすのは……なにしろ、まっくらじゃあしょうがねえ……あっ、いてえ! だれか、おれのあたまをふみつけやがったな。人のあたまをふみ台にするやつもねえもんだ……とにかくあかりをつけなくっちゃあしかたがねえ。あの……ちょいと、なにを貸しねえ」 「え?」 「なにを貸せよ」 「なんです?」 「さっきから手まねをしてるじゃあねえか」 「くらやみで手まねをしたってわからねえ」 「ああ、あったよ。火打ち箱はここにあった……あれっ、しょうがねえな、なぜまたこう火打ち石が欠《か》けるんだろう? こんなに欠けるということはねえんだが……おや、ばかにしやがって、こんな中へ餅なんぞいれときゃあがって……だれだい? こんな中へ餅なんぞほうりこんどくのは……おい、ろうそくをだしねえ。しょうがねえなあ。夜がふけたから大きな声をだすなといったのに、ちっともかんげえなしでいやあがるから、こんなことができるんだ……へえ、大家さん、ただいまあけますから……」  ろうそくをつけて、がらりと戸をあけてみると、金蔵が、たいへんな姿で立っておりますから、親分は肝《きも》をつぶして、 「だれかきてくれ。ここに、へ、へ、変なやつが立ってらあ」 「へえ、親分、こんばんは……」 「あっ、びっくりした。てめえ、金蔵じゃあねえか。なんだって、そんなざまをしていやがるんだ?」 「へえ、品川で心中のしそこないで……」 「それみやがれ! だからいわねえこっちゃあねえ。あれほど意見したのを聞かずにでていきゃあがって……女を殺して、てめえばかり助かってきてどうするんだ?」 「いえ、あっしだけが死にそこなって、女はまるっきりとびこまねえんで……」 「ばかだな、こんちきしょうは……どこまでまぬけにできてるんだか……こっちへへえれよ。へえったら、あとをしめろ。ほんとうにしょうがねえ野郎だなあ。待てよ、待ちなよ。そのまま上へあがられてたまるもんか。いま水をとってやるから、よく洗ってからあがるんだ。おーい、だれか水を持ってこい。金蔵がまちげえをしてきやがったんだ。ちょいと、たらいに水をくんで……あれっ、たいそうすすがおちてくるが……だれだい、梁《はり》にあがってるのは?」 「あっしです」 「虎公だな。ははあ、てめえか、さっき、おれのあたまをふみ台にしてそこへあがったのは?」 「へえ、いっしょうけんめいあがりはあがりましたが、安心したらおりられねえ」 「しょうがねえ野郎だな。きたねえ尻《けつ》だなあ。もうすこしふんどしをかたくしめろよ。だらしのねえざまをして……だれか、はしごを持ってきてやれ……あれっ、だれだい、ねずみいらずへ首をつっこんでるのは? 民の野郎じゃあねえか。なにしてるんだ? あれっ、てめえ、つくだ煮をみんな食っちまったな」 「逃げるんで腹ごしらえをしようとおもって……」 「あきれた野郎だ」 「ついでに、酒を飲もうとおもったが、ばかに塩っかれえんで……」 「それは酒じゃあねえ。醤油《したじ》だ」 「そうか。しょうゆうこととは気がつかなかった」 「ふざけるな、この野郎……この最中《さなか》にしゃれをいってやがらあ……おい、だれだ? へっついの中へ首をつっこんでるのは? あっ、でこ亀か……うーん、こりゃあ、わりいやつがへえっちまったなあ……ああ、だめだ、だめだ。ひっぱったってぬけないよ。あたまの鉢がひらいてるんだから……茶釜をとってだしてやれ。いいか、無理しちゃあいけねえよ。あたまがこわれるのはかまわねえが、へっついがこわれちゃあこまるからな……だれだ? いま時分ぬかみそをかきまわしてるのは? なんだ、留《とめ》じゃあねえか」 「へえ、親分、もうあっしは助かりません。親不孝をしたバチです。おふくろを呼んできてください」 「どうしたんだ?」 「縁の下へ逃げるつもりで、ぬかみそ桶の中へとびこんじまったんですが……」 「大丈夫か? あがれるか?」 「それがあがれねえんで……おっこったとたんに、きんたまをぶつけてとびだしちゃったんです。とても助かりません」 「しょうがねえなあ。おい、だれか医者をよんできてやれ。医者を……すぐにだぞ……どうした? で、きんの在所《ありか》はわかったか?」 「しっかり持ってます」 「そうかい。そいつあ気丈《きじよう》(気がつよい)だ。どんなものかみせてみろ」 「ばかっ、こりゃあ、なすの古漬けだ」 「なんだい、なすかい……あはははは、なるほどちげえねえ。きんはここにくっついていました」 「あれっ、いやにくせえな。こりゃあ、ぬかみそのにおいじゃあねえぞ。え? どうした? なに? 与太が便所《ちようずば》へおっこった? さあ、こりゃあたいへんだ。待ちねえ、いまあげてやるから……」 「へっへっへ、親分、もうあがってきた」 「ばかっ、あがってきちゃあいけねえ。さあ、洗ってこい! ……しょうがねえやつらじゃあねえか。どいつもこいつも意気地がねえ……みんな、伝兵衛さんをみろよ。さすがはもとはお武家さまだ。このさわぎにびくともせず、ちゃんと坐っておいでなさるぜ」 「いや、おほめくださるな。とうに腰がぬけております」 「おい、金蔵、まあ、こっちへきて坐れ」 「へえ、へえ」 「どうしたんだ?」  聞かれて金蔵が、「じつは、これこれ、こういうしだいで……」と事情を説明しますと、 「……うーん、じつにどうもまぬけなはなしじゃあねえか。しかし、その女もひでえやつだなあ。てめえ、くやしいだろう?」 「ええ、そりゃあもう……女は、たぶん、あっしが死んだとおもってますよ」 「うーん、どうもいめえましいはなしだなあ。こいつあ、ひとつ狂言を書いて仕返しをしてみねえか?」 「え? 狂言を書いて仕返しを?」 「そうよ。そのおそめてえ女を坊主にしてやろうじゃあねえか。あんまりしゃくにさわるから……」 「へえ、どうするんで?」 「うん……てめえ、大食いだったな?」 「へえ、おまんまと借金の多いことじゃあだれにもひけはとりません」 「つまらねえじまんをするなよ……じゃあ、てめえ、一ぺんめしをぬいたらすぐに顔にでるな」 「ええ、そりゃあもう……あっしゃあ一ぺんでもめしを食わねえと、すぐにやせて、眼なんぞくぼんじまいます」 「だらしのねえ野郎だなあ……しかし、まあ、それがこの狂言にはもってこいだ。一日ばかり食わずにがまんしろ」 「そんなことをしたら、ひょろひょろになっちまいます」 「だからいいんだよ。まっ青で、眼をくぼませて、ひょろひょろになったてめえが、大引け(午前二時)ちょいと前に白木屋へいって、すーっと登楼《あが》るんだ。むこうでも死んだとおもってるところだから、びっくりして、『どうした?』と聞かあ。そしたら、てめえいってやれ。『死んで十万億土という暗いところをすたすたいくと、金蔵、金蔵とよばれるんで、ひょいとふりかえるとたんに生きかえった。まだ生きかえりのほやほやだ』とかなんとか、縁起のわりいことをいろいろいうんだ。ものをあんまりむしゃむしゃ食うんじゃあねえぞ。わずかのあいだだからがまんするんだ」 「へえ、なるほど……」 「たいがいのところで、おめえが『心持ちがわりいから、寝てしまおう』といって寝るんだ。それがおめえの役だ。いいか。そうして戒名《かいみよう》を一枚書いてふところへいれとくんだ。そこでだ……おい、民公、ちょいとこっちへきねえ。おめえ、ご苦労だが、さっきから聞いててようすは飲みこんだろう? おめえは、金公の弟てえ役どころだ。そのおそめてえ女に会って、兄貴が死んだとこういうんだ」 「へえ?」 「おめえは、女の顔をみたら、ただめそめそ泣いてりゃあいい。それから、おれが、『金公がこの人ととりかわした起請《きしよう》(客と遊女ととりかわした愛情の誓いの文書)をだしねえ』というから、ふところからそいつをだすんだ。こんどは『戒名をだしねえ』っていうから、おめえがわざとふところをさがしてみて、『あっ、いけねえ。戒名をなくしちまった。おとしたのかな?』とまごまごするんだ。いいなあ、民公、これが、おめえの役だ。そこで、なあ、金公、おれが女に会って、『金公は死んだぜ』というと、女が、『死にゃあしないよ。金さんは今夜きているもの……死んだ者がくるわけがない』『なあに、死んだにちげえねえ』『そんなら証拠をみせてあげよう』ってんで、きっとおめえの寝てるところへつれていくだろう。そのごたごたしてるひまに、おめえはふとんからぬけだして、戒名だけそこへおいて、どっかへかくれるんだ。女はおめえが寝ているとおもうから、おれたちにみせようとおもって、部屋へつれてって、屏風《びようぶ》をあけてみると、寝ていたおめえがいなくなって、戒名だけがある。こいつあきっとおどろくぜ」 「うん、そりゃあおどろかあ」 「そいつをまたおどかすのが、民公、おめえの役だ」 「いない、いない、バーってやるか?」 「ばかっ、赤ん坊あやしてるんじゃあねえや……女だって身におぼえがあるから、『どうしたらよかろう?』というやつをつかめえて、『てめえは兄貴をだまして、惚れたふりをして心中をしかけて、てめえは死なねえで兄貴だけを殺して、こうしてすまして商売している。兄貴はくやしくって、いくとこへいかれねえで、おめえのところへ化けてきたにちげえねえ。いまにとり殺されるぜ。兄貴はあれでなかなか執念深えんだから……』とかなんとか、かまわねえからうんとおどかしてやるんだ。こういやあ、女もびっくりして、『どうしたらよかろう?』というにちげえねえから、『それじゃあ、まあしょうがねえから、髪の毛を切って、それを寺におさめたら、兄貴も浮かばれるだろうよ』と、そういやあ、きっと女が髪を切る。切ったら、おれがポンポンと手を打つから、金公、おめえがそれへでるんだ」 「ははあ、こいつあおもしれえ趣向ですねえ……じゃあ、親分、よろしくおねげえ申します」  てんで、それからしたくをして、金公は夜食をぬきにして腹ぺこで、頃合いをはかって、ぼんやりと白木屋の店さきまでまいりますと、ちょうど清どんという若い衆が、二階からトントンとおりてきて、下駄をはいて外へでようというところへ金公がぬーっと顔をだしましたから、 「ああびっくりした……あれっ、おまえは金蔵さん?」 「清どん、しばらく……」 「あなた……どうなさいました? ずいぶんおやつれになりましたが、よくまあご無事で……」 「ええ、まあ、無事っていえば無事で……おそめはいますか?」 「ええ、おります」 「会って、はなしがしてえんだが、今夜は、ひとつ、ご厄介になりますよ」 「へえ、ありがとう存じます。どうぞおあがんなすって、さあどうぞ……おそめさん、おそめさーん、ちょいと、お顔を……」 「はい、なに?」 「あのう……きましたよ、青い顔をして……」 「だれがさ?」 「だれがって……貸本屋の金蔵が……」 「なにいってるんだよ。人をかつぐんじゃあないよ」 「いえ、べつにかついでるわけじゃあねえんですよ」 「だって、あの人は死んだんじゃあないか」 「それがきたんですよ」 「ほんとう?」 「うそなんぞつくもんですか。いまたばこを買おうとおもって、店をでようとしたとたんに、ぬーっ……」 「あら、いやだよ。幽霊かい?」 「そうですねえ。それがはっきりわからねえんで……なんだかまっ青な顔をして、『おそめはいますか?』というから、『ええ、おります』というと、『いるなら会ってはなしがしてえんだが、今夜は、ひとつ、ご厄介になりますよ』って、いまおあがりになりました」 「いやだよ、いやだよ。足があったかえ?」 「それがつい気がつきませんで……」 「いやだねえ。後生だから、おまえ、ついてきておくれ」 「ええ、ついてまいりましょう。さあ、おいでなさい」 「いくから、そうお押しでないよ」 「押しゃあしません。おまえさんがあとへさがるんで……」 「清どん、うしろを押さえながらおふるえでないよ」 「わたしゃあふるえやあしません」 「しっかりと、いいかい……あら、まあ、金さん? たしかに金さんだねえ……ほんとうにまあかんべんしとくれ。それでもまあよく無事でいてくれたねえ。あたしゃあ、ほんとうにおまえさんが、あれっきりになって、もう死んじまったとおもうから、朝晩|香花《こうはな》を手《た》むけてお題目《だいもく》をとなえていたよ。生きてるなら、早くきてくれればいいのにさあ……」 「まあ、こっちへおはいりよ」 「はい……」 「おそめさん、あたしはいっぺん死んだんだよ」 「ええっ、死んだ?」 「うん、十万億土という暗いところをすたすたいくと、金蔵、金蔵とよばれるんで、ひょいとふりかえるとたんに生きかえった。まだ生きかえりのほやほやだ」 「まあ、よかったねえ。じゃあ、こうしよう。今夜はいろいろはなすことや聞くこともあるから、あたしが台のものをとってあげよう」 「それが、もう、一たん死ぬと、人間は意気地のねえもんだから、なまぐさものはちっとも食べられない」 「あらそう……じゃあ、精進《しようじん》ものならいいだろう?」 「うん、そんならまことにすまないけれども、おだんごをすこし……」 「いやだよ。で、おだんごは、餡《あん》かい? それとも焼いたのかい?」 「白だんごがいい」 「いやなことをおいいでないよ」 「ここにある花なんぞよしちまって、樒《しきみ》(別名仏前草)を一本……」 「おふざけでないよ。縁起でもない。なにか甘いものをとろう。きんとんでも食べないかい?」 「もう、なにも食べたくないよ。なんだか心持ちがわるいから、寝かしておくれ」 「ああ、そう。それじゃあ、おやすみなさい」  金蔵を寝かしてしまうと、いれかわってきたのは、親分と民公という男でございます。 「おう民公、白木屋はここだな」 「若え衆に聞いてみましょう……おう、若え衆さん、白木屋というなあどこだい?」 「へえ、てまえどもで……」 「ここにおそめさんという女郎衆はいるかい?」 「へえ、おります」 「そうかい。じつは、その人にすこうしはなしがあるんだが、逢わしてもらいてえ」 「へえ……ええ、おそめさーん」 「はーい」 「ええ、ちょいと……」 「なんだい?」 「ええ、なんですか、初会《しよかい》のお客さまがおふたりで、あなたにちょっと逢いたいってんですが……」 「ああそう……おや、いらっしゃいまし。あたしがおそめですが……」 「そうかい。まあ、こっちへへえっとくれ」 「はい……」 「いいから、こっちへおはいり。すこうしばかりはなしがあるんだ。あとをしめてくんねえ」 「なんでございます?」 「まあ、はじめて逢ってこんなことをいうのもいやだが……おう、民公、縁あって、おめえの兄貴のかみさんになったのは、この人だよ」 「そうでございますか。はじめてお目にかかります。このたびは、兄貴がとんだことになりまして……」 「おいおい、泣きなさんな。みっともねえ。泣いたところで、死んだ者が生きかえるわけでもねえ……ねえ、おそめさん、この男がおまえさんの顔をみて、めそめそ泣いてるから、ばかか、気ちげえかとおもうか知らねえが、じつはなあ、こういうわけだ……あっしが、夜釣りに品川へきた。あいにくと雑魚《ざこ》一ぴきかからねえから、こんな夜は早くきりあげて帰ろうとおもって網を打つと、ずっしりと手ごたえがある。あげてみると、仏《ほとけ》さまよ。びっくりするじゃあねえか。それが金蔵の野郎だ。それからね、死骸をひきあげてみると、ふしぎなことに、からだについてるものはのこらず流れてしまった中に、おまえさんが書いた起請だけが、ぴったりと肌についているんだ」 「へえー」 「どうもおどろいたね。みんなふしぎがっているんだが、こりゃあきっと死ぬときに、野郎がおまえさんのことをおもって死んだんだろう。そんなこたあ、おまえさんも知るまいから、その起請と戒名をおまえさんのところへ持ってきてはなしをしたら、おまえさんもかわいそうだとおもって、題目なり念仏なりとなえてくれるだろう。そうすりゃあ、金蔵もきっと浮かぶだろうとおもって、今夜やってきたんだ……おう、民公、あの……なにをだしねえ、起請を……おそめさん、この起請は、おまえさんが書いて金蔵にやったもんだな?」 「ああ、そう……」 「うん、民公、こんどは、戒名をだしねえ」 「へえ……おや? ありませんぜ」 「おいおい、なにをいってるんだ。ありませんというなあおかしいじゃあねえか。戒名と起請をこの人のところへ持っていこうと、おめえはたしかにふところへいれたじゃあねえか……途中ではなでもかんじまやあしねえか?」 「とんでもねえ。ほかのものとちがって戒名ではなをかむなんて……」 「だって、起請があって、戒名がねえというなあおかしいじゃあねえか。早くさがせ!」 「ふふふふふ、およしなさいよ。おまえさんたちはなにをくだらないことをいってるんですよ。ばかばかしいじゃあありませんか」 「ばかばかしい? ばかばかしいたあなんだ?」 「つまらないいたずらをするもんじゃありませんよ」 「なんだ? いたずらというなあ?」 「なんだもないもんですよ。そんなことは、金さんがこない晩にきていえば、あたしだってすこしはおばえがあるからおどろきますが、お気の毒さま、今夜は金さんがひさしぶりできていますよ」 「えっ、金公がきた? だって、おそめさん、死んだ者がおめえさんのところへくるわけがねえ」 「わけがあってもなくっても、ちゃんともう寝てますよ」 「ほんとうかい?」 「ほんとうかいって、いやですよ。いつまでもくだらないしゃれをしていちゃあ……」 「しゃれであるもんか……ほんとうに金公がきてるのかい?」 「ええ」 「じゃあ、いってみよう」 「さあ、きてごらんなさい……ここですよ。ちょっと金さんあけますよ……あらっ、金さん、金さん……」 「どうした? いるかい?」 「おかしいねえ。たしかにいたんだけど……あらっ!」 「どうした? おやっ……おい、民公、おめえがおとしたてえのは、この戒名じゃあねえか?」 「えっ……養空食傷信士《ようくうしよくしようしんじ》……うん、こりゃあ、兄貴の戒名だ」 「あら、まあ、どうしたんでしょう?」 「じゃあ、戒名が途中でなくなったのは、おめえのところへ幽霊になって迷ってきたんだ」 「まあ、気味がわるいねえ……そのせいかしら? 白だんごが食べたいとか、樒を一本とか、縁起のわるいことばかりいってたのは……」 「おいおい、おそめさん、なにもふるえて泣くこたあねえ。はじめっから、おめえが、金公のために泣くような了見《りようけん》なら、こんなことになりゃしねえ。おめえが借金のために金公と心中しようといって、そうしてあいつをさきへ殺して、金ができたからといって死ぬのをよしてよ、おまけにずうずうしくここで商売をしている。これじゃあ、金公もいくところへいくこともできめえ。どんなばか野郎だって、こりゃあくやしいにちげえねえ。この調子じゃあ、これから幽霊が毎晩でて、おめえをじりじり責め殺すぜ」 「あら、たいへんなことになっちまった。どうしたらよかろうね?」 「じゃあ、こうしねえ。金蔵へのわびのしるしに、髪の毛を切って、回向料《えこうりよう》のいくらかでもつけて、寺へおさめて経をあげてもらいねえ。それよりほかにしょうがねえ」 「そうすりゃあ、あの人が浮かんでくれますかねえ?」 「ああ、きっと浮かぶにちげえねえ」 「そんなら、すこし待っておくんなさい」  と、かみそりを持ってきて、髪の毛をプツリ! 「さあ、これでよろしゅうございますか?」 「うん、大丈夫だ」 「浮かんでくれますかねえ?」 「ああ、いますぐ浮かばせるから……おい、金公、もういいから、でてこい!」 「おう」 「あら、いやだよ、いやだよ。じょうだんじゃあない。金さんは生きてるじゃあないか。ちくしょうめ!」 「ざまあみやがれ! てめえがな、あんまりあこぎなことをしゃあがるから、みんなでこうやって仕返しをしてやったんだ」 「ほんとうにまあ……みんなでよってたかって人を坊主にして、どうするんだい?」 「どうするって、おめえがあんまり客を釣るから、比丘《びく》(魚籃《びく》)にしたんだ」 引越しの夢  むかしは、いまでいう職業紹介所を、桂庵《けいあん》、口入屋などと申しました。  そんなうちには、奉公さきを待っている女中たちがたくさんあつまっておりましたもので、そんなところでは、番頭も楽ではありませんでした。 「これ、おまえさんたち、もうちっとおとなしくできないか。やかましくてどうしようもありゃあしない。なに? 成駒屋が死んで惜《お》しい? なにもおまえが惜しがらなくっても、ごひいきすじで惜しがってるわ。だれだ? こんなところに豆の皮をまくのは? ちゃんとすてとかなくてはこまるな、どうも……ところで、そこの娘、あんた、どういううちへいきたいんだね?」 「あたし、月に二、三べん芝居へやってくれて、給金はなるべく高くて、からだの楽なうちへやってくれれば文句はいいません」 「あたりまえだよ。それで文句のいいようがあるもんか。そこの娘、おまえさんは、どういううちがのぞみだい?」 「あのう、番頭さん、旦那とおかみさんとふたりっきりで、おかみさんの病身なうちはありませんか?」 「ははあ、手のたりないうちで、親切に病人の世話をしたい……おまえさん、なにか願掛《がんか》けしたな」 「いいえ、そうじゃなくて……おかみさんが病身だと、どうしても旦那が肌さびしいので、あたしにちょいちょいちょっかいをだす。それをあたしがだまっていて、そのうちに、おかみさんがだんだん悪くなってころっと亡《な》くなる。あたしは、すぐにあとへ直って、亡くなったおかみさんの着物やあたまのものをみんなもらって、女中のふたりもつかって、左うちわで暮らすつもり……」 「まあ、なんて女だい、おまえさんは……お家横領をたくらむとは……これ、そこの娘、おまえさんは、どんな奉公さきをさがしてるんだい?」 「番頭さん、あたしはどんなうちでもかまいません。どうぞ小商《こあきな》いをしているうちへやってくださいな」 「うん、感心だな。こら、お家横領、ここへきて、この娘のいってることをいっぺん聞いておけ。小《こ》商人《あきんど》のうちへ奉公して、小商いのこつをおぼえたら、世帯を持つときに亭主の手助けができるという。あとあとのことまで手をまわしたかんがえだな」 「いいえ、ちがうわ。小商いするうちへいったら、小づかいに不自由しないからなの」 「あっ、こいつは泥棒か。ひとりもろくなやつはいやあしない」  番頭がぶつぶついってるところへ、十二、三の丁稚《でつち》がはいってまいりました。 「番頭さん、横町の十一屋からきましたが、きれいな女中さんをひとりおねがいします」 「なに? きれいな女中? いつもなるべくきりょうの悪い娘といってくるのに……」 「それが、きょうは、うちの番頭さんに十銭もらって、きれいな女中さんをよんでこいとたのまれたのとちがいます」 「これ、小僧さん、おまえ、番頭さんに十銭もらって、きれいな女中さんをよんでこいとたのまれたな」 「あっ、番頭さん、それ、わかりますか?」 「わかるとも、おまえの顔にちゃんと書いてある」 「えっ、書いてありますか? だれが書いたんだろ? へえ……それでは、きょう、うちの留どんがわかめの味噌汁がきらいだといって、納豆《なつとう》買ってきて、ごはんを食べたことやなんか知ってますか?」 「そんなことくらいすぐにわかるとも、留どんがわかめの味噌汁がきらいで、納豆でごはん食べたんだろ?」 「ああ、番頭さん、なんでも知ってるなあ。手相みてくれますか?」 「もういいかげんにして、そこにいる中でいい娘をつれてお帰り」 「わあー、たくさんいるなあ。けど、みなおもしろい顔ばっかりだ。ああ、この娘は、このあいだうちへきて、つまみ食いして追いだされた娘だ」 「これ、小僧さん、そんなこというもんじゃあないよ」 「へえ……そこにうつむいてる人、ちょっと、そう、あなた、わあー、こりゃあきれいな人だ。あなた、うちへきてください。番頭さん、この人にきてもらいます」 「ああそうかい。あんた、この小僧さんといっしょにいっておくれ。横町の十一屋というお店だから……いずれあとからあたしが判をもらいにいくよ」 「それではいってまいります」 「さあ、どなたもどいておくれ。うちの女中さんのお通りだよ。さあ、どいたどいた。あなた、どうもごくろうさんです。あなた、きれいですね。どうもおどろいた。あなたにおねがいがあるんですけど、聞いてもらえますか?」 「どんなことでしょう?」 「どんなことって……いってしまってからいやだなんていわれたら恥ずかしいな」 「どんなことなんです? いってごらんなさいよ」 「そんならいいますけど、恥ずかしいから、ちょっとこの路地へはいってくださいな。あの……うちではね、おついたちと十五日に焼き魚のおかずがつきます。それが、尾のところは、魚屋が大きく切ってきますから、あなた、わたしにきっと尾のところをつけてくださいよ……ああ恥ずかしい」 「ああびっくりした。なんのことかとおもったら、そんなことなの、おやすいご用ですとも……」 「そりゃあどうもありがとう。女の人といっしょにあるいたら、丁稚なかまをはじかれます。わたしはさきにいきますから、あなた、あとからきてください。この角をまがって三軒目に、十一屋といううちがあります。ではおさきに……へえ、番頭さん、ただいま帰りました」 「ええい、バタバタとそうぞうしい。途中で油売ってて、門口までくるとバタバタ走ったりして……どこへいってた?」 「あれっ、わすれちゃったんですか? 女中さんをよびにいったんじゃありませんか。番頭さん、あなたが、『きれいな女中をつれてこい。そうしたら十銭やる』っておっしゃったでしょ? だから、いちばんきれいな人をつれてきました。さあ、十銭ください」 「そんなにきれいか?」 「そりゃあ、きれいったってすごい。はい、十銭」 「きっときれいか?」 「きれいですとも、まちがいありません。十銭を……」 「それじゃあ、あとでやろう」 「あとでもらえなかったからって、お上《かみ》へねがうわけにはいかず、もうどなたからも、このごろは、いっさい現金でいただいております。さあ十銭」 「うるさいやつだな。さあ、十銭やる。それで女中はいつくるんだ?」 「いま、そこまでいっしょに帰ってきましたけど、一足さきにご注進にきました。もうすぐきますよ」 「なに、もうすぐくるのか? それを早くいわないか。だれだ? いま二階へあがってるのは? 藤どんか? ちょっと羽織を持って降りてきておくれ。いや、それじゃない。このあいだ仕立ててきたやつだ。行李《こうり》のいちばん上にいれてある。ああ、それそれ。ちょっと持ってきておくれ。それから、だれだったかな、このあいだ夜店で鏡を買ってきたのは? ああ、久七どんか? ちょっと貸してくれないか? なんだ? ちょっとぐらいいいじゃないか。けちけちしなさんな。減《へ》るもんじゃなし……しまった。えらく髭《ひげ》がのびてるな。こんなことなら、ゆうべ床屋へいっときゃあよかった……これ、みんなどうしたんだ? そんなところへずらっとならんで……それじゃあ男の張《は》り店《みせ》だよ……おい、小僧、女中さんはまだこないのか?」 「あすこに立ってます。のれんのところに……」 「ああ、あすこに立ってるのがそうか。うーん、いい女だな。いや、どうもごくろうさま。おまえはたいへんにつかいが早くていいぞ」 「ふん、女中さんの顔みたら、急にお世辞《せじ》がよくなった。へへへへへ……」 「なにをいやあがる」 「どうです? 番頭さん、いい女でしょ? 十銭じゃ安い。もう五銭増してください」 「なんだ、すぐにつけこんで……奥へいって、『女中さんをつれてまいりました』と、そういっといで」 「あとで五銭くださいよ」 「やるから、はやくいっておいで……なるほど、これはいい女だ……おまえさん、こちらへおはいんなさい。ちょっと金どん、ごらんよ。すてきなしろものだ」 「なるほど、おいおい、みんなおいで。すてきなしろものがきたから……」 「そう、みんな、そこへならんじまっちゃあ、はじめてきた女の子が、きまりわるがるじゃあないか。なんだ、おまえさんたちは……てんでにトンボみたようにあたまばかり光らして……さあさあ、あなた、こっちへおあがんなさい。はい、はじめまして、わたしが当家の番頭で……こんなに多勢ならんじゃあいますがね、みんな、わら人形同様のもので、あなたとおはなしがあうやつなんかひとりもいやあしません。わたしは、当家の支配人だから、どうかまちがわないようにしてくださいよ。旦那におかみさんは、いつも奥にばかりいて、めったにお店へおいでにならない。奥のことから台所のことは、すべてわたしがとりしきってやっているんだから、どうか辛抱してください。わたしのほうで置きたいといっても、おまえさんのほうでいやといえばしかたないし、おまえさんのほうでいようとおもっても、わたしがいけないといえばそれまでなんだから……つまり、わたしがいいといえば、それでいいんだからね。まあ、こんなうちだけれども、これでなかなか得《とく》のあるうちで……といったところが、料理屋やなんかとちがって、祝儀をもらうなんてことはないが、そこは商売|柄《がら》、質の流れのなかに、ちょいとおつなものがでることがある。この前の女中さんのときも、繻珍《しゆちん》の丸帯がでて、『おいくらでございますか?』と聞くから、『まあ、商売人にだしたら十五円てえところだが、おまえがしめるんなら、十円にしてやろう。払いのほうも一度でなくっていいんだよ。お給金をもらうたんびに、五十銭なり、一円なり、いくらかずつでもいいからお払い。いいかげんのところで、わたしが帳面をゴチャゴチャと筆さきでごまかしてしまうから……』といってね。それは番頭のはたらき。それから、そのあとになって、その女中さんのおとっつあんが病気になって三十円入用になった。そこで、『そんなに心配しなくてもいい。どうせ店にあるお金だから、三十円ぐらい貸してやろう。それも一時にかえさなくてもいい。ちょくちょくかえすようにしていれば、そのうちには、まあ、筆の先でゴチャゴチャと帳面をごまかしてしまう』……そこはなにしろ番頭のはたらきでな。こんなに多勢いたって、おはなしにあうようなものはひとりもいない。なに、すこしくらいのことなら、給金のほかだってどうにでもなる。ただひとつおことわりしておくのは、わたしはもともと寝ぼけるたちでな、便所へいった帰りなどに、おまえのふとんなんかにつまずくことがないともかぎらない。そのときに、『キャー』とか、『スー』とかいわれるとまことにめいわくするから……そこはそれ、三十円のゴチャゴチャだ。魚心あれば……」 「水心ありで……」 「これっ、なんてえ声をだすんだ、前にいる女の子がおどろくじゃあないか」 「女の子は、もうとうに奥へいきました」 「えっ、いっちまった!?」 「あなたが夢中になってしゃべってるので、留どんがかわりにおじぎをしてるんで……」 「なんだい、留どんかい」 「あの、三十円ちょうだいできますれば……」 「なにいってるんだ。ばかっ」  こちらは奥でおかみさんが、 「定吉や、おまえ、桂庵にいくときに、なんといいつけてやりました? 『店に多勢若い人がいるから、なるたけわるい女を……』といってやったじゃあないか。なんだってこんなにいい女をつれてきたんだえ? ……おまえさん、気にかけちゃあいけませんよ。いいえね、あたしゃ店に若い人がいるから、取り越し苦労をするんです……ほんとにしょうがないじゃあないか」 「それでも桂庵へいって、『いい女はいけないから、もっとわるい女をおくれ』とそういったんです。そうしたら、『ことしは女中のできがいいんだ』って、梅雨《つゆ》に降って土用に照り込みましたから……」 「お米じゃあないよ。ばかばかしい……では、おまえさんは、台所ではたらいてもらうのはおかしいから、奥の用をしてもらいましょう。べつにご飯たきはもうひとりやといますから、どうかね、辛抱《しんぼう》してくださいよ……定吉や、定や、おまえ、この人はなれないのだから、よく寝るところやなにか教えておくれ」  お目見えは三日というのが、むかしはたいがいきまりでした。 「おい、定吉や、大戸をいれてしまいな。きょうは早じまいだ」 「なぜ早じまいなんです?」 「女中|目見《めみ》えにつき早じまいだ。早く寝ちまえ、寝ちまえ」 「寝ろったって、まだ四時半で、こんなにあかるいじゃありませんか」 「あかるかったら月夜だとおもえ」 「あんなことをいって……まだ晩のごはんも食べてません」 「めしなんかどうでもいいよ。おまえ、生まれてからずっと食べてきたんだろ? 一食ぐらいぬいたって死にゃあしない」 「お腹がすいて寝られるもんですか」 「ぐずぐずいってるんじゃない。みんな早く寝なさい。だれだい? そこで手紙なんか書いてるのは……源どんかい?」 「へえ、さようで……」 「あした書きなさい、あした……さあさあ、みんな寝ないか。眠くなくっても、あたまからふとんをかぶって目をつぶっていびきをかきなさい。いびきをかいていればひとりでに眠っちまうから……さあ、みんな、寝たか? 寝たらいびきをかきなさい」 「ああ、いびきの催促か……グー、グー」 「なんだ、急にいびきをかきだしたな。これ、ほんとうに寝てるのか? たぬきじゃないか? こら……」 「グー」 「こら」 「グー」 「こらこら」 「グーグー」 「あれっ、いびきで返事している。わるいやつらだ。ほんとうに寝ているのかしら? ……久どん」 「グー」 「久どん」 「グー」 「どうやら寝たらしいな。このあいだにちょっと便所へ……あれ、にこにこ笑っていびきかいてやがる。しょうのないやつだな。どいつもこいつも……なあ、そこへいくと子どもは無邪気だ。『番頭さん、いい女をつれてきたから十銭ください』なんていって十銭とったが、枕もとにほうりだして寝ている。いまのうちにとりもどしておいてやろう。あれっ、定吉、おまえ、目をあいて起きあがって、十銭持ったままいびきをかくやつがあるか」 「へい、いびきをかいても十銭はわすれません」 「なにをいってやがる。早く寝なさい。さあ、みんな寝なさい、寝なさい」 「番頭さん、あなたがやかましくて寝られませんよ」 「わたしが寝ないと、みんな寝ないとか? さあ、わたしも寝るから、みんな寝なさい。そうそう、早くしずかに……おい、源どん、多助どん……しめたな、こんどはほんとうに寝たらしい……よしよし、このあいだにあの女中の部屋へ……さあ、女中部屋は……だれだ、あとからついてくるのは?」 「へえ、わたくしでございますが……なにしにいらっしゃいます?」 「ちょっと小便にいくんだ」 「いびきをかきながらはっていくのはおかしゅうござんすね。それに女中部屋がどうしたとか……」 「あれは寝言だ。いったいおまえはなにしにきたんだ?」 「わたしもはばかりまでおつきあいします」 「そんなことはつきあわなくてもいい。早く寝ちまいなさい」  ひとりがでかけようとすると、あとからついてきますからでかけられません。そのうちに、一時、二時と夜がふけるにつれて昼のつかれがでてきますから、みんなぐっすり寝こんでしまいます。いちばんさきに目がさめたのが番頭で…… 「ありがたいな。もうここまでくれば大丈夫だ。台所からこの中二階へあがっていくんだな。さあさあ早く女中部屋へ……なにしろ、どうもまっ暗だなあ……あっ、いてて……なんだい、ねずみいらずが釣ってあるんだな。昼間から釣ってあるんだけれど、さきをいそいでるんで気がつかなかった。しかし、大あたりというんだから辻占《つじうら》がいいぞ。はて? ここにねずみいらずがあるとすると、はしごがなくっちゃあならないのだが……おや、はしごがない。さては、おかみさんがはしごをひいてしまったんだな。ここまできて帰るというのもざんねんだな。宝の山に入りながら、手をむなしくひきとるのもばかばかしい。ああ、わざわいかえってさいわいだ。このぶつかったねずみいらずの引き手へ手をかけて……この棚の釣り手へつかまって……へっついの角へ乗っかって……あれっ、ミリミリミリといったぞ……あれっ、いけねえ、いけねえ。片っぽうの釣り手がとれちまった。こりゃあどうも弱ったな。おや、なにか倒れたぞ。ああ、流れだした、流れだした。うん、こりゃあ醤油だ。ショーユーこととはつゆ知らず、どうもこりゃあこまったな。あれっ、まただれかきたようだな」 「さあ、ここまでくりゃあ大丈夫だ。どうもまっ暗だな。ここではしごをあがれば女中部屋で……ああ、たまらないなあ……うふふふふ……おや、はしごがないぞ。なければないで、こっちは、ちゃんと見当はつけてあるんだ。ここにねずみいらずが釣ってあるから、これへとっつかまって……あっ、こりゃあいけねえ。上からおっこってきやあがった」 「おいおい、押しちゃあいけない、押しちゃあいけないったら……」 「おや、どなたかおいでですか?」 「おれだよ、佐兵衛だ」 「ああ、番頭さんですか。おはようございます。どうもごくろうさまで……」 「ごくろうさまだなんて、のんきなことをいってる場合じゃないよ。どうしよう?」 「どうしようたって……そうだ。あしたの朝、権助が飯たきに起きてきたら、これをまた釣ってもらいましょう」 「それまでかついでるのかい? この底冷えのするなかでおもくてかなやしない」 「なんです、これしきのこと。むかし、石川五右衛門は、油の釜でゆでられながら、わが子を両手にさしあげてこらえたんですよ。なんです、これしきのこと、男はがまんがかんじんです」 「なにくだらないことをいってるんだ。この最中《さなか》に石川五右衛門だなんて……しずかにしないと奥で目をさますといけないよ」 「ほんとうにしかたがないね。さっきから、台所のほうでねずみがガタガタやってるんで眠れやあしない。女中がなれないんだから、店の者が気をつけてやればいいのに……起きて見廻ってこなけりゃあならない……だれだい、この障子をあけっぱなしにしておくのは? はばかりにいって、あとをしめないじゃあしょうがないったらありゃあしない」 「おやおや、おかみさんがあかりを持ってでてきた。弱ったなあ、どうしよう? ……そうだ、いびきをかいて寝たふりをしていよう。グーグーグー」 「おや、まあおどろいた。だれだい、そこにいるのは? まあ、番頭さんに源どんじゃあないか。なんだい、そのかっこうは? 襦袢《じゆばん》一枚でだらしがないねえ。前をかくしたらどうだい? ほんとうにあきれるよ。突っ立ったままいびきなんかかいて……おやおや、どうしたんだい? ふたりでねずみいらずなんかかついでいびきをかいて……ほんとうにばかばかしいったらありゃあしない……いったいどうしたんだよ?」 「へえ、夢をみております」 「夢? なんの夢をみたんだい?」 「へえ、引越しの夢をみました」 紙入れ  これで人間というものはふしぎなものでございまして、やっていけないということは、かならずといっていいくらいやってみたくなります。しゃべってはいけないというと、かならずしゃべってみたくなります。 「うふふふ」 「おい、なんだい? 妙な笑いかたをして、気味がわりいじゃねえか」 「だってさ、おめえ、知らねえのかい? 町内の間男《まおとこ》の一件を?」 「えっ、なんだい? なにかあるのかい?」 「あるのかいなんてのんきなはなしじゃねえんだ。しかし、これはないしょだからな、めったにしゃべれねえ」 「めったにしゃべれねえったって、そこまでしゃべって教えてくれねえのは罪じゃねえか。おれにも教えてくれよ」 「そうかい、まあ、おれとおめえの仲だ。教えてやるが、かならず他言無用だよ……じつは、町内の豆腐屋のかかあだがな」 「うん、ちょっと渋皮《しぶかわ》のむけたおつな女だな。一件ものはあの女かい?」 「そうなんだ」 「ふーん……で、相手はだれなんだい?」 「建具屋の半公」 「へーえ、なるほど……うん、色の浅黒い、すらりとした女好きのする男だ。そうかい、半公かい……で、亭主は感づいてるのかい?」 「それがまるっきり……」 「へーえ、そいつあ、ばれたら一さわぎ持ちあがるわけだな」 「おもしろくなるぜ、そうなれば……しかし、おめえ、これはきっと他言してくれるなよ」 「ああ、おれは口がかてえから大丈夫だ。しゃべるもんかな」  そうは約束しましたが、しゃべりたいのが人のつねで…… 「おい、そこへいくのは与太郎じゃねえか」 「ああ、八つあんかい、こんちわ」 「おい、与太、おめえ、豆腐屋の一件を知ってるか?」 「なんだい、その豆腐屋の一件てえのは?」 「おめえ、いいかい、わきへいってしゃべっちゃあいけねえよ」 「ああ、しゃべりゃしないよ。なんだか教えておくれよ」 「それじゃあ教えるがな、じつは、豆腐屋のかかあが間男してるんだ」 「うん、ちょいとおつな女で色っぽいからね、で、相手はだれだい?」 「建具屋の半公」 「へーえ、半ちゃんかい……なるほど、あいつもちょいと小粋《こいき》だからね……へーえ、そうかい、うふふふ」 「しゃべるんじゃねえぞ」 「ああ、あたいは口がかたいから大丈夫」  さあ、与太郎だって、しゃべっちゃいけないといわれてみますと、しゃべりたくてたまりません。 「こんにちは」 「おや、与太さんかい、いらっしゃい」 「おいそがしいですか?」 「ああ、貧乏暇なしでね」 「じゃあ知らないね、町内のおもしろいうわさを……」 「町内のおもしろいうわさ? ……知らないね、なにかあるのかい? おもしろいことが?」 「ああ、あるんだよ、間男の一件」 「へーえ、そうかい……で、どこなんだい、その一件てえのは?」 「それがね、町内の豆腐屋のおかみさん」 「へえ、町内の豆腐屋っていうと、うちだけど……それで、相手はだれなんだい?」 「建具屋の半公」 「ああ、そうか、それでわかった。野郎、このごろ、用もねえのにちょくちょくくるから変だとおもってたんだが……そうかい、よく教えてくれた。ありがとうよ」 「ああ、礼なんかどうでもいいけど、わきへいってしゃべっちゃいけないよ」 「まあ、新さん、いいじゃないか。おまえとあたしとこういう仲になってみれば、もうしかたがないじゃないか。おまえも悪縁とあきらめて、末長くあたしを見捨てちゃいやだよ」 「そんなことをおっしゃってはこまりますよ、おかみさん、旦那にはたいへんご恩になっておりますんで……それを裏切るってえことは……それに、もし旦那がお帰りになると……」 「大丈夫、旦那はお帰りなし。横浜にお泊まりよ。なにいってるのさ、旦那にはご恩になってる、旦那を裏切ることはっていうけれど、あたしのほうはどうなるのさ? あたしだって、ずいぶんおまえには目をかけているつもりだよ」 「ええ、そりゃあ、おかみさんにだって、ひとかたならないお世話をおかけしたことはよく承知しておりますが……」 「なにを堅苦しいことをいってるのさ。あたしがおばあちゃんだとおもって、いいかげんになぶったんだね。あたしのからだを一時のなぐさみにしたんだね」 「いいえ、そんな、なぐさみだなんて……」 「じゃあどうしたのさ?」 「それが、そのう……」 「なにをぐずぐずいってるのさ。いいから、今夜はゆっくりしておいで」 「でも、それは……」 「そんなことをいってないで、さあ、こっちへおいでったら……」  おかみさんが新吉の手をとったとたんに、表の戸がドンドンドンドン…… 「おみつや、いま帰ったよ」 「あらっ、旦那のお帰りだよ。どうしたんだろう? たしかに今夜は横浜泊まりのはずなのに……」 「だからあたしがいわないことじゃないんですよ。さあ、たいへんだ」 「なにをぐるぐるまわってるのさ? さあ、新さん、早く裏からお逃げよ」  おかみさんは肝《きも》がすわっておりますから、新吉の手をとって裏から逃がしておいて、それから、おもむろに旦那をうちにいれるというんですが、逃げた新吉のほうはまっ青になって…… 「ああおどろいた。だからいわないこっちゃない。どうも今夜は胸さわぎがしたんだ。ひょっとしたら、旦那がお帰りになりゃあしないかと……まったくわるいことはできない。いいかげん寿命がちぢまっちまった。まあみつからなかったのがまだしもだが、なにかわすれものはなかったかしら? ……羽織は着ているし……下駄もはいてるし、たばこいれもあったし……あれっ、ふところの紙入れが……あっ、しまった。ないぞ。どうしたのかしら? ……そうだ。あのとき、ふところからだして床の間に置いたんだっけ……それをそのままにして……さあたいへんだ。あの紙入れは、旦那にいただいたものなんだから、一目みればわかっちまう……しかも、あの紙入れのなかには、このあいだおかみさんからきた手紙がいれたままだった。ああ、早くやぶいちまえばよかったのに、なまじ未練《みれん》をのこしたもんだから……紙入れに手紙と、こう証拠がそろっちゃあもうしかたがない。そうだ。夜逃げしちまおう。そうきめよう……だが、待てよ。もしもだ、あれを旦那がみつけなかったとしたら……おかみさんがうまく気がついて、わきへしまっといてくれたら、なにも逃げることはないんだ。さあ、そこんところがどうなってるかわからないんだが……そうだなあ、ここは一番度胸をきめて、あしたの朝、そーっといってようすをみてやろうかしら……『おはようございます』っていって、もしも旦那が、『この野郎、ふてえ野郎だ』ってどなったら、そのときになって、『ごめんなさい』って逃げちまえばいいんだ。そうだ。それからでも間にあうんだ」  そう腹はきめたものの、さすがにその晩はろくに寝ることもできません。夜があけるのを待ちかねて旦那のところへでかけました。 「ええ、おはようございます」 「はい、どなたです? おい、お客さまだよ」 「おはようございます」 「なーんだ、新吉じゃないか……ああ、おみつや、新吉だ。新吉がきたんだ……おい、どうしたんだ、新吉? あがったらいいだろう。そんなところにぼんやり立っていないで」 「へえ……あがってもよろしゅうございますか?」 「あがってもよろしゅうございますかって? ……こらっ、新吉、おまえはとんでもないやつだ」 「えっ、とうとうばれましたか?」 「ばれましたかじゃないぞ。おまえ、このあいだからおれが博多の帯を注文してあるのに、どうして持ってこないんだ? とんでもないやつだ」 「なーんだ。帯のことですか……とんでもないっていうからおどろいちまった……なーんだ。帯か。そんならよかった」 「なにいってるんだ。ちっともよくなんかないぞ。こんどくるときにはわすれずに持ってこいよ……なんだい? なにをそうびくびくしてるんだい? あがれといってるんだから、あがったらいいだろう? ……なんだか、おまえ、けさはいやにおかしいよ。だいいち、顔色がよくない。なにかあったのかい?」 「さあ、あったんでございましょうか?」 「おい、しっかりしなよ。こっちで聞いてるんじゃないか。どうしたんだ?」 「へえ、じつは、お暇《いとま》ごいにあがりましたんで……」 「なに? 暇ごい? なにか商用でもあるのか?」 「いえ、べつに商用というわけじゃないんでございますが、とりあえず旅へでてみようと……」 「旅へでる? おかしいじゃないか……ああ、お茶がはいったか。そうか。こっちへ持ってきておくれ。おい、おみつ、新吉が旅へでるんだとさ」 「あらどうしたの? 新さん、急に旅へでるなんて……ねえ、旦那、どうしたんでしょう?」 「ほんとだ。どういうわけなんだ? 主人の金でもつかいこんだのなら、あたしが用立ててやろうじゃないか……いくらなんだ?」 「いいえ、お金ですむことならよろしいんでございますが……それがその……」 「なに? 金じゃない? そうすると……女かい? うん、図星《ずぼし》か、そうか。女か……相手はどこの娘だ? え? まとまるもんならまとめてやろうじゃないか。え? ちがう? 娘じゃない? おい、新吉、すこうし前へでな。おまえ、なにをしてもかまわないが、間男だけはよしなよ。おまえ、まさか間男を?」 「へえ……じつは……それなんで……」 「え? やっちまったのかい、間男を? ……まあ、おまえてえものはどうしてそんなことを? ……どうなってるんだい? はなしてごらん」 「じつは……そのう……わたしのお出入りさきの旦那がたいへんにいいおかたで、いろいろと目をかけてくださいますので、ちょくちょくうかがっていたんでございます」 「うん、うん、それで?」 「ところが……そちらのおかみさんもまたたいそう親切にしてくださいまして……つい……その……と、いうようなわけでございまして……」 「ああ、よくあるやつだ。その親切の度がすぎたというやつだ。おまえのほうでもことわりきれなかったんだな……しかし、それじゃあ、先方の旦那にすむまいよ。いけないなあ、どうも……で、どうした? そのことが、その旦那に知れたのか?」 「へっ?」 「なんだよ、すっとんきょうな声をだしたりして? 旦那に知れたのかって聞いてるんだよ」 「さあ、どうなんでございましょう?」 「どうなんでございましょうって……よくわからないのかい? ふーん、それで逃げて旅へでようってのは気の早いはなしだが、なにか知られるようなへまでもやったのか?」 「へえ……そのう……旦那がよそへお泊まりになるってんで、そちらへうかがっておりますと、急に旦那がお帰りになって……」 「現場をみつかったのか?」 「いいえ、うまく裏口から逃げたんでございますが、そのとき、つい、うっかりとわすれものをしてしまったんで……」 「ばかだなあ、おまえってやつは……ないしょごとをするんならうまくやれよ。いったいなにをわすれてきたんだ?」 「へえ、紙入れなんで……」 「えっ、紙入れをかい? そりゃあ心配だろう」 「おまけに、そのおかみさんからいただいた手紙まではいっていたんでございます」 「なに、手紙がはいってた? ……なんだな、そういうものは、すぐにやぶいてしまうもんだよ。うかつだな、どうも……なあ、おみつ、新吉が紙入れをわすれてきたんだとさ」 「うふふふ、なにさ、新さん、青い顔なんかしてさ。くよくよおしでないよ。相手は、おまえ、旦那の留守に若い男をひきいれて、ないしょごとでもしようというおかみさんじゃあないか。抜け目はあるもんかね。紙入れなんか、ちゃーんとこっちへしまって(と、自分の胸をたたいて、新吉にそれとなく知らせて)あるわね。ねえ、そうでしょ、旦那」 「あーあ、そうだとも、たとえ紙入れがそのへんにあったって、自分の女房をとられるような男じゃないか。そこまで気がつくものかな」 そばの殿さま  むかしのお大名なんてえものは、なにかにつけてご不自由でございました。  おさかななぞを召しあがりましても、ご自分のお気に召したところを、二|箸《はし》か三箸ぐらい口になさるだけで、もっと召しあがりたいときには、「かわりを持て」とおっしゃると、これがひっこんでかわりがでてまいります。まことにぜいたくな食べかたで……  ある殿さまが、ふだんは鯛《たい》をあまり召しあがりません。あるとき、鯛の浜焼きをだしましたところ、どうお気に召したか、これへ二箸、三箸つけると、「かわりを持て」とおっしゃいました。まさか食べることはあるまいとおもっておりましたから、かわりをこしらえてございません。いまから鯛を仕入れてきて焼いたんじゃあ間にあわない。そこで、気転《きてん》のきくご家来が、まだ箸をつけてない片面を裏がえしにつかおうというので、 「おそれながら殿に申しあげます」 「なんじゃ?」 「ははっ、庭の築山のうしろの桜が満開にてみごとなながめにござりまする」 「さようか……うん、なるほど……」  殿さまが桜に気をとられているあいだに、鯛をうまく裏がえしにして、 「殿、かわりがまいりました」 「おう、さようか」  また二箸、三箸おつけになると、 「かわりを持て」 「ははっ」  といったが、こんどはかわりがございません。またひっくりかえせばもとのところがでてまいりますから、こまったご家来がまごまごしておりますと、 「これこれ、なにをいたしておる。鯛のかわりを持てと申すに……ふふふふふ……しからばもう一度桜をみようか?」  ……これでははじめからご承知だったんで……  ある殿さまが、ご親戚へお招《よ》ばれでおいでになりますと、ご親戚では、お座興《ざきよう》に、そば職人にそばを打たせてごらんにいれました。  殿さまは、生まれてはじめてそばを打つところをごらんになりましたのでたいへんに感心されて、お屋敷へお帰りになると、ご自分でそばを打って家来にみせようということになりました。 「これ、そのほうたち、そばは好きか?」 「ははっ……?」 「いや、そばは好きかきらいか、遠慮なく申してみよ」 「はっ……拙者《せつしや》は大好物で……」 「うん、さようか……鈴木はどうじゃ?」 「ははっ……拙者も好物で……」 「山田はどうじゃ?」 「拙者も大好物で……」 「ほう、さようか……しからば、そのほうたちにそばを馳走してつかわそう」 「ははっ、これはまたありがたきしあわせでござります……して、いずれよりとりよせられまするや?」 「いや、余がじきじきに打ってとらする」 「えっ、殿ご自身で?」 「さようじゃ……これっ、たれぞある、そばを打つ用意をいたせ」  これからそば粉がどんどんはこばれてまいりました。 「うん、そば粉の用意ができたか。なにか容《い》れ物《もの》がいるな……いやいや、そんな小さなものではいかん。もっと大きなものはないか?」 「そのような大きなものは……」 「しからば、厩《うまや》の馬《ば》だらいを持ってまいれ」  馬の行水《ぎようずい》用のたらいを持ってこさせると、殿さまは、たすき十字にあやなし、袴の股《もも》立ちを高高とおとりになってでていらっしゃいましたが、じつに威風《りんりん》としてあたりを払うばかりでございます。 「これ、粉をいれよ……水をいれるのじゃ……うんうん、これはちとやわらかい。粉をくわえよ……ああ、これはすこしかたすぎる。水をいれるのじゃ……これ待て、そうむやみに水をいれてはいかん。もうすこしかたくせんければいかん。粉じゃ……あっ、いかん、水じゃ……粉じゃ……水じゃ……」  たいへんなさわぎで、とうとう山盛りになってしまいました。この大きなかたまりを麺棒《めんぼう》で平たくしようというんですが、なかなかうまくまいりません。殿さまもいっしょうけんめいでやっておりますうちに、汗がポタポタ落ちる、水っぱなが流れる、よだれがたれるというしまつで、これがみんなおそばへ練《ね》りこまれますので、見物しているご家来衆は、あれを頂戴《ちようだい》するかとおもうと情けないことおびただしい。一同うらめしそうな顔をしてひかえております。殿さまのほうは、どうにかこうにか平たくいたしまして、これを切りましたが、薄いところや厚いところや、ぐしゃぐしゃなところ、かたいところ——まことにおかしなそばができあがりました。 「早くうでろ」 「はっ」 「もううだったであろう」 「まだすこし早いようで……」 「いや、かまわん。余が食《しよく》するでない。家来が食すのじゃ」  たいへんに無責任なことをおっしゃってます。おつゆは専門家がつくったので申しぶんはございません。 「ああ、一同の者、待ち遠であったろう。余の馳走であるぞ。遠慮なく十分に賞味いたせ」 「へへっ、ありがたく頂戴つかまつります」  正面で殿さまがごらんになっておりますから、家来一同いやでも食べなければなりません。つゆに薬味《やくみ》をいれてかきまわし、そばをとろうとしたが、くっついていてなかなかとれません。 「なんですこれは? そばだか、そばがきだかわからない」  ようやくちぎって、おつゆにつけて、口の中へいれたが、なにかもそもそしている。なまのそば粉が口中にひろがるので、あわててつゆで飲みこむしまつ。 「いや、おどろいた。拙者のは粉がでてきた」 「なに、粉が? それではなまじゃな。拙者のは、ぐちゃぐちゃの半熟だ」 「半熟のほうが薬になるぞ」 「なにをいう、たまごじゃああるまいし……」 「どうじゃな、一同の者、そばの味は?」 「ははっ……まことに結構なお味で……」 「うん、さようであろう。余が骨を折ってつくったそばじゃ、まずかろうはずがない。しからばみなの者にかわりをとらせよう。これ、金弥、かわりをとらせよ」 「ははっ」  一同の者はめいわくながら、殿さまが正面でみていらっしゃるから食べないわけにはまいりません。むりやりにそばを飲みこむと、 「かわりをとらせよ」  まずいといえばしかられるし、うまいといえばおかわりがまいります。しまいにはみんなのどもとまでつまってしまって肩で息をするしまつ。 「これこれ、みなの者いかがいたした?」 「はっ、十二分に頂戴つかまつりまして、下をむくこともできません」 「おろか者め、腹も身のうちと申す。いかに美味じゃとてそのように際限もなく食する者があるか。見苦しい。さがれ、さがれっ」  まぬけな目にあったのはご家来衆で、食べたくもないそばをさんざん食べさせられ、あげくの果てにしかられてご前《ぜん》をさがりましたが、そば粉をつゆでむりに飲んだり、生ゆでのそばをさんざん食べたりしましたので、みんな腹痛をおこしてたいへんなさわぎ。一晩中|厠《かわや》通いをつづけて、翌朝になると、目をくぼませて、まっ青な顔でお城へやってまいりました。 「どうなすった? 鈴木氏、だいぶお顔の色がおわるいようでござるが……」 「うん、帰宅いたしてから厠通いをつづけることじつに二十八回……そういう貴公もだいぶおやつれではないか?」 「はあ、拙者も十八回通い申した……おう、山田氏、本日はめずらしくおそいご出仕で……」 「はあ、拙者厠通い三十三度めに夜が白白あけ申して一睡もしてござらん……荒木老はいかがでござる?」 「拙者か、拙者はただの一ぺんじゃ」 「いや、これはご老体ご壮健なことで、ただの一ぺんとな?」 「さよう。宵に厠へはいったきり、ついさきほどまではいりおり申した。いや、えらい目にあったものじゃ」 「ご老体、なにやらふろしきづつみをご持参のようでござるが……」 「いや、老妻が心配つかまつって、おしめを用意いたしてくれ申した」  たいへんなさわぎでございます。そのうちに殿のお召しというので、一同の者がご前にずらりとならびました。 「これ、一同の者、そのほうたちがそば好きじゃによって、本日は余が腕によりをかけてそばを打っておいたぞ。遠慮なく食べよ」 「はっ? まことにおそれいりました。もうそばができておりますか? しかし、本日はもうすっかりおなれになりましたでございましょうから、そばもさだめし上出来でございましょう」 「余もさようにおもっていたが、いかなる手ちがいか、昨日よりも不出来じゃ」 「えっ? 昨日よりも不出来?」 「しかし、せっかくつくったものじゃ。がまんして食せ」 「ははっ、ありがたきしあわせ」  ご家来衆、泣きの涙でようやくおそばを食べはじめました。 「殿、おそれながら申しあげます」 「なんじゃ、まずいか?」 「なかなかもちまして……」 「さようか。しからばかわりを……」 「おそれながら、おそばを下しおかれますなら、ひとおもいに切腹を、おおせつけられたくねがいあげたてまつります」 富 久 「おい、そこへいくのは久さんじゃあないか」 「おや、どうも、ひさしくお目にかかりませんで……」 「どうしたんだい? ぼんやりして……おまえさん、たいこもちじゃあないか。なんというざまだい、その髭面《ひげづら》は……」 「へえ……あなたもご存知のように、あたしは酒がはいるとだらしがありません。それでのこらずお客さまというお客さまはしくじっちまって、近所へは借金だらけ……女房は愛想《あいそ》をつかしてでていっちまうというようなしまつなんで……」 「ふーん、そいつあひどい目にあったな」 「ところで、あなたはあいかわらずご繁昌で」 「まあ、ご繁昌てえことはねえが、ちょいとした商売をしてるんだ」 「ほう、ご商売? どんなご商売を?」 「うん、富の札を売ってるんだよ」 「あなたが? 富の札を? よう、こりゃあいいや。あなたは服装《なり》のこしらえがいきで、第一あなたはねえ、いせいがいいから……」 「おいおい、相かわらず調子がいいな……どうだい、一まいでも二まいでも買わねえか?」 「ええ、いただいてもいいんですがねえ、どういうことになるんで?」 「突きどめがあたりゃあ千両だよ」 「へーえ、千両!? あたるんですかねえ」 「そりゃあ、だれかにあたるさ」 「ああ、なるほど……」 「二番富が五百両、中富《なかとみ》が三百両、二百両、百両といろいろあたるんだが、どうだい、買わねえかい?」 「えへへへ、そんなにあたるんならいただいてもいいんですがね、へへへ、どんな番号があたりましょうか?」 「そりゃあわからないよ」 「……しかし、まあ、あなたのカンで、こんな番号ならば……というようなのがありましょう?」 「うん、そりゃあね……ここにおもしろい番号があるんだが……松の千五百番、こういうすーっとした番号がでるもんだよ」 「へえ、松の千五百番ねえ、それがきっとでますか?」 「きっとでるとわかってりゃあ、おれが買っちまうよ」 「ごもっともで……じゃあ、そいつをいただきましょうか。おいくらで? 一分《いちぶ》ですか……へい、ではこれで……へい、さようなら」  久蔵は、わが家へ帰りますと、大神宮さまのお宮の中へこの富札をいれまして、近所の酒屋さんから五合ばかり酒を買ってくると、これを神棚へあげまして拝んでおりましたが、まずはお下《さが》りと、ひとりでちびりちびりとはじめまして、いつかいい心持ちに酔ってまいりました。 「ふー……ああ、いい心持ちだ……ええ、大神宮さま、どうぞこの富があたりますように、くれぐれもおねがいいたします。大神宮さまの前ですけど、あたくしはねえ、突きどめの千両なんて、そんなずうずうしいことは申しません。へえ、二番富の五百両で結構でございます。へえ、この富があたりますと、あたくしは芸人をやめます。ええ、たいこもちをやめまして堅気《かたぎ》になります。この表通りにね、小間物屋の売りものがあるんですが、店の品物までそっくりついて二百三十両、この三十両をあたくし値切ります。その値切った三十両で大神宮さまのお宮をりっぱにいたします。へえ、うそは申しません。ですから、どうぞこの富をあててくださいますようおねがいいたします。ええ、そうなりゃあ、あたしだって小間物屋の主人《あるじ》でございますから、女房を持たないことには信用がつきません……で、女房ということについてはいろいろとかんがえてるんでござんすがねえ、どうも芸者衆てえものは、あたしのもとの商売を知ってますから、どうもばかにしていけません。おいらんはだらしのないのが多いからいけませんし、乳母《おんば》さんと子守っ子は、生意気なことを申しあげるようですが、こちらからごめんこうむります。堅気の娘さんはきてくれっこないし、お妾《めかけ》さんは旦那がいるし、いくら女だって、赤ん坊じゃあ間にあわないし……へーえ、いざとなるとなかなかないもんだねえ……そうそう、あるある。万梅《まんば》のお梅《うめ》さん、あたしゃあ好きだね。人間がりこうで、お客さまを大事にして、主人によくつくして……それに女っぷりだってわるくないし……そうだ、お梅さんにきめよう。もう、あたしゃああの人にきめちまった……きめちまったって、いくらこっちだけできめたって、むこうがなんというかわからないなあ……まあ、いいや、なんといおうと、お梅さんを女房にしよう……こうして店をやってるうちには、なにしろ女の客ばかりなんだから、あたしを見染める女がでてくるね。そうさなあ、そうなると、やっぱりちょいと浮気っぽい芸者ということになるかなあ……この女とだんだん深くなってくると、この妓に金を貸してやって、女の子のふたりもかかえさせて芸者屋をやらせるてえやつだ。こうなると小間物屋と芸者屋と両方でもうかることになるからこたえられねえな……しかし、そううまいことばかりはないよ。かみさんがひどい焼きもちをやくね、『それはあなたのはたらきでなさるのですから、なにをしてもかまいません。ですけど、うちをあけてくだすってはこまります』『なにもおまえに不自由させてるわけじゃあなし、ぐずぐずいわなくてもいいじゃあないか』『ぐずぐずいうのではありませんが、奉公人の手前もありますし……第一あなたはうちをそとにして、子どもがかわいくはありませんか?』『なにをいうんだ。ぐずぐずいうんならでていけ?』」 「ちょいと、久さん、このあいだおかみさんと喧嘩してでていかれたが、またもらったのかい?」 「え? いえ、その……なんでもないんで……いけねえ、となりの海苔《のり》屋のばあさんに聞かれちまった……うふふふ、ああ、あたればいいがなあ……うーい、いい心持ちになった」  すっかり酔っぱらった久蔵は、そのまま横になると、ぐっすり寝こんでしまいました。  すると、しばらくして、ジャンジャンジャンという半鐘の音にふと目をさました久蔵が、眼をこすり、からだをかきながら、 「あーあ、よく寝ちまった……こりゃあ火事だな、ひとつ表へでて聞いてみようかな……おーい、源さん、火事のようだね」 「ああ、久さんかい、いまみてるんだが、そうだねえ、こりゃあ芝|見当《けんとう》だよ」 「芝見当? ああ、そうですか。へえ、どうもありがとうござんす。ふーん、芝見当か。だいぶ遠いな。心配はいらねえ……いや、芝だと近江屋の旦那のお宅があったな。あの旦那を酒のためにすっかりしくじっちまったが……そうだ、こういうときに駈けつければ、『おう、久蔵か、よくきてくれた。いままでのことはわすれてやるぞ。あしたっから出入りをしろよ』てなことになるかも知れねえ。そうなりゃあしめたもんだが、聞いてみようかなあ……あのねえ、芝はどっち見当です?」 「そうさなあ、金杉《かなすぎ》のてまえってとこかなあ」 「えっ、金杉のてまえ? ああ、そうですか。へい、ありがとうござんす。こりゃあこうしちゃあいられねえ。いよいよ近江屋さんの見当ですよ。さあ、こうしちゃあいられねえ」  久蔵はうちへ帰るとすっかりしたくをして、ちょうちんのこげるのも知らないで横っとびにとんでまいりまして、 「へえ、旦那、おそうぞうしいこってござんす」 「だれだ? ……おお久蔵か。よくきてくれたな。うん、よしよし。いままでのことはわすれてやるぞ。あしたっから出入りをしろよ」 「へっ、ありがとう存じます……それがこっちの目的《めあて》だ」 「なんだと?」 「いえ、べつに……旦那、なんかはたらきましょう」 「そうか、じゃあ、この箱をしょってくれ」 「へっ、よろしゅうござんす。この箱でござんすね。へっ、こういうときにはね、芸人をいたしておりましても力のでるもんでござんすから……ああ、そこに火鉢があるでしょう。その火鉢をこの箱の上へのせてください。ものはついでですから……いいえ、大丈夫でござんす。ふだんご厄介になってるんですから、こういうときにご恩がえしを……ああ、それから、そこにいろいろありますね、ひょうたんに掛け軸やなんか、火鉢の横へつんでください」 「そんなに持てるか?」 「なあにそれっぱかりのもの……しっかりいわいてください……へえ、よろしゅうござんすか? ……では、よー、うーん、よいしょ、うーん……すみませんがねえ、そのひょうたんとってくださいませんか?」 「おい、ひょうたんぐらいとったってどうってことねえだろう?」 「いえ、これも気のもんでござんすから……ああ、ひょうたんがとれたなとおもっただけで軽くなるってやつで……へえ、ひょうたんはとれましたか……では、よー、うーん、よいしょっと……すみませんがねえ、その掛け軸をとって……」 「厄介なやつだな。おい、掛け軸をとったよ」 「へえ、とれましたか……うーん、よいしょっと……火鉢もおろして……」 「なんだなあ、それじゃあもともとじゃあねえか」 「へえ、こんどは大丈夫で……よいしょ、うーん……だれかおさえてるんじゃあありませんか?」 「だれもおさえてやあしないよ」 「そうですか? では……よー、うーん……すみませんが、ふたをあけて中のものをだしてくださいな」 「ふざけるな。べらぼうな。あきれかえってものがいえねえ……あれっ、箱をしょいだしもしねえでへばっちまったな。しょうがねえやつだ……へっ、ああ、さいですか。鎮火《しめり》ましたか? どうもおたがいさまにおめでとうござんす……おいおい、みんな、荷物をださなくてもいいよ。ださなくてもいいんだ。火事は消えた。火事は消えたよ。おい、久蔵、火事は消えたよ」 「へっ、火事は消えましたか……へー……ああくたびれた」 「なにいってやがる。くたびれるわけがねえじゃあねえか。なんにもはたらきもしねえで……ああ、鳶頭《かしら》、すまないが、この久蔵がおろした箱をそっちへやっておくれ……あっ、どうもわざわざありがとうございます……こりゃあ、どうもありがとうございます……おい、久蔵、お見舞いのかたがおみえになる。おまえはねえ、みなさんのお顔を知ってるんだから、帳面にお名前をよくつけておくれ」 「あ、さいですか。じゃあ、そういうことに……へっ、どうもわざわざありがとうございます。ええと、あれは三河屋さんと……あっ、田丸屋さんの番頭さんで、どうも本日はごくろうさまで……えっ、あたくしですか? いえね、酒のためにご当家をしくじっておりましたが、火事のために駈けつけまして、おわびがかなったというようなしだいで……えへっ、どうも、いずれうかがいます。旦那さまにもどうぞよろしく……おや、伊勢屋さんで……へえへえ、どうもすみませんでござんす。へえ、どうぞおうちへよろしく、いずれまたうかがいます……こりゃあ、まあ万惣《まんそう》さんの坊っちゃんで? まあ、たいそうごりっぱになって……もう坊っちゃんどころじゃあありませんね。りっぱな若旦那だ。へーえ、こりゃあおどろいた。へえ、どうもありがとう存じます……あっ、こりゃどうもありがとうございます。旦那、ご本家からお見舞いものを頂戴いたしました……ええ、旦那、ご本家からお見舞いものをいただいたんでござんす。なにかお重詰《じゆうづ》めのお料理のようでござんす。それからこっちに一升徳利が二本でございまして、一方は冷やのようですが一方はお燗《かん》がしてあるようで……これどうしましょうか?」 「そっちへやっときなよ」 「ああ、さいですか……こりゃあ張りあいがねえや……あっ、どうもありがとうございます。へえ、駿河屋さんで……えーと、駿河屋さんと……ええ、旦那、ご本家からお見舞いものがとどきました。こちらがお重詰めのお料理のようで、こちらに一升徳利が二本、へえ、こっちが冷やで、こっちはお燗がついてるようでござんすが、えへへ、これをどういたしましょうか?」 「だから、そっちへやっときなよ」 「ああ、さいですか……どうも張りあいがねえなあ……おや、こりゃあ丹波屋さんで、どうもごくろうさまでございます……ええ、旦那、ご本家からお見舞いものがとどいておりますが……」 「まだあんなことをいってやがる。久蔵、飲みたいんだろ?」 「へえへえ、図星《ずぼし》で……」 「飲みたけりゃあ飲んでもいいがなあ、おまえはねえ、飲むとだらしがないんだから、沢山《たんと》飲むなよ」 「へえ、あいすいません。ええ、もう、お酒なんぞいただけた義理じゃあござんせんが、みると、つい……酒飲みは意地のきたないもんで……いいえ、沢山《たんと》はいただきません。もう自分でもこりておりますから……へえ、では、この茶わんでいただきます。おっとっとっと……へえ、いただきます……うーむ、こりゃあいい酒だ。旦那はいかがで? ……ああ、あとで召しあがるんで……ええ、では、このお重詰めのほうを……おや、おでんですよ。おでんを総じまいにして串にさしてあるとこなんざあ気がきいてますねえ。たいしたもんだ……では、ひとついただきます……うん、うまい、このがんものお味が結構で……あっ、すいません。どうも……では、もう一ぱいだけ……へえへえ、どうもすいません。あれっ、鳶頭《かしら》、やらないんですか? そうですか、やめてるんですか。どうもあたしひとりでやるってえのもなんだか気がひけて……うーむ、うまい、はらわたにしみ通りますな……あっ、こりゃあ秋田屋さんで、どうもありがとうございます。えーと、秋田屋さんと……酒は飲んでも飲まいでも……帳面だけはちゃんとつけないと……ええ、もう一ぱい頂戴いたします。いえ、もう沢山《たんと》はいただきません。へっ、あいすいません。へえ、どうも……ああ、兼安《かねやす》さんで、どうもごくろうさまで……ええ、兼安さんと……おや、こりゃあ越後屋さんで、どうもありがとうございます。えーと、越後屋さんと……へへ、どうもこれはこれは山田屋さんで……ああ、どうも……ゴホン、ゴホン、ゴホン……ああ、山田屋さん、どうもごくろうさまで、まことにどうも……ゴホン、ゴホン……」 「なんだな、どうも、そんなにせきこむほどあわてて飲むことはあるまい。おいおい、飲むとかしゃべるとか、どっちかにしろ」 「へえ、あいすみません。へっ、尾張屋さんでございますか。どうもありがとう存じます。ええ、尾張屋さんと……えっ、もう一杯くださるんですか? さいですか……じゃあ、これでおつもりということに……おっとっとっと……うーむ、これをきゅーっと一息にいただきまして……うーん、うまかった。もうこのくらいにいたしておきます、ええ、またしくじるといけませんから……ええ、もうお見舞いのかたもあらかたおすみのようでござんすから、あたくしもなんかはたらきましょう。こうはちまきをいたしまして……おっ、お菊さん、それなんです? その箱は? え? 中身はお皿? へーえ、お菊さんがお皿をはこぶなんざあ、とんだ番町皿屋敷でござんすね。いえ、あなたがお皿をおとしてお手討ちてなことになってはいけませんから、あたくしがひとつそのお役目を……蔵へはこぶんでござんしょ? わかってますよ。さあさあ、こちらへいただきましょう。いいえ、大丈夫、あたくしがこれをはこぶということについては、ひとつ鳴りもの入りということにして……チャチャチャラ、チャラチャラ、チャチャラ、チャラチャラ……」 「久蔵さん、あぶないっ、あぶないっ、ふらふらして……」 「おい、いいかい、あいつはまたあんなことをして……」 「チャチャラ、チャラチャラチャラ、チャチャラ、チャラチャラ……あっ!」 「そーら、ひっくりかえった。いわないこっちゃあない。どうした?」 「へえ、こりゃあ旦那で……大丈夫で……」 「大丈夫って、おまえ、皿をわったろ?」 「ええ、おめでとうございます」 「なにがめでたいんだ?」 「だって、旦那、おめでたいじゃあありませんか。二十人前のお皿がまっ二つになれば四十人前にふえたんで……」 「おい、なにをいってるんだ。しょうがないな。おまえはねえ、酔ってるんだから、すこし寝な」 「へえ、まことにあいすみません。じゃあ、おさきにごめんこうむりまして……」  ひどいやつがあるもんで、火事見舞いにきたのか、なにしにきたのかわかりません。帳場格子《ちようばごうし》の中へはいると、肘《ひじ》を枕にぐうぐうと高いびきで寝てしまいました。 「ああ、こんな世話のやけるやつはないねえ……しかしまあ無事にすんでよかった。なにしろ火の粉をかぶったからねえ。一時はどうなることかとおもった……みんなよくはたらいてくれて、まことにごくろうだったねえ……ああ、番頭さん、本家からとどいたものがあるだろう? あれをちょいとあっためてみんなに食べてもらっておくれ……あれっ、またぶっつけてるよ。いえさ、半鐘の音がするじゃあないか。また火事かい? おいおい、だれだ? 屋根へあがってるのは? なに? 定吉か? おい、火事はどの見当だ? なに? 浅草見当? ……おい、番頭さん、浅草見当だとよ。なんか取引きはなかったかい? 浅草には? そうかい……あっ、久蔵のうちが浅草だったな……おい、定吉、浅草はどのへんだい? えっ? 鳥越いまわり? こりゃあたいへんだ。おい、久蔵を起こしてやれ」 「はい、かしこまりました……おい、久さん、久さん……」 「えっへっへっ、もういただけません」 「あれっ、まだ飲む気でいやがる。おい、久蔵、火事だよ」 「火事? ええ、火事でござんす。本日の火事は芝で……」 「なにいってんだ。しっかり目をさましなよ。こんどの火事は、浅草の鳥越いまわり、おまえのうちの近所だよ」 「えっ、あたくしの近所が火事!? ああ、さいですか。こりゃあたいへんだ。それではあたくし、失礼いたします」 「おいおい、久蔵、ちょいと待ちな。もしもだよ……いえ、そんなことはないよ、そんなことはないが、もしものことがあったらね、よそへいくんじゃあないよ。うちへ帰っておいで、おまえのめんどうはみるからな」 「へえ、ありがとう存じます。じゃあ、あたくしいってまいりますから……」 「ああ、気をつけていっておいで……」 「へっ、ありがとう存じます……ああ、おどろいた。ひと晩のうちに火事のかけもちをしようとはおもわなかったなあ。それにしてもよく火事のある晩だねえ……さあ、急いでいかなくっちゃあ……あらよっ、よいこらしょ、よいこらしょ、よいこらしょっ……まあ、たいへんに弥次馬が駈けてくなあ、じゃまなやつらじゃあねえか……よいこらしょ、よいこらしょ、よいこらしょっ……あらよっ、よいこらしょ、よいこらしょっ……あっ、むこうから帰ってくる人がいるな、聞いてみよう……ええ、もし、あなた、火事はどこです? え? なに? いってみればわかる? ……あたりめえじゃあねえか。なにいってやがるんだ……あらよう、あらあらあらあら……しょい、しょい、えいこら、しょ、えいこらしょ……ああ、こんばんは、火事はどこです?」 「ああ、久蔵さんか、火事はおめえんとこのとなりだ」 「えっ、となり? となりてえと、海苔屋のばばあだ。あんちくしょうめ、爪のさきへ火をとぼすようにけちけちしてやがったから、その火からぽーっと燃えだしたんだな」 「へえ、旦那、いってまいりました」 「ああ、久蔵か、どうした? え? ああ、そうか、まる燃けか? そりゃあどうも気の毒なことをしたな。まあいい。心配するな。うちへ手つだいにきたあとで焼けてみれば、まさかうっちゃっておくわけにもいかない。当分うちにいな」 「へえ、ありがとう存じます。どうぞよろしくおねがいいたします」  これから久蔵は、なに不自由なく厄介になっておりました。 「ええ、旦那さま」 「なんだ?」 「ええ、今日《こんち》は深川のお客さまのところへちょいと顔出しにいってまいろうと存じまして……」 「ああそうかい。あんまりおそくならないようにお帰りよ」 「へえ、じゃあ、いってまいります……あーあ、ありがてえな。なんていい旦那なんだろう。それにうちの人もみんなよくしてくれるし、こんないいことずくめじゃあ罰があたるよ。しかしねえ、いくらよくされても、やっぱり居候《いそうろう》は居候だからなあ。よそのうちってえのはなんとなく気がやすまらねえなあ。どんなうちでもいいから一軒持ちてえなあ……おや、ずいぶん人がぞろぞろいくな。なんだろう? ええ、ちょっとうかがいますが、なにかございますんで?」 「ええ、八幡さまで富があります」 「ああそうですか。そういやあ、おれも富札を一まい買ったんだが、火事にあうようじゃあ、とてもあたっちゃあいめえ。まあ、ようすだけでもみようか」  久蔵がなかへはいってみますと、ただいま寺社奉行が出頭《しゆつとう》になり、大般若経の読経《どきよう》がすんでのち、大きな箱をガラーリ、ガラーリとふり、なかへ錐《きり》をつっこんですーっとひきあげますと、多勢の見物にみせながら声高らかに…… 「松の千五百番、松の千五百番」 「あー、あた、あた、あた」 「あれっ、この人がひっくりけえっちゃった。おい、しっかりおしよ。どうしたんだ?」 「あた、あた、あた、あた……」 「なんだかわからねえ……え? あたった? へーえ、おまえさんが千両にかい? ふーん、運のいい人だ。早く帳場へおいでよ」 「へえ、ありがとう存じます……ああ、なるほど、帳場があった……あれっ、あたしに札を売った善兵衛さんがいた」 「おい、久さん、あたったねえ。よかった、よかった。しかし、まあ、おどろいたよ」 「火事で焼けてねえ、もうどうにもしょうがねえんで……すいませんが、すぐに金をもらいてえんで……」 「ああ、金はすぐにとれるけどねえ、きょう金を持っていくのはよしたほうがいいよ。お立てかえ料一割、ご奉納金一割と二割ひかれちまうから……」 「なあにいいよ。二割ひかれようが、五割ひかれようが、十割ひかれようが……」 「なにいってるんだ。十割ひかれたら一文にもならねえじゃあねえか……しかし、まあ、おまえさんが承知ならとってきてやろう。札をおだしよ」 「え?」 「いえ、富札をおだしよ」 「……札は……ぽー……」 「どうしたんだ? そのぽーってえのは?」 「火事で焼いちまった」 「焼いちまった? ああ、そりゃあだめだ」 「どうして?」 「どうしてって、札がなけりゃあ証拠になりゃあしねえもの」 「だって、善兵衛さん、あなたが売って、あたしが買ったんだ。こんなたしかな証拠はないじゃあありませんか」 「まあ、りくつはそうだけれども、かんじんの札がなくっちゃあだめなんだ。まあ、しかたがないからあきらめちまいなよ」 「そんな……あきらめちまいなったって……あたしゃあたしかにあたったんじゃあありませんか。あなたが売って、あたしが買ったんだ。ねえ、おんなじ札が二まいあるわけじゃあなし、だめだなんて、そんなばかなはなしはないじゃあありませんか」 「なにしろ、かんじんの札がなくっちゃあだめなんだよ」 「じゃあ、こうしましょう。半分の五百両だけください。五百両にまけときますから……」 「いえ、札がなくっちゃあ、五百両だろうと、二百両だろうとだめなんだよ」 「そんなばかな……ねえ、売ったもんと買ったもんが、ここにちゃーんと生き証人がいて、おんなじ札が二まいはないってえのに……それがだめだなんて……そんな、そんな……」 「いえ、だけどねえ、いくらいったって、証拠の札がなくっちゃあ……」 「どうしてもだめですか?」 「ああ、なんといってもだめだよ」 「へーえ、そうですか。ようございます。じゃあ、いりません、いりません。あたしも、火事ではまる焼けになり、あたった金もとれないようなことではもうどうにもなりませんから、よござんす。死んじまいます。死ぬからには、三日たたねえうちにおまえさんをとり殺すから……」 「ばかいっちゃあいけねえ」 「なあにようございます。あたしゃ死にます」  と、泣きながらすごすご帰るうしろから、 「おい久さん、どこへいくんだ?」 「いえ、あたしはとてもたすかりません。へえ、死にます」 「なにをいってるんだ。じょうだんじゃあねえぜ」 「あっ、鳶頭《かしら》ですか」 「おい、しっかりしろよ。ぼんやりして、おれのうちの前を通りすぎちまうところだったじゃあねえか。おめえみてえにのんきな男はねえな。おい、てめえのうちが火事だってえのに、おめえ、どこへいってたんだ? 火事だてえから、すぐにおれがとんでいってやると、戸があかねえから、手鍵《てかぎ》で戸をたたっこわして、なにか大事なものがあるならとおもってみまわしたが、おめえのとこにはなんにもねえな。まあ、とにかく、釜とふとんはだしてうちにあるから持っておいでよ」 「へえ、ありがとうござんす」 「しかし、おい、さすがは芸人だな、大神宮さまのお宮、あれだけはりっぱだなあ。あんまりりっぱなんでおどろいたぜ。うちにあるからねえ、いっしょに持っておいで」 「ど、どろぼう!」 「おい、なにをするんだ。おい、いきなりひとの胸ぐらなんぞつかんで……おい、はなせ、はなせよ。いつ、おれがどろぼうした? おい、はなせってえのに……気ちげえだな、まるで……さあ、釜もふとんもだしてあらあ。それ持ってけ」 「そんなものはいらねえ……大神宮さまをだせ!」 「ああやるとも……それ、これがおめえの大神宮さまだ。持ってけ」 「持っていかなくってよ。おれのものをおれが持ってくのに、なにもふしぎがあるもんか。もしもこのなかにあればよし、なければてめえののど笛へ食《くら》いつくぞ」 「おい、気味のわりいことをいうなよ。おらあ、中へ手なんかつけるもんか」 「よし、いま、おれがこのお宮をあけて……あっ、あった、あった、あたたたた……」 「おい、どうしたんだ? いきなり泣きだしたりして……」 「へえ、どうもまことにあいすみませんでござんす。へえ、どろぼうだなんて、かんべんしてやってください。じつは、この富札が千両富にあたったんで……」 「えっ、その札が千両富に!? へーえ、なるほどこりゃあ気ちげえのようになったのも無理はねえや。ふーん、運のいい男だなあ。この年の暮れに千両ねえ……これもおめえが正直もんだから、正直の頭《こうべ》に神宿るってのはこのこったよ……よかったなあ」 「へえ、これもみんな大神宮さまのおかげでございます。これでご近所のお払いができます」 ≪上方篇≫ 住吉《すみよし》駕籠  むかしは、道中に、雲助《くもすけ》というものがおりました。あの人足どもは、ほんまの住所不定、きょうは東、あすは西と、流れ歩いて雲みたいやさかいに、雲助といわれたんやそうですが、また一説には、ところどころに網《あみ》を張りまして、客をつかまえたさかいに、虫の蜘蛛《くも》という意味でくも助といわれたんやそうで……  そやさかい、この街道|筋《すじ》の駕籠《かご》屋を、くも駕籠と呼んだんやそうでございます。 「へえ、駕籠、へえ、駕籠、もし、駕籠はどうでやす? へえ、駕籠、もし、旦那、お供《とも》しまひょか? ……やい、相棒《あいぼう》、われ、まあ、ちっとお客を呼ばんかい?」 「ええ?」 「ええやないで……おまえとおれとふたりの商売や。おれにばっかり客呼ばしよって、うつむいてばかりいたらあかんがな……おい、ちょっと小便してくるさかい、しっかり客呼ばなあかんで……」 「よっしゃ、承知や……へえ、駕籠、へえ、駕籠、もし、親方、へえ、駕籠、へえ、駕籠」 「なんじゃい?」 「へえ、駕籠」 「なんじゃ?」 「へえ、駕籠」 「そうか、わしのうしろへまわれ」 「え?」 「わしのうしろへまわれというてんねん」 「どうなりますねん?」 「おまえ、屁《へ》がかぎたいのやろ?」 「そんなあほな……」 「そやかて、おまえ、屁かごちゅうたがな」 「いえ、駕籠に乗っとおくなはれちゅうてまんね」 「駕籠はいらん」 「そないわんと、朝からぜにの顔などは一文もみませんよって、たのんまっさ。人間ふたり助けるとおもて乗ったっとくなはれ」 「そうか、人助けになるか? そないまでいわれたら、乗らんわけにもいかんな。よし、乗ったるで」 「さよか、おおきに、おおきに……」 「さあ、乗ったで……これでええか?」 「へえ、ありがとさんで……どちらへやりまんので?」 「どこまでなと、われの好いたとこまでやれ」 「そんなあほな……行く先いうてもらわんことには……」 「なにいうてんのや……乗ったら助かるちゅうさかい、人助けのつもりで乗ったんじゃ、どこへなと勝手にやれ」 「そんな……行く先がわからんで、やみくもに駕寵をかつぎだされしまへんがな。ほなら、お宅までやらせてもらいまひょ」 「うん、うちまでやってもろたら助かる。うちまでやれ」 「へえ、お宅は、どちらだす?」 「筋《すじ》むかいの、よしず張りの茶店までやれ」 「へえ、むこうで一服?」 「そやない。ありゃ、おれとこのうちじゃ」 「もし、旦那あ、なぶってやっておくんなさんな」 「なにをなぶっておるのじゃ?」 「そやかて、あの茶店やったら、なにも駕籠に乗らいでも、歩いてお帰りならはったらええやありまへんか?」 「そやさかい、わしは、はじめから歩いたほうが早いちゅうてんねん。それを、おまえが、人助けや、たのむちゅうさかいに乗ったんや。さあ、やらんかい」 「なにいうてまんのや。あほらしい」 「なにっ! あほらしい? こりゃ、もう一ぺん、前へまわって、おれの顔をとっくりみい。われのつらのまん中に、ふたつならんで光ってるのはなんや?」 「眼でおます」 「なんや、おれはまた、眉毛《まゆげ》が落ちんようにとめてある鋲《びよう》かとおもた。そりゃ、みるための眼か? みぬための眼か? ここで商売さらして、おれの顔を知らんのか? これ、日に一ぺんや二へん、たばこ吸うさかい、火貸してくれやとか、ときによりゃ、お茶の一ぱいもくれとかいうて、うちの店へはいってこぬ日はないやないか? ええ? それに、おれの顔にみおぼえがないのか? わいらのような駕籠屋は、いつのまに降《ふ》ってきやがったんや。おい、おれとこにやすむお客はな、茶わん酒飲んで、鯡《にしん》かじって、はしたぜにのつり銭でもめったに置いて帰る客はないわい。そんな客をつかまえて、『へえ、駕籠、へえ、駕籠』と、尻《しり》のにおいでもかぐように追いかけくさるさかい、だれもいやがってよりつかへんわい。このくそったれめ! おのれ、まごまごさらしてけつかったら、あたまと足を持って、くそむすびにむすんだろか? ぼやぼやしてけつかったら、踏み殺すぜ!」 「うわーい、相棒、早うきてくれ。こりゃあ、えらいおっさん乗せた」 「こりゃ、そっちへどけ……もし、親方、えらいすまんこって……こいつは、ようようきのう大津から降《ふ》ってきよりましたんで、まだ、親方のお顔を存じまへん。えらいあいすまぬことで、お腹も立ちまっしゃろけど、どうぞ、ごかんべんを……」 「まあ、きょうのところは、われの顔に免《めん》じて堪忍《かんにん》しといたるが、こんどからこんなことがあったら、ここで商売ささんで、ええか?」 「へえ、どうもすみまへん。これ、われも、だまっていんとあやまれ」 「すみまへん」 「どあほ! 茶店のおやじに駕籠をすすめるあほがあるかい」 「そうかて、知らんがな」 「顔、知らいでも、あのかっこうみたら、わかりそうなもんや。そやろ? ええ? 前|垂《だ》れかけて、高|下駄《げた》はいて、ちりとり持ってるやないかい。ごみすてに行《い》たんやがな。どこの世界に、ごみ投《ほ》かしに行《い》た帰り、駕籠に乗って帰る人がある? ……駕籠にでも乗ろうかという人は、足でもひきずってるもんじゃ。そんな人にすすめてみい。じきに乗ってくれるわ」 「足をひきずってる人か?」 「そうやがな」 「へえ、駕籠、へえ、駕籠」 「だれもいてへんがな」 「むこ、みてみい、足ひきずってる人が……」 「あほ! ありゃ、いざりの乞食やないか。あんなもん、駕籠に乗るかい?」 「このあいだ、車に乗ってた」 「そりゃ、いざり車やないか。なにぬかしてけつかるんや。しっかりせい!」 「ああ、これこれ、駕籠人《かごんど》、駕籠人《かごんど》」 「へえ、へえ、こりゃあお武家さまやで……」 「お駕籠が二|挺《ちよう》じゃ」 「へえへえ、おおきにありがとうさまで……」 「さきなるはお姫さま、あとなるは乳母《うば》さまじゃ」 「ありがとうさまで……おい、駕籠が二挺やで、一挺は、吉と秀とにいうてやれ。早ういけ! 走っていけ!」 「それから荷持ちがふたあり」 「おーい、荷持ちがふたありじゃ。早ういけ! 早ういけ!」 「お供《とも》まわりが、四、五人つきそうての」 「へえ?」 「さような駕籠が、このところをお通りにならなんだかな?」 「おーい、おーい、ちがう、ちがう。待て待て……えらいちがいやがな。たずねてはるのやがな……ええ、ねっから存じまへん」 「ああ、さようか。かならずこのところをお通りに相成るはずじゃ。身ども、寄り道をいたしておくれたかと存じ、あわててまいったが、やはりさきであった。身ども、あれなる茶店で一服いたしおるゆえ、お通りなれば、ただちに知らせよ」 「へえい……なにぬかしやがんねん。そんなもん知るもんかい……おい、相棒、おまえもあほやな。とっくり聞いてからいかんかい。このあわてもんめが!」 「そら、なにいうねん。おまえが、早ういけ、早ういけいうさかい、こっちは汗かいて走ってるがな」 「ほんまにややこしいたずねかたしやがった。駕籠屋泣かせやな」 「 よいしょこら、よいよいよいと……高い山から低い山みれば……低い山のほうが低うござる、よいしょこら、よいよいよいと……」 「おかしな唄、うとうてきたぞ。ひどい酔いたんぼう(酔っぱらい)や。相手になったらあかんぞ」 「もし、旦那、へえ、駕寵」 「相手になりな、ちゅうてるのに……」 「いや、こんな人が乗るわいな。おれにまかしとき……もし、旦那」 「いよう! これは駕籠屋の親玉!」 「旦那、ええごきげんだんな」 「なに? ええきげん? おい、おまえ、おれが、ええきげんで飲んだ酒か、やけくそで飲んだ酒か、知ってんのか?」 「いえ、そら、知りまへんけどな」 「知らんのに、いらざることをいえば、承知せんぞ」 「それみい。しかられてくさる……旦那、どうぞもう堪忍《かんにん》したっとくなはれ」 「いや、そういわれると、こっちがつらい。あははは、なあ、駕籠屋、堪忍してや」 「なにをおっしゃる。堪忍するの、せんのて、あほらしい」 「なに? あほらしい? 堪忍するのがあほらしいか?」 「いえ、ほんまに堪忍します」 「堪忍してくれるか?」 「へえ、します」 「きっとか?」 「へえ」 「さよか、よう堪忍してくれたなあ、わいはうれしいで、ほんまによう堪忍してくれた。とほほほ……」 「泣かんかてよろしいがな」 「しかし、駕籠屋、おれ、なんぞおまえに堪忍してもらわんならんことをしたか?」 「わあ、わるい酒やで、これは……旦那、そないにいわんと、お駕籠はどうだす?」 「いやいや、馬が『ドウ』で、駕籠は『ハイ』じゃ」 「いえ、そうやおまへん。お駕籠はいりまへんかと、おたずね申しておりまんねん」 「いや、そんなもんもろうたところで、持っていくのに大儀《たいぎ》じゃ」 「そやおまへん。駕籠に乗っとくなはれちゅうてまんね……よほど酔うてはるようでんな」 「うん、こう酔うつもりやなかったんやが、住吉さんのおまいりすましたあとで、ちょいと分銅《ふんどう》屋で、一ぱいやってきたんじゃ。どうもこうもおもしろうてたまらん。おい、駕籠屋、おまえもおもしろいやろ?」 「いえ、べつにおもしろいことはござりまへん」 「こらっ、なんちゅうやつじゃ。たとえおもしろうないとしたところで、おれがおもしろいというたら、そこは愛想《あいそう》というもんやないか。おもしろいというていなあ」 「へえ、さようなら、おもしろうござります」 「さようなら? ……すると、たのまれて、よんどころなくおもしろいのじゃなあ。心底《しんそこ》からおもしろいというてんか?」 「えらい難儀やなあ」 「そやよって、相手になるなちゅうてるのに……」 「こらっ、おもしろいか?」 「へえ、おもしろうてたまりません。心底からおもしろうござります」 「なに? 心底からおもしろいか? そうか? ほんまか? いいや、さだめて、おれが酔うてるさかい、それで心底おもしろいというんやろ? おべんちゃらやろ?」 「わあ、わるい酒やな……あんた、おもしろいといえと、おっしゃったよって、おもしろいといいましたんや」 「ああ、そうか……いや、こりゃわるかった……しかし、分銅屋はやすいなあ」 「わたしらあ、自腹切って飲みにはいったことはありまへんさかい、わかりまへん」 「さよか……とにかくやすいぜ……おまえ、あそこの仲居(女中)に、おそでというのがおるが、知っとるか?」 「知りまへん」 「なにいうてんのや。この街道にはたらいていて、分銅屋のおそでを知らんちゅうことがあるかい?」 「そやかて、知りまへん」 「それそれ……ええ……ちょっと色の白い、鼻のところに、ばらばらっと薄《うす》みっちゃ(薄あばた)のある……そのみっちゃが愛嬌《あいきよう》になるんやで……なあ、わかってるやろ?」 「いえ、わかりまへん」 「なに? どうしてもわからん? それ、河内の狭山《さやま》のうまれで……」 「知りまへんがなあ……そないいうたかて……」 「おやじは、治右衛門さんいうて、これもええ人やったが……それ、眉毛の上にほくろのある……これだけいうたら、わかるやろ?」 「知らんがな、そんな人……」 「えらい難儀やなあ」 「あんたより、わたしのほうが難儀や」 「あのおそでなあ、ふと、おれの顔をみるなり、『おや、ごきげんよろしゅう。どうぞこちらへ……』というんや。『おまえ、だれやったいなあ』というたら、『わたしゃ、狭山の治右衛門の娘のおそででございます』『ああ、こりゃあおそで坊か? やあ、えらいやつじゃ、えらいやつじゃ……』」 「おい、相棒、こりゃあ、えらい難儀なことになってきたぞ。急にらちゃああかんで……」 「そやよって、相手になるなちゅうてるに……」 「なにごじょごじょいうてんのや? ……十二、三のときみたままじゃ。みちがえたなあ……ことし二十一、娘ざかりや、がらりとかわってしもうてなあ……子どもの時分は、おじさんというたのが、いまは仲居をしておるさかいに、わしを旦那さまといいよる。かわいいもんやないか? ええ? ……そのおそで、知ってるやろ?」 「知らんがな、ほんまに……」 「ほんまに知らんか? ……祝儀《ぽち》もいれて、二分一朱、どうや、やすいやろ? はははは、うそやとおもてるな?」 「いや、おもてやしまへん」 「いいや、おもてる。あの男、大きな顔して、二分一朱もようつかうかいとおもてるやろ? さあ、二分一朱、うそでない証拠みせたる。さあ、この通り、ちゃんと竹の皮につつんである。これ、料理屋へもの食いに行《い》て、食いのこしてもどるのやないぜ。のこったら、のこらず竹の皮につつませて持って帰るがええ。のこしておきよったら、ははあ、気にいらぬのかいなあと、気いつかいよる。『ああうまい。うちへみやげに持っていんでやる。つつんでんか?』というと、さきも心持ちよううれしいもんや。こっちも見栄《みえ》はってのこしておくにゃおよばんこっちゃ。なあ、それ、これが、たまごの巻き焼き、車えびの鬼がら焼き、いかの鹿の子焼き、どれなとあげる。ひとつ食い」 「いや、もう結構だす」 「なにが結構じゃい、ひとつ食い」 「あないいうたはるねん、ひとつよばれ」 「そうかて、酔いたんぼう、うすぎたない」 「なんやて?」 「いえ、なにもいうてえしまへん」 「いいや、聞こえた。うすぎたないちゅうたな。酒に酔うておっても、つんぼとちがう。よう聞こえる。そういう了見《りようけん》やさかい、わりゃあ出世でけんのじゃ。いつまでも往来ばたで、へえ、駕籠と、まるで屁で死んだ亡者のようにぬかしてるんや。いらなんだら、だれがやるか。さあ、あんばいようつつめ」 「それみい、いろんなことやらされるわい」 「こりゃ、ぼやかんと(ぐちをいわずに)せい」 「へえ……へえ、つつみました」 「こりゃ、なんちゅうつつみようじゃ。巻き焼きがこぼれかかっとる。他人のものやかて、そないに不親切なことがあるかい……うん、つつめたか? ……はははは、妙なもので、ぜにつこうても、なんじゃなあ、やすいおもうと心持ちがええなあ。ありゃ繁昌するはずや。二分一朱、ほんまやぜ。十分食べたあとがこんなじゃ」 「あっ、またひろげよった」 「さあ、もう一ぺんつつめ」 「なんべんつつませなはるんや。あんばいようふところへいれなはれ」 「ふところへいれて、たまご焼きの汁《しる》が垂《た》れたらこまる。着物がよごれるわい……ああ、ええ心持ちじゃ……こう酔うつもりやなかったんやが、住吉さんのおまいりすましたあとで、ちょいと、分銅屋で、一ぱいやってきたんじゃ……おまえ、あそこの仲居におそでというのがおるが、知っとるか?」 「知りまへん」 「ほら、ちょっと色の白い、鼻のところに、ばらばらっと薄みっちゃのある……河内の狭山の治右衛門さんの娘や」 「知らんちゅうてますがな」 「難儀やな」 「こっちが難儀や」 「十二、三のときみたままじゃ。みちがえたなあ……ことし二十一、娘ざかりや、がらりとかわってしもうてなあ……子どもの時分には、おじさんというたのが、いまは仲居をしておるさかいに、わしを旦那さまといいよる。かわいいもんやないか? ええ? ……そのおそで、知ってるやろ?」 「知りまへん」 「ほんまに知らんか? ……祝儀《ぽち》もいれて、二分一朱、どうや、やすいやろ? うそやとおもてるか?」 「おもてえしまへん」 「うそでない証拠みせたる」 「また、つつみだしてきたぞ」 「たまごの巻き焼き、車えびの鬼がら焼き、いかの鹿の子焼き、どれなとあげる。ひとつ食い」 「ほんまにうらむで、おまえがひとこと声かけただけで、こないにえらい目にあわんならん。へえ、つつみなおしときまっせ」 「いや、すまん、すまん。こう酔うつもりやなかったんやが、住吉さんのおまいりすましたあとで、ちょいと、分銅屋で、一ぱいやってきたんじゃ……おまえ、あそこの仲居におそでというのがおるが、知っとるか?」 「へえ、もうよう知ってます。鼻のところに薄みっちゃがあって、河内の狭山の治右衛門さんの娘、十二、三のときみたままで、ことし二十一の娘ざかりで、がらりとかわってしまはって、いまは仲居をしておるさかいに、あんたはんを旦那さまといいなはる。祝儀《ぽち》もいれて、勘定が二分一朱、やすおまんがな。うそでない証拠に竹の皮ひろげて、たまごの巻き焼き、車えびの鬼がら焼き、いかの鹿の子焼き、どれなとあげる。ひとつ食い。いや、もう結構だす。つつみなおしてふところへいれて、まだおましたかいな?」 「う、うう、わいのいうことあらへんがな……しかし、ええ心持ちじゃなあ……これ、駕籠屋、ええこと聞かそうか?」 「なんだす?」 「去年、六兵衛とわしとなあ、ふたりづれで河内の道明寺へまいったその途中のはなしじゃ」 「まあ、よろし」 「きょうじゅうにかたづきゃへんぜ。聞いてたら……」 「なんや、そないに水くさいこといわんと聞きいな。わしのほうから駕籠屋いうて、われを呼んだのやないで……おまえのほうから呼んだやないか?」 「それみい、りくつはさきにある」 「なあ、そうやろがな?」 「へえ」 「そやさかい、聞かんかいなあ。振りがあるよって、前へまわって……ええか? わしの舞いはへたじゃで……六兵衛は舞いはじょうずじゃ。こら、あんばいよう見んかい」 「へえ、みております」 「おい、そっちのやつ、おまえもうつむかんと、よう見んかい」 「へえ、えらい難儀や」 「ぐずぐずいうたらあかんで……ええか? ……こう、扇子《おうぎ》を、さっとひらいてなあ、 蝶が菜種《なたね》か、いや、はっ……てやつじゃ。扇子をはらうところが好きじゃ。 蝶が菜種か、よう……なあ、駕籠屋…… 菜種は蝶の味知らず、蝶は菜種の味知らず……こう唄うのかいな?」 「知りまへん」 「まあ、こないな調子や…… 蝶は菜種の味知らず、あっ、チントンシャン……どうや、うまいやろ?」 「へえ……」 「気のない返事やな。どうや、うまいか?」 「へえ、おじょうずだす」 「そうか、ほたら、もう一ぺん唄おう」 「いや、もう結構だす」 「そないにいわんと、もう一ぺん…… 蝶は菜種の……ああ、酔うた、酔うた……」 「もしもし、駕籠の中へあたまをつっこみなはって……やあ、グーグーいびきかいて寝てしもた。こまるなあ、起こせ、起こせ」 「もしもし、もしもし……」 「な、な、なんじゃ、どうするんじゃ?」 「いえ、どうするもこうするもおまへん。駕籠の中へあたまつっこんで、寝てもろたらこまります。もうお帰り」 「お帰りやと? ……いかいでかい。人がうつうつしかけたところを、背なかを、だしぬけにどやしよって、びっくりしたわい……こうっと、みやげものは、これでよし、手ぬぐいはこれでよし……そのへんに、わすれものあらへんか?」 「ありまへん」 「さよか……ほなら、さいなら…… 蝶は菜種の味知らず、あっ、チントンシャン……」 「ほんまに、ばかにしよる……わるい酒やなあ……」 「そやよって、最初からあんな者に相手になるないうたやないか……やあ、ちょいとみてみい。だいぶ酔うとるな。南からきて南へいきよるぞ。方角をとりちがえてるのやろ、酔うてるさかいに……仇《かたき》の末《すえ》やなし、教えてやり」 「おーい、いまのお人、もうし、いまのお人!」 「なんや? 駕籠屋」 「あんた、南からきて、また南へいきなはるが、方角とりちがえてなさるのじゃろ?」 「なにか、南からきたら、南へいけんか?」 「だいぶ、にくたらしい酒やな。あんた、大阪のほうへいきなはるのとちがうか?」 「だれが大阪へいく。わしは、堺の神明町の者じゃ」 「へえ、神明町の人が、なんしにここまできなはったんや?」 「ひょっとみたら、駕籠屋がいてたさかい、酔いざましにきたんや」 「あっ、はじめから、なぶりにきたんや……ほんまに、えらい目におうたな」 「あ、こりゃこりゃこりゃさ、よいやさのこりゃさっと、えんやこりゃこりゃ、こりゃこりゃこりゃっ……」 「やあ、えらい派手な人がでてきたな。扇子《おうぎ》持って、踊りながらやってくるで……もし、旦さん、駕籠はどうでやす?」 「駕籠屋、駕籠屋、お駕籠を持っといで、よいよいよいよい、えらいやっちゃ、こらこら」 「ひとつ、お供《とも》しまひょか?」 「うれしゅうてたまらん、おまえも踊り」 「さよか、おい相棒、踊れいうてはるねんが、どないしよう?」 「踊りいな。ほたら乗ってくれはるがな」 「そうか? ほたら、旦さん、こりゃこりゃさのこりゃさ、よいやさのこりゃさと……どんなもんで?」 「あ、こりゃこりゃこりゃさ、よいやさのこりゃさ」 「へえっ、こりゃさのこりゃさ、よいやさのこりゃさ」 「駕籠屋が踊った、駕籠屋が踊った、あ、こりゃこりゃこりゃこりゃこりゃっ、お駕籠のまわりをぐるぐるまわりまひょ、そらそらまわれ」 「へえへえ、まわろ」 「ほいほい、まわろ」 「あ、こりゃこりゃこりゃさ、こりゃこりゃこりゃさ」 「こりゃこりゃこりゃさ、ちょいとちょいと、旦さん、ここらで、お駕籠はどんなもんじゃ?」 「乗りたいけど、銭がない。あ、こりゃこりゃこりゃさ、こりゃこりゃこりゃさっ」 「あっ、行《い》てしもうた。あほらしなってきた」 「人をばかにしくさりよって……ほんまに運の悪い日やな」 「駕籠屋はん、駕籠屋はん」 「おい、呼んどる、呼んどる……どこやろ? ……へー、どちらはんでおます?」 「ここや、ここや」 「へえ、声はすれども姿はみえず……あっ、こりゃ、駕籠の中とは気がつきまへなんだ。いつのまにお乗りになりましたんで?」 「あははは、わるけりゃ、でよか?」 「いえいえ、どうぞそのまま……で、どちらまでやりまひょ?」 「堂島までやってんか?」 「へえへえ……よろしゅうおます。旦那《だん》さんに乗っていただいてげんがようなりました」 「なんぼでいく?」 「へえ、ほなら、えらいあつかましおますけど、一分やってもらえまへんやろか?」 「そこ、二分にまからんか?」 「え? わて、一分いうてまんねん」 「そやさかい、そこ二分にまからんか?」 「へ?」 「わからんやっちゃな酒代《さかて》も走り増しもひっくるめて、二分でどやというてるのや」 「おおきに、おおきに、……力いっぱい走らしてもらいまっさ」 「おいおい、おまえら、これでぐーっとやっといで、景気づけや」 「へっ、さよか、おおきに……おい相棒、お礼申せ、これ、いただいたで……ほなら、旦さん、ちょいと一ぱいひっかけてきますよってに、すんまへんが、ちょっとお待ちを……」 「ああ、早よ帰ってこいよ……もうし、もうし、堺屋はん、いまのうちや……いま、駕籠屋がいきよりましたで、いまのうちに乗りなはれ」 「うまいこといきましたな……しかし、ふたり、はいれますかいな?」 「そりゃ、ちょっときゅうくつなんは、辛抱してもらわんと……」 「あははは……こらおもろい」 「あっ、帰ってきよった。しずかにしなはれや」 「へえ、旦さん、えらいおそなりまして……」 「ああ、勝手に垂れおろしたさかい、早よやってくれ」 「へえ、ほなら、やらしてもらいます。さあ、相棒、肩いれよ、よっ、うん……おい、しっかり腰いれんかい。よっ、うん……よいしょっ……おい、相棒、あの旦さん、やせたお人のようにおもたがなあ、えらくおもいやないか。じっくりいけよ。ほい、ほい、ほい、ほい」 「ほい、ほい、ほいっ」 「うっふっふ、おもい、おもいいいながら、とうとうかつぎだしましたで……うまくいきましたな」 「ほんまにええぐあいだすな」 「駕籠までふたり仲よう乗ろうとはおもいまへなんだな」 「ほんまにようあそびましたなあ」 「そやけど、こないに抱きおうておると、角力とっとるようだすな」 「角力といえば、この場所の緋縅《ひおどし》と桜錦の一番、おもしろおましたな」 「緋縅が、上からこう押さえつけよった」 「桜錦が、下からこう前みつをとって食いさがりよった」 「うっ、きたな、ほなら、両|上手《うわて》でこう……」 「では、あたまであごをこうつきあげて……」 「よっ、えいっ」 「なにを、えいっ」 「うん、それっ」 「どっこい、どっこい」 「おいおい、待て待て、相棒……こりゃあなんや? どうもおかしいおもたら、ふたりも乗ってなはるがな……旦さん、そら、無茶苦茶だんがな」 「ははは、とうとうみつかってしもたか」 「笑いごとやおまへんで、殺生やがな、ふたりも乗ってなはって……」 「そやさかい、二分やるやないか」 「へえ、そらそうやけど、このままではどないもできまへん」 「なぜや?」 「やれて、底がぬけてまっせ」 「心配しいな。むこへ着いたら、なんとかしたるさかい、このままやれ」 「そやかて……」 「かまへん、わしら、中で歩く」 「中で歩く? ……おい、相棒、どないしよう?」 「しょうない。このままいこ」 「へえ、旦さん、相棒もああいうとりますさかい、ほたら、歩いとくなはれや。どっこいしょっ、それ、相棒いくで、……わあ、こら楽や。こら軽いわ……ほいほいほい」 「それ、ほいほいほい」 「おい、駕籠屋、急いだらあかんで、このせまい中で、ふたり歩いてるのやさかい……堺屋はん、あんた、そう押したらあかん……あっ、痛っ、足踏んだらあかん」 「すんまへん……せまいさかいに、こらえてや……わあ、こりゃあぶない」 「ほいほいほい」 「やっ、ほいほいほい」 「おとっつあん、おもろい駕籠がきよるで」 「ほんまに……客も駕籠屋もみな歩きよる」 「あの駕籠、足が八本あるで」 「ほんに八本やがな」 「あの駕籠、なんちゅうねん?」 「あれがほんまの蜘蛛《くも》駕籠や」 どうらん幸助 「おい、おまえ、なにしてんねん?」 「仕事がやすみやさかい、ぼんやり立ってんねん」 「ふーん、ひまなんやな?」 「ああ」 「一ぱい飲ましたろか?」 「酒か?」 「あたり前やないか。水や油飲ましてどないするんねん?」 「ぜにあるのんかい?」 「ぜにはないわ……無《の》うても飲む法があるねん……それそれ、むこうから酒樽《さかだる》がころんできたがな」 「え? どこに酒樽が?」 「それそれ、飲ましてくれるやつがきた。いま、あの小間物《こまもの》屋の前歩いてる人、ほら、酒屋の前、なっ、そら八百屋の前」 「どの人やいな?」 「そらそら、呉服屋の前、あっ、薬屋の前、紙屋の前……」 「わからんがな、そないいうたら……」 「しゃあないやないか。むこうは歩いてんのやさかい……そらそら、いま、うどん屋の前でだれかと立ちばなしをしてるやろ? 腰へ大きなどうらんさげた、あの人や」 「どうらん? ……ああ、あの物入れさげた人か?」 「そうや。むかしは、軍人が鉄砲のたまをいれたもんや。それからのち、印形《いんぎよう》や薬などをいれたもんやがな……」 「ふーん、あの人、みたような気もするけど、あれ、だれやねん?」 「この横町《よこまち》の割り木屋(薪屋)のおやじで、どうらんの幸助ちゅう有名な人やがな」 「なんでそないに有名なんや?」 「あのおっさんはな、若いころに、丹波《たんば》の篠山《ささやま》から無一文で大阪へでてきた。それから、まっ黒になってはたらいたんや」 「ほう、炭屋してか?」 「あほ! ベつに炭屋せんかて、いっしょうけんめいはたらくことを、まっ黒になってちゅうのやがな。でまあ、苦労してお金をためたんや。それだけのおやじやさかいな、道楽というものはなにも知らん。芸者やお茶屋てなもん、まるで知らんし、芝居や浄瑠璃《じようるり》かて、みたことも聞いたこともない」 「ほな、生きててもなんのたのしみもないやろな?」 「ところが、あのおやじに、ひとつだけ道楽があんのや」 「ほう……どんな道楽や?」 「喧嘩《けんか》や」 「え?」 「喧嘩や」 「喧嘩するのん?」 「喧嘩するのやない。仲裁や。人が喧嘩してるところへいって、『ちょっと待った』ちゅうて仲裁にはいる。『おまえら、わしを、だれや知ってるか?』『ああ、割り木屋のおやっさんでんな』『知ってりゃ幸《さいわ》いや、この喧嘩、わしにあずけるか?』『あずけます』というたら、『よし、ちょいとこい』と、近所の小料理屋へつれて行《い》てな、『この喧嘩、わしがあずかる。飲んで仲なおりして帰れ』ちゅうて、一ぱい飲まして、どうだ、おれはえらかろうと、親分気どりでいばろうちゅうのが、それがあのおやじの道楽や」 「けったいな道楽やな」 「このあいだもな、たばこ屋の赤犬と、かまぼこ屋の黒犬の喧嘩の仲裁をしたんや」 「ほう、犬の喧嘩!?」 「そうやがな……二ひきの犬が噛みあいの喧嘩しとった。すると、あのおやっさん、そこへとびこんで、『ちょっと待った。おまえら、わしをだれや知ってるか?』と、こういうねん」 「犬が、『ああ、割り木屋のおやっさんでんな』といいよったか?」 「犬が口をきくかいな。『ワンワンワーン』ちゅうて吠《ほ》えるだけや。『ワンワンいうところをみたら、知ってんのやな? ほなら、わしにまかすか?』『ワンワンワーン』『まかすんやな?』ちゅうて、勝手にきめよって、魚屋へ行って、あらを仰山買《ぎようさんこ》うてきて、『さあ、これ食うて仲をなおせ』と、ほうりだしよった。犬のこっちゃ、喧嘩わすれてそれ食うてるわ。食うだけ食うてしもたら、また喧嘩や。『まだたらんなあ』いうて、また魚屋へいて、あらを買うてきて、ばーっとほうりだしよった。それを食うてしもたら、また喧嘩や……また、あらをばーっ……犬の喧嘩と魚屋との間を三十六ぺん往復しよった。犬のやつ、しまいに腹がふくれてうごけんようになってしもて、とうとう喧嘩やめよった。それみて、ごきげんで、うちへ帰るというおやじや、あの人は……」 「けったいな人やな」 「そやさかいな、おやっさんが、むこうからくるのをさいわい、おまえとわしで相対《あいたい》喧嘩しよう」 「ほな、魚のあらを食うのんか?」 「あほ! 犬といっしょにするやつがあるか……ふたりで、にせものの喧嘩をするのや……それみたら、あのおやっさん、ようほっとかんわ。『ちょっと待った。おまえら、わしを、だれや知ってるか?』ときたら、しめたもんや。『割り木屋のおやっさんでんな』『知ってりゃ幸いや、この喧嘩、わしにあずけるか?』『あずけます』——そのへんの小料理屋で一ぱいちゅうねん、どや?」 「そらええが、どういう段どりにするねん?」 「とにかく、わしが歩いてるさかい、おまえ、ボーンといきあたってこい。ほんなら、わしが、『なにをするんねん?』というなり、おまえの頭をボーンとひとついくさかいな」 「どっち側《がわ》どつく?」 「そんなもん、そのときの都合で、わかるかいな」 「なるべくなら、右のほうどついてや。この左側に出来物《できもん》ができたあんねん……」 「わかったあるがな。とにかくどつくさかいな。おまえは、『なにも、そんな、いきあたったかて、おたがいさまやのに、手えかけいでもよろしいやおまへんか』とこういうんや。すると、わしが、『なにぬかしてけつかんねん』ちゅうなり、むこうずね、バーンとけりあげるわ」 「ああ、痛そうなとこばっかりねらうのやな」 「むこうずねけりあげたら、おまえ、とにかく仰向《あおむ》けにひっくりかえれ。ほな、わしが下駄で、踏んづけて、痰《たん》はきかけるわ。ええか? そこで、わしが、おまえの足もってひっぱって行《い》て、むこうの肥《こえ》つぼへほりこんで、上から石投げこむさかい」 「あほらし、やめさせてもらうわ。わいは、なにもそないまでしられて、酒飲みたいことないのやさかいな」 「まあ、こりゃはなしやがな。それぐらいのいきおいでいかなんだら、むこうも信用せえへんさかいにいうてんのやがな……あっ、おやっさん、歩きだした、歩きだした。さあさあ、ドーンとぶつかれ」 「へえ」 「早《は》よこい、ドーンとこい……あっ、こらっ、おのれなんでぶつかりやがったんじゃ?」 「なんでて、おまえがぶつかれというさかいに……」 「そんなこというたら、あかへんやないかい……こらっ」 「痛い、痛い、左側どついたらあかんちゅうてるのに……できもんが……」 「なにをごじゃごじゃぬかしてんねん。あくもあかんもあるかい」 「くそっ、でけもんつぶしやがったな。こらっ」 「このがき、やる気ならほんまにいてもたろか!」 「なにを! ……さあ殺せ!」  夢中になって喧嘩をしております。ところへとんできた幸助さん、 「ちょっと待った! 待て、待て! 待てっちゅうのに……おい、おまえら、わしを、だれや知ってるか?」 「おっ、あんた、割り木屋のおやっさんでんな」 「知ってりゃ幸いや。この喧嘩、わしにあずけるか?」 「へえ、もう、おやっさんにはいってもろたら、いうことおまへん。おあずけします」 「よし、おい、そっちの男、おまえ、どうや?」 「へえ、まかすことになってまんねん」 「おかしなこというない……ほんなら、わしが仲裁さしてもらうさかいな、おまえら、ちょっとついてこい」 「こううまくいくとはおもわなんだな」 「いうた通りやろ」 「こらっ、ふたりで、ごじょごじょ、仲ようはなしをするな。わいが仲裁する前に仲ようされたらたよりのうていかんがな……さあ、ここや、ふたりともはいれ……おーい、ちょいと二階借りるで……さあさあ、こっちへあがれ……さあ、ふたりとも坐れ……ああ、ちょっと、とりあえず銚子《ちようし》が一本と盃《さかずき》ひとつ、それだけ用意しといて……さあ、まずはじめは、どういうことから喧嘩になったんや? 仲裁するについてはやなあ、そのいきさつ聞かないかんな。どういうことや?」 「そんな、あんた……あんたにまかしたんでっさかいな、もうそんなむつかしいことはいわんと、ぐーっと一ぱい……」 「なにぬかしてんねん。わけも聞かずにむりやり仲なおりさせた、てなこといわれたら、わしの顔にもかかわるさかい……さあ、いうてみい。どういうところから喧嘩になったんや? こらっ、そっちの男、いうてみい!」 「えっ……そのう……つまり……はじめは、わたし、仕事がやすみやさかい、ぼんやり立ってたんでんね。ほな、これがきてね、『一ぱい飲ましたろか?』とこういうん、『酒か?』ちゅうたら、『あたり前やないか。水や油飲ましてどないするんねん?』『ぜにあんのかい?』『ぜにはないわ……無《の》うても飲む法があるねん……それそれ、むこうから酒樽がころんできた』と……」 「これっ、あほ! なにいうてんねん。おやっさん、こんなあほに聞いたかてわからしまへん」 「おのれはだまってえ。それからどうした?」 「で、酒樽が飲ましてくれるちゅうて……」 「なんや、ようわからんが、ほな、なにかい? だいたい、もとは、酒をどうのこうのてなことから喧嘩になったんか?」 「まあ、そうでんねん」 「なんや、おまえらは友だち同士やろ? もう、しょうもないことで喧嘩さらしやがって、なんちゅうこっちゃ……わしが通らなんでみい、いま時分どっちかが死んで、どっちかが大怪我してるわ」 「通らなんだら、喧嘩はなかったやろとおもうわ」 「なんやと?」 「いえ、なんでもおまへん……」 「そんなら仲なおりするんやな? わしにまかせるんやな?」 「へえ、もう、おまかせします」 「よしよし……そんなら、こっちの男、おまえのほうが年上らしいな。さあ、おまえから盃うけい」 「へっ、どうもすんまへん。へへ、おおきに……」 「さあ、その盃をこっちへまわせ」 「そんな、あんた、殺生な……せめて、駆《か》け付け三ばい」 「あほなこといわんと、こっちへまわせ。さあ、仲なおりの盃や。おまえ、うけとれ」 「へえ、いただきます……おやっさん、この盃は?」 「そら、こっちへくれ。ちょっとついでくれ……うん、さあ、これで手打ちはすんだ。仲ようせなあかんで……もっとそばにいてやりたいが、世間にまたどんな喧嘩がおこってるやわからんさかいな、わし、これからでかけるさかい、仲ようしいや……酒、足《た》らなんだら、そういっとくさかい、階下《した》へいうて、もろうたらええ」 「ああさよか、おおきに……ああ、おやっさん、あした、また、あのへんを歩いてもらえまへんやろか?」 「なんや?」 「また喧嘩してますさかい、どうぞ……」 「なにぬかしてけつかんねん、あほっ!」  幸助さん、会計万事すまして表へでました。 「ああ、わしもだいぶ顔が売れてきたわい。『殺せ』『殺したる』ちゅう大喧嘩もぴたりとおさまってしもうた。うふふふ」  幸助さん、悦《えつ》にいりながら横町へやってまいりますと、そこに義太夫のお師匠さんがございます。むかしは、大阪は義太夫の本場でございまして、小さな子どもさんでも、さわりの一節ぐらいは、みな知ってたもんでございます。まあ、それくらいさかんなもんでございましたが、幸助さん、義太夫のぎの字も知りません。  いま、ひとりの弟子が、お師匠さんに、「桂川連理柵《かつらがわれんりのしがらみ》」、お半長右衛門の浄瑠璃をさらってもろうております。 「柳の馬場は押小路《おしこうじ》、虎石町の西側で、軒をならべし呉服店、主《あるじ》は、帯屋長右衛門」という出で、そのうちに、「親じゃぞえ、ちえー、そりゃ、あんまりでござんす」という文句がございます。  これは、長右衛門の女房おきぬが、姑《しゆうと》にいじめられるところで、義太夫のほうでは、「嫁いじめ」というております。 「親じゃぞえ、ちえー、そりゃ、あんまりでござんす」  お弟子さん、しきりにあたまをふってやっております。表は、義太夫好きの人たちで黒山のよう……そこへ幸助さん、やってまいりました。 「なあ、わたしゃこの芝居みるたんびにおもうんやけど、この帯屋のおとせちゅうばばあは、わるうおまんな」 「ああ、ほんまに……この嫁いじめのところなんか、腹ん中がむかついてきまっさかいなあ」  この嫁いじめということばが、義太夫のことを知らない幸助さんの耳へはいったからたまりません。 「おい、嫁いじめがあるそうやな?」 「へえ」 「いったい、どこであるのや?」 「ここでやってまんがな……それ、聞いてみなはれ……『親じゃ、ちえー、あんまり……』と、聞こえまっしゃろ?」 「ほう、派手にやっとるなあ……ほいでなにかいな、だれひとり、中へはいって口をきいてやろうちゅうやつはおらんのか? みな、ただ、おもしろがってんのかい? 薄情やなあ」 「え? なんです?」 「いや、こないな薄情者相手にしておってもどもならん。どけ! わしが仲裁したるさかい……」 「なんや? この人は……」 「さあ、どけ! わしが中へはいって口きいてやろうやないか……ええ、ごめんなはれ!」 「へえ、おいでやす……えー、お師匠《つしよ》はん、お人がみえてまっせ」 「ああ、さよか……はい、どちらはんで?」 「あんたか、ここのあるじさんは?」 「へえ、そうでおます。なんぞご用で?」 「……たいがいにしときなはれ」 「え? なんのこって?」 「嫁いじめもたいがいにしときなはれ」 「え? 嫁いじめもたいがいに? ……なんやおもうたら、浄瑠璃のはなしかいな」 「浄瑠璃てなんや?」 「いいえ、お半長でんがな」 「お半長てなんや?」 「なにも知らん人やな……あんた、お半長ちゅうたら、京都のおはなしでんねん」 「なんやと? 京都のはなし? 京都のもめごとをここでさわいでるんのかい?」 「いや、こまった人やなあ……あんた、ほんまにお半長右衛門、知らなはらへんので?」 「ああ、知らん」 「こまったなあ……あのねえ……そのう……京都の西陣、柳の馬場押小路虎石町の西側ちゅうとこに、帯屋長右衛門という人がおります。この長右衛門が、お伊勢まいりの下向道、石部の宿の出羽屋という宿屋で、近所の信濃屋のお半ちゅう娘と泊まりあわせて、ちょっと、こう、ややこしい仲になってな、お腹が大きなりましたんや」 「ほう……で、その近所の、相手の娘のお半か、こらいくつや?」 「十四で……」 「十四!? ……ませた娘やな……長右衛門ちゅうのはなんぼじゃ?」 「四十に近き身をもってちゅうさかい、まあ、三十八、九でっしゃろかな」 「ええ年をして、また、こら、なんちゅうことをしくさるのや……」 「ほんまだすなあ……」 「感心したらあかんがな……それからどうした?」 「その帯屋に、舅《しゆうと》で半斎という、これは、ほとけさんみたいにようでけた人でんね、そやけど、その人の後添《のちぞ》いで、おとせというおばあんが、これはわるいやつです。自分に儀兵衛という連れ子がある。ほいで、長右衛門をほりだして、自分のお腹を痛めた子どもをあとへすえたいという気がおますわな」 「ふん、わるいやっちゃ」 「へえ、ところが、また、長右衛門には、おきぬという嫁はんがある。これはまた貞女ですねん。自分の夫と親とのあいだにはいって、ずいぶん苦労してます。それをまた、おばあんがいじめるてなもんですわ」 「うーん、よう教えてくれた……よしっ、わしも聞いた以上は、ほっとけん性分や。ほな、ちょっと京都まで、このもめごと、さばきつけにいく」 「いや、あんた、これ……」 「ちょっと待ってくれ。ようたしかめんといかんさかいな……ところはどこやいうたな?」 「柳の馬場押小路、虎石町の西側という……」 「うんうん……あるじは帯屋長右衛門か、で、この嫁はんがおきぬというのやな、ほいで、舅が半斎、それで、その後添《のちぞ》えのおばあんがおとせ、こいつがわるいやっちゃな、ふんふん、つれ子に儀兵衛というのんがおる。で、その近所の娘がお半やな……うん、ようわかった。ほなら、わしは行《い》てくるさかい」  ころは明治の初めでございまして、大阪と京都のあいだには、もう汽車が通じておりましたが、旧弊《きゆうへい》な幸助さんは、汽車が大きらい、八軒家から三十石舟に乗って、一晩がかりで伏見へ着きました。 「ああ、ちょっとたずねますがな」 「なんどす?」 「京都西陣、柳の馬場押小路、虎石町の西側ちゅうとこあるかい?」 「へえ、おすえ」 「そこに帯屋長右衛門ちゅううち知らんか?」 「……ちょっと待っとおくなはれ。なんや聞いたような名前やな……柳の馬場押小路、虎石町の西側で、帯屋長右衛門? へっ、人をなぶるのやないで、あんた……そら、まあ、お半長やないか?」 「そや、お半長や、知ってるか?」 「ようそんなあほなことを……あはははは……お半長なら、子どもでも知ってまっしゃないか」 「子どもでも知ってるか? うーん、そんな大きなもめごとを、なんでわしがいままで知らなんだ?」  あっちで聞き、こっちで聞きしてまいりますと、偶然にも、虎石町の西側に一軒の帯屋がございました。 「ああ、ここが帯屋じゃな。ええ、ちょっとごめんを!」 「へえ、おいでやす。どうぞ、ま、座布団《おざぶ》あてとおくれやす……小僧、お茶を持っといで」 「いや、そうかもうていただいてはこまります。わたしは、帯を買いにきたもんやございませんので、ええ、ちょっと、ここのおうちのことで、折りいっておはなししたいことがあってまいりましたんやが、あんたは、こちらのご主人か? それとも……」 「へえ、わたし、当家《とうけ》の番頭どす……ま、とにかくお茶を……」 「いやもう、どうぞおかまいなしにな……聞くところによると、こちらでは、ちかごろ、なんかこうもめとるそうやないか?」 「え? ……なんやおもうたら、あんた、けったいなこといやはりますな。お門《かど》ちがいやおまへんか? ……てまえどもは、べつにもめたりはしておりませんで……」 「いやいや、そうかくしてもろてはこまります。わたしは、このもめごとをおさめて、お礼をもらおうとかそんな気持ちはあらしまへん。ま、とにかく、あるじさんの長右衛門さんにちょっとでてきてもらおう」 「はあ、やっぱりまちごうてますわ。わたしどもの主人は、忠兵衛と申しますが……」 「そうかくしてもろたらこまる。わたしは、みな聞いてきましたのやさかい……まあ、番頭さんとしたら、自分とこの恥を世間へだすまいとおもうてかくしなはるのやろけど、いつまでかくしだてしてもらうと、かえってことがややこしくなる。まあ、しかし、長右衛門さんは、ちょっとでにくいかもわからん。石部の宿の一件があるさかいなあ……ほな、おかみさんのおきぬさんにちょっとでてもらいまひょか」 「いえ、てまえどものお内儀《ないぎ》は、お梅さんと申します」 「いつまでそんな逃げ口上いうてもろたら、わし、しまいに怒りまっせ。それやったら、おばあんのおとせとやらに会わせてもらいまひょ」 「……なんや最前からはなしがおかしいおかしいとおもたら、あんさんのおいいやすは、そら、お半長やおへんどすか?」 「そや、お半長やがな」 「あははは……もう、このいそがしいのに、ようそんなこといいにきなはんな」 「なにがい?」 「なにがいて、あんた、そら、いまのおはなしやおへんどす。とうのむかしに桂川で心中しましたどすえ」 「えっ、桂川で心中したか!? ああ、汽車できたらよかった」 貝野村  大阪|船場《せんば》のある大きなお商人《あきんど》のお宅に、出入りの棟梁の世話で、丹波の貝野村から女中がまいりました。  この女中さん、山の中からきたにも似合わず、なかなかの別嬪《べつぴん》さんで、年は十八、名前がおもよさん。  背《せい》がすらりと高《たこ》うて、色がくっきり白《しろ》うて、鼻がつーんと高い。鼻すじがしゅっと通っておって、眉毛も愛嬌がございます。笑うとえくぼがはいって、口もともかわいい。おちょぼ口というのは世間にたくさんございますが、おもよさんのは、あまり小さいさかいに、ご飯つぶが横にはいらん。たてにして金づちでたたきこまねばならんというしまつ。歯ならびがきれいで、首すじがすーっとしておって、からだのようすが、じつによろしい。お尻も小さくて、じつにかっこうのよろしいことで、あるかないか知れませんくらいで……  おもよさん、こないにきれいやさかい、世間の人が、小町と名前をつけました。  で、このお店の若旦那、お年は二十二、男前が、じつによろしいので、世間では、今業平《いまなりひら》という名前をつけましたくらい。これで、商売のかけひきもうまいという、世間で評判の若旦那でございます。  この若旦那のそばにつききりで、ご用をうけたまわっておりますのが、おもよさん。つまり、今業平と今小町が始終いっしょにいるというようなことだすな。ところが、ふたりとも、いたっておとなしいさかい、心の中ではおもいあっておりますが、人のうわさにのぼるようなことはいたしまへん。  あるとき、この若旦那が、商用で九州へでかけましたが、その留守中、母親が病気になりましたので、おもよさんは、暇をとって、看病のために貝野村へ帰りました。しかし、主家へは、おさしつかえをさせませぬようにと、かわりの女中さんをつれてまいりました。  このかわりにまいりました女中さん、年も十八、名前もおなじくおもよさんでかわりはございませんが、品ものは、ひどいちがいようで……こんどのおもよさん、背がすらりとひくい。色がくっきりと黒い。鼻がつーんとうしろへ高い。そのかわりに、でぼちん(ひたい)がぐーっと出張ってる。髪の毛がすくのうて、赤くちぢれておって、八の字眉毛で、目尻がさがって、わに口で、鬼歯がにゅーっと生えておる。頬骨《ほおぼね》がぐーっと立っておって、猪首で、鳩胸で、出《で》っ尻《ちり》という。この尻の大きいのなんの……にわか雨のさいには、この尻の下で三人くらいは雨宿りができるというりっぱなやつで……それに、足の太いこと、太いこと、それも、太股のつけ根から足の先まで、ずんべらぼうのおんなじ太さ、なんのことはない、電柱が二本ならんだよう。足が十三文|甲高《こうだか》、それも足袋《たび》なぞはかんさかいに、四季を問わず、年中、あか切れがきれておって、田舎で畑仕事をしたさいに、このあかぎれの中へ、麦とか、ひえとか、豆とかはいったさかい、春さきになると、ぽちぽち芽をふきだす。そのほか、蛙がとびだす。どじょうがとびだす。大蛇がはいだす。狼がかけだす。山賊がかけだす——もうたいへんな足……まあ、人三化《にんさんば》け七《しち》、つまり、人間が三|分《ぶ》で、化けものが七|分《ぶ》ということばがございますが、このおもよさんは、人なし化け十というやつでございます。  そうとはご存知ない若旦那、九州から無事でお帰りになりました。 「いや、ごくろうじゃった。どうぞゆっくりやすんでくだされ。これ、せがれが帰りましたよ。え? なに? 風呂がわいたか? せがれや、つかれやすめに、ひと風呂はいってきなされ。あとで、ゆるゆるとはなしを聞くさかいに……」 「ほなら、おとっつあん、おさきへいただきます」  と、お風呂場へまいりましたが、若旦那、お風呂がたのしみでございます。なにせ、きれいなおもよさんが背なかを流してくれますさかい、仕事のつかれもすっかりぬけてしまいます。もうおもよがくるやろか、もうくるやろかと、待てどくらせどまいりません。若旦那、待ちくたびれて、のぼせて気持ちがわるうなってきましたさかい、ふいと立ちあがると、腰から下は、湯でまっ赤で、上半身は、湯気で黄色、顔はまっ青という、なんのことはない、交通信号みたいなものができあがりました。 「ははあ、おもよは、化粧に手間どっておってこられんのやろ。きっとそうや。ほなら、ご飯食べだしたら、お給仕にでてくるにちがいない」と、こうおもいました若旦那、湯からあがって、自分のお居間へいらっしゃると、もう、お膳がでております。 「これこれ、ご飯を食べるさかい、お給仕にきておくれ……これ、お給仕にきてくれんかいなあ」 「はーい……お清どん、お給仕やし、若旦那のお部屋へちょっと行《い》ておいでやす」 「わたい、いややし。わたいやお気にいらんのやし。じきに、おもよをよこせとおっしゃるよってな」 「ほなら、おもよどんをやったらええやないか」 「そやけど、おもよどん、いてやないやないか」 「かわりのおもよどんがいるわ」 「えっ、あの化け物をかいな?」 「そうやがな」 「そうやなあ、どないなるか、ちょっとやってみまひょか? ……おもよどん、おもよどん」 「はーい」 「あのな、おまえにはなしたことがあるやろ? ……うちの今業平の若旦那、きょう、九州からお帰りになったんや。でな、いま、ご飯をめしあがるさかい、おまえ、お給仕に行《い》ておいで。ええか? 前のおもよどんは、若旦那のお気にいりやったんやし、おまえもしっかりつとめてや。さあ、早よいといで」  こういわれたおもよさん、人なし化け十ではございますが、年が十八、色気ざかりでございますから、自分の部屋へとびこむと、大急ぎでお化粧をいたしました。  なにせ、ふだんなにも塗らんところへ、あわてて塗ったもんですさかい、おしろいと、まっ黒な地肌と、まんだらなものができあがって、まるで焼けのこりの蔵のような顔になってしまいました。おまけに、大きな口いっぱいに紅をぬりまして、それがよだれで流れて、顔じゅう口のようなさわぎ。 「はい、これは、若旦那さんでござんすか。ようまあ、ご無事でおもどりなされました。わしがのう、お留守中にご奉公にあがりましたおもよでござんすがのう……みながのう、若旦那さんは、よか男じゃ、よか男じゃといわしゃるが、ほんにまあ、よか男じゃのう……わしゃもう、すっかりおっ惚れ申したがのう……さあ、うーんと食わっしゃい。わし、いくらでも盛りますべいから……」 「おーい、お清、お清!」 「はい、お呼びでございますか?」 「なんやなあ、これは?」 「え?」 「いや、なんじゃい、この女は?」 「……あの……おもよどんで……若旦那のお給仕にまいりました」 「あほぬかせ! こないなおもよがあるかいな。これが、うちの中やからええんやぜ。もしも、山の中へいってみい。熊とまちがわれて、鉄砲で撃《う》たれてしまうで……まだ、日本に、ようこないな人間がのこっておったな……ともかく、いつものおもよをよこしてんか?」 「まあ、若旦那、まだ、ご存知やござりまへんか?」 「なにをやいなあ?」 「あのおもよどんは、おっかはんの看病とやらで、丹波へ帰らはりましたがな」 「えっ、ほんまか? いつのことじゃ?」 「へい、三日前に……」 「そうか……そうして、いつもどるのじゃ?」 「いいえ、もうもどってやござりませんそうで……」 「えっ、もどらん! ……うーん……これ、わたしの寝間をとっておくれ。この女中の顔をみたら、急に気分がわるうなった。もうご飯はいらん。お膳をひいて、早《はよ》う寝間をとっておくれ」  さあ、こうして床についたっきり、四、五日というもの、ご飯をめしあがらんので、さあ、おとっつあんはご心配で、お医者さんにみせますと、「こりゃ気|病《やま》いじゃ」というて、お帰りあそばしました。  そのうちに、十日たち、二十日たち、かれこれ一ヵ月もたちましたが、ご飯つぶというものを一つぶもめしあがりまへんさかい、からだは弱るばかり……しまいには、お薬が、のどを通りません。水が通らん、湯が通らん、電車が通らん、自動車が通らん、飛行機が通らん……もう、えらいことになりました。  すると、ある日のこと、お医者さんが診察にみえましたが、若旦那が、夢うつつのうちに、うっかりと、「おもよ」ということを口走ったものですさかい、お医者さんは、気病いのもとをこれと合点して、おとっつあんにはなしをしてお帰りになりました。  さあ、おもよさんが病いのもととわかりましたので、おとっつあんもようやく気が楽になりまして…… 「ああ、これこれ、棟梁の甚兵衛になあ、『用事ができました』というてなあ、大急ぎで呼んできてくだされ」  と、つかいを走らせました。 「へい、旦那さま、こんちわ……どうも長らくごぶさたをいたしまして……」 「いやいや、あいさつはぬきにしておくんなはれ。じつはなあ、いま、あんたを呼びにやったのはほかのことじゃないが、長らく床についておったせがれじゃがな……」 「へーえ、そうでやすか、そりゃどうもお気の毒な……へえ、ご愁傷《しゆうしよう》さまで……なむあみだぶつ……」 「なにいうてんのや縁起《げん》のわるい。まだ死にゃせんがな」 「ああ、さよか、危篤《きとく》ですか?」 「なにあほなことばかりいうてんのや……そやないがな。じつはな、せがれの病いのもとが、ようよう知れましたんじゃ」 「病いのもとが知れた?」 「そうや……笑うてくださるな。ありゃ恋わずらいじゃ……それも、おまえが世話してくれたおもよな、あれに惚れたんじゃ」 「へーえ、いまの時節に恋わずらいとは、めずらしゅうおまんな」 「そうやろ? かわいいやないか? ……で、お医者さまのおっしゃるには、このご病人は、どんな薬を飲ませたとてだめじゃ。まあ、おもよさんを煎《せん》じて飲ませるよりほかに手がないと、こうおっしゃるのじゃ」 「へーえ、おもよどんを煎じて飲ませる? そんな大きな土瓶《どびん》がありますかいな?」 「なにいうてんのや。ちがうがな。おもよを呼びもどして、せがれの看病をさせるのじゃ。そうせんことには、この病気はなおらんさかいに……でな、先生のおっしゃるには、からだがひどく弱っとるさかい、明日《あす》の晩までに、おもよがくれば間にあうが、明後日《あさつて》になったらだめやろと、こうおっしゃるんじゃ。おまえ、いまから丹波へ行《い》て、このわけをようはなして、おもよを明日の晩までにつれてきてくれんか? どうじゃな?」 「そりゃ、旦那さん、ご無理でやす。丹波まで、明日の晩まで行てこられるものやおまへん。三日や四日はかかりまんがな」 「そりゃ、わたしかて知ってる。けども、そうせんと、せがれが死んでしまうのやで……そのかわり、明日の晩までに間にあわせてくれはったら、おまえさんに五百両あげようやないか」 「えっ、五百両!? 五百両というと、こ、こ、小判が五百枚!? うーん」 「なにをうなっとるんや?」 「よろしゅうおます。ひとつ、足が折れるか、心の臓がやぶれるか、ともかくも明日の晩に間にあうように、いまから行《い》てきます」 「そうか、そりゃありがたい。おい、お松や、お竹や、お清や、佐助どん、弥七どん、定吉……さあ、みんなきておくれ。甚兵衛はんが出立《しゆつたつ》やで……甚兵衛はん、さあ早う……なに? 家へ帰ってしたくを? そんなひまはない。うちのせがれ、明日の晩なんやで、じきに行き。え? お腹がへってるか? そらいかん。これこれ、甚兵衛はん、お腹がすいてるそうや。ご飯ごしらえしてやっとおくれ。いや、お膳もなにもいらん。たくあん一本|洗《あろ》うて……切らいでもええ、そのおひつを縄でくくって、首からぶらさげて、そうそう、その中へたくあんをいれるんじゃ。さあ、甚兵衛はん、かならず茶店へ寄ったり、立ちどまったりしてめし食うことならんぞ。たくあんかじって、めし食べながらいそぐんじゃ。これ、番頭どん、気がきかんじゃないか。なんで手をあけてぼんやり立ってるんや? 脚絆《きやはん》をつけてやんなはれ。わたしが、わらじをつけてやるで……」 「旦那さま、旦那さま」 「なんじゃ? 番頭どん」 「あの……わらじをあたまへやっておいでですが……」 「あたまでもどこでもかまやへんで、こけたら、あたまで走っていけ。清や、わらじがまだあるやろ? え? 五足? かまへん。それを甚兵衛はんの腰へくくりつけい。さあ、甚兵衛はん、切れたら、じきにはきかえて急ぐんやで。さあ、早《は》よ行《い》とおくなはれ」  甚兵衛さんは、あたまへわらじをつけて、首からおひつをかけて、この家をとんででまして、もう夢中で、走った、走った。途中で、腹がすくと、首からつるさがっておりますおひつのご飯をつかんでは食べ、つかんでは食べしますので、顔じゅうめしつぶだらけでございます。  日もとっぷりと暮れましたころ、甚兵衛さんは、ようよう丹波の貝野村へたどり着きました。  おもよさんは、三ヵ村の束《たば》ねをする庄屋さんの娘御でございますが、行儀見習いのために、この村からでました甚兵衛さんをたのんで、奉公にでたというようなわけでございます。  さて、甚兵衛さん、おもよさんの家の玄関まで走りこんで、敷居《しきい》をまたいで、やれうれしやとおもったとたん、どっしりと尻もちをついて、「うん、うん」とうなるばかり…… 「あっ、これこれ、だれぞきてくださらんか。玄関におかしな男がとびこんできて、うんうんうなっておるが……やあ、あたまにわらじをつけとるじゃないか。はて、てんかん病みかいな? ……おい、しっかりしなされや。しっかり……やあ、おまえさんは、甚兵衛さんじゃないかの?」 「えっ……ああ……これは、これは、旦那さまで……」 「これ、甚兵衛さん、その姿はなんのまねじゃ? おひつを首からさげて、あたまにわらじをつけて……顔じゅう、めしつぶだらけじゃないか……さあ、これで顔をふいて、こっちへあがりなされ」 「へい、どうもありがとうございます。ほなら、あがらしていただきます……旦那さまにも、ごきげんよろしゅうございます」 「ああ、ありがとう……甚兵衛さん、娘をばええとこへ奉公させてくださって、ほんにお世話をかけましたな。それにまた、勝手なことをいうて、ひまをとってすみません。おかげでなあ、娘の介抱で、ばあどんの病気はすっかりようなりました」 「それは結構なことで……」 「ところが、一難去って、また一難とやら、ばあどんがようなったとたんに娘が病気になりおって、もうかれこれ二十日あまり、めしつぶというものは、一粒も食べておらん。あれこれと医者を呼んでおりますが、病気の原因がとんとわからん。で、お医者さんのおっしゃるには、娘の命は、明日の晩までくらいしかあるまいということなのじゃ」 「こりゃおどろいた。まるでどちらもおんなじはなしじゃ。じつはな、旦那さま、大阪の若旦那というのが、こちらのお嬢さんに恋わずらいで、明日の晩までの命ということですさかい、それまでに、お嬢さんをおつれ申さんと、若旦那は死んでしまわれます。どうぞ、ご主人の命を助けるのでおますさかいに、なんとか、お嬢さんをお貸しねがいとうござります」 「あーあ、あのふつつかな娘を、それほどにおもうてくださるとは、じつにありがたい。そのありがたいご主人のお命をお助けすることなれば、ぜひともお貸し申したい。けれどもなあ、娘のほうも、明日も知れんという病人やでな、山越しに、大阪までは、なかなかいくことができませんから……」 「けども、旦那さま、ひょっとして、ご病人が、大阪やったらいくとおっしゃったらどうなさります?」 「そりゃ、当人がその心持ちがあるなら、途中で死んでも、いっこうかまわん。つれて行《い》てくだされ」 「ほんまだすかいな?」 「ああ、つれて行てくだされ……娘は、はなれ座敷に寝ております。そこへ行て、娘の心持ちを聞いてやってくだされ」 「ええ、よろしゅうござります。さあ、五百両にとりついたで。もしも、いかんやなんてぬかしおったら、首根っこへ縄つけても……」 「これこれ、らんぼうしてはいかんで……」 「いえ、これはひとりごとで……ええ、お嬢さん、ごめんくださいまし」  と、甚兵衛さんが、はなれ座敷へまいりますると、おもよさんは、すやすやおやすみになっておられます。 「ええ、もし、お嬢さん、お嬢さん……」 「おう、甚兵衛さん……」 「あんたはん、どないあそばしたんです?」 「それよりも、さっそく聞きたいのは、大阪の若旦那のこと……」 「いや、その若旦那のために、わたしが、あたまへわらじをのせてやってきたんだす。じつはな、若旦那は、あんたはんのことをおもいわずろうて、明日の晩までに、あんたはんが行《い》て看病せんと、死んでしまいなさるんや」 「えっ! そりゃたいへんや。まあ、どないしょう? どないしょう? わあーん……」 「これ、あんたはん、泣いてるどころのさわぎやおまへんで。いまから、すぐに大阪へ看病にいきなはれ」 「そりゃ、いきたいわ。そやけど、おとっつあんがやってくれはるやろか?」 「ええ、それはもう、おとっつあんからは、とうにおゆるしがでてまっせ」 「まあ、うれしいこと。わたい、大阪へいきますわ」 「けどなあ、ご病気は?」 「もう、すっかりなおってしもうたわ」 「ほなら、さっそく……」 「あの、おとっつあん!」 「これこれ、どうしたことじゃ? 病人のくせに、こんなところへ走ってきて……甚兵衛どん、おまえ、おかしなことをいうて、娘を気ちがいにしたんじゃないかな? ……これ、おもよ、どうしたことじゃ?」 「おとっつあん、明日の晩までにいかんと、若旦那は死んでしまいなさるよってに、わたい、大阪へいきます」 「うん、よしよし、おまえがいくのなら、やってあげるで……長らくわずろうて寝ていたのやで、髪も結《ゆ》い、風呂へもはいって……」 「そんなことしていたら、若旦那は死んでしまいなさる。さあ、甚兵衛さん、早うして……」 「こりゃいそがしいこっちゃ……お嬢さん、あんたは病気あがりや、わたしが負《お》うてでもいきます」 「なにいうてんのや。わたいが、あんた負うてあげるわ」 「うわー、えらいいきおいやあ」  これから、駕籠《かご》をやとうと、山越えで大阪めざしてとんでまいりまして、あくる日の夕暮れ前には、大阪船場のお宅へ到着いたしました。 「おう、甚兵衛さんか、よう間にあわせてくださったなあ……やあ、おもよもか、ようもどってくれたなあ。うんうん、おまえも病気じゃったか……ああ、これこれ、あいさつなんぞは、あとのことじゃ。ちっとも早うせがれに逢ってやってくだされ」 「承知いたしました」  甚兵衛さんは、若旦那が寝ていらっしゃる奥の間へおもよさんをつれてまいりますと、恥ずかしがっているおもよさんを若旦那のそばへ坐らしまして、 「若旦那、おもよどんがきはりました」  と、申しますと、若旦那は、逢いたい、逢いたいとおもいつめたおもよという声で、眼をあきました。 「おう、おもよか」 「若旦那さま」 「逢いたかった」  とたんに、若旦那、すっかり元気になってしもうた。 「おーい、だれかこいよ、おーい」 「へいへい、お呼びあそばしましたか?」 「ああ、久七か」 「へい、若旦那さま、あなたさま、ご病気はいかがでござりまする?」 「もう、すっかりようなってしもうた。ほれ、この通り達者になってしもうたんや……あーあ、ずいぶん長いあいだ、ご飯を食べんよって、おなかがぺこぺこや。おもよも食べなんだそうや。ふたりとも、うんと精のつくように、なにかおいしいものを食べさしておくれ……そうやなあ、まず、うなぎを三十人前、生たまごを五十個ばかり持ってきておくれ……そうやな、すっぽんの吸いものもよろしいな……早う持ってきておくれ」 「へい、承知いたしました」  しばらくいたしますと、あったかいご飯とごちそうがはこばれてまいりましたが、若旦那さんは、恋いこがれたおもよさんにお給仕をしてもろうて、ご飯を食べるのやさかい、もう、食べた、食べた。 「若旦那さん、病気あげくにあまりめしあがると、おからだにさわりますわ……もう、五十六ぱいめしあがりました」 「そうか、お前はどうや?」  といわれたときに、おもよさんは、女の身、まして惚れた若旦那の前でございますから、きまりがわるい。品《ひん》よう、小さいちゃわんで食べましたが、それでも八十六ぱい……  これから、おふたりが、十分に栄養をとりまして、仲よう、一ヵ月ほど暮らしまするうちに、以前よりもずっと達者におなりあそばしました。  こうなると、親御さんとしましても、このままほっとくわけにもまいりませんで、おもよさんを嫁にくれるように、甚兵衛さんを丹波にかけあいにやりました。すると、丹波のほうでは、ひとり娘じゃによって嫁にはやれんところじゃが、相手はご主人、それも、たがいに死ぬほど惚れおうた仲じゃから、そちらへさしあげましょう。しかし、わたしのほうもこれだけの構えをして、親類一統への手前もあるから、おもよと若旦那とつれ立って、この貝野村へきて、一晩だけ婿入りの式をしてもらいたい——こういうはなしにまとまりましたものですから、甚兵衛さんを仲人役にしたてまして、黄道吉日をえらんで、若旦那とおもよさんが、貝野村へやってまいりまして、婿入りの式も無事にすませました。  さて、そのあくる朝は、若旦那のほうが早くお目ざめになりまして、 「これ、おもよ、ええ心持ちやないか。縁側へでてみなされ……ずっと、こう山を見晴らして……とても大阪では、この気分は味わえまへん……そうじゃ、ここで顔を洗いましょ……おいおい、だれかこいよ」 「はーい……お呼びでございますか?」 「おう、これは女中さんか、いま、目がさめました」 「おはようござりまする」 「おはよう……あの、お手数ですまんがな、手洗水《ちようず》をまわしておくれ」 「え? なんでござりまする?」 「いえ、手洗水《ちようず》をまわしておくれ」 「はい、かしこまりました……あの、旦那さま」 「なんじゃの?」 「はい、ただいま、若旦那さまが、ちょうずをまわせとおっしゃってでござります。どうしたものだすやろ?」 「ちょうずを? ……料理場へいいつけなされ」 「あのう……料理場へいいまするか? 承知いたしました……喜助どん」 「なんじゃ?」 「大阪の若旦那さまのご注文じゃでの、ちょうずをまわすのじゃ。ふたり前こしらえておくれ」 「え? ちょうずをまわす? ……そりゃなんのことじゃい? ずいぶんいろいろな料理はつくったが、どうも、ちょうずをまわすてなもんはやりつけん。こまったなあ。ひとつ旦那さまに聞いてくるわ……ええ、旦那さま」 「喜助か、なんじゃ?」 「ただいま、ちょうずをまわせとのご注文でござりますが、どんなものをつくってだしますか?」 「いや、わしもいまわからんでこまっとったところじゃ。大阪の人にはめんぼくのうてたずねるわけにはいかんし……うん、こうしよう。お寺の和尚に聞いたらわかろう。ちょっと行《い》て、ちょうずまわすてなんのことじゃというて聞いてくだされ」 「かしこまりました」 「こんちわ」 「おう、これは喜助どんじゃないか。なんぞ用かの?」 「へい、ちょっとおたずね申しますが、ちょうずをまわせというのは、どんなことでござりましょうか?」 「え? ちょうずをまわせ? ……ふーん、なんであろうな? ……えーと……うん、そうや、ちょうは長い、頭はずと読むよって、こりゃ、長い頭をまわせというのじゃろうな」 「長い頭をまわすんですと? なるほど……いや、どうもありがとうござります。さいなら……ええ、旦那さま、行てきました」 「ごくろうじゃったの。どうじゃな、わかったか?」 「へい……ちょうは長い、ずは頭ということやそうで、長い頭をまわすことやそうで……」 「ほう、長い頭をまわすのが、ちょうずをまわせということかいな……で、長い頭ちゅうがあるかいな?」 「へい、村はずれの市助、ありゃ、五尺の手ぬぐいで頬かぶりができません」 「ほう、えらい頭の長いやつがあるもんやな……はあ、そうか、その頭が大阪まで評判になっているところから、婿どんがみたいとおっしゃるんやろ。さっそくその市助さんを呼んできてくだされ」 「承知いたしました」  市助さん、庄屋さんのお呼びですから、なにごとかと、羽織をひっかけてやってまいりました。 「へい、お庄屋の旦那さま、おはようござります」 「はい、おいで……ほほう、こりゃずいぶん長い頭やなあ。これ、市助さんとやら、おまえさんの頭が、大阪まで評判になっておるとみえて、婿どのがみたいというておるんじゃ。長頭をまわせというんじゃが、おまえさんの長い頭をまわすところをみて、朝の目ざましにするんじゃろ。ひとつ庭のほうへまわって、まわしてくだされ」 「この頭をまわしまするか?」 「そうや、はようまわしてくだされ」 「へい、かしこまりました……こりゃ、えらいことをたのまれた。おかしなことをするんじゃなあ……はい、おはようござります」 「はい、おはよう、うふふふ……おもよ、早うきてごらん。えらく長い頭の人がきた。おまえはん、なんじゃ?」 「へい、旦那どんのおいいつけで、ちょうずをまわしにまいりました」 「ああ、さよか。手洗水《ちようず》をまわしてくれるか。そりゃありがたい。はようまわしておくれ」 「では、さっそくまわしまするぞ。さあ、ようごらんくださりませ」 「これこれ、そら、なにしてるんや? 頭をくるくるまわしよって……はよう手洗水をまわしてくれというのやがな」 「へい、はようまわしますか? そら、この通り、はようはようまわしますぞ」 「これ、なにしてるんや。はようまわさんか」 「もっとはようですか?……では、このくらいにまわしたら、どうです?」  市助さん、長い頭をあまりはようまわしましたさかい、とうとう目をまわしてしまいました。  これをみておりましたおもよさん、おかしいやら、あほらしいやら、 「おとっつあん、ちょうずがわからんなら、わたいに聞いてくれたらええやないか。長い頭をまわすいうあほなことがありますかいな。わたい恥ずかしゅうてたまらんわ。こんな田舎にいるのは、もういややわ。若旦那、はよう大阪へ帰りましょう」  と、大阪へひきあげてしまいました。 「おい、喜助」 「へい」 「これから、大阪に親類ができれば、たびたび往来もせねばならんが、ちょうずをまわせということを知らんでは、貝野村の恥になるなあ。こりゃどうしたもんじゃろ?」 「そうだすな……これから、ふたりで大阪まで行て、調べてまいりましょうか?」 「大阪まで行て、調べる?」 「へい、これから、大阪へいきまして、どこぞの宿へとまって、朝、縁側で、女中さんに、ちょうずをまわせといいつけます。で、女中さんの持ってきたものをみれば、わかるやろとおもいます」 「うん、こりゃええかんがえじゃ。さっそく大阪へいきましょう」  ふたり、さっそく大阪へやってまいりまして、道頓堀の宿屋へお泊りになり、そのあくる朝でございます。 「おい喜助、わしが、縁側へでて、ちょうずをまわせというてくるから、おまえ、ようみておぼえておけよ」 「はい、承知いたしました」 「これこれ、女中さん」 「はい、おはようござりまする。お目ざめでござりますか?」 「はい、おはよう……さっそくじゃが、ちょうずをまわしておくれんか?」 「かしこまりました」 「おい、喜助、なにを持ってくるか、たのしみやな」  と、待っておりますと、金だらいへ湯をいれて、片方のお盆には、お皿に塩と歯みがき粉、それに房楊子《ふさようじ》が一本ついております。 「お客さま、これへ置いてゆきまする」 「はいはい、ごくろうさん……これ、喜助、これがちょうずや。長い頭とはえらいちがいやないか。和尚《おしよう》もいいかげんなもんやな……けども、これをどうするのじゃろ?」 「そうだすな……わかりました。毎朝これを飲んでおくと、からだにええのやろとおもいます。この湯へ塩とこの粉をいれて味をつけるんだすな」 「うん、そうか。おまえは、板場をつとめるだけあって、ようわかるな。えらいもんじゃ……塩をこの湯にいれてと……この粉はまたええ香りがするな」 「そりゃ薬味だすがな」 「そうか、薬味とは気がつかなんだな……では、薬味もいれてと……この棒はなんや?」 「そりゃ、かきまわす道具でござります」 「なるほど、なるほど……こうして、かきまわしておったら、なかなかうまそうになった……じゃ、わしがさきへやるで、おまえもあとからやるとええ」 「どうもごちそうさんで……では、旦那さま、たくさんめしあがりませ」 「うん、いただくとしようか」  旦那さん、金だらいのお湯を、飲みはじめました。 「うん、うん、こりゃ、妙な味やな。おいしいのか、まずいのか、田舎者の口にはさっぱりわからんぞ。さあ、のこりを、おまえ、みな飲んでしまえ」 「どうもごちそうさんで、それでは頂戴《ちようだい》いたします。村のやつらにじまんになりますからな」  喜助は、のこりをすっかり飲んでしもうたので、さあ、ふたりとも、お湯で、腹のなかはいっぱい。うつむくこともできません。上むいたままで、はあはあいうているところへ、また女中がやってまいりまして、 「お客さま」 「なんじゃな?」 「そちらのお客さまの手洗水を持ってまいりました」 「なに? またちょうずを持ってきたと? いや、ちょうずは、もう一人前でたくさんじゃ。あとの一人前は昼から頂戴しましょう」 百年目  人をつかえば苦をつかうということを申しますが、まったくその通りでございまして、人の上に立つということは、むずかしいことでございます。 「おい、定吉」 「へえ」 「なにしてるのや?」 「へえ、こよりよってまんねん」 「なんぼほどよったんや?」 「もう九十六本だす」 「なんじゃ、朝からかかって、たった九十六本かい?」 「ちがいまんね。もう九十六本よったら、百本になりまんねん」 「そんなら、できたあるのは、四本だけやないかい?」 「へえ、ちょっとおそうおますな」 「なにをいいくさる。こよりで馬をこしらえて、たたみをトントンたたくと馬がうごく。そんなことして、なにがおもしろい? いらんてんご(じょうだん)ばっかりしてるさかい、仕事がはかどらんのじゃ」 「こんな馬がおますかいな。鹿だすがな。馬にこんな角《つの》がありますかいな。鹿をみて馬やなんて、これがほんまの馬鹿かいな」 「こらっ、なんちゅうこといいやがんねん。しょうもないことせんと、しっかりひねろっ! ……清七どん、あんた、そこでなにしてるね?」 「へえ、お得意さきへだす手紙書いとります」 「ああ、それはごくろうはん。お得意さきへのたよりは、欠《か》かさんといとくなはれや。しかしやな、わたしが、さっき硯箱のひきだしをあけてみたら、お得意さきへだす手紙が二本はいってたが、なにかいな、ひきだしへいれといても、さきさんへとどくもんやろかな?」 「おそれいります。だしにやろうとおもいましたところが、丁稚《でつち》の手がふさがっておりましたんで……」 「そら、なにをいうんや。ふたことめには、丁稚《こども》、丁稚て、丁稚をつかわな損のようにいうてる。おまえかて丁稚みたいなもんやないか。縫いあげおろして名前がかわったら、それでりっぱな番頭はんやとおもいなはるか? 人をつかおうおもたら、一人前ものがでけるようになってからつかいなはれ。あんた、なんぞ一人前でけることがおまっか? 一人前でけるのは、めし食うことと、雪隠《せんち》(便所)いくことくらいやないか? ほかになにがでけんのや?」 「鼻からうどん食べられます」 「あほ! ようまあそんなあほらしいことじまんしなはる……久六どん、ちょっとここへおいなはれ。あのな、こないだから、いっぺんあんたにいうとことおもてたんや。店で本読むのはおき(やめ)なはらんか? 商人《あきんど》が、店で本読んでるほどいかんものはないな。商《あきな》いに身のはいっておらん証拠や。人さんがはいってきなはっても、本に気が乗ってるものやで、どうしても不愛想《ぶあいそ》になる。そんなことしてる間があるのんなら、見本のぬけたのがないか、ようしらべときなはれ……市助どん、あんたもここへおいなはれ……わたいが、いま、みてみんふりをしてるちゅうと、久六どんに意見しとるのを尻目でちょいちょいみて、肩でふふんと笑うてなはる。いかんことやな。おかしいことがあるなら、大きな声で、遠慮なしに笑いなはれ。せせら笑いはしなはんなや。おまはんも、あんまり人を笑えたおかたやないで。このごろ、なにを稽古してるのや? いや、かくしなはんな。わたしゃ、よう知ってます。浄瑠璃《じようるり》をやってなはるな。これ、ちいと身分がちがやへんか? あれはな、ご大家《たいけ》の旦那がたが、身代《しんだい》を跡目へゆずってしもて、それから、たのしみに稽古なはるものや。ほんまにいやらしい。ちょっと目をはなすと、小さい声で、おがおがいうてる。みられたざまやないで。奉公人の分際《ぶんざい》で、あんまりすぎたことしなはんなや。そっちへいてなはれ……新助どん!」 「そらきた」 「なんや? そらきたやと? うーん、わたいにしかられるのを待ってたようないいぐさやな。わたいは、べつに叱言《こごと》をいいたいことはないのやで……しかし、おのぞみなら申しまっせ。いや、いうべきことはいわんならん。ちょっとこっちへおいでなはれ。あんたなあ、ほかの人とちがうはずやおまへんか。わたいが、来年にでも、別家をさしてもろうたら、この帳場をあずかるんやろ? ほかの人とおんなじように、しょうもない意見をしられてええのんか?」 「へえ、どうもあいすまんことで……」 「あいすまん? あんた、なんぞあいすまんようなことをしてなはるのか?」 「いいえ、めっそうな……」 「あんた、ゆうべ、どこへいきなはった?」 「へえ、お店をしもうてから、ちょっと風呂へ……」 「ふーん、風呂か? ……それにしては、えろうお帰りがおそかったが……」 「へえ……そのう……じつは……風呂で、紀の国屋の番頭はんに会いまして、『今晩、うちで、旦那《だん》はんの謡《うたい》の練習《おさらい》がおますのや。ごめいわくやろが、二、三番聞いて帰ったげとくなはれ』とたのまれまして……へえ、あんまり無情《すげの》うおことわりいうのもわるいとおもうたものだすさかいに……」 「ああ、さよか……じつはなあ、わたいは、ゆうべ、どういうものか、寝つきがわるうてなあ、あんたのでなはったのは知ってるが、ねっから帰んなはったようすがない。『はてな、どないしなはったんやろ?』とおもいながら、うつうつとしてたんや。するちゅうと、三時もよっぽどすぎたとおもう時分、人力車《くるま》がガラガラ走ってくる音がするやないか。『はて、この夜ふけになんやろ?』と、おもいながら聞いてると、半丁ほどさきで、ぴたっととまって、若い女《おなご》はんの声で、『どうぞお近いうちに……』ちゅうたら、『しーっ』と、なんや猫追うようにいうてなはる。はて、なんのこっちゃろとおもてると、しばらくして、うちの表の戸を、雨だれみたいな小さい音で、コンコン、コンコンとたたくやないか。すると、だれぞいいつけられてよったのやろ。表《おもて》戸をそーっとあけて、『へえ、お帰り』ちゅうと、また、『しーっ』と猫追うようにいうて、『おおきにはばかりさん』いうてなはった声に、たしかに聞きおぼえがおますね」 「へえ、じつは、その……あまりかたいものを聞かせたさかい、これから、まあ……ちょっと、このう……まあ……ええ……にぎやかに……わっと……というような……なんで、したら……ええ、よろしかろうという、へへっ……でござりまして……」 「なんや? さっぱりわからんやないか。はっきりいうてみい」 「えへへへ……ちょっと、その、南地《なんち》のお茶屋へ……」 「遠いところまでお茶買いにいきなはんねやな」 「いえ……そうやおまへんね……つまり、この芸妓《げいこ》、幇間《たいこもち》を買《こ》うて……」 「ほう……げいこちゅうたらどんな粉や? たいこもちちゅうたら、煮て食うのんか? 焼いて食うのんか?」 「こりゃ難儀やな」 「やかましい!」 「へっ」 「あんた、わたいをなんとおもうてなはる? なんぼわたいでも、それくらいのことは知ってますわ。あんた、ようもまあ、ぬけぬけとそれだけのことを、わたいの前ではっきりいいなはったな。新助どん、わたいはなあ、四十二だっせ。自分に甲斐性がないさかい、いまだにお茶屋の段梯子《だんばしご》は、どっちむいてのぼるものやら、げいこという粉は、一升いくらするものやら、たいこもちという餅は、煮て食うやら、焼いて食うやら知りまへん。そのわたいを目の前に置いて、ようそれがいえまんなあ」 「へえ」 「ぐうとでもいうてみなはれ」 「ぐう」 「なんや、ぐうとは?」 「あいすまんことでおます。以後はつつしみますさかい、きょうのところは、どうぞごかんべんを……」 「ちいと気をつけとくなはれや……さあ、あっちへいて、用事をしてきなはれ……あっちへいきなはらんかいな……これ、わたいがいきなはれというたときに立たなんだら、立つ機会《しお》がないようになりまっせ」 「へえ……いきとうおますねが……しびれが切れまして……」 「あきれた人やなあ……いや、もう、あんたがたにお店をまかしておいたら、どないなるやらさっぱりわからんわ。丁稚《こども》、わしのはきものだせっ! これから一通りお得意まわりをしてきます。もし旦那《だん》はんがおたずねなはったら、日暮れまでには帰りますというときなはれ。しっかりあとをたのみます」 「いやあ、毛虫がでていきよる」 「なんや? 毛虫がどないした?」 「いえ、だんだんと暖《ぬく》うなってきたさかい、毛虫がでるいうてまんね……へえ、おはようお帰り」 「おはようお帰り」 「おはようお帰り……(ぺろりと舌をだす)」 「これ、定吉、いまなにをしたんじゃ?」 「なにもしやしまへん」 「うそつけ! わしのうしろから舌だしたやないか。前の鏡にちゃんとうつったあるわい」 「いえ、番頭はん、あんたにだしたんとちがいまんね。舌もたまには世間がみたいやろおもうて、みせてやりましたんや。舌だすいうたら、あんなんとちがいまっせ。こうして、べろん(と大きく舌をだす)」 「にくたらしい! ……もう、しょうのないやつばっかりや。みんなたのみます」  番頭さん、苦虫《にがむし》を噛みつぶしたような顔で半丁ばかりまいりますと、横丁から、ちょんととびだしましたのが、お召しの着物に黒の羽織、雪駄《せつた》ばき、丸坊主の男、扇をパチパチさせまして、縦《たて》からみても、横からみても幇間《たいこもち》という姿でございます。 「ええ、次《つぎ》さん、次《つぎ》さん……」 「しっしっ……おお、これは丹波屋はんのご隠居で……どうもひさしくお目にかかりませんでござりましたが、おかわりもなく……」 「もしもし、次さん、ここだっせ、ここだっせ」 「しっ、しっ……へえ、お宅さまでも、みなさんお達者で? ……へえ、そりゃあどうもよろしゅうございます。ああ、さようで……ごめん……」 「もーし、もーし、次さん!」 「あほ!」 「え?」 「どあほ! ものをいうなと目顔で知らしているのがわからんか? おまえの風態《ふう》をみてみい。だれの目からみても幇間まるだしやないか。そんなふうして近所でものいわれてたまるかい。気のきかんやっちゃ」 「そうかて、あんたはん、いつまでおいでやないさかい、みなが心配して、ようすみてこいいうので、わたいがみにきましたんやないか」 「それがよけいなこっちゃ。わしかて、でる機会《しお》がないよってに、店の者に一通り叱言いうといて、それを機会《しお》にすっとでようとおもうてたんや。それに、そないに派手ななりで、店の前をいったりきたりされたら、こっちは、気がとがめてでるにもでられへんがな」 「さあ、そやさかい、わたいかて、あたまつこうてまっせ。おんなじなりでなんべんも通ったらいかんおもうたよって、十銭やって、くず屋のかごと量器借《りようきか》って……」 「それがあほやないか……くず屋のかごかたげるなら、くず屋のなりせんかい。そのままのなりでくず屋のかごかたげてどうするのや? 丁稚《こども》ちゅうもんは目がはやい。『番頭はん、あれみなはれ。あのくず屋、えらいええベベ着てまっせ。くず屋の殿さまかいな?』いいよった。わしゃ、ひやっとして、脇の下から汗がながれたがな」 「あははは」 「笑いごとやないで、ほんまに……それで、船はどないしたんや?」 「さあ、それだすねん。いわいでもええのに、おそめねえはんが、蔦家《つたや》のおかみに、きょうはこれこれやとしゃべったもんやから、さあ、聞きつけた芸妓《げいこ》、舞妓《まいこ》がおよそ二十人ほどになりましてん……そやさかい、しょうがないよって、屋形《やかた》船を一|艘《そう》……」 「そんな無茶すない……まあ、しかたないわ。で、どこへつないだあるのや?」 「東横堀の研石屋の浜だす」 「あかん、あかん。あの浜側には、店のご親類が一軒あるのや……もっと上へつなぎいな。高麗橋の詰《つめ》へでもつないどいてんか? わしゃ、したくしたら、じきにいくさかい」 「ほなら、次さん、待ってまっせ」  幇間をさきにやっといて、お店から二丁ばかりまいりましたところに、駄菓子屋がございます。そこで、二階にたんすがあずけてある。上から下まで、そっくりと上等の着物と着かえまして、一分のすきもないこしらえで、高麗橋まできてみますと、りっぱな屋形船がついておりまして、なかでは、お茶屋のおかみから芸妓、幇間までが大さわぎでございます。 「やあ、次さんがきやはった」 「次さん、次さん、おそいやおまへんか!」 「しいっ、しいっ、もうちとしずかにできんか? 船頭はん、あとしめて船、出しいな」 「しめきって、お酒飲んだり、さわいだりしたら毒だっせ。ちいっとあけときまひょか?」 「いかん、いかん。ぴたっとしめとくのや。それから、あまり大きな声だしなや。なるべくものいわんように……」 「まあ、いややわ。まるで島ながしの船やわ。船頭はん、はようだしとくなはれ」 「ほらい、きたあ」  大川へでてまいりますと、上り下りの遊山船、その陽気なこと…… 「次さん、もう大川のまん中だっせ。すこうしぐらい障子あけたら?」 「いかん。船同士すれちごうたときに、どんな知ったおかたが乗ってはるかわからへん。あけることはならんで……」 「ほな、むこうへついて、どないして花見しまんね?」 「みいでもええ。花のにおいかいでたらええやないか。強《たつ》てみたかったら、障子に穴あけてのぞくのや」 「あほくさ! 家へいんではなしもでけへんわ。『花はよう咲いておましたか?』『なんやよう咲いてるような香がしておました』……そんなあほらしいこといわれへん」 「やかましいやつやなあ。むこうへついたら、おまえらだけあがって、おもうだけみてきたらえ えやないか……さあ、酌いでんか?」  番頭さん、ちびりちびりやっておりましたが、桜の宮へつく時分には、すっかり酔うてしまいました。 「ういー……ああ、むしむしするなあ。もう一ぺん手ぬぐいしぼってんか? ……やあ、なんや暑いとおもうたら、みなしめきったあるのやな。だれがしめたんや?」 「あんたはんが、『しめい、しめい』と、やかましゅういうてしめさしなはったんやがな」 「なんぼいうたかて、こない正直にきっちりしめるやつがあるかい、あほめ! 暑いわい。あけ、あけ……」  みな暑うてたまらん。一ぺん風をいれたいなあとおもうてるところへ、「あけ、あけ」と、きたもんやさかい、一時《いつとき》に障子をあけますると、花はいまが満開。一面にうす紅《くれない》のかすみがかかったようでございます。そこここの木の根もとには、緋毛氈《ひもうせん》をしいての品のええお花見もあれば、土手の上には、からになったひょうたんふりまわして、ひょろひょろしながら、わけのわからん唄歌うてる人もあるという、いやもう陽気な景色でございます。 「おい、船頭、こ、こ、ここへ船つけたれ。さあ、みんなあがって花みてこい。わては、ここにのこって飲んでるさかい……」 「まあ、次さん、なんだんね、あんたはんもいっしょにおあがりやす」 「あかん、あかん。わて、そんなことしてられへんね。わて奉公人や。顔みられたらあかんちゅうに……」 「ほな、次さん、ええことがおまっせ。顔がわかるといけまへんのやろ? よろし。じゃ、こうしまひょ。舞妓はんのな、舞い扇を、こうひろげて、あんたのお顔へあててまんね。おそめねえはん、あんたのしごきちょっと貸しなはれ。それ、こういうぐあいに扇をくくりつけてしもうて……さあ、これなら、だれにも顔はわかりまへんやろ?」 「わあ、ええかっこう……忠臣蔵の由良之助みたいやわ。ついでに着物もぬいで、襦袢《じゆばん》ひとつになりなはれ。さあ、帯ほどいたげまひょ」 「これこれ、無茶すな、無茶すな」  なんぼいややいうても、まわりからぬがしにかかられると、下にはじまんの長儒絆を着てるものやさかい、番頭さん、とうとうぬいでしもうた。 「まあ、きれいやわ」 「次さん、ちょうど右団次の石橋《さつきよ》みたいやわ」 「よう、高島屋!」 「おだてないな……さあさ、これから鬼ごと(おにごっこ)じゃ。わしにつかまえられたら、だれでもかまわん。肩ぬがして踊らすで」 「きゃーっ」  番頭さん、こんどはさきだちで大さわぎでござります。  こちら、お店の旦那さまが、お気にいりの玄伯という街《まち》幇間《だいこ》をつれて、桜の宮へお花見においでになりました。 「玄伯老、くたびれやせんかな?」 「いえ、いっこうに……」 「そうか……しかし、美しいもんじゃなあ、どうや? この桜……わしゃなあ、こうして花見さしてもろうてるけど、うちの番頭……がんこなやっちゃ」 「へえ?」 「さ、きょうもな、若いもんしかってるのはええねん。いうことがあほらしいわ……『げいこという粉はどんな粉や? たいこもちという餅は、煮て食うのんか? 焼いて食うのんか?』……あかん! あいつも、こういうとこへ花見にきやがったらええのになあ……玄伯老や、ちょっとみてごらん……まあ、どこの旦那か知らんが、芸妓衆《げいこしゆう》にとりまかれなすって、大肌ぬぎになって、顔へ扇子いわえて……ああ、おもろいなあ……あのな、ほかの人からみたらなあ、まるで気ちがいに似てるけど、やってる本人、たのしみやで、あれは……はははは、あたしももう一ぺんあないなことやってみたいなあ」 「旦那はん、あのおかた、お宅の大番頭はんによう似とりますが、次兵衛さんとちがいますかいな?」 「あはははは、なにをいいなさる。うちの次兵衛があんなことのできる男かいな。さっきもいうた通り、芸妓も幇間も知らん堅物《かたぶつ》やで……あんなものをみただけでも目をまわしよるじゃろ」 「いや、旦那はん、まちがいなく次兵衛さんでございます」 「そんなはずはないが……どれどれ、いまめがねをかけてみてみまひょ……どのお人じゃ?」 「あ、それそれ、正面の一番大きな木の下で、大手をひろげて、扇子で顔かくしたおかた……あの、それ、ひょろひょろ歩いてはるあのおかた……」 「どれどれ……うーん、あのおかたかいな? ……やあ、ありゃたしかに次兵衛じゃ。いつもまじめくさった顔をして、かげでこんなことをしてよるのかいな……ああ、だんだんこっちへでてくるがな……ああ、こまったな、これは……わしの姿をみせてやるのはかわいそうやし、というて、あともどりもできず……玄伯老、みっけられるといかんさかい、なるべく道の端へ寄ててくだされ」  旦那のほうは苦労人ですさかい、しきりにかくれようとなさいますが、番頭さんは、そんなことご存知ない。 「さあ、つかまえたら肩ぬがして踊らすのじゃ」  旦那が右へよけると右、左へ逃げると左へ、とうとう番頭の手が旦那の肩へかかりました。 「さあ、つかまえた。つかまえた」 「ああ、これこれ、人ちがいじゃ」 「なにぬかしくさる。逃げようとて逃がすかい」 「ああ、いたい、いたい……これ、はなしてくだされ」 「繁八やな……そないな声色《こわいろ》つこうたかてあかん。いま、この扇子をとって、面《つら》をあらためて……あっ、あんたは旦那《だん》はん!?」 「おお、次兵衛どん」 「うへー……これはこれは……旦那さまにはごきげんよろしゅうござります。その後、長らくごぶさたをいたしまして申しわけがござりません。お店もご繁昌のごようす、まずはおめでとう存じあげます」 「え? ……はい、はい……ああ、これこれ、番頭どん、そんなところへ坐ったら、着物に土がつくがな……ああ、もうよろしよろし。あまりおそうならんように帰ってやっとくれや。みなが心配しますよってな……さあ、玄伯老、きなされ、きなされ。すっかり汗かかしよったがな」  そのまま、旦那は帰っておしまいになりました。 「さあ、次さん、つづけまひょ」 「やかましい。だれやい、わしをこんなとこへあげたのは?」 「あんさん、ご自分であがらはったんやないか? ……いまのかた、どこの旦那だす?」 「うちの旦那じゃい」 「えっ、お宅の旦那!? ご粋《すい》なおかた……」 「あほんだら、さあ、羽織だせ、羽織だせ。すぐに帰るんや……繁八、この紙入れ、あんたにわたしとくよって、これで、きょうのあとしまつしとき」  番頭さん、もとの駄菓子屋へつきますと、上から下、すっともとの着物に着かえて、店へ…… 「番頭はん、お帰り」 「へえ、お帰り」 「これ、定吉、旦那はんは?」 「へえ、あんはんがでなはったすぐあとから、玄伯はんをつれて桜の宮へお花見においでになりました」 「そうか……うーん」 「あっ、うなってはる……番頭はん、どこぞわるうおますか?」 「なんでもええ、二階へ寝床《ねま》しいてくれ。あたまが痛うてかなわん。しばらく寝るわ」  二階へあがって、横にはなりましたが、とてもねむるどころやござりまへん。 「ああ、ああ、四十二の歳まで、こうして奉公して、来年は、ようよう別家の身やいうのに、きょうは、なんとした悪日やろなあ」 「ああ、玄伯老、えらい目にあわしたなあ。おつかれなさったじゃろな。ちょっと茶でも飲んでいになさらんか? ああ、お帰りか? さよか。ほなら、ここでわかれまひょ。いずれまたお目にかかるとして……はい、さいなら……ただいま帰りました」 「お帰り」 「へい、お帰り」 「お帰りやす」 「これ、定吉、番頭どんの顔がみえんが、どないしたんや?」 「へい、さきほどお帰りになりまして、あたまが痛いいうて、やすんではります」 「ほう、さよか……そりゃいかんな。おい、定吉、番頭どんは、うちの柱じゃ。ずいぶん大事にしてもらうのじゃぞ」 「うわあ、旦那はんのお帰りやな……うん、もうしばらくしたら、『番頭、ちょっとこい』いうやろな……『ときに、おまえも、ずいぶん長いこと辛抱してくれたけれど……』とくるやろな……いやいや、そないになまやさしいことやあらへんで……『おいっ、番頭! でていきなはれ!』いうやろな……ああ、なんといわれても、一言もないのやよって、さっぱりわや(だめ)や……呼びつけるのなら、いっそ早《は》よ呼びつけてくれはるほうがましかも知れん……蛇のなま殺しはかなわんなあ……うーん、どないしたんやろ? 呼びにくるのが、えらいおそいやないか」  覚悟はきめましたものの、梯子段が、ガタッというと、呼びにこられたのかと、びくっといたします。そうこうするうちに、下では、店をしもうて、みな寝てしまうようすでございます。 「はてな? 呼びにこんとはおかしい……ははあ、こりゃ、明日になって、請人《うけにん》(保証人)呼んで、はなしをつけてしまう腹なんやな……ああ、つまらんことしたなあ……そうや、いっそのこと逃げてしもうたろか? ……もうこうなる上は、いやな叱言のひとつも聞くだけ損や。うん、逃げるときめたら、持てるだけのもの持ってでにゃいかんな。とにかく、あとでとりにこられへんさかいに……そうや、着物の新しいやつを、こういうぐあいに三枚着て……羽織もなるべく新しいのを二枚ひっかけたろ……ああ、こりゃ肩が張るわ……たばこいれも三つ腰へさして……やあ、あの傘、買わなんだらよかったなあ、ずいぶん高うだして昨日買うたばかりや。まさか傘まで持っていけんしな……すっかりしたくはできたが……いや、待てよ……明日、請人がくるわ……で、請人の顔に免じて、こんどのところは大目にみるさかい、以後つつしめやというはなしにならんともかぎらんな……そのときに、わいが逃げてしもうたら、どうもこうもならんな……そうや、やっぱりやめとこ……着物も羽織もたんすへなおしとこ……しかしなあ、あんなところみつけられて、まさかこのままつこうてもらえるようなことはないやろな……逃げるほうが得《とく》かいな……いや、やっぱりやめとこ……いや、逃げたほうが……」  次兵衛さん、夜通し眠られまへん……そうこうするうちに夜があけますと、平素《へいそ》なら、「みな起きよ」いうて、みな起こして、自分は、もう一ぺんぐっすりと寝なおすのですが、きょうは、自分が一番に起きでて、表の戸をガラガラ……ほかの者がびっくりして、 「ああ、番頭はん、えらい寝すぎてすんまへん。どうぞわたいにあけさしとくなはれ」 「いや、かめへん、かめへん、まだ早い、もっと寝な」 「そんなことできまっかいな。ああ、番頭はん、門口《かど》掃くのは、でっちのわたいの役だんがな。番頭はん、ほうき貸しとくなはれ」 「いや、だんない(さしつかえない)、だんない、わいが門口掃いて、水打つさかいに、おまえは、帳場へ行《い》て、帳合いしとき」 「そんなことできますかいな」  掃除もすみ、朝食しまして、番頭、しかたなしに帳場へ坐りましたが、なかなか帳合いどころやございまへん。 「あーあ、とりかえしのつかんことをしてしもうたなあ。いよいよ、この店ともおわかれか……このごろ、うちの次兵衛も、ちょいちょいかくれあそびをしてよると、旦那の耳にはいっておったら、かえってはなしはしよいんやけど、かたい、かたいとおもわしたるだけに、ことがめんどうやがな。また、きのうは派手すぎたさかいな」  いろんなことをかんがえております。  しばらくして、旦那さんのお目ざめです。 「これ、定吉」 「へい、お呼びでございますか?」 「番頭どんは、もう起きてなさるか?」 「へえ、お店で帳合いしてはります」 「そうか……『たんとお手間はとらしまへん。ちょっと茶の間までおいでねがいます』と、いうてきなはれ」 「へい……番頭はん!」 「うん、あかん……もうだめや……」 「もし、番頭はん」 「ああ、しもうたなあ……船からおりたのがまずかったんや……」 「番頭はん!」 「わっ、びっくりした。あほ、びっくりするやないか。なんちゅう声だすねん。なんじゃ?」 「こっちがびっくりしましたがな。大きな声だしてとびあがんなはるよって……あのな、旦那《だん》はんがお呼びだす。『たんとお手間はとらしまへん。ちょっと茶の間までおいでねがいます』と……」 「そうか……うーん、いよいよきたな」 「どないします?」 「すぐいくいうとけ」 「へえ……旦那はん、行《い》てまいりました」 「おお、ごくろうじゃ。番頭どんはどういうてたな?」 「『すぐいくいうとけ』と、いやはりました」 「これっ、なんという行儀のわるいもののいいかたをしますのや。番頭どんは、そんなこというお人じゃない。よしんば、番頭どんがそういうたにもせよ、おまえは、わしの前へきたら、『ご番頭さんは、ただいまおみえになります』と、なぜていねいにものをいわぬ……また頬ぺたをふくらしてるな。主人の前でなんじゃ。増長《ぞうちよう》もたいがいにせえ」  うしろで聞いてる番頭のつらいこと。胸をちくちく刺されるようでございます。 「だれじゃいな、そこでぺこぺこおじぎをしてなさるのは? ……なんや、次兵衛どんやないかい。まあまあ、そないにあたまばかりさげておらんと、ちっとは、わしの顔をみいな。はなしもなにもできやせんがな。しかし、毎日ごくろうやな。あんたのはたらきで、店も繁昌するばかりじゃ。わしゃ、喜んでいるのやで……さあ、お茶を一ぱい飲みなされ。まあ、よろしいやないか。べつに急《せ》く用事もないんやろ? まあ、茶飲みばなしでもしようやないか……そうやな、なんのはなしをしようか? うん……一軒の家のあるじを、むかしから旦那というやろ? あれは、どういうわけでそういうか知ってるか?」 「いいえ、てまえ、いっこうに……」 「知らんか? うん、無理はない。わしも、この年齢《とし》になるまで知らなんだのじゃからな。こりゃ、玄伯老から教えてもろうたんやで、その受け売りやさかいに、まちごうても笑うとくれなや……でな、天竺《てんじく》も五天竺あるというな。その南天竺に赤栴檀《しやくせんだん》という大木があるそうな。で、この木の根もとに南縁草《なんえんそう》という草が生える。人がみて、『ああ、せっかくの名木の根もとに、こないな草が生えてむさいやないか』ちゅうので、これをぬいてしもうと、ふしぎなことには、栴檀の木がだんだんと枯れてくるそうや。ところが、これは枯れるのがあたりまえじゃ。つぎからつぎとくさっていく南縁草の根が、栴檀にとっては、この上もない肥料《こえ》になる。じゃによって、南縁草が繁《ほこ》えれば繁えるほど、栴檀も繁《ほこ》えていくという道理なんじゃ。すると、この栴檀の繁《ほこ》えた枝から露をおろすのやが、これがまた、南縁草のよい肥料《こえ》になって、南縁草もよう繁える。それにつれて、栴檀もまた繁えて、ますます露をおろすという、つまりもちつもたれつちゅうわけやな。どうや? ええはなしやないか? そこで、栴檀のだんと、南縁草のなんとをとって、だんなんというんやそうな……あははは、耳学問やさかいに、ほんまかどうか知らんで……ま、そこでやなあ、これをこの家でたとえていうなれば、わしが赤栴檀で、おまえはんは南縁草や。ま、ありがたいことには、ええ南縁草が生えてくれたさかいに、この栴檀は、えろう繁えたわけや。そやさかいに、およばずながら、できるだけの露はおろさにゃならんとおもうてます。ところが、店へでると、こんどは、あんたが赤栴檀で、若い者一同が南縁草や……ところで、このごろ、店の赤栴檀がえらいいきおいで繁えておるが、南縁草のほうはすこししおれてやせんか? いや、これは、たぶんわしのみそこないじゃろ……まあ、そうはおもうが、もしもそんなことがあるとしたら、こら、一時もほっとけんで……南縁草が枯れりゃ、赤栴檀のあんたも枯れにゃならぬ。あんたが枯れりゃ、わしもいっしょや。なあ、次兵衛どん、どうぞ、店の者にも露のおりるようにしてやっとくなはれや。わかりましたか? わかった? ああ、おおきに……あんたにはすぐわかるやろ。お手とめてすんまへん。さ、早《は》よう店へ行《い》とくなはれ」  暇がでるとおもいのほか、さすがはご大家の旦那、きのうのことについては、叱言らしいことはすこしもいわず、自分ばかりたのしみするのが能《のう》やない。ちっとは、はたにもゆとりをつけてやれという結構なお心でおます。 「うへー、なんともありがたいことでござります」 「あははは、あほばなしで暇つぶさした。かんにんしてや。あ、ちょいと待ち。まだ立たいでもいい。さあ、お茶飲みいな。さめたらいれかえさすで……ときに、次兵衛どん、きのうは、えらいおたのしみやったな」 「うへえー……じつは……その……お得意の旦那衆のお供で……」 「ああ、そうやったかいな。しかしなあ、お得意さきのおかたといっしょにいても、決してお金はつかい負けしとくなさんなや。さきさまが、百両つかいなさったら、こっちは二百両つこうとくれ。かまやへん。そうでないと、商法《あきない》の切《き》っ先《さき》がにぶりますじゃ……が、きのうのあそびかたのようすでは、そんなみっともないことしてやへん。安心しました……まあ、あんたもあそびじょうずになったもんや……あんた、うちへきたときのことおぼえてるか? 早いもんや。もう三十年になるなあ……うちへ肥料《こえ》汲みにくる甚兵衛ちゅう男の世話で、おまはんはうちへきたんや。ちいちゃい、きたない子どもやったで……えらい小便たれする子でなあ」 「うへー」 「みながいやがって、もどそうの、帰そうのというたんじゃが、いやいや、そうやない、小便たれするのは、冷えるからや、お灸《きゆう》すえてやればいいと、灸点をおろそうおもても、色の黒い子で、墨で灸点おろしても、みわけがつかん。しょうがないよって、しまいにおしろいで灸点おろしたことがあったな」 「うへー」 「とにかくりっぱになんなさった。感心してますのじゃ。しかし、次兵衛どん、怒ってなや。じつは、きのう、あの姿みてな、こりゃ、ひょっとすると帳面に大きな穴があいてやせんかと、ひさしぶりに帳面をすっかりしらべてみたが、帳面には、まるで穴がない。帳面に穴がないとしてみると、お店はお店でもうけさしといて、自分でももうけてつかいなはる。こら、男の甲斐性《かいしよう》や。えらいなあ。世のなかには、沈香《じんこ》も薫《た》かず、屁《へ》も放《こ》かずちゅうのがあるやろ? そんなやつはあきまへん。どんどんもうけて、どんどんあそびなはれ。わしかて、まだ老いぼれてやへん。たまにはつれていてもらうわい。あははは……しかし、きのう、桜の宮で逢うたとき、おかしなあいさつしたやないか……『旦那さまにはごきげんよろしゅうござります。その後、長らくごぶさたをいたして申しわけがござりません』とか、いうとったな?」 「へえ……」 「からすの鳴かぬ日はあっても、わたしとおまえさんが顔をあわせぬ日はないのに、なんであないなことをいうたんじゃ?」 「へえ、かたい、かたいとみせかけておきながら、あんなところをお目にかけまして、しもうた、これが百年目やとおもいました」 千両みかん  ただいまは、世の中が便利になりまして、野菜やくだものなんかは、季節でないものでも、年中食べられます。ところが、むかしのかたは、まことにお気の毒で、食べたいものも、金はくさるほどあっても、食べられずに死ぬというようなことがよくございました。  そのころのおはなしでございます。  大阪の船場《せんば》のさるご大家《たいけ》の若旦那が、ふとしたことからご病気になりました。さあ、ご両親のご心配は一通りやございません。医者よ薬よと、手のとどくかぎりおつくしになりましたが、病気は日一日と重《おも》うなるばかり。ところが、あるひとりのお医者さまが、「病気のもとは、なんぞおもいこんでござることがあるとおもいますので、それをかなえてあげたら、なおるやろうとおもいます」と、見立てました。そこで、ご両親は、番頭さんを呼んで、 「なあ、番頭どん、ああお医者さんはいわはったが、せがれの胸のうちを聞くにも、わたしが聞いても、はずかしがっていわへんやろし、ほかの者でもぐあいがわるいが、おまえさんなら、せがれとは、おさない時分からの仲よしやで、ひとつ聞いてくださらんか?」 「ええ、よろしゅうございます。さっそく聞いてみまひょ」 「たのみます」 「へえ、若旦那、お暑いことで……きょうは、ご気分はいかがでござります?」 「ああ、番頭さんか、いつも、よう親切にたずねてもろてありがとう。もうそのおこころざしは、死んでもわすれへんで……」 「あ、もし、そんな縁起《げん》のわるいことをいわはるもんやござりまへんがな。さきほども、先生のおはなしでは、『これは、なんぞおもいこんでござることがあるとおもいますよって、それをかなえてあげたら、なおるやろうとおもいます』と、おっしゃってでござりました。そこで、旦那《だん》はんのおかんがえでは、『かえってわたしが聞いても、はずかしがっていわへんやろし……』ということで、わたしがかわっておうかがいをしたわけでおますが、あんたはん、なんぞおもいつめてなはることがござりますか?」 「ああ、おそれいった。さすがは大阪一の名医といわれるおかたや。じつはなあ、番頭どん……おまえ、笑《わら》へんか?」 「めったに笑《わら》しまへん、へえ……」 「いや、やっぱりやめとこう。それがいえるくらいなら、なんもこんな苦しいおもいをしやへん……いうてもできんことやで……いうも不孝、いわぬも不孝、おなじ不孝なら、このままいわずに死んでいきたい……どうぞ、聞かずにおいてんか?」 「ああ、難儀やなあ……ほなら、こうしてもらえまへんか、わたしが聞かしてもろてみて、とてもかないそうもないことやとおもたら、決してご両親にはいわしまへん。なあ、そやから、どうぞ聞かしていただきとうござります」 「そないにいうならいうが、じつはな……」 「へえ」 「ああ、はずかしい……笑《わろ》うてなや」 「笑しまへん。こわい顔しております」 「べつにこわい顔せえでもええ……じつはな……肌合《きめ》のこまかい……つやのええ……ふっくりとした……」 「へえ、いや、わかりました。みなまでおっしゃるな。ちゃんとわたしが心得ました。どこの娘さんだす? へえ、ちごうてますか? ほなら芸妓《げいこ》はんだすか? 名前とところはわかってますか? 金はなんぼいっても、旦那《だん》はんにいうてだしてもろて、はなしつけにいきます」 「番頭どん、おまえ、かんちがいしてやへんか? わてのほしいのは女子《おなご》はんやおまへん」 「へえ?」 「みかんが食べたいのや」 「え? みかん!?」 「そやかて、若旦那、肌合《きめ》のこまかい、つやのええ、ふっくりとしたとおっしゃってで……」 「そないなみかんが食べたいんで、病気になってるんや」 「なにいうてなはる。たかの知れたみかんぐらいなんだすね。よろしゅうおます。すぐに買《こ》うてきます。心配しなはんな。なんなら、この居間をみかんづめにでもいたしまっせ」 「そんなら聞いてくれるか……ありがたい、待ってるで……」 「よろしおます。待っとくなはれや……へい、旦那さま、うかごうてまいりました」 「ごくろうさん、なかなかいわなんだじゃろ?」 「へえ、しかし、だんだんとことをわけて聞いてみますと、とうどういうてくださりました」 「それはまあ、ようこそ聞いてくだされた。して、なんと申しましたな?」 「へえ、肌合《きめ》のこまかい、つやのええ、ふっくりとした……」 「やっぱりそうか。親というものは、あほなもので、いつまでも子どもや子どもやとおもてますのじゃ……して、相手の女子《おなご》はんは?」 「いえ、だれでもそうおもいますやろ、ところがちがいまんので……みかんがほしい」 「なに? なんじゃて?」 「みかんが食べたい」 「みかんが?」 「そうだすのや。こののぞみさえかなえさせば、病気はなおりますのや」 「えらいことを、せがれはいいだしよったなあ。こりゃ、こまったなあ……それを、こなた、なんといわしゃった?」 「『たかの知れたみかんぐらいなんだすね。よろしゅうおます。すぐに買うてきます。心配しなはんな。なんなら、この居間をみかんづめにでもいたしまっせ』と申しました。そうしましたら、えろうお喜びはって、『待ってるよってに、たのむで』といわはって、いつにないごきげんでござります。あの調子なら、もうやがてご本復。へえ、おめでとう存じます」 「これ、番頭どん、そんな無茶いうてどないする? きょうは何日じゃとおもていなさるのじゃ? 六月の二十一日、土用の最中《さなか》に、どこをさがしたかて、みかんのみの字もあるかいな」 「あっ、ほんに、いまは土用の最中《さなか》……うっかり、とんだことをひきうけましたなあ」 「うっかりでことがすみますかい。せがれは、のぞみがかなうとおもて、いまは元気もでてるやろが、いよいよないとなったら、一時にがっかりして死んでしまうにちがいない。そうなれば、おまえさんは、手はおろさいでも、主《しゆう》殺しやないか? 世の中に、なんの罪が重いいうても、主殺しほどおもいもんはあらへん。町中ひきまわしの上、逆《さか》はりつけや」 「とほほほほ……べつに悪気があっていうたんやござりまへん。どうぞご了見《りようけん》(おゆるし)をねがいます」 「そりゃ、わたしが了見しても、お上《かみ》さんが了見をなさらん。さあ、早《はよ》うでかけて、みかんをさがしてきなされ。逆はりつけやで……」 「へえへえ、さっそくさがしてまいります……ああ、うっかりえらいことうけおうてしもた。どうぞあってくれたらええがなあ……こんちわっ、八百屋はん、ごめんやす」 「へ、おいでやす。なんにしまひょ?」 「みかんはおまへんやろか?」 「あほらしい。この暑いさかりに、みかんのみの字もおますかいなあ」 「そうやろな……さいなら……ああ、いよいよ逆はりつけかいな……ごめん」 「おいでやす。なにをあげまひょ?」 「お宅にみかん、おまへんか?」 「なんやて? みかん? このくそ暑いのに、なぶりなはんな。いま時分、みかんなんて、どこにおますかいな」 「とほほほ……なんや知らんが、はりつけ柱がちらちらみえるようじゃ。ああ、情けない……ごめんやす」 「へえ、おいでやす」 「おまへんやろかなあ?」 「なにがだんね?」 「みかんがおまへんか?」 「へえ、まちごうてしまへんか? てまえとこは、金物《かなもの》屋で……」 「へえ……なんで金物屋にみかんが売ってない?」 「そんな無茶いいなはんな……はあ、お気の毒に、この暑さで、あたまがおかしゅうなったのやな」 「あんた、はりつけちゅうもんみたことおますか?」 「一ぺんだけみたことおますね。そりゃあ、おそろしいものだっせ」 「へえ、へえ」 「はりつけ柱にしばりつけられた罪人の下で、非人が、ふたり、竹槍をかまえて両わきに立ってます」 「なるほど……それで?」 「役人が、さっと合図《あいず》すると、脇腹めがけてブスリ!」 「きゃっ!!」 「わあ、びっくりした。どないしたんや?」 「腰がぬけてしもた」 「いったい、どうしたというわけなんや?」 「へえ、よう、たずねとくなはった。じつは、うちの若旦那が、みかんが食べられなんだら、死ぬといやはりますのや。あたしが、うっかり土用ということをわすれて、ひきうけてしまいましたんや。そやさかい、もしもみかんがないいうたら、若旦那は、がっかりして死にはるやろとおもいます。そうすると、あたしは主殺しの……主殺しの罪で、逆はりつけだんね」 「そりゃ、まあ、お気の毒なことだすなあ。しかし、あたしも、しかとしたことはいえまへんが、むかしから、天満《てんま》の市場には、年中、みかんのかこいが、一箱や二箱はあると聞いてます。まあ、ひとつさがしてきなはれ」 「へえ、天満の市場に……なるほど……問屋にいけば……そこへ気がつきまへなんだ……おおきにありがとう存じます。このご恩は一生わすれやしまへん。おおきに、おおきに……どうぞあってくれたらええがなあ……もしもなかったら……脇腹へブスリ! ……とほほほ……ああ、ここが天満や……ふーん、ここに問屋があるわ。たずねてみたろ……へえ、ごめんやす」 「へえ、おいでやす。なんぞご用だすか?」 「あの……お宅に……み、み……いえ、あたし、暑さであたまがおかしゅうなったのやおまへんで……そのう……み、み……とほほほ……おまへんやろな?」 「なんだす? はっきりいうとくなはれ」 「あのう……みかんはおまへんやろな?」 「みかんだすか? いや、おます」 「えっ、ある!?」 「たしかに一箱だけ、かこうておます」 「へえ……あの……かこ、かこ、かこ……かこい、かこい……ありがたい、さあ売って、さあ売って、早う売って……うん、うん、うん」 「あいたたたた……なにするねん、この人は? 人の胸ぐらしめてどないするんや?」 「ま、とにかく手をはなしなはれ。ああ、苦しい……無茶する人やなあ……いま、じきにださせます。これ、定吉、蔵へ行《い》て、かこいのみかんだしてこい……ああ、よしよし、そこへ置いて、ふたをとってみい……どうや? くさっとるか? 念いりにしらべてみい……え? どれもこれもくさっとる?」 「ウワーン、ウワーン」 「わあ、びっくりした。お客はん、いい年して泣きなはんないな」 「いよいよ、脇腹へブスリ! ウワーン」 「なんや知らんが、よくせき(よくよく)みかんのいる人らしいな……よし、定吉、箱のみかんをみなそこへぶちあけ……よしよし、あたしがしらべてみたげまっさ……うーん、ひとつぐらいは……いよう、あった、あった、お客さん、ひとつだけ、ええのがでてきたで……」 「きゃっ!!」 「どないしやはったん?」 「あったと聞いて、腰がぬけた」 「しっかりしなはれ……そら……うん……」 「へえ、おおきに……腰が立ちました……して、なんぼだす?」 「おねだんだすか? ちっと高《たこ》うおまっせ」 「そりゃわかってます。季節《しゆん》はずれのみかん、高いのはあたりまえだすがな……で、なんぼで売ってもらえます?」 「千両だす」 「えっ、千両!? ふわー」 「どうしなはった?」 「腰がぬけた」 「よう腰をぬかす人やなあ……そら……うん……どや?」 「へえ、おおきに……また、腰が立ちました……しかし、みかんひとつが千両とは、そりゃ殺生や」 「いや、高いことはおまへんぜ……ひろい天満にただ一軒のみかん問屋という看板をあげてるとな、あんたはんのように、いつ買いにこられても、ないとことわることはできまへん。くさるのは承知で、ひとつぶ選《え》りの上物ばかりかこいますのや。その中から、たったひとつのこったみかんや。千両でお気にいらにゃ、どうぞやめとくなはれ」 「ま、ま、待っとくなはれ。とにかく主人と相談してきまっさかい、どうぞ、しばらく待っとくなはれや……へえ、旦那はん、ただいま」 「おお、番頭どんか、待ちかねました。しかし、みかんはなかろう?」 「いえ、たったひとつだけおました」 「それはそれは、ようさがしてきてくだすった。早よ買《こ》うてきて、せがれに食べさしてやってくだされ」 「ところがいけまへんので」 「なんでや?」 「高いのなんの、無茶に高うおますので……」 「いや、いくら高うても、せがれのいのちにはかえられん。買うてきてくだされ。いったい、なんぼや?」 「旦那はん、腰をぬかしたら、あきまへんで、ひとつ千両で」 「安い!」 「えっ!?」 「あはは、安い、千両で、せがれのいのちが買えるなら、こんな安いものはありゃせん。どうぞ、これを持って行《い》て、早う買うてきてくだされ」  目の前へ千両箱をドンとほうりだされて、 「へえ、うふゎー」  番頭は、びっくりして、また腰をぬかしました。  ようようのことで、天満からみかんを買うてまいりまして、 「へえ、若旦那、ながらくお待たせいたしました。さあ、おのぞみのみかん、ようよう、大阪じゅうに、ただひとつだけございました。どうぞ、おあがり」 「へーえ、あったか……番頭どん、無理をいうてすまなんだなあ……ほんまにええみかんや。おまえの骨折り、決しておろそかにはおもわへんで……」 「もし、なにをおっしゃいます。奉公人がご主人のためにつくすのはあたりまえでござりますがな。それよりも、親御さんのご慈悲をお喜びなはれや。そのみかん、ひとつなんぼやとおおもいあそばす? 千両だっせ。あたしは、値を聞いたときに腰ぬかしましたがな。ところが、ふだんは、あの通りしぶい……いや、その……倹約人《しまつじん》の旦那《だん》はんが、やすいといわれて、千両箱をほうりだしてでござりました。あたし、ここでも腰ぬけましたがな……まあ、親なればこそでござりますがな」 「ああ、ありがたいことや。番頭どん、おとうはんに、おまえからも、よう礼いうといてや」 「へえ……さあ、むいておあげ申しまひょ。ああ、もったいない。これが千両……皮だけでも、五両ぐらいの値打ちがあるやろな……ふくろが、ひい、ふう、みい、よう……十ふくろおまっせ。一ふくろが百両や。このすじかて一両ぐらいにはなるやろ」 「おとうはん、おかあはん、ちょうだいいたします。番頭どん、よばれるわ……ああ、おいしい、ああ、おいしい」 「あっ、百両、あっ、二百両……三百、四百……あっ、また、五十両、のこりの五十両が口へ……」  番頭さん、目をむいて、みかんが食べられるのをみております。 「ああ、おいしかった。えらいもんやなあ。急にからだに元気がついてきた。ところで、番頭どん、ここに三ふくろのこってるさかい、おとうはんやおかあはんに一ふくろずつあげてんか。あたしばっかりが食べると、罰あたるさかい。のこりの一ふくろ、あんた、食べて」 「へえ、へえ、どうもおおきにありがとう存じます。やさしいお心づかいで……さっそく旦那《だん》はんのところへ持ってまいります。へえ、ごめん……ああ、ご大家《たいけ》といいながら、みかんひとつに千両の金をほうりだす。ま、親心とはいいながら、ほんまに勝手なもんや。むすこのためなら千両のみかん買う旦那が、わしが、来年、別家するのにくれる金が、たかだかくれて百両、めったに二百両とはくれまい……待てよ、ここにみかんが三ふくろある。一ふくろが百両やから三百両や……ええい、あとは野となれ、山となれ、これを持って逃げたろ」  と、番頭、みかん三ふくろ持って逃げました。 たちぎれ  むかしの花街《いろまち》では、芸妓《げいこ》はんの花代《はなだい》をかぞえるのに、線香台に線香を立てて時間をはかったんやそうでございます。そこで、「芸者商売|仏《ほとけ》のごとく、花や線香で日を送る」などとうたわれましたもんで……  船場《せんば》のさるご大家《たいけ》のおはなしでございます。 「これ、丁稚《こども》、定吉、ちょっと」 「へえ、あっ、若旦那!」 「わての姿みて、びっくりせえでもよろし。こっちへはいりいな」 「へえ、あの……若旦那とおしゃべりしてるわけにまいりまへん。お店へでんなりまへん」 「わかってるがな。ちょっとここへおいで」 「あの……番頭はんに、若旦那のおそばへ寄ったらいかんといわれてまんねん」 「番頭がなにやねん。かめへん。はいんなはれいうに……」 「へい……なんだす?」 「あのな、いま、階下《した》で、なんやわやわやはなしがはずんどるが、どなたかおいでか?」 「へえ、きょうは、ご親類ご一統、みなおあつまりでんねん」 「なんでや?」 「へえ、それ聞かれるとつらいねん」 「ふーん……わたいのはなしがでてるのやろ? 知ってんねやろ?」 「へえ、そら存じておりまんね。お茶をはこんだりしとりましたさかい……」 「ほなら、聞くが、どんなはなしがでてるんや?」 「へえ……そのことをいうたらいかんといわれてまんねん。だれかほかのもんに聞いとくなはれ」 「なんでいえんのや?」 「それが……番頭はんに、いうたらいかんいうて、五十銭もろた義理はないけど……」 「なにいうてんねん。五十銭もろうたんか? やすい義理やな。ほな、わては、一円やるわ」 「えっ、一円! ほな、あんたに義理立てるわ」 「ほんまにやすい義理やな……どんなはなしがでてるのや?」 「ええ、はなしちゅうのは、あんさんのことですねん……はじめに口きかはったのが、やっぱり親|旦那《だんな》はんで、『きょうは、おいそがしいところをおあつまりいただきまして、まことにあいすみません。ご足労ねがいましたのは、うちの金食い虫のことでござります』と……あんさん、お金食べはりますのか? 歯が痛いやろ?」 「あほなこといわんと、それから、どないしたんや?」 「『ひとりむすことおもて、あまやかしてたのがわるおました。意見して聞くようすがみえませんさかい、おもいきって勘当しようおもいます。それについて、みなさんがたのご意見をおうかがいいたしたいと存じまして、こないにおあつまりねごうたわけで……』と、こないいやはりました」 「ふーん、おとっつあんらしいこといやはったなあ……で、いちばん最初、だれが口きいた?」 「へえ、京の旦那《だんな》はんでんね」 「どないいやはった?」 「『わしが京へつれていく』と、こないおっしゃいまして……」 「そうか……親類じゅうで、京のおじ貴《き》がいちばんはなしがわかるねん。若いときあそんできた人だけに……うん、京はええなあ。祇園、島原、先斗町《ぽんとちよう》……あそぶところがぎょうさんあるわ……しばらく京へ行てこうか?」 「そんな気楽なこというてはったら、あきまへんで……」 「なんでや?」 「高瀬川の綱ひきをさせようかというてはりました」 「え? なんやて?」 「『あれは、いままで自分でお金をかせいだことがないよって、金のありがたさを知らんのや。えらいめをさせなあかんよってに、高瀬の綱ひきでもさせたろ』と、こういうてはりました……高瀬の綱ひきちゅうもの、あんた、知ってなはるか? ……わて、一ぺんみたことがおます。京都の高瀬川で、舟が上り下りしてます。下りはよろしいが、上《かみ》へひきあげるときは、人間が、綱でひっぱってあげまんねんで……肩へ綱をあてて、川岸のところをはだしでな、『えいっ、えいっ、えいっ』と……まあ、えらい力仕事だっせ。肩なんかすりむけてしまいまっせ……『あれをやらしたらどやろ?』と……」 「ほな、わては、高瀬の綱ひきにきまったんかい?」 「きまりかけたんだす。ほたら、池田の旦那《だん》さんが、口ださはって、『もう、そんなまどろこしいことせんと、わしが池田へつれていぬわ』といわはりました」 「わかってる、わかってるがな。池田のおっさんの腹はわかってんねん。おもよという娘がいてるやろ? 無細工《ぶさいく》な娘《こ》や。もうええ年齢《とし》やが、いまだに縁談《はなし》がまとまらん。あれとわてを、めあわせようという腹や。こいつはちょっと……」 「そんな陽気なはなしとちがいまっせ。『あれをつれて行《い》んで、野良仕事をてつだわす。このあいだ買《こ》うたばかりの牛がいてるさかい、あいつに牛を追わして、田んぼへだす。なかなかあの子のいうことを聞くような牛やあれへん。あれが、かんしゃく立てて、尻のひとつもどついたら、気のあらい牛やさかい、角へかけて殺してしまいよるやろ。ほな、もうかたづいてええやないか』……と、こないいうて……」 「なんということを……ほな、わしゃ、牛の角で突き殺されることにきまったんか?」 「きまりかけたんで……そしたら、兵庫のお家《え》はんがな、『そんな、牛の角にかけるやなんて、はなし聞くだけでもむごたらしい。血いみるだけでも厭やおまへんか。わたしが兵庫へつれて帰りまひょか?』と……」 「ふーん、やっぱりおばはんは、女子《おなご》だけにやさしいわい。兵庫もええとこや。須磨に別荘があるねん。しばらく魚つりでもしてこうかなあ」 「へえ、釣りはさせてくれまっせ」 「わしゃ、釣りが好きやさかいなあ」 「そういうてはりましたわ。『あの子は、釣りが好きやさかい、釣りにいかせる。うちにつぶれかかった舟があるよってに、海の荒い日に、あの子乗せて、沖へ釣りにやる。ほな、海の荒いなかを、舟なんか、しろうとがようあやつれへん。ひっくりかえって、あの子が海におちてしまうわ。あのへんは、鱶《ふか》がぎょうさんいてるさかい、じきに食うてくれる。鱶にでも食われてしもたら、むごい死骸《しがい》をみいでもええし、葬式だす手間はいらんし……』」 「待て、待て……むごいはなしやないか」 「いえ、まだつづきがありまんねん」 「まだつづきが?」 「へえ……『その鱶が漁師にとられて、大阪へきて、かまぼこ屋さんに買われたら、あの子、かまぼこにしてしまおやないか』と……」 「わあ、わて、かまぼこときまったんか?」 「へえ、きまりかけたんでんね。そしたら、番頭はんがでやはりまして、『みなさんがた、そんな、若旦那の命までとろうなんてことは、ごじょうだんにもおっしゃらんようにおねがいいたします。なにもそれほどわるいことをあそばさんのですさかい……さきほど、京の旦那《だん》はんがおっしゃいましたように、若旦那は、お金のありがたさをご存知ないよってに、こないなことになったのとちがいますやろか? ……金のありがたささえわかればいいのやさかい、若旦那を乞食に……』」 「えっ?」 「わてをにらみなすったかてあきまへん。番頭はんがいやはったんで……ほたら、みなさんが、『ああ、そりゃええやろ。そりゃええ』というので、あんた、乞食ということにきまりましたんで……」 「なんちゅうひどいことに……」 「へえ、ほたら、親旦那が、『乞食にするような着物がないが……』と、こうおっしゃったら、番頭はんが、『へえ、ございます。めしたきの久三の寝間着、もうよごれてきたなくなっとります。あれに乞食継《つ》ぎというやつをこう、膝や尻へあてましてな、若旦那さんにさしあげまひょ』て……で、首へかける頭陀袋《ずだぶくろ》をおもよどんがつくってまして、金どんが縄の帯をのうておりまんねん。もうまもなくみなそろいまっしゃろ。若旦那、あんさん、乞食のことなんかよう知りまへんやろが、いまみたいにえらそうにいうてはったら、お金もらわれしまへんで……お腹が大きいかったかて、へってるような顔して、『おとといから食べずでございます……どうぞ一文』と、あわれな声で……」 「そこどけ!」 「あっ、若旦那、血相《けつそう》変えて、どこへいかはりまんねん? 約束の一円を……」 「ええ、どけ!」 「なんだんねん。みなさん、逃げんかてよろしいやおまへんか。この部屋は、こわい人ばかりそろうてはるのに、なんで、わての顔みて逃げなはんねん。わてを牛の角にかけて突き殺すというたんはどなただす? わてをかまぼこにするとおっしゃったのは、どなたはんだんね? ……おい、番頭、あんた、えらいもんやな。あんた、わてを乞食にするいうたてな。してもらいます。してもらおうやないか……おとっつあんがいやはるよって、ちいそうなって、あんたにへえへえいうてるけど、わて、ここのひとりむすこやで。えらそうにするなっ……番頭、番頭とたててりゃええとおもて……番頭がなにほどえらいのや? たかが丁稚《でつち》の劫経《こうへ》た(年数が経った)やつやないかい。わて、主人やで。主人を乞食にすりゃ、あんた、それで本望か? さっ、乞食にしてみい!」 「まあ、みなさん、お逃げなさいませんでもよろしゅうございます……若旦那、お坐りやす……まあ、お坐りやす……仮りにも船場《せんば》のご大家の若旦那ともあろうおかたが、ご親戚のみなさまおあつまりのお席へ、あいさつもなしにはいってみえて、立ちはだかってものをいうとはなにごとでごわす? なんという行儀でんね? さあ、お坐りやす。お坐り!」 「坐るわ。坐るがな……わてを、乞食に……」 「ええ、いたします。やかましおっしゃるな。いたします……ちょっと、あんた、聞いとくれやす……若旦那、これはなんでござります?」 「鍵やがな」 「そうだす。ご当家でいちばん大事な蔵の鍵でごわっせ。その大事な財産のはいったある鍵をでっせ、なにがために、丁稚の劫経た番頭があずかっとりまんね? わかりまっしゃろ? あんさん、まだお店でいばっていただいてはこまります……しかし、若旦那、わたしは奉公人、あんたはご主人、そのご主人がいやじゃとおっしゃったら、わたしが無理やり乞食におさせ申すわけにもまいりまへんが、あんたが乞食にせえとおっしゃるのは、ねごうたり、かのうたり……いかにも乞食におさせ申しまひょ。この通り、乞食の衣裳もそろいました。まさか手づかみで、ご飯もあがれますまい。喜びなはれや、欠けたお椀《わん》に箸《はし》が一膳、ちゃんとそろうとります。さ、乞食になってもらいまひょ。さ、着かえなはれ! ええ、ぬぎなはらんかいな? 乞食が、そないにええべべ着ててもろたらこまります。さ、ぬぎなはれ、おぬぎ!」 「ああ、かんにんしてや」 「あんさん、乞食にせえというたやおまへんか?」 「いや、そら、ことばのはずみやがな……ほんまは乞食は厭や。乞食は厭や……」 「まあ、泣きなはんな。みっともない……よろし。ほな、乞食やめまひょ……そのかわり、わたしのいうこと、なんでも聞かはりますか?」 「ほかのことやったらなんでも……目でたくあん噛《か》めちゅうたら噛む」 「さよか? ほな、だれぞ台所へ行て、たくあんを一切れ持っといで」 「なにいうてんのや。ほんまに噛めるかいな」 「また、でけんことをおっしゃる。それがいけまへん……よろしゅうおますな? わたしのいうこと聞かはりますな?」 「聞く」 「ほな、いまから百日のあいだ、蔵へはいっとおくれやす」 「え? 蔵へはいるんか?」 「いやなら乞食に……」 「はいる、はいる」 「よろし……蔵とはいいながら、掃除もでけて、調度や夜具もそろえてあります。丁稚《こども》をひとりつけておきますよってに、ご用がございましたら、お申しつけくださいますように……お風呂だけは、行水《ぎようずい》でご辛抱を……くれぐれも申しておきますが、蔵から一歩もでることはなりまへん。よろしおますな」 「しかし、百日は長いなあ、せめて五十日……」 「あきまへん……さあ、こっちへおいなはれ……さあ、ここだす、おはいりやす」  とうとう、若旦那、蔵へいれられてしもうた。  ご大家の若旦那が、なんでこんなことになったかと申しますと、あるとき、おとっつあんの代理で、仲間《なかま》うちの寄りあいにでました。お茶屋へまいりますと、多勢の芸妓《げいこ》はん、舞妓《まいこ》はんがでましたが、なかにひとり、南の中すじの紀の庄といううちの娘で、小糸という若い芸妓、これが、まだまるですれてない、おとなしい芸妓でございます。若旦那は、芸妓にもこんなええ娘《こ》がいるのかとおもいますと、小糸のほうも、なんとうぶな若旦那やろうと……たがいに一目惚れというやつで……さあ、それからというものは、夜泊まり、日泊まり……いろいろ意見しましても、馬の耳に念仏、そこで、親戚をあつめて相談ということになったわけでございますが、あれこれと案がでましたあげくに、蔵にいれて、すこしあたまを冷やしてやろうという番頭の計略にはなしがおちついたようなわけでございます。  若旦那が、蔵へはいりましたあくる日のお昼すぎ、花街《いろまち》の者らしい小いきな男がまいりまして、 「こんちわ」 「お越《こ》しやす」 「ええ……若旦那は?」 「へえ、ちょっとおでかけでございますが……」 「ああ、さいで……ほな、この手紙をことづかってきましたんやが、お帰りになりましたら、これをちょっとおわたしを……」 「承知いたしました」  うけとりました番頭、若旦那にわたしませんで、手文庫のひきだしへいれると、ぴしっと錠をおろしてしまいます。  あくる日になると、また、お昼ごろに…… 「こんちわ」 「またきたな、この人」 「若旦那は?」 「きょうもおでかけだす」 「さよか。ほなら、この手紙を、ないしょでちょっとおわたしねがいたいんで……」 「へえ、たしかにおあずかりいたします」  また、手文庫のひきだしへいれて、錠をぴしっ……夕方になりますと、 「へへへへ……ごめんやす」 「またきたな」 「若旦那は?」 「まだお帰りやないんで……」 「ほな、この手紙を……」 「承知しました」  また、ほうりこんで、錠をぴしっ……あくる朝になりまして、女中が、表の戸をあけますと、 「へへへへ、おはようさん」 「もうきてるわ、この人」  さあ、それから、手紙がきました。きました。はじめが一本、二日目が二本、つぎが四本、それから八本、十六本、十六本が三十二本、三十二本が、六十四本……がまの油の口上みたいに倍増しに手紙がくる。文づかいの人が、行列してやってくるので、それをあてこんで、うどんやがでる、すしやがでる、てんぷらやがでる……手文庫にはいりきらんほどきておった手紙が、八十日目にぴたっととまりました。あとは、まったくまいりません。  このとき、番頭が、「ふふん」と鼻のさきで笑いました。 「花街《いろまち》の女の恋は八十日か、水くさいもんやなあ」 「ええ、若旦那、ごめんくださいまし」 「どなたや? ……ああ、番頭どんか。さあ、おはいり……しばらく会わなんだが、かわりないか?」 「ええ、おかげさんで……」 「きょうはなんぞ用か?」 「へえ、どうぞ蔵からおでましを……」 「なんでやねん?」 「若旦那、もう、百日|経《た》ちました」 「えっ、もう経ったか! ……早いなあ。そうか……わてなあ、蔵へはいった当座は、日の暮れるのが長《なご》うてなあ。ああ、まだ二日目や、まだ三日目や……こりゃ、百日経つのに十年ぐらいかからへんかとおもたがなあ……わて、一生蔵へいれててもらうわ」 「なんででんね?」 「もう、ここへはいってたら、世間なんにもわからずにのんきやし、本を読んでもようお腹へはいるし、ええ勉強になってええわ」 「そうはいっててもろてはこまります。こんどはひとつ、お店へでてはたらいていただきませんことには……しかし……」 「なにしてんね? あんた、ふとんおりて、あたまさげて、どないしたんや?」 「若旦那……あんたよう、このわたしのようなもんのいうこと聞いて、がまんしてくれはりましたなあ……ほんまに、あいすまんことで……」 「なにいうてんね。あんた、店のため、わてのためにしてくれたことやないか……わてのほうこそ、あんたにお礼いわんならん」 「そうおっしゃられると、わたしこまります……しかし、ありがとうございました。親旦那はんも、これでご安心なさりまひょ。口にこそださはりまへんでしたが、そりゃもう、なみたいていのご心配やおまへんでしたからな……へえ、きょうはなあ、赤ご飯だす。われわれみなお相伴《しようばん》いたしとります。ごっそうさんでござります……そうそう、それからな、あんさんが、蔵へおはいりにならはったあくる日、南の小指《れこ》(情婦)のところから……」 「なにいうてんね。殺生やがな。せっかくわすれようおもてるのに……」 「ま、これは聞いといていただきませんとなあ……手紙がまいりました。お目にかけるわけにもいかず、わたしがおあずかりしときましたら、つぎの日は二通とどきました。それから、四通、八通と倍増しに、手紙がきたのこんのと、もうたいへんなさわぎで……ところが、八十日目にぴたっととまりました。あなたが、蔵からおでましになるまで、たとえ一本ずつでもええ、きてあったら、親|旦那《だん》さんがなんとおっしゃろうと、ご親戚がなんとおっしゃろうとも、この番頭が、身にかえてもお添わせいたしましたに……水くさいやおまへんか。あと一本もまいりまへん……しかし、結構だす。これで、よい嫁はんをおもらいになれます」 「番頭はん、わて、もう花街《いろまち》へふたたびいこうとはおもわん。目がさめたわ」 「いえいえ、そうやございません。花街は気保養にいくところでおます。月に一、二へんやったらおいであそばせ。その節は、この番頭もお供いたします。若旦那、まあ、この手紙を一本ごろうじませ」 「それにはおよばん」 「いえ、それじゃわたしの念がとどきまへん。あれほどまでに番頭へたのんであるのに、若旦那へ一本の手紙もみせてくれんのか、ああ、あの番頭は不親切なものやといわれても、いやだっさかい、まあ、どうぞ一本だけでもごろうじませ。ここに、一番上のを持ってまいりましたさかい……」 「ええやないか。なにも読まんかて……」 「いえいえ、そうおっしゃらずと……」 「そうか、ほなら読もうか」  ひろげました手紙は、最後にきましたんで、一番上に乗っておりましたやつで……あけてみますと、もう字もみだれて、 「この手紙、ごらんに相成り候上は、即刻御越しこれなき節は、今生にてはお目にかかれまじく候、かしく……」  と、まことにかんたんなものでございますが、「釣り針のようなかしくで客を釣り」という川柳の通り、まことに弱々しい文字でしたためてございます。 「ふん……しょうもないこと書きよるわ……番頭はん、わて、蔵をでたらな、ちょっと天満《てんま》の天神さんまでおまいりにいてきたいんやが……」 「ええ、どこへなりとおいであそばせ。けどなあ、お待ちかねですさかい、ご両親にだけは、ちょっとごあいさつを……」 「さあ、それがあかんのや」 「あかん?」 「そうやがな……じつはな、蔵にいてるあいだに、願かけをしたんや。この蔵をでましたら、なにをさておきましても、いの一番にお礼まいりにあがりますというたあるねん。そやさかい、だれにも会う前にちょっとおまいりして、お礼だけいうて、じきにもどってくるさかいに、ちょっとだけ暇《ひま》やってんか?」  若旦那、散髪、お湯へはいって、ちゃーんとお身なりもおこしらえになりまして、 「ほな、ちょっと行てくるわ」 「はい、丁稚をひとりつけてやりますが、おじゃまとおぼしめしたら、帰していただきまして結構でございます」 「そうか、ほな、ちょっと行《い》てくるで……」 「どうぞ、おはようお帰り」  若旦那、丁稚をつれてでましたが、途中でうまくまいてしまいまして、南の中すじ、紀の庄へやってまいりました。 「こんちわ……こんちわ……留守かいな?」 「はい……これ、だれもいてえへんのかいな? おなか、どなたか、表にお人がみえてるやないか。早よでなはんかいな」 「へえ……えらいお待たせをいたしまして、まあ、若旦那!」 「ああ、ごきげんさん」 「まあ、若旦那、ちょっと待っとおくなはれ。あのおかみさん、若|旦那《だん》はんがおみえになりました」 「若旦那? どちらの若旦那が? え? 船場の? ……なにをいいなはんねん。あの若旦那がきやはるわけがないやろ」 「いえ、ほんまに……」 「あらっ、まあ、若旦那!」 「ごきげんさん……えらいひさしぶり……じつはなあ、事情《わけ》があって長いことようこなんだんや……さっそくやけど、きょうは、じきに帰らんならんのやが、小糸にちょっと会いたいんや……ちょっと呼んでんか? え? 留守だっか? え? お稽古だっか? ……ちょっと顔みたら、きょうはすぐ帰る。小糸は、どこにいてるんや?」 「若旦那、あんさん、いまごろになって、小糸に……会いとうおますか?」 「なにいうてんねん。会いたいさかい、きてるのやないか。小糸はどこに?」 「いえ、どこにもいってえしまへん。小糸はうちにいてます……まあ、どうぞおあがりやす……さあ、若旦那、小糸に会うてやっとおくれやす」 「なんしなはんね、おかはん、ひさしぶりできて、こんないたずら……これ位牌《いはい》やないか? こんなもんだして縁起《げん》のわるい……釈《しやく》の尼《あま》妙……俗名小糸!? え? 俗名小糸!?」 「若旦那、あの子、そないなりました」 「ほんまか? 小糸、なんで死んだんや? おい、だれが殺した?」 「ま、おちついておくれやす。なんで死んだ? だれが殺した? ……やなんて、そないなこといいなはったら、世間さま、なんとおっしゃるか存じまへんけど、若旦那、あんたが殺したといいとうなりまっせ」 「なんでや?」 「よう聞いとくなはれや。あんさん、この前きてくれはったとき、あの娘を、芝居へつれて行てやるというてくれはりましたなあ」 「へ、いいました」 「あの娘、待ってましたで……前の晩からそわそわして寝られへんいうて……『結《ゆ》いあげた髪がみだれたらいかんさかい、朝まで寝ずにいよかしらん?』『あほいいなはんな。そんなことして、芝居でいねむりばっかりしてたら、若旦那に愛想つかされまっせ。早よ寝なはれ』……ようようちょっと寝たかとおもうと、いつもの寝坊が暗いうちから起きだして、すっかり用意して、『おかあちゃん、若旦那、まだきやはらへん?』『あたりまえやないか。こない暗いうちからきやはるかいな』……いうてるうちにお昼前になりました。『どないしやはったんやろ? もうお芝居は、とうにはじまってるのに……』『心配しな。若旦那、なにかご用があんね。もうちょっと待ちないなあ』……そのうちに、お昼もよっぽどまわりました。あの娘、もう顔色かわってしもうて、『まだお越しやない。おうちへようす聞きにいってんか?』『そんなことができるかいな。もしもこられんなら、おつかいでもきやはるやろ。もうちょっと待ちいな』……そうこうしてるうちに、日が暮れになりまして、『おかあちゃん、もう若旦那はきはらへんわ』『そうやな。なにかあったんにちがいない。ま、あすでもみえるやろ』『あて、もう若旦那にきらわれたんや』『なにいうてんねん。なにか急なことができたんにちがいないわ。きょうはあきらめて早よやすみなはれ』……その晩、お客さんもおましたけど、みなおことわりしておやすみ……あの娘、とうとう泣き寝いりに寝てしまいました。あくる朝になっても、二階からおりてきやしまへん。朝ご飯食べしめへん。ほっといたらお昼ご飯も食べしめへん。わたい怒りましたえ。『わがままもええかげんにしなはれ。わてが心配するやないか』……ほたら、ようようおりてきて、軽うに一膳だけ……『若旦那に手紙書いたらいかんやろか?』こういいまんねん。船場のかたいおうちへ、花街から手紙がとどいたら騒動やおもいましたが、あんまりかわいそうやさかい、『いらんことごじゃごじゃ書かずに、なるべく手みじかに書きなはれや』と、いうたら、ようよう元気がでて、なんべんも書きなおして手紙書きあげました。人にたのんでお宅へとどけてもろたら、こわい顔したおかたがおうけとりになって、若旦那はお留守やとかでお返事がない……あくる日に、こんどは二通、つぎの日も、朝から手紙ばっかり書いてまんねん。いくらつかいに持たせてやったかて、『若旦那はおでかけやさかい、お帰りになったらわたしとこ』というばかり……『よろし、あても書こ』……あの娘の手紙とあての手紙、添え手紙で持て行たら、またお留守、それから、若旦那、手紙、書きましたで……お梅も、お松も、お花も、おとくも、別家のお八重もおそめも……みな寄って手紙書いてくれまんねん。もうずーっと机をならべて、うち、まるで寺子屋みたい……そないしてますうちに、とうとう床につきまして、だんだん病いは重《おも》うなるばかり、もうすっかりやつれて、細うなりましてな……お医者はんも、『これは薬ではどもならん。おもいをかなえてやらなあかん』とおっしゃいまして……もう、お水のほかは、なんにも通らんようになりましてなあ……『おかあちゃん、あて、若旦那にきらわれてしもうたわ。もう生きてても甲斐がない』……と、どうにもこうにもなぐさめることばもあらしまへん。もうどうしようかとおもてるところへ、あんさんが、あの娘のために注文してくれはった三味線、あんさんの紋とあの娘の紋とが比翼《ひよく》になってついてる三味線がでけてきました。やれうれしやとおもて、『それみてみ、前に約束してはったお三味線がちゃんととどいたやないか。若旦那、決してあんたのことをわすれてはるのとちがう。いつもいうように、なんぞわけがあってこられんことになってはるにちがいない』と、こないいうたら、にこっと笑いましてん、そりゃもうかわいらしい顔でしたで……『ほんにおかあちゃん、そうやな……若旦那、おうらみ申しましてすんまへん……この三味線、あて弾《ひ》きたいわ』こないいいまんね。弾けるようなからだやないけど、どうしても弾きたいいうさかい、あてが、ぐっと起こしてやると、おなかが背なかをささえてくれました。で、あの娘の手に三味線を持たせましたんやが、もう調子もなにもあわしまへん。『わてがあわしたげる。どないするのや?』と、聞くと、なにを弾くつもりだしたんやろか、『本調子』いいまんねん。で、わたいがあわしてやると……しゃんと一撥《ひとばち》……それがこの世のわかれ、そのまま、あの娘は死にました(と泣く)」 「ええっ、そうか、かんにんしてや。あーあ、そんなこととは夢にも知らなんだ。そんなことやったら、たとえ蔵やぶってでもでてくるんやったのに……」 「え? 蔵をやぶる?」 「そうや、おかはん、わてなあ、百日のあいだ、蔵の中へとじこめられてたんや。そやさかい、なんぼにかきたその手紙は、みんな番頭がなかではかろうたことや」 「ええ? 百日も? ……さよか。そないなこととは知らず、わて、あんたうらんでましたで……ちょうど、きょうは、あの娘の三七日《みなぬか》、その日にお越しやしたのも縁だすなあ。あの娘の朋輩衆《ほうばいしゆう》もきてくれます。どうぞ、線香の一本もあげてやっておくなはれや」 「おがましてもらおう。お仏壇は?」 「さあ、若旦那、どうぞこちらへ……あんさんのこしらえてくださった三味線もそなえてあります」 「小糸、知らなんだんや。かんにんしてや」  奥で若旦那が仏壇へ手をあわせておりますと、朋輩の芸妓たちがやってまいりました。 「おかあちゃん、えらいおそなりまして……」 「おかあちゃん、こんにちは」 「こんにちは」 「こんにちは、おそなりまして、もっと早よこなすんまへんねけど、ちょっときょういそがしかってん……で、ようようしたくすませて、髪に櫛《くし》さしましたらなあ、これが小糸ちゃんとおそろいで買うた櫛や、とたんにわあーと泣きだしてしもうて……せっかくのお化粧がめちゃめちゃになって……またつくりなおしてきましたん、えらいおそなってすんまへん」 「そうかいな……ようまあ、あの娘のために泣いとくなはった……おおきに、おおきに……きょうは、若旦那もきてくれてはる」 「えっ、若旦那!? あの……小糸ちゃんのかたき!」 「しいっ、大きな声だしなはんな。じつはな、若旦那も、百日のあいだ、蔵の中へとじこめられてはったんや。みんなもなにもいいなはんなや……さあ、こっちへおはいり」 「へえ、若旦那、お越しやす」 「若旦那、おひさしぶり……」 「お越しやす、若旦那……」 「ああ、こんにちは……ごきげんさん」 「さあ、若旦那、なにもおまへんけど、一口だけあがっとおくれやす」 「おかあはん、なにいうてんのや。こんなとこでお酒がよばれられるかいな」 「いいえ、せっかく若旦那にお越しいただいて、お口も濡らさんと帰ってもろたら、小糸にしかられます。どうぞ供養やとおもうて、おひとつだけでも……さあ、あんたがた、小糸のかわりや、お酌したげとおくれやす」 「……そうか、ほな、いただこう……ああ、お酌を……えらいすんまへん……ひさしぶりやなあ、ほな、おかあはん、いただきます。小糸、よばれるわ」  と、若旦那が、さかずきを手に持って飲もうといたしますと、「テーン、テテン、テン、テン」と、三味線の調子をあわす音が聞こえてまいります。 「あっ、おかあちゃん、お、お仏壇の三味線が鳴ってる!」 「えっ、お仏壇の三味線が? ……ほんまや」 「しいっ……こりゃ、地唄の『ゆき』や。あの娘はこれが好きやったなあ……ああ、小糸、かんにんしてや。わしゃ、おまえのために番頭より意見をされ、百日のあいだの蔵住居《くらずまい》、たびたび手紙をくれたそうやが、わしの手には一本もはいらず、きょう、はじめておまえの手紙をみて、さっそくきてみればこのしまつや……わしはもう、生涯、女房と名のつくものは持たんで……」 「おおきに、おおきに……若旦那、よういうてやっておくれやした。いまのそのひとことが、あの娘にとってなんぼありがたい手向《たむ》けになったやわかりまへん……小糸、若旦那がああいうてくださる……心のこさず、成仏しておくなはれや……なむあみだぶつ……」  いあわすみなも、ともに泣きいっておりましたところ、仏壇の三味線の音がふっととまりました。 「あっ、どないしたんや? 糸が切れたんとちがうか? おかあはん、ちょっとみて」 「ほんまに、どないしたんやろ? ……これ小糸、なんでやめたんや? これ……あの……若旦那、もうこの娘は三味線弾かしまへんわ」 「なんでや?」 「ちょうど線香が絶《た》ち切れでござります」 池田の猪買い 「こんちわ」 「おう、しばらくやったなあ。さあさ、こっちいはいれ……やあ、どないしたんや? 鼻のさきへ黒いもんがついてるやないか」 「黒いもん? ああ、これ、あんたのせいや」 「わしのせい?」 「そうや……このまえなあ、わてがなあ、えらいのぼせてしゃあないいうたら、あんた、ちりけへやいと《灸》すえいいなはったやろ?」 「そりゃいうた……そやかて、ちりけというたら、首すじやで……」 「そやさかい、首すじへすえたんや。けど、あんた、ひとつすえたら、すえた上へすえ、すえた上へすえいいなはったやろ?」 「そうや」 「そやさかい、上へ上へとすえていったら、あたまを通り越してここへでてきたんや」 「あほ! なにいうてんのや……そやないがな、やいとすえて火が消えるやろ、な? その上へかさねてすえていくのじゃ」 「おんなじところへかさねてか?」 「そうやがな」 「ははは、それ知らんもんやさかいな」 「あつかったやろ?」 「あついのなんの……あたまのてっぺんのあつかったこと……おもいだしても涙がでるわ」 「あほやな、ほんまに……で、ぐあいはどうや?」 「おかげさんでなおったんでやすけどなあ、この四、五日、急に冷えこんできましたやろ?」 「そういや、そうやな」 「そやさかい、こんだ、反対にからだが冷えて、もう、あっちこっち痛《いと》うてしょうがおまへんねや」 「ああ、それやったらな、からだあっためないかん」 「そりゃやってまんのや。懐炉《かいろ》あてたり、寝しなに風呂へはいったり……」 「ほんまは、内《ない》からあたためなあかんで……腹のなかから……」 「腹のなかから? ……懐炉《かいろ》飲みこむの?」 「なにいうてんのや……薬食いちゅうてな、猪《しし》の肉《み》を食べなはれ。そりゃ、あったまるで……」 「あ、そうか。そんなによう効《き》くのやったら、わいもどこぞ行《い》て買うてきまっさ」 「おいおい、そのへんで売ってるようなんではあかん。新しいないと、薬のききめはないねん……山で射ちたてのな」 「ほなら、射ちたてのやつ、どこへ行《い》たらおまっしゃろ?」 「そうやなあ……これから四里ほど北へいくとなあ、池田ちゅうところがあるわ。あのへんは、猪のぎょうさんでるところや。そこに六太夫さんという狩人《かりうど》がいてるわ。そこへ行《い》て、わけてもろうてきなはれ。うちからいうたら、売ってくれるわ」 「ほなら、これから行《い》てこうか?」 「おい、これから行《い》たら、むこうへ着くまでに日が暮れてしまうがな。あしたの朝|早《はよ》う起きて行《い》ておいで」 「ああ、さよか。ほなら、まあ、そうしますわ」 「そいでなあ、むこうは寒いさかいなあ、温《ぬく》いかっこうしていかないかんで」 「へ、おおきにありがとはん」  あほは、あくる朝、暗いうちから起きてやってまいりました。 「おはよう、おはようさん……」 「やあ、えらい早いやないか。まあ、こっちへおはいり。いま、くぐり(くぐり戸)あけるさかい」 「くぐりではあきまへんねん。大戸はずしてもらわんと」 「なんやて? 大戸はずす? ……どないしたんや? ほなら、大戸あけてやるさかい、ちょっと待ちい……やあ、なんじゃい、そのかっこうは?」 「おはようさん」 「なんちゅうかっこうや? 芝居の角力《すもう》とりみたいなかっこうしてるやないか。なにを着てきたんや?」 「へえ、あんた、池田寒いさかい、温《ぬく》いかっこうしていかないかん、いいなはったやろ?」 「そりゃ、いうたわ」 「そやさかい、うちにあるだけみな着てきたん……へえ、もう、ぱっち(股ひき)六足はいて、袷《あわせ》四枚と綿いれ三枚、その上に丹前《たんぜん》が二枚と、首巻きが六本や」 「なにをすんねや、そんなことして、おまえ、歩かれへんやないか」 「歩かれんこともおまへんがな……うちからあんたとこくるのに、もう一時間かかった」 「あほやな。おまえんとこからうちまで、ほんの目と鼻のあいだやないか。それを一時間もかかりよって……ものには程度があるがな。一ぺんぬいでしまえ。じゅばんに綿いれに、ぱっち二足もはいてりゃ十分や……うん、うん、そうや。それくらいにしとかんと歩きにくいやないか」 「あはは、ほんまにこのほうが楽《らく》や」 「あたりまえやがな」 「ほて、なんぼほど買うてきたらええねん?」 「そうやなあ、古うなったらききめがないのやさかいに、まあ、百|匁《もんめ》も買《こ》うてきたらどうや?」 「へえ、ほなら、そうさせてもらいます……で、一円も持ってたら足《た》りまっしゃろか?」 「そうやなあ、途中で小づかいもいるし、渡しにも乗らなあかんし、二円も持っていき」 「あは、二円か、わずかやなあ」 「ああ、わずかや」 「ほなら、ちょっとたてかえてもらえまへんか?」 「なにいうてんのや。わずかやいうといて……」 「そら、わずかや……わずかやけど、きょうはあいにく持ちあわせがおまへん」 「おまえのは、いつもあいにくやな」 「へえ、先祖代々あいにくでんねん」 「あほ……おまえにものいうたら損せんならん、ほなら二円貸してあげるさかいな、おとしたらあかんで……」 「へえ、おとしまへん。自分をおとしたかて、この金おとしまへん……ほなら、まあ、ぼちぼち行《い》てきますわ」 「おいおい、池田へ行《い》く道わかってんのか?」 「あはは、行《い》く道わかりまへん」 「のんきなやっちゃなあ……ええか、よくおぼえるのやで……ここを表へでると丼池筋《どぶいけすじ》やろ? これを北へつきあたると北浜や」 「へーえ、痛《いと》うおますな」 「なんや?」 「いえ、北へつきあたる」 「なにいうてんのや。行けるとこまでまっすぐに行くことを、つきあたるというのやないか……ここには、むかしから橋がないわ」 「わは、いまだにないわ。これ、ひとつのふしぎや」 「べつにふしぎなことはないわい。橋ない川はわたれんわ」 「わたるにわたれんことないわ。泳いでわたるわ」 「それではあんまり大胆な……一丁西へいくとなあ、淀屋橋という橋がある。わたって北へつきあたりが北の新地で、紅卯《べにう》というすし屋がある」 「わは、あそこのすしは、うまいけど値が高い」 「よけいなこといわんかてよろし。あそこんとこをなあ、ちょっと東へ寄るとなあ、北へ行く道があんねん、それをまあっすぐ北へ行くとなあ、お初天神から十三《じゆうそう》の渡し、三国の渡し、岡町《おかのまち》を通って池田へ一すじ道や。池田へ行《い》たら、山の手へかかってな、狩人の六太夫さんと聞いたらすぐ知れるで……ええか? 道がわからなんだら、よう聞いて行《い》きなはれや。問うは当座の恥、問わぬは末代《まつだい》の恥ということがある。よう聞いて行きなはれや」 「へ、わかりました。これから行ってきまっさ。おおきに……まあ、親切な人やなあ。道がわからなんだら、ようたずねて行けいうてた。問うは豆腐《とうふ》の恥、問わぬは松茸《まつたけ》の恥、いや、こらちがう、問うは東西の恥……問わぬは……いや、なんでもええ、だれかに聞いたらええんやろ。ゆっくり歩いてるやつにたずねるとなあ、手間がかかってしゃあない。いそがしそうにしてるやつに聞いたろ。そのほうが早《は》よらちがあく……ええ、だれぞいそがしそうに? ……あっ、むこうから走ってきよった。あいつに聞いたろ。もし、ちょっと待った」 「なんだんね?」 「あんたにものたずねんねん」 「ほなら、ほかの人にたずねてくれ。わしゃ、急いでんねん」 「そやさかい、たずねんね」 「おかしなやっちゃなあ。なんや?」 「あんた、なんでそないに急いでんねん?」 「うちの嬶《かか》に気《け》がついたんや」 「へーえ、狐《けつね》がついたんか?」 「そやない。産気がついたんや。子が生まれんのや」 「わはあ、おすかめすか?」 「口のわるいやっちゃなあ……そんなことわかるかい?」 「あんたどこへ行くねん?」 「あたりまえやないか。産婆《さんば》へ行くねん」 「そりゃそうやな。寺へ行てもしょうないわ」 「なに縁起《げん》のわるいこというてんねん」 「ほなら、あんたの用事は聞いたさかい、わての用事にかかるわ」 「おかしなやっちゃなあ。なんや?」 「ここは丼池筋やろ?」 「そうや」 「これを北へつきあたると北浜や、ここには、むかしから橋がないわ。これ、ひとつのふしぎや」 「べつにふしぎなことはないわい」 「橋ない川はわたれんわ。わたるにわたれんことないわ。泳いでわたるわ。それではあんまり大胆な……」 「なにいうてんねん」 「一丁西へ行くとなあ、淀屋橋という橋がある。これをわたるとおもうか? わたらんとおもうか?」 「知らんがな、そんなこと」 「それがわたらんといかんのや」 「ほなら、わたったらええやないか」 「わたって北へつきあたると、紅卯というすし屋がある。ここで、わてが、すしを食うとおもうか? 食わんとおもうか?」 「知らんがな」 「せやけど、しろうとかんがえでどないおもう?」 「しろうとにも、くろうとにも……知らんがな」 「食うとおもうやろ?」 「さあ」 「食うとおもえ」 「ほならおもう」 「そこがちくしょうのあさましさ。値が高《たこ》うて食えんのや」 「そんなもん勝手にしいな」 「そこをちょっと東へ寄ってなあ、北へまっすぐ行くとなあ、十三《じゆうそう》の渡し、三国の渡しから岡町を通って、池田へ一すじ道に行くのは、どう行くんや?」 「なにいうてんのや。いま、あんたのいうた通りに行《い》たらええのや」 「ああ、さよか。おおきに……あははは、たしかにそうやった。わてのいうた通りに行《い》たらええのや。そやけど、念には念をいれちゅうさかいな、もう一ぺんたずねたろ……ああ、ちょっと待った」 「なんや? まだなんかあんのか?」 「わあ、またあんたか」 「しっかりせい、このあほ!」 「はははは、おんなじやつに聞いてしもた」  あっちでたずね、こっちでたずねしながら、池田の山の手へかかってまいりました。 「わあ、雪が降ってきよったなあ。えらいもんや。お百姓が、唄うたいながら、野良《のら》で、牛追うて仕事してるわ」 「 秋がきたかよーい、鹿さえ鳴くによー、なぜに紅葉があ、色づかぬよーい、ちょうせ、ちょうせい」 「モー」 「わあー、びっくりした。おーい、お百姓、びっくりしたわい」 「なんでや?」 「いや、この牛がモーいうて鳴きよったからびっくりしたんや」 「牛がモーと鳴くとびっくりすんのか?」 「そうや」 「おまえはん、どこからきたんや?」 「大阪や」 「大阪では、牛はなんと鳴くんや?」 「大阪では、牛は……やっぱり、モーや」 「ほなら、びっくりせんかてええやないか?」 「それもそうや。ほなら、びっくりすんのやめとこ」 「かわった人やなあ、なんの用じゃなあ?」 「そうや、そうや、狩人の六太夫さんとこを知らんかいな?」 「六太夫さんとこはなあ、それをまっすぐ行くとなあ、道がふた股になっている。その左の道を行くとなあ、ふとい松の木がでてる家があるわい。それが六太夫さんとこじゃ」 「ああ、おおきにありがとはん……ええと、ふた股の道の左を行くと……そうや、聞くは豆腐《とうふ》の恥、聞かぬは松茸《まつたけ》の恥や。ここらで聞いたろか? こんちわ」 「はい、なんじゃい?」 「ちょっとおたずねしますが、狩人の六太夫さんとこはどちらでおますか?」 「おお、六太夫はてまえじゃ」 「しもた、何軒手前や?」 「なにいうてんのや。ここが六太夫の家や」 「へ、さよか、六太夫さんはお留守でおますか?」 「六太夫は、わしじゃ」 「あんた、ほんまに六太夫さんか?」 「そうや」 「ほんまに狩人の六太夫さんか?」 「うたぐり深い人やなあ。わしが狩人の六太夫じゃ」 「けどなあ、忠臣蔵にでてくる早野勘平の狩人、もっとええ男でっせ。そないにうすぎたない狩人っておますかいな」 「芝居といっしょになるかい。ほんまもんの狩人はこんなもんじゃ」 「さよか。ほならまあ、きたな狩人さん、ごきげんさん」 「変なあいさつやな……なにしにきなはった?」 「大阪から猪の肉《み》買いにきたんで……」 「おう、客人かな、まあまあ、こっちいきてあたんなはれ。いろりがあるさかい……」 「へ、おおきに……寒《さぶ》うおまんなあ」 「この寒いのに、ようきなはったなあ」 「へえ、猪のあたらしい肉《み》がほしゅうてなあ」 「そりゃあ、ええとこへきなさった。ここにぶらさがったるじゃろ?」 「おっ、こりゃ大きなやっちゃなあ。これ、新しいか?」 「そりゃあ一昨日《おとつい》射ってきたんじゃ」 「え? 一昨日《おとつい》? そやないやろ? 一昨年《おととし》のやろ?」 「一昨年の猪なんてあるかい」 「せやけどなあ、目の前で射ってくれんことには信用でけん」 「ほんまにうたぐり深い人やなあ」 「えらいすんまへんけど、これから行て、目の前で射ってもらえまへんやろか?」 「猪は、なん頭《とう》ほどいるのじゃ?」 「え?」 「猪は、なん匹《びき》いるのじゃ?」 「百|匁《もんめ》」 「なに?」 「百匁」 「なにいうてんのや。わずか百匁の猪で、この雪の中、行けるかい」 「いや、こないにぎょうさん雪の降る日は、ええ獲物《えもの》がおまっせ。そりゃあもう、猪だけやおまへんで、鹿もでてくる、うさぎもでてくる、熊もでてくる、虎もでてくる、象もでてくる、鯨《くじら》もでてくる」 「そんなもんがでてくるかい……しかし、縁起《げん》のええこといいなさるなあ。こないに雪の降る日は獲物があるというたなあ、うん、そのひとことが気にいった。ほんなら射ちにでかけるか」 「そうしなはれ。わてもついて行くさかいに……」 「おまえさんは、うちで待っていなはれ。しろうとは邪魔《じやま》になってどもならん」 「せやけどなあ、目の前で射ってもらわんことにはなあ。新しいか、どうかわからんさかいに……」 「ほんまに、ほんまにうたぐり深い人やなあ……ほんなら、しょうない。つれて行《い》てやろう。……ちょっと待ってなされや。いま、留守番いいつけるさかい……これ、伊之《いの》よ、伊之よ!」 「とうちゃん、なんじゃ?」 「もし、六太夫さん、これ新しいか?」 「なにをいうのじゃ。これはうちのせがれやがな」 「あっ、せがれか? あんた、いま、いのよ、いのよいうたら、黒いもんがばーっととびだしてきたさかい、猪かとおもた」 「なにあほなこというてんのや……これ、伊之よ、わしは、この客人といっしょに、山へ猪を射ちにいくでなあ、おとなしゅう留守番してんのじゃぞ」 「うん」 「こら、うんという返事したらあかんで。大阪の衆に笑われるぞ。はいと返事するもんじゃ。ええか?」 「うん」 「まだうんいうてくさる。しょうがないやっちゃなあ」 「とうちゃん、おれさむしいけんなあ、じきに帰ってきてや」 「うん」 「とうちゃんかて、うんいうてるがな」 「おとなはかめへんのじゃ。さあ、客人、でかけようか」 「うん」 「おまえはんまでうんちゅうやつがあるかいな……さあさあ、でかけようかな……おい、客人、急ぎ足で歩くが、ついてきなはれや」 「そうどんどん行ってしもうたら、かなわんがな」 「雪の山道は、ぐずぐずしてると、風のぐあいがかわるとうるさいでな」 「そりゃ、あんた、山になじみがあるやろが、わては初会やで」 「女郎買いでもあるまいし、なじみも初会もあるかい……早う歩かんかい」 「もう、ほんまにかなわんな」 「早うきてみい。ここまできたら、あたりが一目で見わたせるで」 「あっ、ふー、ふー……こりゃあ、ええ景色や。谷がずーっと雪がつもってきれいだすな」 「そうやろ、ええ気持ちやろ?」 「ほんまに……あっ、あすこを走ってく犬は、お宅のとちがいまっか?」 「うちの犬じゃ」 「やあ、えらい吠えてまっせ」 「うん、客人、おまはん、運がええなあ」 「え? なにが?」 「猪がいたんや。それそれ、こっちへでてくる、でてくる」 「わあ、でてきよった、でてきよった。しかも二匹づれや」 「うーん、めずらしいな」 「あれ、親子ですか?」 「いいや、ありゃあ、雄《おす》と雌《めす》じゃ」 「ほなら、雪の山道歩いて、みちゆきやいうしゃれでっしゃろか?」 「なにあほなこというてんのや」 「ありゃあ、どっちがおんで、どっちがめんです?」 「そりゃ、大きいのがおんで、ちっさいのがめんや」 「ああ、ほんに、ほんに……めんのやつ、内股《うちまた》で、しゃなりしゃなり歩きよる」 「そんなことあるかい」 「あれ、新しいやろ?」 「あたりまえやがな。うごいてるやないか」 「ああ、さよか」 「どっち射とう?」 「そうやなあ……どっちの肉《み》のほうがうまい?」 「そら、やっぱり、めんの肉のほうが軟《や》らこうてうまいなあ」 「ほな、そのうまいやつを射ってもらおうか」 「よしよし、めんのほうやな」 「せやけどなあ、あんた、大きいほうがもうかりまっしゃろ?」 「そりゃそうや」 「ほなら、あんたのためや。大きいほうにしとくなはれ」 「そうか。おんのほうでええのやな?」 「せやけどなあ、この寒《さぶ》いところを、せっかくきてんのやさかい、やっぱり軟《や》らかいほうがええなあ」 「ほんなら、めんを射つでえ」 「せやけどなあ、あんたにも、もうけてもらいたいしなあ」 「ほんなら、おんか?」 「いや、やっぱりうまいほうがええなあ」 「えーえ、どっちにするのじゃ?」 「もう、どっちゃでもええ。あんた、好きなほう射っとおくなはれ」 「よし、ほんなら、大きいほうを射つさかいに、しばらくだまってなはれや」 「ああ、だまってる、だまってる、だまってるさかいに、気いおちつけて、射っとおくなはれや……だまってるで、わて、なにもいわへんで……なあ、射ちたての肉はうまいか?」 「うまいわいな」 「あは、うまいか? ほなら、わて、うちまでよう辛抱《しんぼう》でけん。帰りに、あんたとこでなあ、食べさしとくなはれ」 「おう、食うていたらええがな」 「おおきに、おおきに……鍋《なべ》、貸してくれるか?」 「貸してやるわ」 「あんたとこに味噌あるか?」 「ああ、あるがな」 「砂糖もあるか?」 「あるがな」 「ねぎもあるか?」 「うらの畑にあるがな」 「さよか……寒《さぶ》いさかいに、一ぱい飲みたいが、酒あるか?」 「どぶろくがあるがな」 「こりゃよろしいな……あんたんとこにめしあるか? むぎめしか?」 「うるさいな。そないにしゃべりつづけたら、射たれへんがな。だまってなはれ!」  六太夫さん、腹立ちまぎれに、「ダーン」と射ちますと、めすのほうはびっくりして逃げてしまいましたが、おすのほうは、二、三べん、きりきりっとまわって、ドサリとたおれました。 「客人、どうじゃ、大きかろうがな?」 「ほんにまあ大きいもんやなあ……これ、新しいか?」 「なにをいうのじゃ。いま、目の前で射ってみせたやないか。ええ? 新しか、新しないか、みせてやるわ」  六太夫さん、しゃくにさわったとみえまして、鉄砲の台尻で、猪をポン、ポーンと打ちすえましたが、腹立ちまぎれに射ちましたさかいに、弾丸《たま》はあたらず、猪のやつ気絶しておった。そいつをポンポーンたたいたもんですさかい、はっと息をふきかえして、とことこ逃げだしよった。 「客人、それみい、あないに新しいやないか」 三十石  京都見物にまいりましたふたりの男が、円山二軒茶屋、八坂の塔、高台寺、清水坂、大谷鳥辺山、大仏さん、耳塚三十三間堂と見物いたしまして、でてまいりましたのが、伏見街道でございます。 「さあ、早よう歩き、なにをぼーっとしてるねん?」 「べつにぼーっとしてるわけやないけど、なんぞ子どものみやげを買《こ》うて帰ろうおもうて、なにを買おうと、思案《しあん》してるねん」 「ほな、伏見人形でも買うて帰りいな」 「伏見人形てなんや?」 「この稲荷山の土で焼いた人形や。ここの人形はな、持って帰って破れても、その土が、もとの稲荷山へかえるというねん」 「ほう、えらいもんやな……そんな人形を売ってるか?」 「このへんは、人形屋ばっかりや……みてみ。だんだん職人がじょうずになるのか、器用になったんか、人形も焼き物とみえぬ羽二重細工《はぶたえざいく》のようやろ? ……どうや? 所帯道具かて、なにひとつないものはないわ。みな焼き物でできてるやろ?」 「そうかいな? ……けども、みわたしたところ、横槌《よこづち》がないな」 「これっ、焼き物の横槌がつかえるか?」 「おまえ、焼き物でなんでもあるというたがな」 「そら、いうたけど、焼き物の横槌があるかいな……そのほかのもんなら、あるというねん」 「ほうきがない、ほこりたたきがない。十能《じゆうのう》がない」 「おい、おまえ、ないものばっかり選《よ》ってるがな。あの棚にある大黒さんが、えびすさんの耳をほじくっている。あの肉づきといい、にたっと笑うてるとこは、ものでもいいそうやな」 「やあ、こっちののれんのあいだから首をつきだして、鼻たらしてる丁稚《でつち》もようできてるわ」 「どれいな?」 「あののれんのあいだから顔をだしてるやないか」 「あほ! あれは人間やがな」 「ああそうか……人形屋はん、ごめんなはれや」 「おいでやす。どうぞおかけ」 「おまえ、どれでも売るかえ?」 「へえ、どれでも商《あきな》います」 「ほな、あののれんのあいだから首だしてる人形、あれ、きれいに鼻ふいてなんぼや?」 「のれんのあいだから首だしてる人形? ……これ、あたまひっこめてい……あれは、わたしのせがれで……」 「なんや、おまえはんのむすこか……けったいなむすこをこしらえたんやな。あんなせがれ、大きなってもろくな者になれへんで、いまのうちに売ってしまい」 「ひとりしかないせがれを売ってしもうたら、跡とりがなくなります」 「なかったら、またこしらえたらええがな」 「こしらえたらええがなというて、じきにできるものやおまへん」 「そこをうんときばって……」 「なにほどきばったかて、わたしのような年になったらだめどす」 「ほな、わいが手つどうてこしらえよか?」 「いや、それにはおよびまへん」 「そうか。わいならすぐこしらえるんやがな。おしいな……棚にあるあたまの長い人形、あれはなんや?」 「へえ、福禄寿《ふくろくじゆ》どす」 「なんぼや?」 「あの福禄寿、百七十文どすが、百六十にまけておきます」 「なんや? 百六十が百七十やが、百六十にまけるのか?」 「いいえ、福禄寿、百七十を百六十にまけますので……」 「ややこしいねだんやな。値を聞いて肩がこってしもた……この小さい人形は?」 「へえ、この人形は、肌身につけていただきますと、船などに酔わぬまじないで……」 「これはなんや?」 「へえ、寝丑《ねうし》と申しまして、子どもに瘡《かさ》ができましたら、この丑《うし》に、坊《ぼん》の瘡を食べてくれ、嬢《いと》の瘡を食べてくれとたのむと、ふしぎとその瘡がなおりますねん」 「ふーん、お医者はんみたいな丑やな」 「値はなんぼや?」 「三百だす」 「この小さい、きたない寝丑が三百とは、ねうしがないな……やあ、いろいろな丑があるなあ」 「へえ、これが黒丑で、これが赤丑、こっちが斑丑《まんだらうし》だす」 「ああ、さよか……ほな、背なかにすき鍋を背負うて、なかに葱《ねぶか》と焼き豆腐いれると、ジューと鳴く丑はないか?」 「そんなすき焼きみたいな丑はおまへん」 「とにかく、寝丑と、この小さい文づかいと虚無僧《こむそう》の人形をもらうわ。みんなでなんぼや?」 「へえ、五百だす」 「だれがぼやくねん?」 「いえ、ぼやくやおまへん。五百だす」 「ああそうか……ほな、銭はここへおくで」 「ありがとうさんで……」 「えらいじゃまをしたな。それ、みやげができた」  やってまいりましたのは、伏見寺田屋の浜で、夕方になりますと、三十石の夜船に乗るお客さんを呼んでおります。 「へえ、あんさんがた、お下《くだ》りさんやおまへんか? もし、そちらの顔の色のわるいかた、あんた下《くだ》らんか?」 「いや、結《けつ》して(便秘して)こまってんねん」 「おい、なにいうてるねん」 「え?」 「結してこまってるとは、なんのこっちゃ?」 「あの人が、わての顔をみて、下らんかというてたずねてはるさかい、結してこまるというたんや……わてな、一昨日《おとつい》から便所《ちようず》へいかずや」 「ちがうがな。船に乗って大阪へ帰ることを下らんかというてるのや」 「ああ、そうか。ほな、大阪へ帰って下ります」 「そないていねいにいわんでもええ……おい、船はすぐにでるか?」 「へい、すぐにでます。どうぞご一服を……」 「そんなら待たしてもらおう」  二階へあがりますと、お客さんがたくさん待っておりますが、そこへまいりましたのが、船宿の番頭さんで、 「へえ、どちらさんも、えらく長らくお待たせいたしました。もうほどなく船がでます。今日《こんにち》は、えらいおつかれのことでござります。宿の番頭でござります。みなさんのおところとお名前を帳面に書かしていただきます。役場へとどけますのんどすが、どうぞてんご(じょうだん)をいわんように、ひとつていねいにいうていただきとうおす……ええ、あんさん、どちらさんでござりましょうか?」 「わいはな、大阪船場っ」 「わあ、きたないな、つばがはねまっせ……ええ、大阪船場どすな」 「今橋二丁目」 「へ……ええ、お名前は?」 「鴻池善《こうのいけぜん》右衛門《えもん》」 「ええ? ……鴻池はんのお手代《てだい》で?」 「いやいや、手代やない。わいが鴻池善右衛門」 「そんな、あんた、無茶いうたかてあきまへんで……鴻池はんにはごひいきになっておりますので、よう存じております。鴻池の旦那《だん》さんは、もっとよう肥えてはったようにおもいますが……」 「米高がこたえて、どかっとやせたんや」 「米高でやせた? てんごばっかりおっしゃって……もうすこうし背が高かったようにおもうてますが……」 「道中をして歩いてるうちに、ちびって背が低うなったんや」 「ちびった!? なにいうてなはる……そっちの旦那《だん》さんは?」 「おいどんは、鹿児島は本町通り二丁目、西郷……」 「え? 西郷!?」 「西郷ひくもり」 「どうぞなぶらんように……そっちのおばあさんは?」 「みずからは、小野《おのの》小町」 「いやあ、きたない小野小町やな。みずからちゅう顔やないわ。塩辛《しおから》みたいな顔をしてなはる。そっちの坊《ぼん》は?」 「ムチャチボウベンケイ」 「なんや、お子たちまでなぶりなはる……そっちのご出家は?」 「愚僧は、高野山弘法大師、これなるは、円光大師……おんなぼきゃ、べろしゃな、まかぼたら、まにはんどまじんばら、ばらはりたやむ……真言経を二十一ぺん書け」 「どうぞなぶらんように、ていねいにいうておくれやす……あんさんは?」 「ほなら、わたし、ていねいにいうよって、ていねいに書いてや」 「へい、ていねいに書きます」 「仮名で書いてや」 「へいへい、仮名で書きます」 「おうさかより、さんりみなみにあたる、せんしゅうさかい……」 「それなら、最初《はな》から泉州堺でええのどす」 「ていねいにと、いうたやないか」 「ていねいすぎますがな……泉州堺……へえへえ」 「だいどうくけんのちょう、ほうちょうかじきくいちもんじかねたか、ほんけこんぽんかじもときゅうざえもん、なごやししんまちどおりにちょうめ、おなじくしてん、にょうぼ、さよ、せがれ、まんきち」 「もし、それはなんどす?」 「こんどな、堺から名古屋へ庖丁《ほうちよう》の店をだそうとおもうねんが、ちらし(広告)のところ書きは、それでわかるかしらん?」 「知らんがな、そんなこと……そちらさんは?」 「わいは、大阪|西渡海里町《にしとかいりちよう》じゃ」 「へえへ、こりゃほんまや。大阪西渡海里町、へえへ、お名前は?」 「八文字屋徳兵衛、近江屋|卯兵衛《うへえ》、福徳屋万兵衛、大黒屋六兵衛、大和屋徳七、河内屋太郎兵衛、紀州屋源助、泉屋与兵衛、浪花屋清七、山城屋喜三郎、堺屋治助、赤穂屋太三郎、備前屋佐兵衛、讃岐《さぬき》屋喜平、肥前屋角兵衛、伊勢屋三郎兵衛」 「えーえ、おっしゃったのは、どなたはんとどなたはんどす?」 「おっしゃったのは、こなたはんおひとりや」 「え? おひとりで? ……あの……名前をぎょうさん書きましたが……これなんどす?」 「去年、うちのおとっつあんが死んでな、香奠《こうでん》をもろうたんやが、香奠がえしをせんならん、何軒あるやろ?」 「もし、うだうだいいなはんな。帳面がまっ黒になりましたがな」  番頭はん、ぶつぶついいながら下へおりてしまいました。  しばらくいたしますと、川から船頭の声が聞こえてまいります。 「さあ、だしまっすぞー」  この声に、みながどやどやと下へおりてきますと、下では、女中さんがべんちゃら(お世辞)を申しております。 「へえ、どなたさんもおしずかにどうぞ、おはようお上がりを……もし、あんたはん、わらじをお召しにならんでもよろしゅうござります。すぐに船に乗るのんどすので、そこにてまえかたの下駄がおす。それをはいてお越しあそばせ。川端へぬいでおいていただきましたら、わたしのほうの焼き印が押しておすので、あとでひらいにまいります……あの、あんさんのお弁当、これにこしらえてござります。なかに高野豆腐《こうやどうふ》がはいってござります。お汁《つい》は、しぼってござりますが、せっかくのお召し物にしみがつくといきまへんので、わらび縄でさげるようにしておす。どうぞ、さげてお越しあそばせ。ありがとさんで。どうぞおはようお上がりを、ありがとさんで、おしずかにお越しあそばせ……まあ、これは、船場の旦那《だん》さんどすかいな。おみそれ申しておりまして、まことに失礼をいたしました。まあまあ、これはこれは、坊《ぼん》さん、大きゅうおなりあそばしたことわいな。先年お越しのときは、乳母《おんば》さんに抱かれてござったのに、こんなに大きいおなりあそばして、かわいおすわいな。お帰りになりましたら、ご寮《りよう》人さん(奥さん)によろしゅういうていただきますように……さきほどは、ご祝儀《しゆうぎ》をいただきまして、ありがとうさんどす。あの、おもよどんという女中《おなごつ》さん、まだ奉公しておられますか? まあ、さようでござりますか。ご忠義なおかたわいな。どうぞお帰りになりましたら、寺田屋の竹が、『よろしゅういうてくれと申しました』と、いうていただきますように……さよーならー、どなたもおしずかにお下りやーす」 「わあ、あいつ、なんや? 大きな口あきよったな」 「みんなのあたまへおしずかにをふりかけよったんや」 「ああ、そうか。ほな、さよーならー」 「これ、おまえ、なにしてるねん?」 「うん、あいつがおしずかにをふりかけよったんやさかい、わいは、さよならをゆすりこんだったんや」 「そんなしょうむないことをしないな」 「おーい、早よこい、早よこい」 「どなたもおしずかに……」 「早よこい、早よこい」 「おしずかに……」 「おい、おまえ、女中《おなごし》と船頭とみくらべて、なにうろうろしてるねん?」 「船頭は、早よこいというし、女中《おなごし》はおしずかにというし、どないしたらええねん?」 「なに、あほなこというてんねん、早ようこんかいな」 「おーい、お客さんがた、早よこい、早よこい」 「船頭はん、このお客さん、ひとりで五人前とっとくれ。こちらのお客さん、ひとりで二人前、三人で五人前、二人で三人前とっとくれ」 「あれは、なにをいうてよるねん?」 「あれはな、ひとり前の場所やと、混《こ》みおうてくると、坐ってられへんさかい、ひとりで二人前とってゆっくり坐るとか、三人で五人前の銭を払うて足をのばすとか、ひとりで五人前の場所買うて寝るとかするねん」 「ああそうか……おい、船頭はん、ふたりで、ひとり前とってんか?」 「なんやて? ひとりでもせまいのに、ふたりで、ひとり前どうして坐りなさる?」 「ひとり坐って、ひとり肩車するねん」 「そんなあほな……肩が痛《いと》うて、大阪までいかれへんがな」 「肩が痛うなったら、枚方《ひらかた》で、上と下と交替するわ」 「なにいいなさる。早よう乗りなされ」  お客さんが船に乗りこみますと、それへ物売りがまいります。 「どなたも、おみや(おみやげ)はどうどす? おみやはどうどす? おちりにあんぽんたんはどうどす? 西《にし》の洞院紙《といんがみ》はよろしおすか? おちりにあんぽんたん……もし、あんた、あんぽんたん」 「こらっ、なにぬかしやがるねん。あっちへいけ」 「おい、おまえ、なにをおこってるねん?」 「この物売り、わいの顔みて、あんた、あんぽんたんやいいよるねん」 「そりゃ、おまえのことやない。あんぽんたんという菓子の名やがな」 「ほんまか?」 「かきもちのふくれたんに、砂糖の衣《ころも》がかかったあるのや」 「ふーん、おかしな名やな」 「東山というのやが、俗にあんぽんたん」 「そうか……おちりてなんや?」 「ちりがみのことを、京ことばで、やさしくおちりというねん」 「ほな、便所へいたら、おちりでおちり(お尻のしゃれ)をふくか?」 「きたないしゃれをいいな」 「西の洞院紙てなんや?」 「大阪ですきなおし、京で西の洞院紙、江戸で浅草紙いうねん」 「えらい名がかわるねんなあ」 「まあ、ところによって名がちがうのやな……大阪でなんきんを、京でかぼちゃ、江戸で唐《とう》なすというそうな。ところによって唱《とな》えがかわる。浪花《なにわ》の芦《あし》も伊勢の浜荻《はまおぎ》というでな」 「妙なことをいうねんな。こらっ、物売り、買えへんわい。あっちへいけ!」 「まあ、あんたはん、いっかいお声どすなあ」 「こらっ、いっかいといわずに、大きいといえ」 「そんなことをおいいかて、京のことばや、しかたがおへんえ」 「なにいうてんのや。京がどれだけえらいのや?」 「京は、王城の地どすえ」 「なんや? 王城の地? ……青物ばっかり食《くろ》うて往生の地やろ?」 「まあ、あんなことおいいる。京は、一条から九条まで法華経普門品《ほけきようふもんぼん》が埋めておすえ」 「そんなもん埋めんと、ちょっと石でも埋めえ。歩きにくうてかなわんわい」 「あんなことをおいいる……京の御所のお砂をおつかみてみ」 「なんぞになるのか?」 「どんなおこり(熱病)でもおちるえ」 「おこりがおちる? ……ほな、大阪の造幣局の金をおつかみてみ」 「おこりがおちるんどすか?」 「首がおちるわい」 「おい、そんな無茶いいないな……物売り、怒って行《い》てしもうたわ」 「京のやつがものいうと、生《なま》ったれてるんので腹が立つ」 「そんなこというたかてしょうがない。郷《ごう》に入《い》っては、郷にしたがい、ところに入っては、ところにしたがうということがある。そう、おまえのようにいうもんやない」 「けったくそがわるい。寝てこまそ」 「これ、お客さんよ、こんなとこへ寝なはったら、じゃまになるがな。のきなはれ」 「こらっ、なにをしやがんねん、人のあたまをなぐりやがって……」 「お客さんよ、船頭はしておりますが、お客さんのどたまをどついたりはしません」 「いいや、いまなぐりやがったわい」 「どつきやしまへん。じゃまになるで、どきなはれと突いたで、おまえのどたまが鳴ったんじゃろう」 「こらっ、人のあたまをなぐっといて、鳴ったんじゃろとはどうや?」 「どつきやしまへん。どきなはれと突きや、おまえのどたまが鳴ったんじゃろ……よう鳴るどたまじゃ」 「こらっ、よう鳴るどたまとはなんじゃい? 太鼓みたいにぬかしおって……なぐったわい」 「おまえさんは、なぐったといいなさる。おれは、なぐらんという。こりゃ、おさまりがつかんがな……おまえさん、なぐったといいなさるなら、なぐられたという書き証文持っとるかい?」 「こらっ、なにいうてんのや。なぐられるのに、いちいち証文を書いてなぐられるやつがあるかい」 「これ、角《かく》よ」 「おーう」 「いつまでお客人をとらまえて、からこうとるかえ? ……お客さんよう、そいつは、国からでてきて、まだ間がない者じゃで堪忍《こらえ》まいよ」 「おまえのようにやさしくいうてくれたらええのに、人のあたまなぐっといて、よう鳴るどたまやというによってに、腹が立つねん」 「それじゃから、こらえまいよというのじゃ」 「そういてくれたらええのや。銭をだして乗ったら客や、その客のあたまをなぐるというやつがあるか?」 「それじゃから、こらえまいよというのじゃ。銭をだしたといいなさるが、この船は、船行船《せぎようぶね》(水死人を供養するための川施餓鬼をおこなう船)じゃござんせんで、銭ゃあいただきます……こらえまいよというに、こらえられんか? こらえられんなら、こらえられんとぬかしてみくされ。どたまからかちまく(なぐる)ぞ」 「うわあ、こわやの。あいさつ人の船頭のほうがこわいわ。どたまかちまくいいよる」 「そやかて、おまえがわるいがな。船頭の通り道に寝てるよってに……」 「船頭になぐられるわ、おまえにしかられるわしたら、わいの立つ瀬がないがな」 「そないに怒りいな。あないにいうてるが、馬方、船頭、お乳《ち》の人というて、ことばは荒いが、気立てはええもんや。あないごつごついわんと、この大きな船がうごかされへん。馬方かてそうや。馬の手綱持ったら、年中怒ってよる。『どう、長いつらさらして、張りたおすで! どちくしょうめ! 脛節《すねぶし》いがんでるがな』……まあ、ようあんな無茶いいよる。むかしから、馬の丸顔みたことないで。みんな長いもんや。馬かて張りたおされたら痛いよってに、顔をみじこうしたいやろが、でけんさかい、気のええもんで、鼻で笑うてる、『ヒヒン』とな……『どちくしょう』て、馬はちくしょうにきまってる。脛節いがんでるて、いがんでるので歩けるのや。まっすぐやったら歩かれへんがな。けどな、ああいうよってに、馬がうごくねん。やさしいのがええというて、京ことばで馬を追うてみい。馬はうごけへんで……『ちゃいちゃい、お歩きんかいな? なにしとるねん、あんたはん、長《いか》いお顔どすな。お足《みや》ゆがんどすえ』というてたら、馬が、『そうどすか』いうて、寝てしまうわ。船かていっしょや。『どきなはれっ』てな調子でやるさかい、船がうごくねん。なあ、船頭はん」 「やかましいわい」 「それみい。おまえのために、わいまで怒られるがな」 「おい、船頭はん、早ようだしいな」 「おい、だしますぞう!」 「もうし、お客さん、まことにすまんが、もうひとりさんだけじゃ、そこへおたのぎ(おたのみ)申しますがな」 「おい、船頭はん、もう乗られへんで」 「そこをひとつ、お女中やで、おたのぎ申します」 「なんぼおたのぎ申しますいうても、この通り、一ぱいやがな」 「お女中やけに、どうぞ……」 「なんぼお女中かて、もうあかんがな」 「もし」 「なんや?」 「あない船頭がたのんでます。お女中やいうてます。乗せてあげまひょ」 「そないいうたかて乗られしまへんがな」 「よろし。ほな、わたいの膝の上へ坐らします」 「あんたの膝の上へ?」 「そうでんねん。二十二、三の別嬪《べつぴん》だすさかいな」 「ほんまか?」 「はいな……『もし、ねえさん、ねむとうなったら、わたいへもたれて寝なはれ』『そんなことをしたら、あんたはんの着物に油がつきます』『いえ、だんない(かまわない)。あんたの肩をうしろからつかまえたげますさかい、ゆっくり寝なはれ』……船がでて、櫓《ろ》にかわると、船がかぶる。それにつれて、女《おなご》はんは、うつうつと寝ます」 「へーえ、うまいことしなはるねんなあ」 「船が八軒家へつきますと、『兄《にい》さん、えらいお世話になりましたなあ』『どういたしまして……』『兄《にい》さん、どっちへお帰り?』『へえ、久宝寺町へ帰りますが、ねえさんはどちらへ?』『わたしは、上町の和泉町へ帰りますねんが、おんなじ方角でっさかい、ごいっしょに帰りまひょか?』『そんならお供いたします』『ほな、人力車《くるま》いいまひょ。あの……人力車屋《くるまや》はん! 人力車屋はーん!』」 「わあ、びっくりした。あんた、大きい声やなあ」 「『人力車屋はん、合乗り一台』『へい、どうぞ……』『兄さん、お乗り』『いえ、ねえさん、お乗り』『兄さんから……』『ねえさんから……』『ほな、ふたりいっしょに乗りまひょ。ひい、ふう、みい。やっ、乗ったわ……人力車屋はん、母衣《ほろ》かけてんか?』 合乗り母衣かけ頬ぺたひっつけ、テケレッツのパー!」 「おい、船頭はん、気ちがいが乗ってるで、投《ほ》りあげてしまい」 「とたんに人力車がガラガラガラ……」 「わあ、まだやってるわ」 「人力車がとまる。『人力車屋はん、おおきにごくろうはん』、帯のあいだから銭入れをだして、人力車屋に銭をやると一軒路地。表の戸をトントンとたたくと、なかから女中《おなごつ》さんがでてきて、『あら、お帰りあそばせ』『ただいま……これ、お梅、ここにござるおかたは、船でご厄介になったおかたや。お礼いうとくれ』『まあ、さよでござりますかいな。主人が、船でお世話になったそうで、ありがとうさんでござります。さあ、どうぞこっちへおはいり』『いえ、これでおわかれいたします』『そんなこといわんと、おはいりあそばせ、おはいり、おはいり……』」 「もしもし、なにをしなはんねん、あての袖をひっぱって……もし、これ、はなしなはれ! 袖がちぎれるがな。はなしなはれ!」 「『そうでっか。ほな、せっかくやさかい、一服さしてもらいまひょ』と、あがり口へ腰をかけると、『そこは端近《はしぢか》、どうぞこっちへ』……上へあがると、お茶がでてくる。女中《おなごつ》さんに目で合図すると、女中さんがすぐに表へとびだす。しばらくすると、若い衆が、提箱《さげばこ》さげて、『毎度おおきに』『ごくろうさん』……料理がとどく……酒のしたくができて、女中さんがはこんでくる……チャプ、チャプ、チンチロリン、チャプ、チャプ、チンチロリン、チャプン、チリンのトプン」 「もしもし、そのチャプ、チャプ、チンチロリン、チャプン、チリンのトプンちゅうのはなんだす?」 「女中さんが気取《ようす》して歩きますさかい、盃洗《はいせん》の水が、チャプ、チャプ、チャプンといいます。そのひょうしに、さかずきがあたって、チンチロリン、チリン、底へ沈んでトプン」 「わあ、こりゃ、いうことがこまかいわ」 「『さあ、なにもございませんが、ほんのお口よごし……どうぞ、召しあがってくださりませ』『このようなご厄介かけましてすんまへん』『さあ、どうぞ』『へえ、さようなれば、せっかくのご心配、ひとついただきます』……わたいが飲んで、『ねえさん、あんさんもひとつどうだす?』『わたしは、よけいはいただけまへんが、お相手いたします』……やったりとったりしてる間《ま》に、相手の女子はんの目のふちがほんのり桜色……わてもほんのり桜……」 「ちょっと待ってんか」 「なんや?」 「そりゃ、相手の女子はんは、色が白いさかい、桜色やろうけど、あんたはだめや」 「わてはだめ?」 「あんたは色が黒いさかい、桜の木の皮の色や」 「ややこしい色やな……『えろう長居をいたしました。これでおいとまいたします』『まあ、よろしいやおまへんか……そら、どうでもお帰りにならぬと、お宅には、角《つの》の生《は》えるおかたがござりますねやろ?』『そないなものがござりますかいな。雨がふったら、でんでん虫が角を生やすぐらいのことですがな』『そんなら、今晩、おとまりやすな』……うわーい!」 「なんや? 踊ってはるがな……おい、船頭はん、なんとかしてんか?」 「もし、あんた、いまのおはなしはなんのことだす?」 「へえ、お女中を膝へ乗せて、大阪へ帰ったときのつもりだす」 「わあ、えらいつもりやなあ……しかし、もしもそううまくいかなんだら、どうしなはるねん?」 「へえ、うどん食べて寝ます」 「えらいちがいやなあ」 「お客さん、お女中の荷物や」 「おっと、船頭はん、お女中の荷物は、わたいがあずかります。どなたもさわりなはんなや。大阪へ帰って、一ぱいよばれる、これがまず手付けや。色男はつらいなあ……さあ、どなたもあやかるように、あたまの上へこの荷物、吊《つ》っておこ」 「はいはい、どなたか存じまへんが、ご親切に、年よりを……ありがとう存じます」 「こら、なんや? えらいばあさんやな。おい、船頭はん、お女中は?」 「はい、そのお女中をおたのぎ申します」 「この人、おばあんやないか。おまえ、お女中やいうたろ?」 「そりゃいうたわ。おばあんかてお女中じゃ」 「わい、こんなしわくちゃのお女中きらいや」 「あんた、膝の上へ乗せて、よう抱いて大阪までいきなはれ」 「そんなあほな! あっ、おばあん、そばに坐ってしもうた。もっとむこうへいってんか。もっとむこうへいけ! フウー!」 「吹いたかて、とびやせんがな」 「もし、まことにすみまへんが、わたしの荷物をとっとくなはれ」 「おばあん、心配しいな。あたまの上に吊ったるわ」 「こりゃ、どうも、おおきに……ちょっとおろしてんか?」 「おばあん、これなんや?」 「年よるとなあ、もう、しっこが近うなるよってに、便器《おまる》持って歩いてまんねん」 「なんや、これ、おばあんの便器《おまる》か!?」 「こら、そんなもん、いただかしやがったんか」 「おばあん、これ、新しいやろな?」 「はい、いま、宿屋でいっぺんつかいました」 「わあ、もう、いっぺんつこうたんやと……早よおろしいな」 「やっ、割れたがな、あははは……」 「おい、早よう船をだし」 「おう、だしますぞ!」  わあわあいうておりますうちに、赤樫《あかがし》でこしらえた三間柄《さんげんえ》の長い櫂《かい》がザブーン……舟が淀川へでますと、櫂が櫓とかわります。  三十石の舟というものは、長さが五丈六尺、胴の間の広いところが八尺三寸、笹葉形の苫《とま》舟でございます。  二挺の櫓には、四人の船頭がついて漕ぎます。 「おーい、喜惣次よ、お客さんがたに一文ずつおたのぎ申せよ。これは、船頭がもらうのではござりませんて、船魂《ふなだま》さまへお神酒《みき》をあげんと、舟が速《はよ》う走りまへんからちゅうてな、ええか? お客さんがたにようおたのぎ申せよ…… いやれ、伏見、中書島なあ……泥島なあれどよ、なぜに撞木町《しゆもくまち》やなあ……藪《やぶ》のなかよー、ヤレサよいよいーえ」  船がでますと、かならず船頭が唄をうたいます。いま船がでたという知らせにそうしたのやそうで…… 「おーい、お客さんがたから一文ずつおたのぎ申したか? なに? もう寝とる人がある? 遠慮はいらんで、寝とるやつあ起こせ、起こせ、死んどるんじゃあるまいし……もし、お女中さん、おまえさん、なにしとんじゃ? そんなとこからくぐりでて……あぶないことしとると、川へはまるぞ、それっ、なにをするんじゃ? ……へへへへ、なんじゃい、小便《ばり》はじきなさるのか……もし、舟べりへ小便《ばり》かけると、船魂さまの罰があたりますぞ。夜のことじゃ、だれもみとりゃせんで、やるなら、ぐっと尻まくって、川へつきだしてやんなされ。なに? はずかしい? はずかしいことありゃせんわな。夜のことじゃ、だれもみとりゃせんで、ぐっとまくってやんなされ、ええか? ぐっとまくって、ぐっと……おう、色が白いなあ!」  ドブーンとだれか川へおちたようすでございます。 「なにをしとんのじゃ? 色が白いちゅうて川へはまっとるやつがあるかい。早よあがってこいよ……」  船がでますと、中書島に、船頭さんのなじみの女子はんが橋の上へきて、 「勘六さんいなあー。上《のぼ》りかいな? 下りかいな?」 「なにをぬかすぞい。年中、船頭を相手にしくさって、上り下りのわからんやつがあるかい。船が下《しも》をむいておりゃ、下りにきまっとるぞ、くそっ……」 「あのなあ、勘六さーん、大阪へいってやったらなあ、小倉屋の鬢《びん》つけ買うてきておくれ」 「なにをぬかす。おのれが頭《どたま》に鬢つけが性《しよう》にあうか。馬のくそをぬすくっておけ! ……おのれはなあ、町にいるでええが、山におれば、狩人《かりうど》が、猪とまちごうて鉄砲で撃《う》つぞ!」 「待っててやわいなあ」 「われのようなかぼちゃをだれが待ってるかや」 「これ、清三、あの衒妻《げんさい》(娼妓などをいやしめ呼ぶことば)は、われの衒妻か? このあいだ、大阪へ行たとき、国もとの妹に櫛買うてやるで、銭貸せいうたが、おおかたあの衒妻に買うてやったんじゃろ。おーい、衒妻! 清三に櫛買うてもろうたかよー……やあ、顔をかくしよった。おかしやな、おかしやな…… やーれ、抱いて寝もせにゃなあー、いとまもくれずよー、それじゃ港のな、つなぎ船よー、ヤレサよいよいよー」  上り船とすれちがいますと、むこうの船から声がかかります。 「おー、いま下りかな?」 「ああ、下りますじゃ。伏見についたらな、万屋《よろずや》のおっかあに、わしがたばこいれをわすれておいたで、とっておいてくれと、ことづけをしてくれよー」 「早よう上がっといでよー…… いやれ、淀の町にもなあ、すぎたるものはよー、お城櫓となあー、水車よー、ヤレサよいよいよー」  船中の人たちは、みな白川夜船の高いびきで寝入っております。  東が白むと、鶏の声が聞こえてまいりまして、ほうぼうの茅葺《かやぶ》きの屋根からは、煙りがもうもうとでております。  お百姓の朝夜業《あさよなべ》、藁《わら》を打ってる音がかすかに聞こえてくる。   チワイナレナ、ワラバイ、ワイナアズキ、サンガデチバラレタン、フハイ  なんやわけのわからん唄をうとうております。  おばあさんは、糸車をしている。妹娘さんは機《はた》を織ってる、姉さんは、気取《ようす》をして、   おまえ紺屋か、紺屋の手間か、お手が染まればあいとなる  枚方《ひらかた》の十五丁手前で、ひとり、ぽいとあがった男がござります。 「あーあ、大津からつけてきて、わずか五十両の金で骨を折らしよった。まあええわ、今晩は、橋本か中書島で、ひさしぶりに女郎買いをして、あすは、芝居か落語《はなし》へでもいってやろうかい」  堤を歩いておりますと、下からでてきた犬が、盗人ということを知っておりますものか、 「ウムーゾク、ウムーゾク、ドロボー」  てなことをいってほえかかりますと、わきの犬がもらい鳴きで、 「ウムワン、ウムワン」  こっちでは、年をとった犬が、つきあいに鳴かんわるいとおもうて、歯がぬけてあるのに、 「ウムバン、ウムバン、バウバウバアー、アーアー」  しまいには、あくびをまぜて鳴いております。  船中では、五十両の金がなくなったというので、主船頭《おもせんどう》の勘六が、 「わしの船で、五十両の金がなくなっては、三十石の名折れや」  と、申しまして、船をまわして、上りにいたしました。  綱を陸へほうりあげると、四人の船頭が、土手へあがりまして綱をひきます。だんだん上ってまいりましたが、もとの船とは知りません最前の盗人、 「おい、ひとり乗せてんか?」 「おう、上りじゃ」  と、うまく乗せまして、首尾よく賊をつかまえました。  聞いてみますと、盗まれたのは、京都の大仏前、こんにゃく屋の権兵衛と申します男で、五十両の金をとりもどし、 「これも船頭はんのとんちのおかげや」  と、お礼として五両を船頭におくりました。  盗人は苦労して三文にもならず、船頭が五両もうけましたので、権兵衛ごんにゃく船頭が利。 お玉牛  これは、紀州と大和の国境《くにざか》いの堀越村というところのおはなしでございます。  ここに百姓の与平次というかたがおりまして、その嫁さんをおるいさんと申します。  このおるいさん、おさないときに両親に死にわかれ、身よりがございませんので、ご庄屋さまが、万事世話をいたしておりましたが、年ごろになりましたので、この与平次を婿養子《むこようし》にいたしました。  このおるいさん、人三化七《にんさんばけしち》ということばがございますが、そのことば通りでございまして、人間のほうの籍《せき》が三|分《ぶ》、化けもののほうへ七|分《ぶ》——背がすんなりと低うて、色がくっきりと黒い。でぼちん(ひたい)がでていて、おとがい(あご)がとがって槍《やり》おとがい。ほっぺたがでたあるかわりに、鼻がなかのほうへ高い。あたまの毛が、赤《あこ》うちぢれていて、あたまのまんなかにはげがあるという、なにからなにまで申しぶんのない女ぶりでございます。  ところが、こんなきりょうではございますが、たいそう心がけのええ女で……もっとも、これで心がけがわるいようでしたら、生かしておいてもしかたおまへんけど……とにかく心がけのええ女で、わたいのような不細工《ぶさいく》な女に養子にきてくれる、こんな亭主をそまつにしたら、罰があたるというので、たいせつにいたします。また、与平次さんのほうも、あんな貞淑《ていしゆく》な女をそまつにしたら、罰があたると、これもたいせつにいたしますので、夫婦仲もむつまじく、なに不足なく暮らしておりましたが、ころしも十二月の末のことで、朝からふりだしました雪が、日が暮れると、たいそうひどうなってまいりました。 「なあ、与平次はん」 「なんや?」 「雪がえろうひどうなってきた。こないに今夜は冷えるよってに、いろりのそばで藁《わら》など打ちなはれ、わたいもここで糸をつむぐよってに……」 「ほんにそれがよい」  と、いうてますと、表の戸をばトントンたたく音がいたしまして、 「おたのみ申す、おたのみ申す」 「なあ、こちの人、だれや表をたたいてはるで」 「なにいうねん、うちのなかにいても、こないに冷えるのに、だれがくるもんか。風があたって音がしているのじゃ」 「まあ、そうやろかな?」 「おたのみ申す……おたのみ申す」 「なあ、やっぱりたたいてはるがな」 「ほんになあ……表をたたくのはだれや?」 「はい、宿をとり損じ、日暮れて難渋《なんじゆう》をいたす者、せめて一宿の宿をおねがい申す」 「これはお武家はんで……まことにお気の毒やが、このへんはなあ、前かた、旅の人を泊めてまちがいができたで、旅の者をいっさい泊めるなとおふれがまわったあるので、お泊め申すことはできぬ。このへんから、半里ほどいくとなあ、お庄屋さんのお宅があるで、いたって、親切なおかたじゃ、そこをたのんで泊めてもらいなされ」 「いや、それは千万かたじけのうござるが、半里はさておき、一丁でも歩みかねる女づれの旅の空、ましてこの大雪、なにとぞ一夜の宿をおねがい申す」 「そら、せっかくやが、いかんわ」 「そこをなにとぞまげておひきうけくだされ」 「そら、まげても、まっすぐにしてもあかんわ」 「なあ、こちの人、いま聞いておると、女《おなご》をつれてというてはる。家にいてもこないに冷えるのや。雪のなかはつめたいやろ。そっとうちへいれて焚火《たきび》にあたらしてあげて、ぬくもったらでてもろたらどうや?」 「よういうた。よういうた。われは、顔は不細工やが、われの胸のうちが好きや。情けは人のためならずや。みんなわが身にむくうものなり」 「さあ、早ようあけたんなはれ」 「よっしゃ、いまあけたあげるで、待ちや」 「うわあ寒《さ》む。えらい雪やな。さあ、こっちはいりなはれ」 「これは千万かたじけのう存ずる。これ、玉菊や、いれていただけ」 「さあさあ、こっちへおはいり……うわあ、寒む、寒む……やあ、これ、どなたや?」 「それがしの娘にござります」 「ほう、これ、おまはんの娘はんかいな。まあ、きれいな人やなあ。おい、おるい、ちょっとこっちへきてみい。われでも女なら、この人でも女や。おなじ女でもえらいちがいや」 「これ、人の顔みて、なにいうてんねん、早よういろりへ柴をくべてあげんかいな」 「よっしゃ……さあさあ、おふたりとも早ようこっちへあがって、おあたりなされ」 「いや、まことにかたじけのうござる……では、娘、そちもあたらせてもらうがよいぞ」 「はい」 「さあさあ、早ようあたりなはれ……しかしなあ、お武家はん、こんなきれいな娘さんをつれて、いまごろ、このへんをうろついてござるには、なんぞわけがあることやろ? ……もし、かまわなんだら、はなしをして聞かしなはれ」 「はあ、おたずねにあずかり、お恥ずかしいことながら、それがしが申すこと、まずひととおりお聞きくだされ。それがしは、もと西国のさる大藩につかえし武士、松本丹下と申して、これなるは、娘玉菊と申すふつつか者、おさなきころ、生みの母に死にわかれ、乳母《めのと》をつけて養育せしが、生長ののち、殿のお目にかない、『さしあげよ、側妾《そばめ》にせん』とのおおせ。しかし、娘は、『かりにも側妾などには死んでもなりませぬ』とのかたい決意、そこで、父娘ふたりして、決死のおもいにて脱藩いたし、たよるところとてなく、これなる娘の乳母《めのと》、紀州加太淡島へんにいるとのこと、風のたよりに聞き、はるばるたずねまいりしに、死去いたしておらず、帰る道すがら、今宵《こよい》の雪に難渋いたす者、ご推察くだされ」 「ああ、さよか。はなしを聞くと、気の毒なわけやあ」 「なあ、こちの人、はなしを聞かんうちならともかくも、ああ聞いた上は、発《た》っとくなはれともいえん。だれも知ってる者がないのをさいわいに、今晩ないしょで泊めてあげて、明朝早よう発《た》たしてあげたらどうや?」 「よういうた。われは、顔は不細工やが、われの胸のうちが好きや。情けは人のためならず、みんなわが身にむくうものなり」 「あんなことばっかりいうてる」 「お武家はん、お腹はどうや?」 「いや、なにしろ宿をとりはぐったくらいでござるから、いまだにとってござらん」 「ああ、そうか。おい、おるい、雑炊でもあげえな」 「はい、もし、お武家はん、雑炊は食べてかえ?」 「ちょうだいつかまつる。これ、玉菊、おいただき申せ。よそうてとらす。おふたかた、ありがたくちょうだいいたす……この汁のなかに、なにやら、じゃきじゃきいたすものがござるが……」 「あ、それは、味噌がないので、ねば土がはいってあるんで……」 「はあ、ねば土でござるか……長さが五分ほどで、噛むと甘味のあるものはなんでござる?」 「そら、わらがきざみこんだあるので……」 「さようでござるか……土を食《は》んで、わらを食み、この上に左官を食めば、腹中に壁がぬれます。これは、せっかくでござるが、ご辞退申す」 「そうでござりやすか……これ、おるい、ほかになにか? ええ?」 「ああ、むぎめしののこりがすこうしありました。あれを茶漬けにでもしてさしあげまひょうかいな?」 「ああ、それがええやろ。ねば土にわらの雑炊じゃ、旅のおかたのお口にはあわんやろからな」 「いや、えらいお世話をおかけ申して、なんとも申しわけござらん」  腹のすいたときにはまずいものなしで、父娘は夢中で食事をおわります。 「さあ、おるいや、奥のわしらの寝間で寝さしておあげ申せ。わしらは、いろりのそばで寝るよってに……」  と、奥のひと間へふたりを寝さしまして、夫婦は、いろりのそばで横になりました……すると、夜なかに、娘さん、くらがりでうろうろしております。 「これ、娘さん、枕がわりがして寝られんかえ? それとも便所《ちようず》へいくのかえ?」 「いいえ、いま、わたいが便所へいって気がつきますると、父上さまが冷《つ》めとう、堅《かと》うなっておられました」 「え? 冷めとうなって? そら、えらい騒動やがな。これ、与平次はん、与平次はん」 「うんうん、むにゃむにゃ……」 「むにゃむにゃやないで、旅のお武家が冷めとう、堅うなってはるのやと」 「えっ! そら、えらいことやがな。これ、なんで火を消したんや?」 「おまえが、ふとんを蹴ったよって、火が消えたんやがな」 「火打ち石を持っといで。これやさかい、村かたでは、旅の者を泊めるなというんや。そやのに、おまえが泊めるというたで、こんなまちがいができた……それそれ、このろうそくに火をつけて……このろうそくは、またなんと火のつかぬ……」 「なんの、そりゃごぼうじゃもの、火がつきますかいな。このあんどんに火をいれなはれ」 「ああそうじゃった……うん、よしよし、これであかるうなった。これ、お武家はん、もし……ほんに冷めとうなっている。水を持ってこい、水を……うん、ゴクリ、ゴクリ……うん、これなら大丈夫や」 「おまえが飲んでどうするねん?」 「あわてないなあ」 「おまえがあわててるのやが、早よう水をかけたげなはれ」 「よっしゃ……なんという名前やったなあ?」 「はい、松本丹下でござります」 「ちがいない。丹下さんえなあ……おるい、おまえも呼んだげなはれ」 「旅のお武家はんえなあ。これ、娘さん、あんたも呼んだげなはれ」 「お父上さまえのう!」 「丹下さんえなあ!」 「旅のお武家はんえなあ!」 「お父上さまえのう!」 「おととさまえのう!」 「おまえが、おととさまということがあるかいな」  呼べどさけべど、もうこの世の人ではござりません。なんし田舎のことで、すぐにお医者をむかえることもならず、いたしかたがございませぬので、このことを、お庄屋にはなしをしますと、つねから正直な男でござりますので、お庄屋も、悪気でしたことやないと、ひそかに野辺の送りをいたしまして、一方はすみましたが、あとにのこった娘はん、『あんた、どうなはる?』と、たずねますと、娘は、与平次夫婦の親切に心を打たれておりますから、『身よりのない者ゆえ、よろしゅうおねがい申します』というので、それでは、おるいの妹で、生まれおちるとすぐに大阪へあずけてあったのが、帰ってきたということにして、名もお玉といたしました。  村へとどけましたところが、なんし堀越村のような草深いところへ、こんなきれいな女がきましたので、まるで、はきだめに鶴がおりたようなもの、若い者があつまりますと、お玉のうわさで持ちきっております。 「おい、半鐘のちゃん吉、蛙ふんだか久太郎、池の端の亀吉、そんなら宗助、みんなここへおいで。どや? 与平次とこのお玉」 「べっぴんやないか。べっぴん……」 「おい、つばきはねるがな……あれ、おるいの妹やといなあ」 「おるい、あんなおもろい顔しているのに、お玉は、べっぴんやなあ」 「あのお玉が帰ってから、与平次のうちは、えらい人気やなあ」 「おい、この村ばっかしやない。上村《かみむら》からも下村《しもむら》からも肩いれにきよるねん」 「そうやがな。くるやつは、みな、みやげを持てきよる。大根を持てくる。人参を持てくる。ごぼうを持てくる」 「大豆を持てくる、麦持てくる、与平次の家、もらいものでつかえたある」 「寝床《ねま》しくところものうて、立ったまま寝ていよる」 「まるで馬やな」 「しかし、あないぎょうさん肩いれにいくが、よその村の者にお玉をとられたら、この村の恥や。なんと、この村で、お玉を、うん、といわす者はないか?」 「みわたしたところ、そらないらしい」 「そらない」 「ずっとない」 「こらっ、あごたの軽平」 「なんや?」 「われ、あごた(あご)がかるいとおもうて、しゃべんない。ここに半鐘のちゃん吉さんがいるぞ」 「ふん、そんなら、なにか、ちゃん吉、われ、お玉にものでもいうてもろうたんか?」 「ものくらいいうてもろうて、こんな騒動がおこるかい」 「ふん、そんなら手でもさわったのか?」 「手をさわったくらいで、こんなまちがいができるかい」 「そんなら、どうしたんや?」 「それが聞きたかったら、もうすこし前へよれ」 「いったい、どうしたんや?」 「おい、みんな聞いてくれよ。このあいだ、おれが畑で仕事をしていると、堤の上をお玉が通りよるので、『おい、玉ちゃん、玉ちゃん』と、よぶと、ふっと、こっちをみよって、『だれかとおもったら、半鐘のちゃん吉さんやおへんか』と、いいよるので、『玉ちゃん、どこへいくのや?』と、聞いたら、『あの、兄さんや姉さんの八つ茶のぶぶを持っていきまんのえ』『まだ時刻が早い。ちょっと一服していきなあ』と、いうたら、『そんなら一服さしてもらお』と、堤をおりてくるんや」 「ふん、ふん」 「けえへんもんやばっかりおもてたやろ。そばにあったむしろをしいて、その上へおれのぼっこ(ぼろぎれをつづってつくった着物)をしいて、その上へお玉を坐らして、三尺さがって土下座《どげざ》したんや」 「そんなことしいないなあ」 「お玉が、『ああ、のどがかわいた』と、いうて、持っていた土瓶の湯を茶わんについで、半分飲んですてようとするさかい、『のこりは、おれに飲ませてもらお』と、飲みのこりの湯を飲ませてもろうたとき、おれ、うれしくて、ぞくぞくとしたら、小便もらした」 「あほやなあ、こいつ」 「『玉ちゃん、大阪から、こんな草深いところへきたら、さぞかしさびしいやろうなあ?』と、聞いたら、『いいえ、村の若いかたが、みんなで大事にしてくれはるので、わたしはよろこんでいます』と、まあ、こううれしいことをいうとったぞ」 「うん、うん」 「そこでなあ、おれがまたいうてやった。『しかしなあ、玉ちゃん、あんた、大阪に好きな人があるねんやろなあ』と、いうたると、『なんの、わたしにそんな人がおますかいな』『ああそうか。そんなら、毎晩若い衆がぎょうさん肩いれにいってるが、なかに好きな男があるならいうてや』というたら、『そら、わたしやとて、木竹やなし、女やもん、好きな人のひとりや半ぶんはないことはないが、とかく浮き世はままならぬもので、なるはいやなり、おもうはならず、つい辛気《しんき》(くらい気持ち)で暮らしていますがな』と、こういうんやで……ええ、おい!」 「おい、無茶をしないな、おれのあたまをなぐってからに痛いがな……それからどうしたんや?」 「『おい、玉ちゃん、そんな人があるならいうてんかいな。おれがちょうちん持ちぐらいはさしてもらうで、だれや?』と、いうたら……おい! こらっ!」 「痛い! なんでそういちいち人のあたまをなぐるんや? だれぞ受付けかわってんか?」 「それでな、『ほんまに好きなのはだれや?』と、いうたら、『わたしの好きなおかたは、つい目のさきに……』と、こないにいうので、そこらをみたが、だれもおらへんやろ? まさかおれかともいわれへんので、『この鍬《くわ》か?』と、聞いたら、『ちがいます』『このかかしか?』『ちがいます』『この肥桶《こえたご》か?』『ちがいます』……」 「またむさい(きたない)ものを聞いたんやな……で、どないした?」 「『なにほど、わたしのような者でも、鍬やかかしや肥桶に惚れてどうしまんのやいなあ。わたしの好きなかたというのは、半鐘のちゃん吉さん、あんたでおますがなあ』……うわあ!」 「おい、痛い、痛い! なにをすんねん。ひとの顔をかいて痛いがな」 「『好きなかたというのは、半鐘のちゃん吉さん、あんたでおますがなあ』……うわあ! ……あれ? だれもかけんがな……いやおれ、どこむいてる?」 「夢中で目もみえへんのか? ……ふ—ん、お玉が、『半鐘のちゃん吉さん、あんたでおます』と、いうたんか?」 「さあ、いうたらええが、おれではとてもあかん」 「なんや、あかんのか? さんざん人の顔をかきやがって……」  みな、若い者がやかましゅういうていますところへ、むこうから、鎌を一丁持って踊ってきよるやつがおます。 「ちょいとちょいと、こらこら、えらいやっちゃ、どっこいさの、ちょいちょい、うれしゅうてたまらん。お玉の色男はおれじゃぞ。どっこい、どっこい、こらこら……」 「おい、また、あんなやつがひとりふえたで。おい、あばばの茂平とちがうか?」 「そうや、みなあつまって、お玉のうわさをしてるのとちがうか?」 「そうや、いま、お玉ののろけをいわれて、おまけに顔をかきみしられよったとこや」 「おい、すまんが、お玉のことならいわんといてや。ここに、あばばの茂平はんという色男がいるねんさかい」 「え? 茂平、どうした?」 「どうのこうのてな、みな、もっと前へよって聞いてくれ」 「なんや、また顔をかきみしられるのとちがうか? やあ、あぶないがな。鎌持ってよる。それでかきみしられたらたまらんわ」 「なに、大丈夫だ。ここへ置くよってに……いま、おれが土橋の下で大根を洗うていたら、お玉が通りよったんや。『おい、玉ちゃん、どこへいくねん?』と、たずねたら、『だれかとおもうたら、あばばの茂平はんやおへんか』『おい、玉ちゃん、このあいだから手紙をやってるのに返事もないが、いったいどうしてくれるねん? いまここで逢うたが百年目、さあ、うんといえばよし、いやといえば、この鎌が、どてっ腹へお見舞い申すぞ。いやか、うんか? うんか鎌か? うん鎌かと、いうてやったら、お玉のやつなあ、『あばばの茂平はん……そんな……手荒いことせいでも……あんたのことなら……とうからうんでおますがな』と、いうてな、おれの顔を尻目にじいーとみてな、にたっと笑いよったんや……うわあ!」 「痛い! また、あたまをなぐられた」 「『うんならえい。ちょっとはなしがあるさかい、むこうの辻堂まできてくれ』と、いうたら、お玉が、『昼、こんなところで、ふたりがはなしをしてるところを、村の若いおかたにみつけられたら、また、おかしいうわさが立つといかんさかい、今晩、夜なかの鐘を合図《あいず》に、裏からしのんできとくなはれ。切り戸をあけて待ってます』と、お玉がいうた……うわあ!」 「痛い! また、顔をかきみしりよった」 「今晩、おれは……お玉のところへ……しのんでまいります……わあ、えらいやっちゃ、こらこら……どっこいさの……ちょいと……」 「おい、茂平、えらいことをやりよったで、おい、茂平、前祝いに一ぱいおごれ」 「よっしゃ、みんな一ぱい飲んで、やーとこせ、よーいやなあ……」  と、若い者は、にぎやかにさわいでおりますが、すまんのはお玉さん、泣いてうちへ帰ってまいりました。 「うわあ……兄さん、姉さん、どないしよう?」 「おー、いややの、どうしたんや? ちょっとでると泣いて帰ってからに……」 「あのな、いま、わたしが土橋のところを通ったら、横からあばばの茂平はんがでてきて、わたしをつかまえて、『このあいだから手紙をやってるのに返事もないが、いったいどうしてくれるねん? ここで逢うたが百年目、さあ、うんといえばよし、いやというなら、この鎌が、どてっ腹へお見舞い申す』と、鎌をふりあげて、『いやか、うんか?』と、手づめになったので、わたしもあんまりこわいので、『うんや』と、いうたら、『そんなら、はなしがあるよってに、むこうの辻堂まできてくれ』と、いうてひっぱるので、『昼、こんなところで、ふたりではなしをしているところを、村の若いかたにみつけられて、妙なうわさが立つといかんで、今晩、夜なかの鐘を合図に、裏からしのんできとくなはれ。切り戸をあけて待っています』と、その場のがれに逃げて帰りました。どないしまひょう?」 「まあ、えらいことになってきた。これ、与平次はん、与平次はん」 「なんや?」 「なんややないし、えらいことやがな」 「いや、のこらず聞いた。よういうた」 「まあ、そんな大きな声をだして……」 「よし、こうせい……今晩、おれの部屋にお玉を寝させ、お玉の部屋へは、このあいだ上《かみ》村の吉兵衛さんの持ってきた牛を寝かせ」 「これ、与平次はん、あんな荒い牛やさかい、もし、茂平が牛に突かれて死んだら騒動やがな」 「だんない(かまわない)。夜なかに、他人のうちへしのんでくるやつや。まして、村でいやがられてよるやつじゃ。死んだら、みなの者がたすかる。おれにまかしとけ」  日が暮れますと、牛小屋から牛をお玉の部屋へひきだしまして、 「それ」 「モー、モー」 「それ、それ」 「モー、モー、モー」  牛をふとんの上へ寝さしますと、いつもの小便くさい藁のなかより気持ちがいいので、牛はべたべたと寝よった。 「こら、われをこんなとこへ寝さすのんやないが、今晩、茂平がうせたら、われの角で突いてやれよ」 「ショウチシタ、モー」  牛が、そんなことは申しませんが、上から大ぶとんを着せて、火を消してしまいました。  そんなことはちょっとも知らんあばばの茂平、世界中の色男はおれやといわぬばかりに、そっと切り戸のところへしのんでまいりました。 「おお寒む、切り戸があいてるかしらん? ……やあ、あいてる。やっぱり玉公、おれのことをおもうてよったんやで。お玉の部屋は、台所のつぎの間、ここからしのんで、おお、そうじゃ」  あほが、くらやみで、ひとり気取《ようす》して芝居しております。 「ああ、くら……あっ、痛い、戸がしめたあるな。えらい音がする。よし、小便かけたろ……うん、戸があいたぜ。まっくらやなあ、おい、玉ちゃん、おれや、おれや……わあ、えらいいびきやなあ。どこや? ……えーと、このへんやな。うわあ、えらい大きいからだやなあ、いつもほそいのに……ははん、わかった。寝ぶとりというのやな。あれだけのきりょうをしてて、年ごろで嫁いりもせず、養子ももらわんのは、こういう病気があるさかいやな。だんない。おれさえ辛抱《しんぼう》をしたらええんや。さあ、ふとんをぬぎ、よっしょと、なんや? まだ毛布を着てんのか? これもぬぎ、えらい堅う巻いてるなあ……ともかくもはなしがある。どっちがあたまや? ……なるほど、このへんやな……さすが大阪という繁華な街で育ったさかい、寝るときは、下げ髪やな、長い毛やな……これっ、下げ髪でおれのあたまたたきよって、てんごしないなあ。だまっていんと、なんとかいいんか? これ、玉ちゃん、びんつけをぎょうさんつけて、ええにおい……いや、こりゃ臭《く》さ、こら、おれがわるい。畑で仕事をしてたさかい、けったいなにおいがうつってんのやろ……このへんとちがうか? なるほど、ここや。かんざしをさしてるな。ふといかんざしやなあ。これは、ふとくてりっぱなかんざしやな。おれのつまったとき(金のないとき)のやりくりに貸してや。なあ、玉ちゃん、だまっていんと、なんとかいうてんか? これ、玉ちゃん」  牛の角を持ってふりまわしたから、牛もいままで辛抱してたが、気持ちがわるうてたまりません。むくむくとおきあがって、 「モー」 「うわあい」  茂平さん、鳴き声におどろいて逃げだしました。 「おい、みなあつまっているか?」 「なんや、茂平やないか? どうしたんや?」 「お玉のところへ行てきた」 「えらい……それで、お玉をうんといわしてきたか?」 「いや、モーといわした」 ざこ八 「へえ、ごめん、こんにちは。桝屋《ますや》新兵衛さんのお宅は、こちらでございますか?」 「はい、どなたじゃな? 桝屋新兵衛はてまえじゃ。あけてはいりなはれ」 「へえ、ごめん……おお、おじさんで……ごきげんよろしゅうございます」 「はいはい、どなたじゃな? 年をとると、目がわるうてどもならん」 「へえ、おみわすれはごもっともで……町内におりましためがね屋の弟の鶴吉で……」 「なに? 鶴さんやて? そら、めずらしい人じゃ。さあ、まあ、かけなされ……これ、お茶を持っといで」 「どうぞおかまいなく……」 「いや、お茶は、わたしが飲みますのじゃ」 「ああ、さようで……」 「これ、めがねを持ってきとくれ。いや、もう、年をとるとあかんで、めがねがないと、どもならん……おお、こら、ほんまに鶴さんじゃ。ごきげんさん」 「おひさしゅうございます。長らくごぶさたをいたしまして、いつもお達者で結構でございます」 「はいはい、いや、あなたもお達者で結構。長らくどこへいてなさった?」 「はい、東京へいっておりまして……」 「ああ、そうか、道理で、ことばがすっかりちごうてきたとおもいました。しかし、もう何年になるかえ?」 「へえ、町内をでましてから、ざっと十年になります」 「早いもんやなあ。十年にもなるか……そうして、東京は、どこにいてやったんや?」 「魚河岸におりまして……」 「ふーん、いさましいところやな。わたしもだいぶ前に東京へいったことがあるが、東京もずいぶんとかわりましたやろ?」 「へえ、ずいぶんとかわっております」 「そうやろな。わたしも、もう一ぺんいきたいとおもうてんねが、この年になったら、とてもあかん」 「この坊《ぼ》んは、おじさんの坊んで?」 「なにをいうのじゃ。これは、おまえさんの友だちの、せがれ新之助の子じゃ。いまな、三人孫ができて、これがいちばん兄じゃ。これ、おじさん、おいでやすといいなされ……はい、もう七つになります」 「そんなことは存じませいで、知っておりましたら、坊《ぼ》んになんぞ買うてまいりますに、これは、まずいものですが、手みやげのかわりで……」 「こりゃ気の毒な……さよか、いただきます。大きにありがとうさん……これ、おじさんに、いつも歌う唄を聞かしてあげ。あの、それ……なに? おじちゃん、大きな目をあいてるさかい、いややて? なにをいいくさる。鶴さん、孫が、あんたに唄を聞かすちゅうてます。目をつぶってやってください」 「へえ、坊んは唄がおじょうずで? そんなら、おじちゃん、目をつぶってますで、聞かしとくなされ」 「さあ、おじちゃんが、目をつぶってくださった。早よ歌い。なんやったいなあ。野毛のかいな、野毛の山からノーエかいな? …… 野毛の山からノーエ、鉄砲サイサイ、かついで小隊すすめ……」 「えらい坊んは、老《お》いくろしいお声で……」 「いまのはわたしじゃ、ははははは」 「ときに、あのお町内の糸屋さんは、ただいま通ってまいりましたら、お宅がころっとかわっておりましたが……」 「糸屋さんか。あのお宅はえらいご出世じゃ。いまは、横町《よこまち》へ地所を買うて、りっぱなご普請をなさって、ご家族も、上下《かみしも》かけて二十七、八人はござるそうじゃ。なんでも生糸相場で、ぎょうさんもうけなしたのじゃ」 「へえ、あの播磨《はりま》屋さんは?」 「播磨屋さんは、いま、心斎橋すじに店をだして、なかなか繁昌してござると聞いてます。それにひきかえ、あいかわらずつまらんのは、わたしとこじゃ」 「あほらしい。これだけの店を張ってござるのに……」 「あははは、わたしは、もう隠居して、店は新之助にすっかりゆずりましたが、あれは、あいかわらず、沈香も焚かず、屁もこかずで、ただ店を守ってるというだけじゃ、あははは」 「それに、あの角に、ざこ八という米屋さんがございましたが、あのお宅は?」 「ざこ八さんのお宅か? 気の毒につぶれました」 「えっ! あの四丁|界隈《かいわい》切っての金持といわれたざこ八さんがつぶれましたか……しかし、ざこ八さんは、あのようにかたいおかた、おばあさんは女のこと、ほかに娘さんひとり……まあ、ほかにつぶす者はないはず……いったい、ざこ八をつぶしたのはだれです?」 「ああ、めがね屋の弟むすこの鶴吉という人がつぶしたんや」 「おじさん、じょうだんを……なぶらないで……」 「いや、じょうだんでも、なぶりもしやせん。おまえさんがつぶしてやったんや」 「そら、真剣におっしゃるのですか?」 「そうじゃ」 「カア、プウ!」 「これ、畳の上へ土足であがってどうするんねん? これ、つばをはいたりして……」 「つばじゃねえや。痰《たん》だい。おう、もう一ぺんいってみろ。この唐変木《とうへんぼく》め。なにをぬかしやがるんだい。ふんふんと聞いてりゃ、いい気になって、おう、よくかんがえてみろ……十年前に東京へいって、いま帰ったばかりのこちとらが、どうしてざこ八のうちをつぶせるんでえ? おかしなことをぬかしやがると、上あごと下あごと持って、ぴいっとふたつに裂《さ》いて、はなかんじまうぞ」 「ちりがみみたいやな、まるで……あははは」 「なにがおかしいんだ?」 「これ、表へ立つな。喧嘩やない。すこし声の大きいはなしをしてるのじゃ。入り口の障子をしめときなされ。戸口へ人が立つ。これ、鶴さん、大きな声をだしなさんな。ご近所へみっともない」 「大きな声は地声だい」 「みんな、逃げいでもよろしい。鶴さん、もう、いうことは、それでしまいか? これ、ほかの者なら、いまのおまえさんの権幕《けんまく》で逃げるか知らんが、この桝屋新兵衛だけは、おどろかんのじゃ……おまえさんが、ざこ八をつぶしたというその因縁を説き聞かしてあげようか。おまえさんは、むかしからこの町内でのほめ者やった。若い者に似合わん、放蕩《ほうとう》もせず、よくはたらく、感心な者やと、だれひとり、おまえのことをわるういう者はなかった」 「おだてるない、この禿《はげ》ちゃびん」 「いや、おだてやせん。ほんまのはなしをしてますのじゃ。町内に極道《ごくどう》むすこがあると、おまえさんを手本として意見をするくらいじゃ。そのうちに、おまえさん、浄瑠璃の稽古屋入り。ああ、わるいとこへはいったなあ。あれが機会《どうき》で、わるい友だちでもできて、極道せなよいがなあとおもうたが、なかなか身をくずさず、あいかわらず商売をいっしょうけんめいにやりなさる。浮いたはなしも聞いたことがない。ところで、いまでもおまえはんはええ男や。まして、十年前はなかなかの美男子、町内の娘が、お前さんに、やいやいという。ざこ八の娘のおきぬさんも、一目おまえさんをみるなり惚れこんだのじゃ。ところが、ある日、町内に宴会があった。ほかの人とわかれて、この町内へ帰るのは、わたしとざこ八とふたりづれ、道でのはなしに、『ときに桝屋さん、うちの娘のおきぬに、だれぞええ養子がありましたらお世話ねがいます』とのはなし。わたしが、『めがね屋の鶴さんは?』と、おまえさんのことをいうたんじゃ。すると、『鶴さんなら町内でのほめ者《もん》、本人もかたい人やで結構、しかし、娘がなんというか、一度娘にはなしをしてみます』と、その晩はわかれて帰った。あくる日、ざこ八が、娘にはなしをしたら、自分が惚れた男、なんの不服があるものかいな、ふたつ返事で承知したので、さっそくわたしのうちへきて、はなしをすすめてくれとのたのみ。そこで、おまえとこの兄さんにはなしをした。ところが、おまえの兄さんはかたい人やで、『ざこ八さんとことは、身代《しんだい》がちがいます。つりあわぬは不縁のもと』といいなさるが、いや、そうやないと、いろいろはなしをすると、本人さえ承知したらということやで、わたしが、おまえさんにはなしをした。そのとき、おまえさんは、なんというた? 『おじさん、なにぶんよろしゅうおたのみします』と、いうたことをおぼえているやろな? よもやわすれはせんやろな? そこで、はなしがまとまって、結納《ゆいのう》までとりかわして、わたしが媒酌人《ばいしやくにん》で、吉日をえらんで、さて婚礼となった。当日、おまえさんのすがたがみえんが、風呂へでも行たのかいなあ、と、おもうてたが、九時、十時になっても帰ってきやせん。十二時、一時となってもすがたをみせん。とうとう夜のあけるまで、ざこ八とおまえさんとこのうちのあいだを、わたしは、なんべんいったり、きたりしたかわからん。あのときばかりは、足が棒のようになったで。ざこ八は怒る。『うちの養子は、桝屋さん、どうなったんだす?』と、きめつけられる。娘は娘で、『はじめての殿御にきらわれたのやで、死んでしまう』というし、わたしは、あのときほどこまったことはない。侍やったら、腹を切って申しわけをせんならん。『まあまあ、わたしがゆきとどかなかったんやさかいに』と、あやまって、あとで、なんとかはなしをつけると、一時はおさめた。そのはなしは、町内やとなり町までひろがったが、なんせい相手は、今|小町《こまち》といわれる娘だけあって、養子になりたいという人はなんぼでもある。しかし、どれもこれもいややという。ところが、ある日、天王寺さんへ参詣して、一心寺のとこまでくると、そこに桶をかたげて通った小便汲みが、おまえさんに瓜ふたつというほどよう似た男や。それをみると、おきぬさんが、鶴さんによう似てるというので、あとをつけていくと、猪飼野《いかいの》の百姓で、相当なうちの次男じゃ。人をもってはなしをすると、先方もさっそく承知をして養子にきた。はじめのあいだは、おとなしかったが、そのうちに、わるい友だちができて、茶屋酒の味をおぼえた。おもしろうなった。きょうは難波新地、明日は北の新地、堀江、新町、松島と、金を湯水のようにつかうのじゃ。それがために、ざこ八は、それを苦にして、ころりと死ぬ。つづいて、かみさんもあとを追うというしまつ。養子は、両親が死んだので、あとはこわい者なし、日夜の放蕩三昧《ほうとうざんまい》。とうどううちから、なにからなにまで人手にわたってしまう。金がなくなった。ぼちぼち安ものを買う。病気がうつって梅毒がでる。できものは、からだ一面にできる。うみがでるというありさま。しかたがないで、町内へ奉加帳をまわして金をあつめて、四国へ巡礼にやった。途中で死んでくれたらええものを、また、のこのこと帰ってきた。夫婦の情で、一晩寝たが、その病気をおきぬさんにうつしておいて、そのまま養子は死んだ。そのとき、葬式の費用《いりよう》をわたしがだした。まあ、死んでいた者はそれでいいが、かわいそうに、今小町といわれた評判娘のおきぬさんも、病気のためにあたまの毛がぬけて、ちゃぼのような、じつにみるかげもないありさま。いまは、磯家うらの奥の端で、二帖じきの納屋同然のところで、たたみというたらええけども、たたというたら、みのない、しんがでてる。着物《きもの》は、四季の着物を一ぺんに着てる。肩があわせで、背なかがひとえで、腰のとこがやぶれて、かたびらのつぎがあたって、すそが綿いれになってある。あのときに、おまえさえ養子にいてくれたら、ざこ八のうちはつぶれはせぬのじゃ。いわば、おまえさんがつぶしたも同然じゃ。これでも、つぶしたというのが無理か?」 「へえ……」 「わたしのいうのが無理か? えらそうに江戸っ子をつこうて、たんかを切って……江戸っ子をつかわずに、ちょっと、小づかいでもつかいなされ。どうや? ぐうとでもいうてみい」 「ぐう」 「そら、だれでもいえるわ」 「いや、ごもっともで……あのとき、わたしは、養子にやってもらうつもりでおりましたが、友だちの申しますには、『小糠《こぬか》三合あったら養子にいくなとのたとえの通り、身代《しんだい》をふやしたところで、先方はもとからあんねというし、また、なくしたら、養子がつこうたといわれるし、養子ほどつまらんものはない。おまえも男やないか、りっぱにかかをもろうたらどうや?』と、いわれましたので、急にいやになりまして、東京へとっ走りました。おじさん、どうですやろ? ものは相談ですが、わたしを、ざこ八さんの娘がいる磯家うらへ、養子にお世話ねがえますまいか?」 「おまえさんも、もの好きな人やなあ。以前とちごうて、美しいことはないぜ。さきもいうた通り、病気やで。毛もぬけとるし、ずいぶんとみにくいで」 「いや、そら承知です。病気はなおします。毛のぬけとるとこは、青菜と米を食わして、日あたりのええとこへかこいます」 「まるで、にわとりじゃがな」 「あなたに、さきほどからいわれてみますと、わたしに責任があるようにおもいますで、わたしが養子になって、以前のざこ八のようにいかいでも、せめて半分ぐらいにでもしてみたいとおもいますで」 「うん、よい心がけじゃ。鶴さん、そんなら、おきぬさんにはなしてくる」  と、はなしをいたしますと、なにしろ惚れた男やもの、いやもおうもない。 「こんなきたないとこでもよろしかったら……」  と、はなしができました。 「おじさん、ここに三百円ございますで、わたしが、店のひとつもだせるまで、おあずかりねがいます」 「はい、よろしい。たしかにおあずかりしました。あんたは、感心な人じゃ。生き馬の目をぬくという東京で、三百円の金をのこしてくるとはえらい人じゃ。それでは、鶴さん、ざこ八のうちをおこしてやっとくれ。たのみます」  これから、鶴さん、養子になって、はたらくの、はたらかんのて、夜の目も寝ずにはたらきます。朝はくらいうちからおきて、市中を歩いて、紙くずや縄ひろい。紙くずは、くず問屋へ売る。縄は、こまかく切って、左官へ壁のスサに売る。朝のうちは、とうふを売る。正午《ひる》に帰るなり、つけものとこぶまきを売りにいく。夕方には、「刺身」と、ひとまわりしてくる。帰ると、「うどんや、そばうーい」と、夜泣きうどんにでる。そのあいだには、「焼き栗、焼き栗、丹波の栗で、くりくりくり」と、季節のものを売る。夜の十二時ごろには帰ってきて寝るかとおもいますと、なかなか、めしをかきこむなり、町内の夜番にいく。真夜なかになりますと、出刃庖丁を持って強盗……は、おだやかじゃございませんが……いっしょうけんめいにはたらいて小金をのこしたので、桝屋さんをたのみまして、小さな米屋の店をひらきました。  商売は、なかなかうまいもので、勉強をいたしますのでよう売れます。そのうち、堂島の相場へ手をだしました。運がよい、三百円張ると、六百円になりました。六百円、もうひとつ張ると、千二百円になった。なにくそと張ると、二千四百円になった。買うと、どどっとあがる。あがったとこで売ると、さがる。さがったとこで、ぐっと買うと、あがる。売ると、さがる。買うと、あがるで、しばらくのあいだにうんと身代ができまして、前のざこ八よりは大きゅうなりました。そうなると、前の養子が売った地所を買いもどし、借家が建って住んでる人にも、わけをいうて、立ちのき料をだしてでてもらいました。そのあとへりっぱなうちを建て、以前は、蔵が三戸前のところを、五戸前にして、若い衆もたくさん置いて、自分といいますと、なかなか、大店のあるじというような顔もせず、若い者とおなじようにはたらいてます。 「横町の山田さんへすぐに五斗持っていき」 「竹内だす。一石持ってきとくなはれ。お昼に炊《た》くお米がおまへんね」 「へえ、まいどありがとさんで、すぐに持たしてやります。おい、竹内さんへ一石持っていき」  どんどん店は繁昌しておりますから、おきぬさんの病気をなおすために、金に糸目はつけません。あの先生、この先生、あすこの薬、ここの薬と、あれを飲んでみたり、この医者にかかってみたりして、どれが効《き》きましたものか、どんどん、どんどん、からだにあった毒がくだりはじめます。この毒がくだって、毒ぬけがしたというのは、以前よりもきれいになるもんやそうで……白いところへもうひとつみがきがかかるようなもんでございますから、もともと色の白いところへ、もうひとつみがきがかかりましたさかい、その白いの白くないの、朝食べたたくあんが、肋骨《あばら》の三枚目へひっかかってるのが、透《す》き通ってみえるくらいに白くなりました。髪の毛もすっかり伸びて、これも以前よりも長いというようなありさまでございます。  出入り商人もたくさんにまいります。 「へえ、こんちわ。どうも……」 「どなた?」 「へえ、大丸で……」 「ああ、大丸か。うちのやつが待ったるで、奥にいる」  奥では、おきぬさん、髷《まげ》も丸髷の一番に結うて、台所まわりを指図しておられます。 「どなた? 大丸さん? 過日《せんど》たのんでおいた、旦那《だん》はんの羽織があったん?」 「せんだってのはいかがで? ずいぶんと渋い柄だすが、ひと梱《こうり》のなかで、ようよう一反ありましたのを持ってまいりましたのだすが?」 「そうか。それなら、あれを仕立ててもらおうか。寸法をまちがわんようにな。うちの旦那はん、東京に長らくおられた人やで、仕立て、ずいぶんとやかましいで、そのつもりでな」 「へえ、承知いたしました」 「へえ、ご寮人さん、こんにちは。まいどありがとう存じます。小間物屋で……」 「小間物屋はんか。このあいだ注文しておいた、さんご珠の根掛けとかんざしはまだか?」 「へえ、もう二、三日お待ちねがいます。ほかにご注文はござりまへんか?」 「お愛想にするのやさかい、頃合いのかんざしを五十ほど持ってきて」 「よろしゅうございます。ありがとうさんで、さよなら……」 「へえ、まいど、どうも……」 「魚喜か、なんぞあるか?」 「へえ、大きないい鯛がありますので、お宅をあてにして持ってきましたので……」 「よし。奥へ持って行て、三枚におろして、中身にちょっと肉をよけいにつけて、若い者に汁にして食わしてやろうとおもうで……」 「へえ……奥へ……こりゃ、ご寮人はん、まいどどうも……」 「魚喜さんか、大きな鯛やなあ。それ、どないにするんや?」 「へえ、いま、旦那はんが、三枚におろして、汁にして若い者に一ぱい飲ましてやるといわれたので、これからちょっと料理しますので……」 「ああ、きょうは、先《せん》の仏の精進《しようじん》日やの。旦那はんは、ご存知じゃないさかい、持って帰り」 「へえ」 「なんや、魚喜、料理しやへんのか?」 「へえ、いま、料理しようおもいましたら、ご寮人はんが、きょうは、先の仏の精進日やさかい、持って帰れといわれましたんで……」 「なに? 先の仏の精進日? うちのやつがなんといおうともかめへん。おれが食うのやさかい、持ってはいれ」 「へえ、ほな、料理します」 「おお、いや、また、魚喜さん、持ってはいってきたわ。きょうは、精進日やいうてるのがわからんか? 持って帰りなはれ。汚《きた》な。料理をするなら、してみなはれ。そのかわり、毎月の家一統《うちいつとう》の焼きものは、ほかへ注文するさかい」 「へえ、持って帰ります。焼きものをほかへ注文されたらたまらんさかい……」 「おい、魚喜、また、持ってでたな。売らへんのか?」 「売りますのやけど、ご寮人はんが、料理するならしてみい。そのかわり、毎月の焼きもの、ほかへいうといわれますので……」 「かめへん。料理せい。せなんだら、出入りをとめて、今月の払いも払わへんぞ」 「します……出入りとめられたら、たまりますかいなあ。しかし、こうなったら難儀やなあ。旦那のほうは、料理せいというし、なかへはいって……」 「おや、また、持ってはいってきた。お竹、魚喜にあたまから煮え湯を浴びせなはれ」 「うわあ」 「なんや? どないしたんや? また、持ってでてきよったな」 「ご寮人はんが、持ってはいったら、煮え湯をあたまから浴びせると……」 「よし、おれといっしょにおいで」 「へえ、この鯛、もう、手鍵をかけるとこがないわ。でたり、はいったりしたもんだすさかい、あたま、穴だらけや」 「おい、おきぬ」 「はい」 「おれが鯛を食うので魚喜に持ってはいらしたんや。おれは、ここのなにや? 奉公人か?」 「藪から棒に、なにをおっしゃりますので……あんたはんは、ご主人だすがな」 「すると、主人が鯛を料理せいと魚屋にいえへんのか?」 「そんなことはあらしまへん。あんたはんはご存知ござりまへんが、きょうは、先《せん》の仏の命日で、精進日にあたりますさかい、生臭いものがちらばるといやでござりますので、さように申しました」 「先の仏の命日? 先の仏の命日やと、おれが精進をせねばならんのか? おい、先の仏になんぼ恩があんね? ざこ八のうちをつぶした仏やないかい。おい、おきぬ、三年前のことをわすれやがったかい? あの磯家うらのきたない露地に住んで、ちゃぼのようなあたまをさらして、欠けた茶わんでおかゆをすすったのは、みな先の仏のおかげやないか」 「なにもそないに他人さんの前で、わたしの恥をいわいでもよろしいがな。わたしのほうからきてくれというたわけやなし、あんたのほうから酔狂で養子にお越しなはったのに……」 「なに? 酔狂で養子にきた? しゃれたことをぬかしたな。おのれ!」 「さあ、どうなとしなされ」 「おう、してやらいでかい」 「待った待った。まあまあ、もし、喧嘩をしてもらうのは……まあまあ、待った。ご寮人さん、逃げなはれ。痛い、痛い、そら、わてのあたまや。お店のおかた、わての荷をみてとくなあれ。赤犬がきてる。それ、鰆《さわら》をくわえていたがな……もし、旦那はん、お腹も立ちますやろが、まあまあ、魚喜に免じて……ご寮人はん、あんたがわるうおます。あんまり先の仏、先の仏というよってに、いまの仏の気にさわったのだす」 「なにがいまの仏や」 「そうやそうや、まだ仏になってへんね」 「きょうは休みや、店の者、表をしめてしまえ!」  鶴の一声で、バタバタと店をかたづけてしまいました。 「おい、魚喜、浜にある魚、みな買うてこい」 「へえ」  魚喜は、どんどん魚をはこびます。そうなると、おきぬさんも負けぬ気で、 「お竹、八百善へ行《い》て、すぐにきてもろうとくれ」 「へえ」 「ええ、こんちわ」 「おう、八百善さんか。精進料理百人前さっそくこしらえとくれ」 「かしこまりました」  魚屋と八百屋がならんで、料理をはじめました。 「おい、八百屋、鯛のあたまをだしにいれたろか?」 「こら、そんな無茶をすんな。なにをしやがんね」  魚屋と八百屋と喧嘩ができてます。 「おい、お宮さんへ行て、神主《かんぬし》を呼んでこい」 「お寺へ行て、和尚さんにきてもろうとくれ」  しばらくすると、神主が二十人ほどまいりました。あとからご出家が二十人ほどまいりました。神主が祝詞《のりと》をあげますと、ご出家はお経をはじめます。祝詞とお経の掛けあいで……これがすみますと、みなの者が奥へ通りまして、酒、さかながでまして、腹いっぱい食べました。つぎの間へまいりますと、お精進で、おきぬさんが、 「さあさあ、皆さん、遠慮せんと、十分に食べとくなはれや」 「もう、みなの者が十分いただきました」 「さあさあ、お汁をおかえやす」 「もう、結構で、お腹いっぱいいただきました……なあおい、先《せん》がさかなでごちそうやのに、あとで精進と食えんな。ういー」 「ほんまや。ういー……この菓子わんが、鬼のようにみえるわ。ういー」 「おい、いまからそんなこというていてどうするね? 来月は、ご寮人はんの腹帯の祝いやで。またよばれんならんで……」 「うわあ、わては、帯の祝いと聞いただけで、お腹が大きゅうなった」 解 説 堀の内  別名を「あわてもの」ということでもあきらかなように、そこつ者についての小噺をあつめたような落語で、全篇いたるところに爆笑の種がまかれているが、軽快にはなしをはこばないと、おもしろさが半減してしまう。  なお、原話としては、宝暦二年(一七五二)刊の笑話本『軽口福徳利』や、寛政十年(一七九八)刊の笑話本『無事志有意《ぶじしうい》』などがあげられる。 二十四孝  原話は、安永九年(一七八〇)刊の笑話本『初登《はつのぼり》』にある。  古い江戸落語で、落語家になれば、前座時代にかならず習う噺。 『二十四孝』というのは、中国の元時代(一二七一—一三六八)に撰録された二十四の孝子物語集で、日本でも室町時代に翻訳されたが、徳川幕府が、国民道徳として儒教を採用した江戸時代にはいると、青少年の読みものとして奨励《しようれい》されて普及した。  たいへんに笑いも多く、切れ場も多いのでたびたび口演されるが、主人公は、無知ゆえの親不孝者なので、悪人としてえがかれては、この噺のおもしろさがなくなってしまう。 真田《さなだ》小僧  上方では、「六文銭」という。  おとなよりもりこうな子どもが主人公になる噺の代表的なもの。  子どもが、この噺以上にりこうになり、また、大坂落城とか、真田幸村とかいっても、若い世代には縁遠くなってしまった現在では、しだいに演じにくくなる噺であろう。 しめこみ  原話は、享和《きようわ》二年(一八○二)刊の笑話本『新撰勧進話』にある。  ともすればナンセンス噺の多い泥棒物のなかで、この「しめこみ」は、こそ泥のつくったふろしきづつみから一波瀾おこるという、いかにもありふれたストーリーであるだけに、現実感もあって気のきいた噺であるといえるし、おちもしゃれたまぬけおちであざやかなものがある。  まずは、泥棒物中の傑作といってよかろう。 おせつ徳三郎  幕末の名手初代春風亭柳枝作といいつたえられる噺で、「上」を「花見小僧」「下」を「刀屋」という。 「上」を独立させて「花見小僧」と題したのは、明治中期の人気者ステテコの円遊で、あかるく美しい隅田の花見風景を背景に展開されるラブ・ロマンスが、おしゃべり小僧の口を通して語られるのがまことにたのしい。「下」は、人情噺におちをつけたような地味な噺だが、「上」と、あざやかに対照の妙をなしている。 しの字ぎらい  原話は、天明六年(一七八六)刊の笑話本『十千万両《とちまんりよう》』にある。  初心者むきの噺として代表的なものだが、主人と権助との会話の間《ま》や、盛りあげかたのむずかしい噺とされている。 五人まわし  別名を「小夜千鳥」という。  人情噺「白井|主水《もんど》」を明治時代に改作した噺という。  遊廓にあつまる各種の人間群像を、女郎屋の若い衆を狂言まわしにえがく噺で、廓噺のなかでも登場人物も多く、人物描写のむずかしい噺。あそびの世界における男女の味気ない関係のよくでているといえよう。 疝気《せんき》の虫  疝気の虫という着想が、まず奇想天外だし、それを、そばは疝気の大敵という俗説とむすびつけたアイデアのあざやかさといい、疝気の虫が別荘をさがしてとまどいする気のきいたおちといい、この噺、小味ながら、まことにいきな佳作といえよう。  上方の「疝気の虫」は、多少おもむきを異にするので、紹介しておこう。  飛脚屋が、夜ふけに飛田の処刑場のところまでくると、疝気の虫がでてきて道づれになるうち、疝気の虫の好物は、あんころ餅、きらいなものは苦い茶だと聞く。飛脚屋が、ふと気づくと、虫はみえず、目の前の家の主人が疝気で苦しむのでこれを救うという噺だが、それが大阪特有のねばっこい味なのでもあろうが、東京のそばを大食いする噺の「そばの羽織」が、大阪では、餅を大食いする「蛇含草《じやがんそう》」であるように、「疝気の虫」でも、東京のそばと大阪の餅とであるあたり、両都会の性格の相違がうかがわれてほほえましい。 大工|調《しら》べ  講談の大岡政談の一篇を落語化したもので、江戸時代の職人の師弟関係、大家《おおや》と店子《たなこ》との関係などがよくえがかれた噺。  棟梁の江戸っ子らしい気っぷのよさ、与太郎のお人好しぶり、大家の強欲《ごうよく》ぶりなどの人間像もよくでており、棟梁が大家をやりこめるたんかの歯切れのよさに江戸落語のよさがよくあらわれている。なお、現在では、後半の裁判のくだりは口演されない。 ろくろ首  もともとは上方落語だが、いつごろ、だれが東京へ移入したかはあきらかでない。  ろくろ首などというものが、まったくみられなくなってしまった現在では、かえって超時代的でいいのかも知れない。ナンセンスな与太郎噺としても長篇だが、そのわりに首尾一貫しているので、文句なしに笑えるもの。 町内の若い衆  原話は、元禄三年(一六九〇)刊の笑話本『枝珊瑚珠《えださんごじゆ》』にある。  はなしの中心としては、女房の人物描写が問題になるが、この女房が、実際に浮気女で、ほうぼうの男と関係して子どもまでつくったということになると、落語全体が陰惨なムードになってしまい、せっかくのとぼけた味が消えてしまう。ここでは、やはり、「町内の連中が、よってたかってつくってくれたようなもの」ということばを、女房がたんに受け売りしたにすぎないととったほうが、落語らしい飄逸《ひよういつ》なおかしさがでてくるようだ。したがって、この女房は、「青菜」にもでてくるまぬけな愛すべき女房族とみたほうがよかろう。 万金丹  上方落語「鳥屋坊主」を東京に移入したもの。  旅のナンセンス噺として有名なこの噺は、全体をひとつのリズムに乗せてストーリーをはこんでいくので、すこぶる軽妙な味を持つものといえる。 蛙茶番  原話は、天明五年(一七八五)刊の笑話本『猫に小判』にある。 「蛙茶番」という題名は、忍術ゆずり場で、赤松満祐が、極意を伝授したのち、小僧定吉がでて、竹のさきへ新しいふきんをつけて口上茶番になり、「きょうのお題は、本来、太田道灌でもだすんでございますが、ちと役が重くなっておりますから、蜀山人の狂歌にもとづきまして、これをごらんにいれますが、これは、ふきんでございます。ふきんは、水にも陸にも住みますもので、呉服屋の店にあるときは、たいせつな品で、ふきんだけでもとめますれば、あとは買わず(蛙)でございます」と、いうように番頭にいわれ、おわりが茶番になるので、こう題したといい、実際にこの通り演じた落語家もあったというが、これでは、定吉が蛙になるところがはっきりしないので、現在の型にあらためられた。  江戸時代の、素人《しろうと》芝居の日のはなやかなムードがよくえがかれた噺。 宮戸川  若い男女が、ふとしたことからむすばれるというこの噺の「上」は、江戸っ子気質まるだしのおじを狂言まわしにして、冬の夜の江戸情緒あふれる佳篇だが、題名は、「下」の芝居噺の部分に由来している。  宮戸川は、もとは待乳《まつち》山のすそを大川へ流れ入っていた細流をいったらしいが、のちには、本流の一部の名称になった。現在の隅田公園あたりの流れで、むかしの隅田川の最下流、つまり川口だった。  現在では、「下」は、ほとんど口演されない。 文ちがい  新宿を舞台にしためずらしい廓噺。  自分こそ情夫だとおもっている客が、いずれも女郎に手玉にとられる点は、他の廓噺とおなじだが、客をだまして情夫にみついだつもりの女郎までが、情夫と信じていた男にだまされるというのは、まことに皮肉な構成で、他に類のない凝った廓噺といえよう。したがって、登場人物の人物描写、心理描写もむずかしい。  芳次郎は二枚目だが、ちょいとずるい小悪党型。半七は、お調子者の好人物だが、人間が単純なだけに、喜怒哀楽の心理の変転ぶりのはげしい人物。角蔵は、鈍感な楽天家。お杉は、自分が惚れた男には極度に弱く、自分に惚れた男には極度に強いという、新宿という岡場所の女郎らしく、根性むきだしの女で、それだけに、芳次郎の手紙をみてとりみだし、これも怒って興奮している半七ととんちんかんの口論をするあたりのクライマックスを盛り立てる役割りを果たしている。  紅燈の巷の裏面をあざやかにえがく佳篇といえよう。 王子のきつね  原話は、正徳二年(一七一二)刊の笑話本『笑眉《えみのまゆ》』にある。  上方落語「高倉狐」を、初代三遊亭円右が東京に移入し、舞台を王子になおしたという。  きつねが人間を化かす噺はあるが、人間がきつねをだます噺はめずらしい。それだけに、軽く調子よく演じないと後味のわるくなる噺。 汲み立て  おちの部分は、滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の『花暦八笑人《はなごよみはつしようじん》』(初編文政三年・一八二〇)にあり、これに前のほうをつけて音曲《おんぎよく》噺としたもの。  音曲の稽古所をやっている独身の美人師匠をめぐる町内の若い衆の恋のかけひき、そして、隅田川の屋根舟による納涼風景——そういう江戸情緒|横溢《おういつ》したムードがたのしい噺。 火事むすこ  原話は、享和元年(一八〇一)刊の笑話本『笑の友』にある。  火事という江戸名物に取材し、親子の親愛をあざやかにえがく江戸人情噺中の佳篇として有名な噺。  口ではきびしいことをいいながら、心の底ではわが子恋しさの情が煮えたぎる父親、わが子を溺愛《できあい》する母親、わが身を反省しているいきな若旦那、好人物の番頭、しずみ勝ちの場面に笑いをふりまく小僧など、江戸の庶民社会にいたであろう人間群像が、じつにいきいきとして、この噺の味をよくだしている。 ひとつ穴  古くから口演されてきた江戸落語。  浮気な旦那、嫉妬心強い妻、色っぽい妾と、もめごとの当然起こるような登場人物の配置も用意周到だし、狂言まわし役をつとめる権助のうごかしかたもたくみな佳篇。ただ、現在では、「ひとつ穴のむじな」ということばはつかわれるが、「ひとつ穴のきつね」といわなくなっているので、おちがはっきりしなくなったのが惜しい。 妾《めかけ》 馬  原話は、宝永二年(一七〇五)刊の笑話本『軽口あられ酒』にある。  別名を「八五郎出世」といい、「妾馬」の題は、おちからつけたもの。  古くから口演されてきた大名ものの大物噺だが、現在では、八五郎が殿さまにお目通りするところまでしか口演されていない。それは、この部分以後が、まったくの駄作だからだ。  噺のクライマックスは、八五郎が、おつるや殿さまに対面する場面で、兄妹愛をおさえかねて、身分制度のきびしかった封建時代のわくのなかに在ることもわすれて述懐するくだりは、まさに圧巻といえよう。 品川心中  三遊派に古くからつたわる廓噺の代表作で、別名を「仕返し」ともいう。  本来は、長い一席物なのだが、現在では、ほとんど上・下にわけて口演している。笑いの多い「上」にくらべると、「下」は、陰気な怪談仕立てで、笑いもすくないので、ほとんど口演されない。  海のそばの品川遊廓、そこに生きる遊女の姿や生きかたなど、吉原を舞台とした廓噺とはちがった味があっておもしろい。 引越しの夢  原話は、寛永五年(一六二八)の笑話本『醒睡笑』や、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』五篇などにある。  上方では、「口入れ屋」と題するが、これは、はじめに女中をやといいれる口入れ屋の部分が、かなりくわしいからであり、また、上方のそれでは、おわりの部分は、ふたりが戸棚をかついでいると、そこへもうひとりの奉公人がきて、井戸へおちて、「井戸がえの夢をみております」というおちになっている。  江戸時代の商家の奉公人たちの抑圧された生活状態がよくえがかれた噺で、当時よくみられた悲喜劇でもあった。 紙入れ  原話は、安永三年(一七七四)刊の笑話本『豆談語』にある。  この噺は、一種の心理劇要素を持っているところに特色がある。  小心でいながら、つい年増女の誘惑にはまって、ずるずると深くなってしまった新吉、それでいて、つねに旦那に対する良心の苛責におののき、紙入れの一件から悪事|露顕《ろけん》かと、いわば犯罪者の心理でおびえる彼、そういう彼をリードして、ぼろをみせず、とりすました悪女型の女房、そして、底ぬけに善良な亭主と、三人三様の性格描写の妙、その三人の織りなす心理の綾《あや》のゆくたてなど、まことに気のきいた姦通噺。 そばの殿さま  別名を「そば殿」ともいう。 「目黒のさんま」ほどのおもむきはないが、殿さまが、無邪気な横暴ぶりを発揮して、家来にめいわくをかけるという軽いナンセンス噺で、家来にめいわくをかけるといっても、おなじ傾向の「将棋の殿さま」ほど暴力的でないところがよい。 富 久  三遊亭円朝が、実話を落語化したといいつたえられる名作。  しがない稼業のたいこもちが、みじかいあいだに、人生の浮きしずみ、喜怒哀楽の運命につぎつぎにもてあそばれる姿をえがく佳篇だが、それだけに、その情景描写、心理描写の変化の演出には、なみなみならぬ苦心を要するむずかしい噺。 ≪上方篇≫ 住吉《すみよし》駕籠  別名を「蜘蛛《くも》駕籠」ともいい、街道すじにおいて、つぎつぎに展開されるユーモラスな光景が、じつにのんびりとしていてたのしい噺。  登場人物も多彩で、それをえがきわけるのもたいへんだし、全体をリズミカルに演じるところが、演者の苦心のいるところでもある。  なお、束京では、各演者とも「蜘蛛駕籠」の題で演じている。 どうらん幸助  明治時代初期にできたであろうと推定される噺で、浄瑠璃が、庶民社会に浸透していた、過ぎし日の上方の市井の空気がよくつたえられている噺。  主人公が、芸事にまったく無知なところから起こった喜劇だが、主人公が、大まじめにえがかれればえがかれるほど笑いの効果も大きい。  なお、五代目三遊亭円生は、これを東京に移入している。 貝野村  別名を「ちょうずまわし」という。  これは、「勘定板」とおなじく、都会と田舎の風習のちがいに取材した笑いの多い噺で、上方のナンセンス噺の特色をよくあらわした落語といえよう。 百年目  原話は、宝暦十二年(一七六二)刊の笑話本『軽口東方朔《かるくちとうほうさく》』にある。  江戸でも、かなり古くから口演されていたらしい噺。  大阪|船場《せんば》の古い商家の人間関係やふんいきが、じつに生き生きとえがかれた佳篇。  その暗い商家と華やかな花見風景の対照もあざやかだし、旦那と番頭の性格描写のえがきわけかたもじつにたくみな噺。 千両みかん  原話は、明和九年(一七七二)刊の笑話本『鹿子《かのこ》餅』にあるが、これを落語にしたのは、笑福亭派の祖で、文政(一八一八—二九)ごろから、天保(一八三〇—四三)あたりまで活躍した松富久亭松竹とつたえられている。  世間知らずの若旦那、子ぼんのうな大旦那、忠実な番頭と、登場人物の性格もたくみにえがかれている噺だが、価値の錯覚によるおちが、じつに気がきいている。もっとも、気がききすぎて、最近では、理解されにくくなっているのが惜しいが…… たちぎれ  原話は、文化三年(一八〇六)刊の笑話本『江戸嬉笑《えどきしよう》』にある。  本来の題名は、「たちぎれ線香」といい、東京では、「たちきり」と題して演じる。  じつに花柳情緒横溢した、しっとりとした傑作で、おちもあざやかなものがある。  上方の古典物中の大物として有名な噺。 池田の猪買い  原話は、宝永二年(一七〇五)刊の笑話本『露休《ろきゆう》 置《おき》土産《みやげ》』にある。  別名は、「猪買い」ともいい、古くから大阪につたわっている爆笑篇で、理屈なしに笑える噺。 三十石  正式の題名は、「三十石|宝《たから》の入船《いりふね》」「三十石夢の通路《かよいじ》」「三十石浮かれの舟歌」などという歌舞伎調のめずらしいもの。  明治初期に、初代桂|文枝《ぶんし》がつくったというが、文枝は、それまでばらばらにあった「東の旅」を、この噺によって集大成したといわれるが、上方落語の代表作としてまことに有名な一篇。  江戸時代から明治初期にかけて、京都、大阪間のもっとも代表的な交通機関であった三十石舟が舞台になっているだけあって、登場人物も多く、場景描写もめんどうなので、演者にとっては、まことにむずかしい噺。 「権兵衛こんにゃく船頭が利」というおちがわかりにくいが、これは、大正時代ごろまでもちいられた「権兵衛ごんにゃくしんどがり」ということわざの地口で、このことわざは、骨折り損のくたびれもうけの意味だった。  なお、桂文枝は、金にこまって、この噺を質入れしたために口演できなくなったが、ひいき客が、金をだして質受けしてくれたというエピソードがのこっている。 お玉牛 「お玉牛」という題名が普及しているが、「堀越村」というのが本来の題名。  農村を舞台にした、まことにのどかな艶笑噺で、このような土の匂いのする艶笑落語は他にないので、その意味からも貴重な噺といってよかろう。 ざこ八  原話は、安永二年(一七七二)刊の笑話本『聞上手』と明和九年(一七七二)刊の笑話本『楽牽頭《がくたいこ》』にあり、別名を「先《せん》の仏」「二度のごちそう」などともいう。  上方では、この噺をブリネタ(大物噺)といい、むずかしい人情噺としている。 落語鑑賞のために 用 語 あがる  演者が高座へでること。 一番  寄席の開場と同時に、前座が打ちこむ大太鼓のこと。一番太鼓。 色物《いろもの》  寄席で、落語以外の、奇術・曲芸・曲ごま・紙切り・百面相・音曲・声帯模写・漫才・漫談などをこう呼ぶ。古くは、初代|三笑亭可楽《さんしようていからく》(一七七七—一八三三)門下の百眼《ひやくまなこ》の可上《かじよう》や、写《うつ》し絵(幻灯《げんとう》)の都楽などがそれだったが、現在では、各種の色物がみられる。 後幕《うしろまく》  真打、つまり主任に対して、その芸名を染めて、ひいきからおくる幕で、高座のうしろの杉戸にかけておく。 大看板《おおかんばん》  落語家の大幹部をいう。大真打というのにおなじ。 大喜利《おおぎり》  寄席で、最後に客へのサービスのためにみせる余興のことで、なぞかけ、お題ばなしなどがそれにあたる。 お題噺  広義には、客からだされた題を即座に噺にすることで、寛政年間(一七八九—一八○一)にみられたが、普通は、五、六人の落語家が、主人、女房、むすこ、番頭、鳶頭《かしら》の役でならび、客から借りた品物を、三品ぐらいずつ前におき、主人が道楽むすこを勘当するというのを、ほかの者が、前におかれた品物でしゃれをいいながらわびるという形式で、上席の者が最後におちをつける。しゃれがいえないと、顔に墨を塗られたりする。 音曲噺《おんぎよくばなし》  落語の途中で、楽屋の三味線や鳴りものを伴奏にして、演者自身や下座《げざ》の歌などをいれて噺の効果をあげるもので、「稽古屋」「味噌蔵」などがそれ。初代|船遊亭扇橋《せんゆうていせんきよう》(一八二九没)が元祖。 怪談噺  本質的には芝居噺の一種。とくに夏の寄席で、「真景累《しんけいかさね》ヶ淵《ふち》」「怪談牡丹灯籠」などの因縁、因果物語を口演するさい、噺がクライマックスに達したとき、照明を暗くし、幽霊に扮した前座を登場させ、鳴りものを入れ、噺を効果的に盛りあげる。初代林家正蔵(一七八〇—一八四二)を祖とするが、八代目正蔵 楽屋帳  毎日、前に演じた演題を記入しておく帳面。演者は、おなじ噺をやらないように、かならずこれをみて高座にあがる。これは、前座が楽屋で噺を聞きながら記入する。 上席《かみせき》  大正中期ごろまでは、一日から十五日まで、現在は、一日から十日までの寄席興行をこういう。 上下《かみしも》  落語家の演出上のことば。高座にむかって右を上、左を下といい、主人は、下にむかってはなしをし、客や目下の者は、上をむいてはなしをする。 下座《げざ》  寄席では、高座の下手で三味線をひく女性のことで、下座の役目は、演者が出演するときの出囃子《でばやし》と、曲芸や音曲の伴奏のための地|囃子《ばやし》をすることだが、各種の曲をこなすので、なかなかむずかしい。 さげ  落語のおちのこと。 三題噺  人物、物品、地名、事件などの三題を聴衆に出させ、即座に一席の落語にまとめ、うち一題をおちにするもの。文化元年(一八〇四)六月、初代三笑亭可楽が、下谷|広徳寺《こうとくじ》門前|孔雀《くじやく》茶屋で落語の会があったさい、聴衆から弁慶、狐、辻君の三題をえて、即座にまとめたのにはじまるが、現在は、ほとんどおこなわれていない。 芝居噺  大阪では、「昆布巻《こんぶまき》芝居」「七段目」など、芝居に関する噺のすべてをいうが、東京では、正本《しようほん》芝居噺というものを指し、人情噺の途中、鳴りものや声色を入れて、衣装は引き抜きになり、背景をかざって、ときには、短刀などの小道具を使用するなど、演出が歌舞伎調になる噺をいう。初代三遊亭円生(一七六八—一八三八)を祖とし、近年では、八代目林家正蔵(彦六)が演じた。 地噺《じばなし》  落語の演出は、会話と身振り、動作《どうさ》が中心だが、地、つまり叙述を主とした漫談風の噺を地噺といい、「源平」「大師の杵《きね》」などをさす。 下席《しもせき》  大正中期までは、十六日から三十日まで、現在は、二十一日から三十日までの寄席興行をいう。 真打《しんうち》  落語・講談などの一座の主任、または、その格式ある者。このことばは、天保(一八三〇—四四)ごろから使用された。前座、二つ目、真打と昇進するが、大正時代までは、真打目前の者を、三つ目、準真打といった。 出囃子《でばやし》  上方からはじまり、東京でも、大正中期ごろから広まったもので、高座へあがるとき、各人特有の囃子につれてあがる。 とり  真打、その興行の主任のこと。 中入り  休憩《きゆうけい》のこと。 中席  十一日から二十日までの寄席興行のこと。 人情噺  本来は、つづきもので、「塩原多助一代記」「名人長二」のように、おちのない、人生や社会を如実にえがく実《じつ》のある噺をさすが、「芝浜」「火事むすこ」「子別れ」「鰍沢《かじかざわ》」などは、おちはあっても人情噺といっている。江戸におけるつづきものの人情噺の祖は、文化・文政(一八〇四—三〇)ごろ活躍した三代目石井|宗叔《そうしゆく》であり、上方では、享和《きようわ》・文化(一八○一—一八)ごろの芝屋|司叟《しそう》だが、近年では、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が得意にしていた。 膝がわり  略して膝ともいう。真打のすぐ前にでる芸人。 びら字  寄席の看板や芸人の名札などの書体。その書体は、芝居の勘亭《かんてい》流とちょうちん屋風とをあわせてくふうしたといい、天保七、八年(一八三六、七)ごろに、神田に住む紺屋職人栄次郎という男がはじめたという。 まくら  普通の寄席興行のさい、高座にあがった落語家は、その日の噺をきめるのに、小噺などで、客席の反応をさぐり、そのふんいきで、演じる噺をきめるのが普通だが、その小噺を中心とする部分をいう。 お ち  おちの分類にはいる前に、落語の性格を述べると、それは、大衆芸能の一種で、滑稽なはなしで聴衆を笑わせ、おわりに、おちをつける話芸ということになろう。  その演出法は、落語家が、扇子と手ぬぐいだけを小道具に使用し、講談や浪曲のように、説明的な叙述を省略して、会話と身振り、動作とによってはなしを展開する。そのために、聴衆は、あたかも、映画やテレビに接したときのような映像を脳裏にうかべるという、まことに近代的感覚の芸なので、大衆芸能の王座に君臨して、多くのファンをあつめている。  さて、おちの分類にはいるわけだが、おちとはなにかといえば、落語全体のおもしろさを、終局において、より効果的、集中的にむすぶことばで、「さげ」ともいい、元来が、「おとしばなし」であるべき落語の生命ともいうべきもので、分類のしかたもいろいろあるが、つぎの十二種に分類してみた。 かんがえおち  「疝気の虫」「千両みかん」などのように、よくかんがえないとわからないおち。 さかさおち  「がまの油」「王子のきつね」などのように事件が逆の結果になるものをいう。 しぐさおち  「死神」では、主人公が、自分の寿命をしめすろうそくをつぎたそうとするが、うまくいかず、「ああ、消える」というと同時に倒れるが、このように、口をきかずに、かたちでみせるおち。 地口《じぐち》おち(大阪の仁輪加《にわか》おち)  「たが屋」が一例。両国川開きの日、「玉屋」「鍵屋《かぎや》」と花火をほめる声がさかん。そこへ通りかかったたが屋の竹のたがが、するするのびて、通行中の武士の笠をはねたので、怒った武士が、たが屋を斬ろうとすると、必死のたが屋は、逆に武士の首をさっと斬りとばしたので、首は宙天へ——見物一同「たが屋!」。これは、玉屋とたが屋の地口だが、このようなだじゃれにおわるものをいう。「天災」「富久」など数多い。 仕込みおち  「真田小僧」のように、講談の筋を、まくらで客に十分きかせておかないと理解できないおち。 とたんおち  旦那が、じまんの義太夫を熱演中に、失礼にもみんな寝こんだなかで、小僧だけが泣いているので、さてはわが芸の理解者よとよろこんだ旦那が、どこが悲しかったかと、いろいろと外題《げだい》を聞くと、小僧は、旦那が義太夫を語った床《ゆか》を指さして、「あすこでございます」という。旦那がふしぎがると、「あすこがわたしの寝床です」と、おちになる「寝床」のように、おちの一語で、あっという解決をみせるもの。 とんとんおち  「しの字ぎらい」が一例。主人が、権助にシの字をいわせようとするが、どうしてもいわない。主人がたまりかねて、「こいつ、しぶといやつめ」というので、権助が、「それ、シの字をいった。この銭はおれがもらう」と、おちになるように、ストーリーを調子にのせて、しだいに高潮させ、とんとんと拍子よくおとすもの。 はしごおち  「一目《ひとめ》あがり」のように、はじめの掛軸《かけじく》が、賛《さん》(三)で、つぎが詩(四)、つぎが語(五)だから、つぎは六だろうというと、「七福神の宝船だ」というように、だんだん数があがるおち。 ぶっつけおち  「五人まわし」が一例。相手のことばを別の意味にとっておわるもの。 まぬけおち  あわて者の八が、浅草の観音さまのそばでみた行き倒れを、友だちの熊だとおもいこんで、これもそこつ者の熊をつれてくる。役人がとめるのもきかずに熊に死体を抱かせると、熊は首をひねった。「死んでるおれはおれだが、抱いてるおれは、いったいだれだろう」というようにナンセンスにおわるもので、「うなぎの幇間」など傑作が多い。 まわりおち  ねこの名をつけようとして、トラより竜、竜より雲、雲より風、風より壁、壁はねずみにかじられるからねずみ、ねずみより強いねこと、まわってもとへもどるおち。 見立ておち  「居残り佐平次」「松山鏡」などのように、突拍子《とつぴようし》もないものを、あるものに見立てるおち。 落語家、名人・奇人伝 興津 要 狂馬楽     一  元治元年(一八六四)四月十五日、江戸芝口一丁目の袋物屋に男の子が生まれた。  その名を本間弥太郎。そこで、弥太っ平馬楽と呼ばれるのはのちのこと。  奔放な性格の馬楽は、堅気《かたぎ》暮らしが性《しよう》にあわず、道楽に身をもちくずして、新場《しんば》の小安《こやす》親分の家に居候などしたあげくに落語家《はなしか》をこころざしたが、それは、四代目三遊亭円生(一八四六—一九〇四)が、古渡唐桟《こわたりとうざん》の着物で高座へあがるいきなすがたにあこがれたという、ただそれだけの理由だった。  弥太郎は、二十四歳で、蔵前《くらまえ》の師匠とよばれる三代目春風亭柳枝(一八五二—一九〇〇)に入門して千枝《せんし》と称したが、のちに、三代目柳家小さん門に転じ、二代目|蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》となった。しかし、いぜんとして小安親分の厄介《やつかい》になり、博奕《ばくち》で処刑されるなど、身持ちはおさまらなかった。   賽《さい》の目も忘れてうれし初日の出  と、好きな俳句に、無頼の徒としての生活の実感を詠み、また、そんな生活なればこそ、   魯智深《ろちしん》も九紋竜《くもんりゆう》も昼寝かな  と、「水滸伝《すいこでん》」中の豪傑のほりものをした連中のことが気にかかるという心境を、伊香保から絵ハガキで、ひいきの鈴木台水へよせるのだった。  また、寄席に出演しないときは、日夜を吉原で過ごしては、   夜の雪せめて玉《ぎよく》だけとどけたい   新宿へゆく華魁《おいらん》の師走かな  と、華やかな廓《くるわ》のかげにひそむ哀愁に、あたたかい涙をそそぐ日もあった。  そんな日をおくる馬楽に、仲のいいふたりの友だちができた。  そのひとりは、おなじ小さん門下の小せんであり、もうひとりは、雷門助六《かみなりもんすけろく》(のちの三代目古今亭志ん生)門下の志ん馬だった。  三人は、すぐれた芸でたがいにみとめあったが、それよりも、蕪雑《ぶざつ》で、功利的な新時代になじめない江戸っ子風な反俗精神を共有する純粋性のゆえに親交をむすんだ。  このために、三人はおなじ世界に住み、そこに展開される「八笑人」的なあそびのムードが、明治末期の都会的|耽美派《たんびは》文学流行の風潮とあいまって、三人をとりまくファンを魅了していった。  三人のひいきで、遊蕩のために破産した通人鈴木台水も、魂のふるさとをもとめる放浪歌人吉井勇も、嘆げかいの下町詩人久保田万太郎も、そんな三人を熱愛していた。   ああ馬楽汝とともに世を罵りし   その夜思えばはるかなるかも   吉井勇  という歌が、三人をめぐるファンのありかたをよくあらわしていたし、また、吉井勇は、馬楽を句楽《くらく》、志ん馬を焉馬《えんば》としてえがいた「句楽の日記」で、三人に共通した心境を、よく表現していた。  しかし、久し振りで酒を飲んで、焉馬と二人で厭《いや》な奴等の悪口をいったら、すっかり胸がせいせいした。全く今の落語家の社会ぐらい、話せない奴の多いところはない。それがみんな真打面《しんうちづら》をしてぬうっと澄ましていやがるんだから厭になっちまう。「己《おれ》はもう暫時《しばらく》席へ出ねえぜ」って焉馬に言うと、あいつも「それがいい、それがいい。その方が気が利いている」と言って賛成してくれたが、本当に己は当分席へは出ないつもりだ。あんな泥臭い灰汁《あく》の強い奴等と同じ高座に上れるものか。今にみんなに一泡吹かせて遣《や》ろうと思って、内々一人で考えている事もある。まあ、それまでは家にいて、酒を飲みながら発句でも作っているとしよう。  という調子がそれだった。  こんな心意気の三羽烏は、金と暇《ひま》さえあれば、吉原へくりこんだが、暇だけしかないときでも、結構それなりにたのしんだ。  ある昼下り三銭五厘の湯治《とうじ》だと、三人で、上野の御徒湯《おかちゆ》へゆき、湯ぶねにつかるうちに、 「もと湯ってものはあついが、あそこへ徳利をほうりこんで、お燗《かん》をつけて飲んだらうまいだろうね」 「そうさな……じゃあ、どうだい、酒をとりよせようじゃねえか」  と、いうことになって、番頭にたのんだ。  この番頭が、また、しゃれた男で、すぐに燗をつけて持ってきたので、すっかり調子のでた三人は、さしつ、さされつ、大いに浮かれはじめた。 「どうだい、この流しで、三味線をひいて、都都逸《どどいつ》かなんかうたおうじゃないか」 「そいつあ、いいや」  と、志ん馬の家から三味線をとりよせて、三味線のうまい志ん馬の爪びきで、都都逸ごっこになった。  なにしろ、三人ともまっ裸でこのさわぎなのだから、あとからはいってきた客はおどろいたが、なかには脳天気なやつがいて、「こいつはおつだ」と、なかまにはいる者もいて、裸の大宴会になった。     二  やぶれかぶれの風流生活をつづける馬楽は、当然まずしいひとり住居《ずまい》だった。   春風やはなし相手のたばこ入れ   五月雨《さみだれ》やようやく湯銭酒の銭   古袷《ふるあわせ》秋刀魚《さんま》に合わす顔もなし   そのあした天ぷらを焼く時雨《しぐれ》かな   いたずらに鳥影さすや年の暮  馬楽の句にでてくる世界は、春がこようと、秋がこようと、年末がこようと、すこしもかわることのない、まずしく、ささやかな寄席芸人の市井《しせい》生活にすぎなかった。   いやさらに寂しかるらむ馬道の   馬楽の家の春も暮るれば  と、馬楽びいきの吉井勇も詠《よ》んでいた。  貧乏を苦にしない馬楽は、夏の暑い日でも、目のぎょろりとした坊主あたまで、どてらを着て竹の子笠をかぶって酒を買いにゆくし、家賃がたまったときには、六代目|一竜斎貞山《いちりゆうさいていざん》に、「加藤清正|蔚山《うるさん》に籠《こも》る」「谷干城熊本城へ籠る」と、書いてもらい、そのあとへ「本間弥太郎当家の二階へ籠る」と、自分で書き、それを大家にみせて談じこみ、家賃をまけさせるという〈はなれわざ〉もやってのけた。  そんな貧乏のどん底にあっても、芸のためになる本ならば、古本屋で、みつけしだい買い、図書館にも通い、勉強をつづけていた。したがって、唯一の家財は本箱で、一方の扉に「俳書」、一方の扉に「軍書」と書いてあるというように、芸道精進はわすれなかった。  明治三十八年(一九〇五)、四十歳になった馬楽は、鉄道馬車が電車にかわってゆくのをみて、馬が楽をするようになったとの意味から、電鉄庵馬楽と戯号したが、この年は、馬ばかりでなく、馬楽にとってもよい年になった。  それは、師匠小さんの推薦で、第四回落語研究会に出演し、大いに好評を博し、落語通の作家岡鬼太郎の絶賛と激励の文が、同年七月号の「文芸倶楽部」に掲載され、世の注目を浴びたことだった。  落語研究会というのは、明治三十年に春錦亭柳桜《しゆんきんていりゆうおう》を、同三十三年に円朝、燕枝という巨星をつぎつぎにうしなった東京落語界は、円朝亡きあとの三遊派を統率していた四代目円生をも、同三十七年にうしなうにおよんで、心ある落語家たちがはじめた研究会だった。すなわち、本格落語の衰微を嘆いた円左は、なんとかして本式のはなしができるようにしたいと、落語・講談速記界の大御所今村次郎に相談した。その結果、岡鬼太郎、森暁紅《ぎようこう》、石谷《いしがや》華提《かてい》などが顧問になり、円右、円左、円喬、小円朝、円蔵、三代目小さんが会員となってはじめた会だったが、この会に有望な若手を出演させることになり、馬楽もそれにえらばれたのだった。  ところが、せっかくこの会へでることになっても、まずしい馬楽は、高座着もなく、芝居の衣装屋をくどいて、唐桟《とうざん》に黒八丈の鼠小僧の衣装を借りて出演したのだが、その苦労の甲斐あって、それからの高座もますます冴えていった。  五、六年前に、パナマ帽がはやりました。高いのは、三十円、四十円。安いのでも、十七、八円。どうだ、偉《えら》かろうという顔をしてかぶって歩きますな。なかに気まぐれな落語家《はなしか》が、パナマ帽をかぶってるのがございます。 「オイ、みてくんねえ」 「たいそうな帽子を買ったね。おそれいった、いくらしたい?」 「二十三円取られた」 「おっそろしいものを買ったな。なにかい、金でも借りたんか?」 「なあに、家を売ってしまった」  馬鹿な奴があるもの……。なにも政府で、こういうものをはやらせろという沙汰があったのではないが、はやりものはおそろしいもの。  というしゃれた小ばなしをつくったり、廓噺のまくらなども、つぎのような反俗的なものを聞かせていた。  ただいまは、廓言葉などは、すっかり使いません。ただすこし年を老《と》った新姐《しんぞ》衆が、ときどき使うくらいのものでございます。  そのかわり、いまの娼妓は、漢語を使うのがたくさんあります。 「ねえ、きどりさん、昨夜のお客はどうであったね?」 「あれは、非常に酩酊《めいてい》したんで、僕は、困難したわ」  女学生とまちがえる。  どうも、娼妓は、漢語などを使わないほうがいいようにおもいます。  お客のほうもそうで、むかしは、ひやかしにくる者も気取ったもので、編笠《あみがさ》をかぶっていくとか、あるいは、ちょっと半纒《はんてん》ごしらえの勇みの若い衆が、二、三人そろって、投げ節というやつをやって歩いた。   今鳴る鐘は目白台、気も関口の水車  などという唄をうたって、ぞめいたものでございます。  ただいまは、ことによると、髭の生えたりっぱなかたが、岩見重太郎|兼輔《かねすけ》さんがと、しめ殺されるような声をだして、浪花節をやって、ぞめいております。世の変遷とはいいながら、じつに、むかしの勇みが聞いたら、涙をこぼすことでございましょう。  と、低俗な新時代に対する諷刺的なことばをならべたり、酒のかわりに番茶、たまご焼きのかわりにたくあん、かまぼこのかわりに大根のつけものを持って、貧乏長屋の連中が花見にでかけるという、十八番の「長屋の花見」のなかに、「長屋中歯をくいしばる花見かな」と、実感こもる句をいれたりして人気をよんだ。  こうして売れはじめた馬楽だったが、その生活態度はかわらなかった。  師匠の小さんに、「もうすこし当世風にしたらよかろう。おまえのようなのが尊《とうと》いにはちがいないが、光った紋付の羽織の一枚もなければ、芸まで人が見下す世のなか、むかしとちがって、本間弥太郎という、れっきとした一人前の男、すこしは、いまどきの芸人|気質《かたぎ》になるがいい」といわれても、「なにが本間弥太郎です、みっともないからよしてください。あっしゃあ、弥太っ平が相応です」と、笑うばかりだった。     三  明治三十八年、人気のでた馬楽には、艶聞も舞いこんだ。  それは、横浜で、お若という恋人ができて、お若が、馬楽の家へ押しかけ女房にやってきたことだった。  お若と楽しい春をむかえた馬楽は、あいかわらずまずしかったが、それでも、生まれてはじめての心あたたまる毎日をおくっていた。  ある春雨の日、一ぱいやっていた馬楽が、 「商売にいくのはおっくうだが、かせがにゃあ食えねえし……」  と、ぐちをこぼすと、 「それじゃあ、あたしがお座敷をしてあげるから、今夜はおやすみよ」  と、お若が二円だして、馬楽の十八番「長屋の花見」を注文した。馬楽は、 「女房のお座敷か、こいつあ、おもしれえや」  と、「長屋の花見」をたっぷりと口演したあとで、歌を二つ三つおまけにつけて、とうとう休席してしまった。  その二円で、翌日になると、米を買ってきて食べたのだから、まことにのんきな夫婦もあったものだが、この似た者同士のお若とも半年でわかれ、吉原のおいらんと深い仲になる馬楽だった。  明治四十年のある日、志賀直哉という文学青年が、漱石の『坊っちゃん』と『野分』を、馬楽に読ませたくて、雑誌「ホトトギス」をとどけてきたり、放浪の歌人吉井勇が、さかんにたずねてきたり、「文芸倶楽部」の明治四十二年十二月号に、「馬楽の飄々たる処は、出る人物を尽《ことごと》く馬楽化せしめざれば止まざる処に真価あり」と評されるなど、独特の警句まじりの自由奔放な高座に魅せられる馬楽信者がふえていった。しかし、好事魔多しとやら、馬楽の上に、にわかに暗い運命がおとずれてきた。というのは、明治四十三年、馬楽は発狂し、入院したのだった。   ああ馬楽この悪しき世に生くべくば   むしろ狂いてあれと思いぬ   吉井勇  などという詠嘆のうちに、一度は退院して、痛々しい高座もつとめたが、胃ガンのために、大正三年(一九一四)一月十六日、五十一年にわたる波瀾《はらん》にみちた生涯の幕を閉じた。  最後まで、馬楽のめんどうをみた師匠小さんは、上野桜木町の浄妙院に馬楽地蔵を建てたのだった。   ありし世のありのことごと偲《しの》びつつ   馬楽地蔵に酒たてまつる   吉井勇 八代目桂文楽  明治二十五年(一八九二)十一月三日、徳川家の御典医《ごてんい》の家の出で、青森県五所河原町税務署長|並河益功《なみかわますこと》の家に男の子が生まれ、益義《ますよし》と名づけられた。  まもなく、一家は、東京の根岸へひきあげたが、益功の急死から貧窮し、小学校も三年でやめた益義は、十一歳で、横浜住吉町の薄荷《はつか》問屋多勢商店へ奉公にだされた。  はじめは、家恋しさに泣き暮らして、旦那を手こずらせていた益義も、いつか陽気なおしゃべり小僧と評判をとるほどになり、調子に乗りすぎて道楽の味をおぼえ、多勢商店をやめて、東京へ舞いもどるしまつだった。そして、鯨のひご細工を袋物屋へおさめる家に奉公したり、祝儀包みなどを染める染物屋へいったり、玩具問屋へいったりしたものの、どこも長つづきはせず、とどのつまりが、横浜で、やくざのなかま入りというコースをたどり、親分のねえさんの養女に手をだし、さんざんなぐられて、まるで切られ与三郎のように全身傷だらけにされて、ふたたび東京の土を踏む身となった。  益義が落語家になったのは、それからまもなくのことで、上方からきた初代桂|小南《こなん》に入門して、小莚《こえん》と名乗った。ときに、益義は、十八歳だった。しかし、師匠は上方落語なので、彼は、立花家左近(のち、朝寝坊むらく、橋本川柳、三代目三遊亭円馬)に稽古をうけた。  小莚は、この稽古で、手の甲《こう》が紫色にはれあがるほど、ものさしで打たれながら、鱈《たら》こぶのおつゆの吸いかた、羊かんの食べかた、枝豆、そら豆、甘納豆を食べわけるしぐさなどの綿密な表現力を身につけた。  この立花家左近は、小莚の生涯における芸道の師となった人で、のちに大阪へうつって、三代目円馬となってからも、文楽となった小莚に、「うなぎの幇間《たいこ》」「景清《かげきよ》」「愛宕山《あたごやま》」「松山鏡」などの名篇、佳篇をつぎつぎにゆずりつたえたのだった。  そののち、小莚は、大阪から帰った桂|才賀《さいが》あらため八代目|翁家《おきなや》さん馬(のち八代目桂文治)の門に転じ、翁家さん生《しよう》から馬之助となって真打《しんうち》に昇進することになったが、芸界のもめごとから、師匠のさん馬は演芸会社、馬之助は睦《むつみ》会と、それぞれ所属を異《こと》にする身になってしまった。  このときから、彼は、人生の師ともいうべき五代目|柳亭左楽《りゆうていさらく》のあたたかいひきたてをうけるようになった。  まず、翁家馬之助の名で真打に昇進したときの左楽の披露口上は、馬之助はもちろんのこと、観客をも感激せしめるものだった。  すなわちそれは、 「この馬之助は、さん馬さんの弟子ですが、師匠とコレコレの事情で、はなればなれになっておりますので、すがられたわたしも男で、どうか一人前にしてやりたいとおもいますから、どうかお客さまもお引立てください。また、はじめて馬之助も真打になったんですからおかえりをお急ぎのお方は、いまわたしがしゃべっているうちにおかえりをねがって、どうかアレがあがりましたら、わずかの時間でございますから、おひとかたもお立ちになりませんように、おしまいまできいていってやってください。これは、左楽のおねがいでございます」  というような心こもった名調子だった。  そんな左楽であってみれば、年末に借金にきた馬之助に対してのあつかいもまことにあざやかなものがあった。 「いつかえすかい?」と、左楽が聞くので、馬之助が、「へい、正月|早々《そうそう》おかえしに……」と、答えると、「じょうだんいうない。正月早々かえせるわけがないだろう」とくる。というのは、落語家は、正月には収入はふえるが、年末の穴埋めをしなくてはならないから、正月に借金をかえせるはずがないという意味なのだ。  馬之助が返答につまると、「二月のついたちにかえしねえ」と、はっきりいってくれるのだが、そこが、苦労人ならではのおもいやりのあるせりふだった。  こうしたひきたてもあって、二十八歳で八代目文楽を襲名した馬之助は、その華麗な芸に深さと艶《つや》をくわえていった。  それは、長い年月をかけて、ひとつの噺を掘りさげ、みがきをかけて、すこしの噺を確実にものしてゆく情熱と努力の連続だった。  悲しみからよろこびへの転換に右往左往する幇間《たいこもち》久蔵の心理のくまぐまや、彼をとりまく年末、年始の江戸の街の風物を的確にえがく「富久」、梅のつぼみもほころびそめる初午《はつうま》の季節を背景に、はじめてきた遊びの里「吉原」において、うぶな若旦那の青春が花ひらいてゆく艶麗な「明烏《あけがらす》」、長屋の者や奉公人たちが、口実《こうじつ》をもうけては、じまんの義太夫から逃がれようとするのに激怒した旦那が、番頭のとりなしで、しだいにきげんをなおしてゆく心理の椎移もみごとな「寝床」、ほろびゆく江戸を哀傷する明治初期の転業士族の悲喜劇を写実する「しろうとうなぎ」などに、あかるく細緻な本格の芸すじをしめし、その極端なまでに刈りこんだ噺を生かすため、せりふの一語一句もゆるがせにはしなかった。  それはたとえば、「うなぎの幇間」で、あぶら照りする東京の真昼の古びたうなぎ屋で、客をとりまいたつもりの幇間が、客が、便所へいくと、いつわって席を立ったあとで、「あの客大事にしよう」と、つぶやき、一転して、客に逃げられたと知っての絶望感を効果あらしめたがごとくだった。  近代東京落語は、文楽によって、人物の容姿、性格、心理をはじめ、場景、季節感を浮き彫りにする高度な芸術となった。  戦時中、得意の廓噺や幇間物を禁じられ、かわいい養子を戦場でうしなうという悲運に見舞われたが、戦後の文楽は、その悲運を吹き払うかのように、吉井勇の「長生きするのも芸のうち」の忠言を守って芸に執念を燃やし、昭和二十九年に「しろうとうなぎ」で芸術祭賞を、同三十六年に紫綬褒章《しじゆほうしよう》を、同四十一年に瑞宝《ずいほう》章をと、つぎつぎに受章して名人の名をかがやかすのだった。 「芸てえもんはきびしいんで、生涯勉強ですよ。勲章もらったからといって、修業はおろそかにできません」と、記者たちに語る文楽の目は、青年のようにかがやいていた。  この文楽、じつは「八代目」ではなかった。 ……間にひとりセコ(まずい)な文楽があったらしく、そうなると、われわれの仲間の習いで、その人を何代目ということから削ってしまいます。  ですから、ほんとうは七代目なんですが、七より八のほうがひらいていいと、昔のことですから、師匠が縁起をかついで、八代目文楽となりましたのでございます。  と、その芸談集『あばらかべっそん』で語っている通りに、たしかにいいかげんな「八代目」なのだが、その華やかな、艶めいた本格的な芸人文楽のイメージは、「八代目」という、末広がりのあかるい呼びかた以外にないのだからふしぎだ。  昭和四十六年十二月十二日、文楽が世を去った——それは、極言すれば、昭和落語史における一大転換期のおとずれと称すべき痛恨事だった   人はみなわれと同じく祈るらん   わが文楽の命長きを   吉井勇 後家殺しの春団治     一  明治四十四年(一九一一)十一月三日の夜、大阪南地の紅梅亭では、出ばやしの「野崎」のオクリがさかんに聞こえているのに、かんじんの桂春団治は、なかなか高座へ姿をみせなかった。 「どないしたんや?」 「春団治のやつ、出番わすれたのとちがうか?」  そんなざわめきが客席におこりはじめたころ、客席の後方にあらわれた春団治は、 「へい、春団治でござい、へい、春団治でござい」  と、客席のなかを会釈《えしやく》しながら通りぬけ、愛嬌のあるきつねのような顔で高座へあがると、特徴のある地ひびきするような声ではなしはじめた。  なにごとがはじまるのかと、一瞬息を飲んだ観客たちは、この型やぶりの演出にわきにわいた。  春団治の人気はあがり、派手好きの席亭原田ムメは、功労賞を彼にあたえた。  春団治は、ここに自己のすすむべき道をみいだしたおもいだった。  明治十一年(一八七八)八月四日、大阪市南区高津町二番丁二五九番屋敷に住む、染革職皮田友七の家に男の子が生まれ、藤吉と名づけられたが、藤吉には、徳次郎、元吉、アイなどの兄や姉がいた。  父の営業不振から小学校へもいけなかった藤吉は、字もろくに書けず、「ます」と書くべきところを「※[#「□の中に/」]」と書いたりした。  藤吉は、法善寺のかんざし屋「花宗《はなそう》」に奉公したが、明治二十八年(一八九五)、十八歳で、三友派の二代目桂|文我《ぶんが》(一八四三—一九二五)に入門し、我都《がとう》の名乗った。  文我は、芝居噺と手踊りで売っていたが、藤吉が、渋い桂派にはいらずに、派手な三友派から出発したことは、なんといっても、大きな宿命的スタートだった。  そのころ、藤吉の兄元吉も、月亭文都門下にあって、都平(のち玉団治)と称していた。  藤吉の我都は、京都の笑福亭の二階で、なかまと花札賭博の最中に警官にふみこまれ、屋根づたいに逃げて足をくじくというような失敗もあったが、便所のなかでまで稽古した修業の甲斐あって、早くて十年とされていた前座生活を五年でおわり、明治三十三年、二十三歳で二つ目に昇進した。  のちの彼が、その芸を邪道と酷評する某新聞学芸部のYの前で、めずらしくも人情噺「子はかすがい」をしんみりと口演し、「名人春団治を聴く」と、Yをして激賞文を書かせたのも、若い日の本格的修業のたまものだった。  明治三十五年(一九〇二)、文我は、我都を、一派の総帥《そうすい》二代目桂文団治(一八四八—一九二八)に託した。  それは、文我が、我都の芸質をみきわめて、文団治のもとで本格的修業をさせたいという気持ちもあったが、臆病なくせに鼻柱がつよく、お調子者で、むちゃくちゃな我都をもてあましたためでもあった。  翌年、我都は志々喰屋橋《ししくいやばし》に、寄席|圭春《けいしゆん》亭を経営した兄弟子の名をもらって、二代目桂春団治になったが、博奕《ばくち》ですってんてんになっては、文団治のところへ金をもらいにくる。あそびにいっては居つづけをして、付き馬をつれては、席亭のところへ金を借りにくるという生活がつづいた。  明治四十四年(一九一一)、春団治は、ふたつの暗いできごとにぶつかった。  そのひとつは、四十一年に結婚したトミとのあいだに、この年一月に生まれた長男春夫が、六月に死亡したことであり、もうひとつは、芸では、自分におよばない二代目小文枝が、芸名の格が高いという理由で、看板で、春団治の上に書かれたことだった。  このことに激怒した春団治も、三代目文三、三代目文都、三代目文団治、二代目円馬などという大真打連になだめられては、ひきさがらざるをえなかったが、こうなれば、芸と人気の力によって、春団治という芸名の格をひきあげる以外に道はなかった。そして、その気持ちが、例の型やぶりの演出を生んでいった。     二  明治四十五年の正月のある日、紅梅亭の高座へあがった春団治の羽織は、紋が食いやぶられ、その下にねずみの絵が描かれていた。  ふしぎそうな顔をする観客たちに対して、彼は、その変な羽織のはなしをはじめた。  それによると、正月用に、古着屋でやすい羽織を買ってきたが、紋がちがうところから、自分のつる剣かたばみの紋を紙に描いて、のりではっておくと、ねずみが、そこを食いやぶってしまったので、ねずみの絵を描いたということだった。  ちょうどエトもねずみ年だったので、この楽天的な貧乏ばなしは大いにうけて、彼の人気をいやが上にも高めていった。  大正三年(一九一四)、三十七歳になった春団治は、真打に昇進して収入もふえたが、芸者と駈けおちしたり、生活費どころか、人力車《くるま》屋へ払う金の半分ぐらいしか家にいれなかったり、いぜんとして、じだらくな生活をつづけていたが、弟子たちに対して、「これからの落語家は、かならず上手になるなよ」と、教訓した通り、〈うまさ〉よりも〈おかしさ〉の道を、まっしぐらにすすんだ。  いつも派手な極彩色の高座着に、背なかいっぱいに定紋のついたしるしばんてんのような羽織で高座へあがり、シルクハットをかぶった男が、駕籠に乗って、あたまがつかえると大さわぎする「ちしゃ医者」、うなぎ屋の主人が、逃げようとするうなぎを持ったまま、いきおいあまって電車にとび乗り、「ゆくさきは、うなぎに聞いてくれ」とさけぶ「しろうとうなぎ」などの奇想天外のギャグを展開し、また、泥棒が、板戸を切る音を、「ベリバリボリ」、拍子木の音を、「カラカッチカッチ」などと珍妙にひびかせて爆笑の渦を巻きおこしていた。  十八番の「黄金の大黒」で、家主のむすこが、黄金の大黒を掘りだした祝宴に長屋の連中が招待される場面によって、その高座を再現してみよう。 家主「……さあみなさん、遠慮なしにお膳の前へ坐っておくれ。上下なしや。八さん、なにをうろうろしてなさる?」 八「へえ、鯛の焼物の大きそうな場所を……」 家主「あいかわらずおもしろい人たちじゃ」 四郎「久しぶりだよお富さん……でのうて、久しぶりだよお鯛さんで……。おい、見てみい、この鯛ほんものやぜ。りっぱな鯛やなあ、この鯛は魚らしいぜ」 留「なにをいうてるのや。あたりまえやないか。メリケン粉の中にあんのはいってある鯛焼やあらへんがな」 四郎「一ぴき、なんぼほどするやろう?」 留「とても安うはないぜ」 四郎「そうやろう。おれは鯛はいらんさかい、銭でもろて帰る……」 留「情けないこと言いないな!」 鶴「この酢の物は、せっかくやがきらいや……」 源「きらいなら、わたしがちょうだいする」 鶴「ちょうだいするというたかて、ただではやれぬ。買うてくれ」 源「そんなしみたれなこと言うな。しょうがない。二十銭に買うたる」 鶴「二十銭は安すぎる。ハイ、もう一ト声……」 源「そんなら二十五銭」 鶴「二十五銭、……いま一ト声。ハイ、二十五銭で売れまへん。はい、二十五銭……」 源「二十八銭!」 鶴「よし、まけとこ!」 八「だれやそんなとこで、ごちそうのせり市をするのは……。さあ、おすしがきた。ハイ、ご順にお手ぐり願います。あっ、失礼、落としてすみません。おすしてなものは、落としたものはきたのうて食えまへん。へえ、落としたのはわたしがちょうだいしときます。さあさあご順に、ご順に……あっ、また落とした。このすしにロウが敷《し》いてあるのか、ようすべるぜ。落ちたのは不潔だっさかい、わたしがちょうだいしときます。ハイ、これをそちらへ持って行っとくなはれ。ハイ、おすしの順ぐり……あっ、また落とした。よう落ちるすしやこと、落ちたのはきたない。わたしがちょうだいしとこう……」 芳「ええかげんにしいや。八っさん……あんなことばっかり言うて、いまみてたら、すしをわざと落として、六つも食べよった。やあ、酒がきたぜ。久しぶりにええ酒や。よおし、たらふく飲んでこましたろう」  と、いうように、その奔放な日常生活を反映した高座は、ナンセンスに徹し、しかも、そのなかに、庶民生活のペーソスをもただよわせて人気をまきおこしていったのだが、彼は、「後家殺し」の異名によって、さらに世の注目を浴びることになった。  それは、道修町《どしようまち》の薬種屋未亡人岩井しうのひいきをうけた彼が、大正六年(一九一七)、トミと離婚して、しうと正式に結婚し、そののちも、ふたりの無計算な浪費生活で派手な話題をまいたがゆえの異名だった。  それは、たとえば、しうが春団治に、一流呉服店を通じて、つぎつぎと高価な高座衣装をおくる。大きな黒ダイヤをおくる。人力車も新調し、車夫のはんてんも別あつらえで、背なかに春団治の定紋である「つる剣かたばみ」を金張りでつける。襟に春団治の字を、これも金張りでつけるというような華やかさだった。しかし、その浪費のために零落し、自宅の道具にはってあった差しおさえの紙を舌へはりつけて、新聞写真におさまるような泣き笑いの晩年をおくらねばならなかった。  大正末から昭和にかけて、枝雀《しじやく》(一八六三—一九二八)、枝太郎(一八六七—一九二七)の老大家、噺の数と巧技で鳴る二代目桂三木助(一八九四—一九四三)、「三十石」の名手二代目小文枝、廓《くるわ》噺の文治郎などもいたが、斜陽の色おおうべくもない上方落語界だった。  一方、昭和五年(一九三〇)五月にコンビを結成したエンタツ・アチャコを先頭に、万才は躍進をつづけ、吉本興行では、昭和八年正月、万才を漫才とあらため、同九年四月、専属芸人を大挙上京させ、新橋演舞場において、「特撰漫才大会」を公演して大成功をおさめ、漫才は、ついに上方演芸界の王座に君臨した。  そういう歓声をよそに、同年十月六日、春団治は、天王寺区生玉町の自宅で、胃ガンのために、五十七年間の数奇な生涯をおえた。  寂寥ひとしおの上方落語界だった。   うなぎうなぎ鰻つかみて春団治   歩む高座に山査子《さんざし》の散る   正岡 容 ○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》 一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学——江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。      * 本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。